レモン味はしない
午前で部活が終わった昼下がりのこと。見上げた空は何処までも高く、そして青い。辺りからは必死に騒ぎ立てる蝉の声がした。そこかしこの木に止まって、連中は必死に羽を震わしていることだろう。
暑い、な。
何をせずとも滲み出る汗を手の甲で拭った。
それでも足を止めずに歩いていれば、通り道にあるコンビニが目に留まった。なんてことのない、極々普通のコンビニ。普段だったら、目に留まることなく通り過ぎていたことだろう。しかし、今日ばかりは目に留まってしまった。
大した理由ではない。ちょうど、部活の後輩がそのコンビニから出てきたから。
太陽光を目一杯に反射する金髪が眩しい。確か、つい数日前に染め直したと言っていたはず。おかげで、根元から毛先まで一色に染まっている。日本人だったら、まず自然にはお目にかかれない色。それにもかかわらず、似合っているのはあいつのくっきりとした目鼻立ちのせいか、性格との相性によるものなのか。
さらに垂れてくる汗を拭ったところで、視界にいるそいつは袋から何かを取り出した。形状的に、アイスキャンディーの類だろう。青い袋をビッと破り、コンビニに備え付けのゴミ箱に放り込む。
と、おもむろにそいつは顔を上げた。ほぼ同時に、びくんと肩を震わす。
そいつとの距離は、おおよそ二メートル。そんなに驚くようなことがあったのだろうか。……なんて、疑問は浮かばない。
俺の顔を見たからだ。苦手で怖くて仕方がない、一個上の先輩と、部活帰り、しかもコンビニに立ち寄ったところで遭遇してしまった。こいつのことだ、寄り道を叱られると思っているに違いない。
「お、つかれ、さマ、デス」
「おつかれさん。今日も暑いな」
「……た」
「た?」
「食べます?」
「は?」
熱中症なる前に、家帰れよ、と、いう意味だったのだが。何を思ったのか、そいつは開けたばかりの氷菓子を差し出してくる。淡いブルーのソレは、百円足らずで買える棒付きアイス。
……この男、俺の「暑いな」という台詞を、「ええもん食うとるなあ」と捉えたらしい。後輩にたかるような先輩と思われていたとは、まったく情けない話である。
「いらんわ。自分で食べ」
「や、俺もう一本あるんで」
「は?」
「ほら」
強引に開けたほうのアイスを俺に握らせると、さっとレジ袋から全く同じアイスのパッケージを取り出す。何故、二本。それも同じものを買うなんて、どういう了見だ。
握らされたまま、ピタ、と固まっていると、うろうろと視線を泳がせに泳がせたそいつが恐る恐るといった様子で口を開いた。
「一本やったら、すぐ食いきってまうし、家着くまでなら二本くらい食うてもええかな~……って、」
「腹壊すで」
「俺がンなヤワな胃袋しとると思います?」
「少なくとも治よりはナイーブやろ」
「底なしと一緒にせんといてください」
そう言いつつも、そいつはピッともう一つの袋のほうも開けてしまった。プラ製の袋はぽいっとゴミ箱に入れられ、淡い青はあっという間に侑の口に運ばれていく。
しゃくり。齧りついたのと同時に、自分の手の甲にヒヤリとしつつ、べたついた雫が落ちてきた。しまった、融ける。
「ほら、早よ食わんと融けてまいますって」
「……百円でええか」
「え、いらんすよ、別に」
「後輩に奢られるほうがアカンやろ」
「……はぁ」
濡れた手の甲を舐めてから、そいつ同様に氷菓子を口に咥えた。まだ咥えた途端に崩れるほど柔らかくなってはいない。これ幸いと、自由になった両手を鞄に突っ込んだ。きちんと整理してしまっているのもあって、財布は簡単に見つかる。真四角のソレを開いて小銭入れ部分のボタンを外せば、百円玉三つと十円玉二つが見つかった。
「ん」
「……」
「ん!」
「アッ、はい」
そのうちの銀色一枚を差し出せば、呆けた顔をしながら侑は受け取った。それで良い。テキパキと財布を元あったところにしまい、アイスの棒を掴み直した。縦に筋の入った木の板は、融けだした蜜で妙にべたついている。この炎天下だ。後輩から貰ったという、非常に貴重なものではあるが、早々に食べてしまわねば。
冷え切った唇を氷から離し、しゃくしゃくと食んだ。たちまち、口内に甘ったるさが広がる。
棒付きのアイスを食べたのはいつぶりだろう。家で食べるのはどれもこれもスプーンが必要な氷菓子ばかり。かき氷を圧縮したようなアレだ。ばあちゃんが好むというのもあって、この時期は大抵冷凍庫に入っている。味はイチゴだったり、抹茶小豆だったり、練乳だったり。それこそ、ソーダ味を食べたのは小学生ぶりかもしれない。
ラムネもしばