皸事変

「北くん、その手、どうしたん?」
 隣の席の女子に、おもむろに聞かれた。どうしたん、とは。心の中に疑問符を浮かべながら、自分の手を見下ろしてみるも、シャーペンを持った右手とノートを押さえる左手は、いつもの見慣れた手でしかない。骨ばった手。短く切り揃えられた爪。それから、ちょこちょことあるささくれ。この時期は乾燥しやすいから、気付くと出来てしまう。ちぎると血が出てしまうから、家に帰ってから爪切りか鋏で根元から切ってしまおう。
「どう、て、何」
「粉ふいとるやん。ハンドクリーム使う?」
「こな」
「粉」
 彼女に言われた言葉を繰り返してから、もう一度自分の手を見やった。粉を、ふいている、らしい。言われてみれば、白い粒が点々と乗っているような気がしなくもない。ためしに、左手の甲を撫でてみると、ざらりと粉が引っかかる感触がした。ああ、確かに。粉をふいている。この皮膚の状態は、粉をふいているというのか。
「ほんまや」
「ええ、気付かんかったん?」
「気付くっつか、意識したことなかったわ」
「あー、ね」
 それ、なんの同意? 先ほどとは異なる疑問を抱えながら、改めて彼女に視線を向ける。と、鼻孔が甘い匂いを感じ取った。初めて嗅ぐものではない。どこかで嗅いだことはある匂いだ。だが、この教室で嗅いだかというと、……どうだろう。別のところで嗅いだように思う。
 そ、と視線を滑らせると、ちょうど彼女の手の甲にクリームが乗ったところだった。この甘ったるい匂いは、そのハンドクリームのものらしい。
「使う?」
「なにを」
「これ」
 あっという間にクリームを手に馴染ませた彼女は、ぷらぷらとチューブを振って見せた。淡いピンク色のラベルが貼られたパッケージ。
「匂いは好き好きだけど、保湿効果は高いよ」
 付け足すように言った彼女は、もう一度「使う?」と尋ねてきた。
 静かに、自分の手を見下ろす。何度見ても変わらない。乾燥して、ざらっとした感触のする皮膚に、ささくれのできた指先。幅はあるものの、深爪気味であるために丸く見える爪。何の変哲もない、自分の、手。
 続けて、彼女の手に視線をうつした。クリームを纏っているせいもあるのか、その表面は滑らか。何か塗っているのか、爪はぴかぴかと光沢を帯びている。当然、ささくれもない。綺麗な、手。
 人間の手という点では同じなのに、こんなにも状態が違うのか。これが男女の差? いや、ただの意識の差か。それこそ、セッターをしている後輩なんかは、神経質なまでに自分の手のことを気遣う。この時期は乾燥するから嫌だと事あるごとにぼやいていたっけ。
「あ、嫌やったらそう言うて。北くん、嫌いそうやしな、こういう匂い」
 苦笑しながら、再び彼女はハンドクリームのチューブを振る。そうすることで、残りのクリームをキャップ側に寄せているのだろう。脳内に現れた後輩も、しょっちゅう同じ動作をしていたから、きっと、そう。
 ああ、そうだ。この匂いは、あいつが纏っていたんだ。ほのかに漂うそれに、記憶が呼び起こされていく。あの男の誕生日プレゼントだったか、差し入れの類だったか、とにかくハンドクリームを貰ったらしく、部室で使っていた。その匂いが、男子バレー部の部室には不釣り合いで、というか、男所帯の空間には異臭に近いものもあって、片割れに散々文句を言われていた。そうだそうだ、思い出した。
 喧しいわ保湿力高いんやぞコレ、やら、いくらやと思ってんねん捨てたらもったいないやろ、やら。言い返していたけれど、結局自分も匂いに耐えられなくなったらしく、三日で使うのを止めたはず。
「……別に、嫌いではないで」
「うっそ、ほんまに? ならお裾分けするわ~」
「お、わ、」
 気付くと、口を開いていた。それを聞くや否や、彼女は俺の手にハンドクリームを絞り出す。細く、白い線が手の甲に乗った。ふわりと漂う、甘ったるい、匂い。嫌いな匂いではない。かといって、好きな匂いでもないが。
 手の甲同士を擦り合わせるようにしてクリームを伸ばしていく。もったりとした質感。これは、結構、べたつく。ハンドクリームとは、こういうものなのだろうか。先ほどまでの、ぱさぱさ・ざらざらという感触は失せ、ぺったりといちいち何かに貼り付くようなものに変わる。今、ノートを触ったら、油分で跡がついてしまうのでは。シャーペンにも、ぬめりがついてしまうのでは。それは、ちょっと、なあ。べたつきが失せないかと、念入りにクリームを擦り込んでいった。
「ふ、ごめん、やっぱ嫌やった?」
「思ったより、べったりするんやな、これ」
「うん。保湿に偏ってるから、まあ。あかんかったら手ぇ洗って。ごめん」
「や、折角やし、つけとく」
 何度も手を擦っているうちに、幾分マシになってきたろうか。それでもまだ、ぺたぺたと皮膚同士がくっつく感触はする。わざわざ分けてくれたのだ、早々に手を洗うのも、申し訳がない。それに、今、手を洗いに行ったら、ハンドクリームを落とそうと念入りに石鹸を使ってしまいそう。そんなことをしたら、余計に手が乾燥するに決まっている。粉をふくくらいに荒れているのだから、今更気にすることでもないか?
 もにもに、むにむに、自分の手を擦り続けてしまう。
「北!」
「ん?」
 むぎゅ、と左手を掴むように握ったところで、廊下から声がした。首を捻れば、教室の扉に手をかけたアランが立っている。なんやろ。部室の片付けの話か? 今度は右手を握るようにクリームを馴染ませながら、席を立った。
「すまんな、勉強で忙しいとこ」
「ええよ、昼休みやし。どうしたん、部室の片付けンこと?」
「おう、ロッカー以外んトコは今日やろと思ってな。センター組は忙しいやろから、俺らで済まそと思っとったんやけど、北どうする?」
「行ったほうええ?」
「質問で返すなや……。そら来てほしいのは山々やけど、」
 尻すぼみに言ったアランは、うろ、と視線を彷徨わせた。お前の手を煩わせるわけにはいかない、とでも思っているのだろう。
 春高を終えて、引退こそしたものの、未だに部室には三年の私物が残っている。ロッカーの中にも、外にも。そこで、既に進路が決まっている三年でロッカーの外にある物を片付ける、というのが毎年恒例となっているのだ。一応、この机の上が三年の私物置き場、二年はスチールラックの中段、一年は……となんとなく決まっているため、後輩を巻き込まなくて良い。
 今日、か。わずかにべたつく手を擦りながら、記憶をたどる。午後の授業は受験対策の数学一コマのみ。小論添削は明日。そして、自分の勉強の仕方は「いつもどおり」を続けるだけ。これまで部活をしていた時間を勉強に使っても良いし、リフレッシュに使っても良い。要するに、片付けに行ったところで、自分の首が絞まることはない。
「わかった」
「わかったて」
「行ったほうええんやろ?」
「え、お前ほんまに来るん」
「根詰めて勉強する必要もないしな」
「ッハー、言うてみたいわ、その台詞」
 言うたらええやん、毎日必要な分、コツコツやるだけやろ。
 と、過るが、人によってコツコツできる内容は異なるのはわかっている。ごくんと言葉を飲み込んで、吐息だけの笑みを落としておいた。掃除するのは、嫌いではないのだ。それに、人に任せきりにして、部室が荒れたら堪ったものではない。それこそ、アランが行くとなれば、双子はやんややんやと絡みにくる。そうなったとき、どれだけ片付けが進むことやら。一日で終わるものが、二日三日とかかったっておかしくはない。
「あいつらに邪魔される心配もなくなるで、俺が行けば」
「良い性格しとるよなあ、お前」
「ありがとう」
「褒めてへんっ……、いや褒めとるけど」
「どっちやねん」
 ふっと噴き出せば、つられるようにアランもくしゃっと笑った。
――あ!!」
 その瞬間。まるでタイミングを計ったかのように、廊下から大きな声が聞こえた。昼休みの雑踏にも負けない、よく通る声。無駄に、良い、声。
 噂をすれば影とはこのことか。
 アランが声のほうを向くのにあわせて、ひょいと教室から顔を出した。すると視界に入る、満面の笑みの後輩。前に見たときより、生え際が黒い。あの髪色、維持すんの大変やろなあ。当人曰く、治のがめんどいらしいけど、髪を染めたことのない自分にはわからない苦悩だ。
「ゲッ!?」
 ぱたぱたと廊下を走っていたそいつは、俺の顔を見るなり足にブレーキをかけた。ビタッと凍り付くように一時停止。それからたっぷり三秒固まって、ごくんと唾を飲み込む。
 アラン君だけやと思ったのに。てかここ、七組やん。三年七組やん。北さんのクラスやん。やらかした、あかん、怖い怖い怖い、めっちゃこっち見とる、あぁああその目ほんまに怖いやめて、廊下走るなて怒られる、嫌や、嫌や!
 などと、そいつは考えているのだろう。手に取るようにわかる。それで高校生ナンバーワン・セッターが務まるのだろうか。二月だか三月にあるという、次のユース合宿にも呼ばれているような話を聞いたから、コート上で平静を保ってさえいれば支障はないのか。そうか。
「……ビビりすぎちゃう?」
「しゃーないやろ、あいつなにより北が怖いんやから」
 ぼそぼそとアランと交わした会話は、当然侑の耳には届いていない。なんせまだ足を踏み出していないから。あいつのことだ、今すぐにでも回れ右をしたくて仕方がないのだろう。けれど、アランに駆けよっているところを見られた手前、引くに引けない。
 ……ここは、アランとの会話を切り上げて、席に戻るべきか? 後輩の心の安寧を思いやる気持ちもなくはないが、ぎしぎしと体を強張らせるそいつの姿が面白いのも事実。
 もう少し、睨んどこか。
 じっと侑を見つめ続ければ、隣から噴き出す声がした。
「~~ッやめたれや、ちょっと侑が可哀想やろ!」
「笑いながら言うても説得力ないで」
 わざと凍り付いている後輩に聞こえるよう喋れば、目論みの通り、侑の体からぷつんと緊張の糸が切れた。それから、わなわなと唇を震わせながら、ずんずんとこちらに歩み寄ってくる。走ってこないのは、俺に注意されるのを気にしているためだろう。どうせこの距離じゃ、走るというほどのスピードは出ないだろうに。
 ぬっと俺のすぐそばにまでやってきた侑は、俺のことを見下ろしているくせに、どこか縋るような目つきをしていた。
「おれであそばないでぐだざい」
「ふふ、すまんな」
「すまんて顔してへんし!」
 喚きながら地団駄を踏んでいるそいつを見ていると、脳内に子供代表・十七歳児という文字列が浮かんでくる。面白い奴だ。過程がなんだ、結果が全てだと主張する姿を見て子供らしいなと思うことはあったが、まさか挙動から幼さを感じ取る日が来ようとは。
 あまり笑い続けていると、今度は拗ねられそうだ。緩む頬を引き締めるべく、口元を手で覆った。
「ぅ」
 たちまち、漂ってくる甘ったるい匂い。人工的な、イチゴの匂いだ。しまった、手のべたつきが和らいでいたから、失念していた。微かに香る程度であれば支障はないが、正直、この匂いは鼻の近くで嗅ぎたいものではない。頭痛がしそう。ぐら、と頭が揺れた。
「……北さんなんか、つけてます?」
 その甘さは、隣にいる男にも伝わったらしい。侑の眉間に皺が寄る。十七歳児は鳴りを潜め、ごく一般的な高校二年生の装いを取り戻した。
「めっちゃ甘い匂いする、女子みたいな」
「ああ、これな」
「ヴワッ!?」
「ぅお、なんやこの匂い!?」
「ハンドクリーム。さっき貰った」
 しかめっ面をした侑に手の甲を近づければ、弾けるように顔を背けられた。隣にいたアランも、ダンッと片足を引いて仰け反っている。嗅ぎ慣れない匂いなのはわかる。だが、そんなに拒否したくなるほどキツイ匂いだろうか? いや、まあ、キツイか。自分も今さっき、頭痛がしそうと思ったばかりだったのを忘れていた。
 改めて、自分の鼻先に甲をくっつければ、ムッと甘い匂いが立ち込めた。隣の席の彼女が使っている分には然程気にならないが、自分からこの匂いがするのは如何なものか。ちょっとした暴力になってはいまいか。観念して、彼女の提案通り、手を洗ってきたほう、良い気がしてきた。
 ゲホゲホと噎せている侑を眺めながら、甘い香りを纏った手をだらんと下ろした。
「噎せすぎちゃう? コレ、昔、侑も使っとったやろ」
「ぅえ? 俺、こんな臭うの使ってましたあ?」
「あ~そういや使っとったな」
「な」
 アランと頷き合っていれば、侑の顔は胡乱に染まっていく。
「うっそお」
 曰く、レモンぽいのは使った覚えがあるものの、このイチゴのような匂いを纏っていた心当たりはない、と。侑の言うとおり、一時期部室に柑橘の匂いが漂っていたこともあった。デオドラントウォーターの類にも柑橘の匂いがするものはあるから、てっきりその類だと思っていたのだが、お前が根源だったのか。思い返してみると、レモンの匂いがしていた期間は、長かったように思う。周りが匂いに気を留めなくなるくらいに使われていた。気に入って同じものを使い続けていたのか、単に大容量だったのか。
 でも、この匂いだって使っていた。俺だけでなく、アランも言うのだから、間違いはない。それに、匂いは記憶に残るものだ。音よりも、ずっと長く、脳みそのこびりつく。
 俺の記憶が正しければ、今この空間に漂っている甘い匂いの物は、三日で使うのを止めていた。待てよ、三日で止めたのならば、覚えていなくても仕方がない? 鼻が良い治ならまだしも、バレー以外には無頓着な侑のことだ。なんだか、忘れていても何もおかしくはないように思えてくる。確かに。なるほど。それで記憶にないのか。
 一人納得していると、侑は半ば睨むような目を俺の手に向けていた。侑の顔の高さなら、匂いは届かないだろうに。幻嗅でも感じ取ったのか。あるいは、鼻孔の残り香に苦しんでいるせいか。
 への字になっていた唇が、のそりと動いた。
「あの、どうせなら、それやなくて……」
「うん?」
「……やっぱ、ナンデモナイ、デス」
「なんやねん、言いかけといて」
「ほんまに、良いです、全然」
 あの侑が言い淀み、さらには言うことを止めるとは。つい、アランと目を合わせてしまった。珍しいこともあるものだ。その認識は共通なようで、再び頷き合ってしまう。
 俺の前にいるときのこいつは、そもそも余計なことを言うまいとむっつり黙り込んでしまうか、ずらずらと余計なこと含めて何もかも吐き出すか。大体、そのどちらかだ。でも今日は、何か言いたげな素振りを見せつつも、もごもごと言葉を呑み込んでいる。本当に、珍しい。明日は槍でも降るのか。
 しばし思考を巡らせてみるものの、侑の中でどういう心境の変化が起きたのかはわからない。尋ねたところで、言いかけた先の言葉を吐いてはくれないだろう。であれば、この話題を続けたって、時間の無駄。
「まあええわ。今日、部室の片付けしに行くから、一、二年に伝えといて」
「エッ」
「え?」
 ぽんと別の話題を放り込んだ。なんでもない、事務連絡。一応、今日は三年が顔出すからな、というだけの話。
 しかし、パッと顔を上げた侑は、妙に絶望を帯びた表情をしていた。顔色も悪くなったように見える。そんなに匂いにやられたのか? いや、これは、違う。
「きょ、う……?」
 俺が部室に行く、ということに反応して、この顔になったのだ。つまり、俺が部室に来るとマズイ、と思っている。
 本当に、顔に出やすい奴だ。ユース合宿で、一緒になった連中に舐められてそう。それこそ、こいつと同い年である、井闥山の佐久早や古森、鴎台の星海なんかには、頭が悪いと思われていてもおかしくはない。実際のところ、侑は赤点常習犯なので、間違ってもいないが。
 とにかく、部室。俺に来てほしくないと思われていようが、一度顔を出しに行かねばという使命感が込み上げてきた。
「……今日、行くからな」
「いや、まっ、明日、明日にッ」
「あかん、今日行く」
「嘘やろ、あっ、えっ、困る!」
「困るほど散らかしたんか、へえ?」
「ヴヴヴンッ、や、ちっちち散らかしてません、し!」
「なら、別にええやろ。三年の私物、引き揚げるだけやし」
 散らかしてない、て言うんなら、現・主将が慌てふためくこと、ないよなあ。
 わざと低い声で言えば、侑はきゅっと下唇を噛みしめた。その顔は、来んといてくれ、と雄弁に語り掛けてくる。それだけ、部室は酷い有様らしい。
 あかん、もう行きたくてしゃーない。絶対今日行ったろ。俺が心に誓うと同時に、侑は唇を噛みしめたまま喋り出した。
「きたひゃん、じゅけんべんきょうはあ?」
 呂律の危うく、情けない声に噴き出しそうになる。鉄面皮のおかげで笑うのは堪えられたが、隣にいるアランはブフフッと笑い噎せていた。
「……根詰めてする必要ないからな?」
 小首を傾げながら言い放つと、ンェーッと侑は奇声をあげた。

◇◆◇◆

 部室は、思っていたよりも散らかってはいなかった。記憶の中の部室と、比較的近い光景を保っている。
 それもそのはず。昼休み、俺が部室に行くと宣言されたあと、同級生をかき集めて部室の掃除をしたのだそう。部室に向かう道中、鉢合わせた二年一組コンビがにやにやとしながらリークしてくれた。散らかしたのはほとんど侑なのだが、面白かったから手伝ってやった云々。
 やけに床が綺麗なのを見ると、拭き掃除まで施したと見える。窓辺には雑巾が干してあるから、そうなのだろう。まったく、どれだけぶっ散らかしていたことやら。というか、この短時間で綺麗にできるのなら、なぜ日頃から整理整頓をしておかないのだろう。先が思いやられる。
 ……そんなふうに、明後日に意識を向けていた。
「侑」
「んー?」
 そうしていないと、この状況を、許容できなかった。
「まだ?」
「まだです」
「そう」
「はい」
 部室のベンチに腰掛けて、隣には侑が座っている。傍らには、いつも侑が使っているハンドケアグッズが各種。そして、俺の右手は、侑の大きな手にぎゅうううっと包まれていた。揉まれている、とも、言う。
『なんすか、その手!?』
 部室に着いて、早速片付けを始めようかというタイミングで侑は悲鳴を上げた。腕まくりをしただけなのだが、何故そんな反応をする。頭上に疑問符を三つほど浮かべているうちに、侑は俺の手首を掴んできた。
 昼間のビビりっぷりはどこへやら。これでもかと顔を顰めて俺の手を睨んだそいつは、俺をベンチに座らせつつ、足で自分の鞄を引き寄せる。そして、取り出したのは、白いパッケージのハンドクリーム。紺色のロゴは自分も見た事のあるメーカーだった。
 アラン含む同級生数名にちらちらと見守られながら、片付けもせずに、侑にハンドクリームを塗り込められる自分、とは。今の自分を俯瞰して眺めてみるが、どうも奇妙な光景に思えて仕方がない。
 ささくれも処理され、今は、手のマッサージのようなことまで施されている。そりゃあ、侑が自分の手のケアを丁寧にやっていることは知っていた。だが、それを他人に行うなんて。信じられない。ありえない。その場にいた三年の誰もが、「あの侑が」という顔をしていた。アランだけは「あの北に」という顔をしていたが。
「……片付け終わったで」
「おん、そうやな」
「どうするん」
「どうもこうも」
 できへんやろ。
 ぽつりと返すと、アランはむにゃむにゃと口元を歪ませた。帰ろうと思うんやけど、置いて帰ってもええか。言外にそう伝わってくる。
 どうしてこうなったんだ。自分も片付けに加わって、ついでにロッカーの私物を引き揚げて、予定では、とっくに帰路についていたはずなのに。
 しいて、予定通りだったものを挙げるとすれば、双子が掃除の邪魔をしなかったことくらい。片一方は俺の手に夢中だし、もう一方は着替えてすぐに体育館へ走り去って行った。……本当は、侑も体育館に行ってもらうはずやったのになあ。なんでお前は俺の手ぇにぎにぎしとるん。
「すまん、なんも手伝えへんかんった……」
「それはええけど」
 ぐにぐにと手を揉まれながらアランを見上げると、苦笑した顔が目に入った。アランの視線の先には、真剣な目をした侑がいる。侑が見つめているのは、俺の右手。解放される様子は、今のところ、ない。
「まだかかりそうやって」
「……先帰るで」
「おう、またな」
 そういうと、肩をすくめてからアランは鞄を背負った。倣うように、他の三年も部室の出入り口に向かう。重たい扉が開かれ、一八〇前後の身長の男共がぞろぞろと出ていった。
 部室に取り残されるのは、掃除をしたかったのにできなかった自分と、なぜか体育館に向かわずに俺の手を握っている侑。
「なあ」
「はい」
「今日、練習は? 行かんでええの?」
「……きょうは、自主練の、日、で」
「ふぅん?」
「俺は、ユースあるからって、休養日にされてて」
「……なんでお前、今ここにおるん?」
「きたさんがくるっていうたから」
 手のひらの、窪んだところに二つの親指が当てられた。そのまま、ぎゅう、と圧をかけられる。少し、痛い。ツボ押しされているかのよう。
「なあ、これ、いたい」
「北さん、手ぇ凝りすぎっすよ」
「利き手やし、そんなもんやろ」
「や、これは凝ってます」
「う、わ、そレッあかんっ」
 今度は親指の関節を使って、手のひらを押されていく。
 なんだか、抉られているみたいだ。押されたところが、カッと熱を持つ。口からは、う、やら、あ、やら、呻き声が零れ落ちた。
「いっ、……た、ぃ」
「我慢して」
「そもそも、こんなん頼んでへん、ヴわ」
「うわー、指も凝ってません?」
 左手で支えながら、侑の右手は俺の指を抓む。ぎゅっと根元を絞めつけて、じわじわと指先へと移動していく。指先まで辿り着いたところで、弾くように放されると、じゅわっと何かが巡っていく感触がした。単に、毛細血管の隅々まで血が巡っただけか? 揉み解されたことでそうなったのか、一度圧を駆けられて離されたからそうなったのか、仕組みはよくわからない。
 親指、人差し指、と一本一本、それぞれ二回ずつ弾かれた。これで、一通り終わったらしい。やっと解放される。ほっとして侑の手の中から右手を退いた。けれど、侑の両手は、俺に差し出されたまま。これは、終わったのでは、ないのか?
「なに」
「左手」
「……まだやるん?」
「そりゃもちろん」
「あのなあ、自分の手ならわかるけど、他人やろ。お前、そんな甲斐甲斐しい奴やったか?」
 首を傾げながら尋ねると、侑の手は俺の左手に伸びてきた。あ、おい。声をかけるより先に、両手でじんわりと挟み込まれる。自分は冷え性というわけではない。なんなら、指先まであたたかいのが常だ。それでも、包まれると侑の熱が伝ってくる。ほんの少しではあるが、こいつのほうが体温は高いらしい。
「昼も、思ったんすけど」
「ん?」
「北さんて、妙にズボラなとこ、ありますよね」
「……お前に言われんのは心外やな」
「や、あの、ほんとに。そんなに好きじゃない、甘ったるい匂いしとってもなんでもありませーんて顔しはるし、こんなに手、バキバキに凝ってても気にせえへんし、……てか、荒れて粉ふいてボロッボロやし」
「散々やん、俺の手」
「冗談やなく。散々ですよ、あんたの手。もっと、大事にしましょうよ」
 ふと、左手から熱が離れた。かと思うと、ぐに、とハンドクリームが絞り出される。すぐにその白は、手の皮膚に伸ばされていった。昼休みにつけられたものより、伸びは良い。べたつきも控えめ。だが、ハンドクリームなんて滅多につけない自分からしたら、どちらにせよ重たい感じがする。侑にとっては慣れたものでも、自分にとっては違和感。荒れているよりは、確かに良いのかもしれないが。……果たして、自分がこの感触に慣れる日は来るのだろうか。
 柔らかく左手を包まれた。再び、侑の体温が、伝ってくる。
――大事に、して」
 じんわりと左手越しに体温を感じながら、伏し目がちな侑を眺めた。わずかに俯いているのは、俺の手に意識を向けているせい。ぎゅ、ぎゅ、と少しずつ手の力が増していく。
 その、伏せられていた睫毛が、上を向いた。ついでに、瞼も持ち上げられる。いや、これは顔を上げたからか。俺の視線に気付いた侑が、ふと、俺のほうを向いた。
 淡々としていた目に、熱が、灯る。
「……おれ、いまめっちゃ、はっずかしいこと言いました?」
「恥ずかしいかは個人差あると思うけど、……普段のお前やったら言わんようなことやったな」
「う、ぐぬ……、う、」
 ふつ、と、熱が滾った。瞳の奥に見えたそれは、あっという間に侑の顔全体へと拡がっていく。目元と頬の高い所、それから耳は、見事な赤に染まった。
「だ、だって、だって!」
「うん」
「なんか、やらんとって、思って」
「なんで? そんな他人を慮るような性分ちゃうやろ、お前」
「うぅうううでも北さんは別!」
「なんでやねん」
「なんでも!」
「理由になってへん」
 口元を緩ませながら指摘すると、再び侑は呻きだした。それでも、俺の左手は離さない。しっかりと掴んだまま。なんなら、指でぎゅむぎゅむと圧を与えはじめている。そんなふうにやって、加減はできるのだろうか。痛い思いはしたくない。右手に施されたくらいなら、痛くも気持ちが良いで済むが、あれ以上の圧をかけられるのは嫌だ。
「なん……、なんで、なんでぇ?」
「俺に聞くなや」
「うぅ……、ええなんでやろ、なんか、その、あのぉ。……北さんの手が荒れんのは、辛抱ならんかったつーか、」
「うん」
「似合わん匂いのハンドクリーム使うくらいなら、俺のあげますし、そうやって、手ぇピカピカになったらええなあって思った、つか、」
「……うん」
「めっちゃ、世話にもなったし、大事にしたくなっ、た?」
 あれ、これ理由になってます?
 不安そうに侑はぼやく。「なんでも」で押し切るよりは、理由らしいと思う。世話になったから、大事にしたい。いやはや、こいつにも人間らしい情緒があったのか。バレーに支障が出なければ、他人なんてどうでもいいと思っていたあの侑が、こんなことを言うなんて。春高で初戦敗退を喫したときも思ったが、情緒面も成長しているらしい。
 どうせなら、俺なんかよりも、親御さんにその成長を見せてやってくれ。きっと喜んでもらえるから。
 背中を丸めた侑は、じっ、と俺のことを見つめてきた。それでも、左手は離さない。しっかりと掴まれている。この調子だと、右手と同じように解されるまで、離してはもらえない。観念して、侑の好きにさせようか。
 ほぅ……、と息を吐いた。それをため息と捉えたのか、侑の体が委縮する。肩が怒る。呼吸が、浅くなる。緊張しなくたっていいのに。この期に及んで、説教する予定はないし、そもそも説教しなければならない失態も犯してはいないだろう?
 長めの瞬きをしてから、小さく空気を吸い込んだ。
「侑」
「ハイッ!?」
 この先も、俺はこいつの「苦手」で居続けるのかもしれない。
――ありがとう」
 それでも、侑の成長に役立てたのなら幸いなことだと思う。
 かすかに微笑みながら礼を言うと、ぴた、と侑は固まった。息も止まっている。それはよろしくない。呼吸はちゃんとしろ。あと、手に力を込めた状態で固まらないでくれ。痛い。緩急つけられるから、痛くも気持ちいい状態だったのであって、圧をかけられ続けるのは痛みでしかない。痛い。うわ、痛い。いったあ……。右手だけやなく、左手も凝ってるんか、俺。正直、知りたくなかったわ。
「は、わ、ぅ」
「あつむ、いたい」
「アッすんません!?」
 バッと左手から侑の両手が離れる。が、それも一瞬。すぐに両手は戻ってきて、柔らかく俺の左手を解し始めた。
 俯いた顔は、ぽ、ぽ、と火照っている。下唇は噛み締められていて、普段より瞬きは増えたように思えた。なに照れてんねん。
「かわええやつやなあ」
「……それは、あんたもですからね」
「うん?」
 恨めしそうな声に、小首を傾げると、今度はそういうところ! と叫ばれた。

 ずるいずるいと喚きながらも、手を握って離さない後輩のことが、無性に愛おしく思えたなど。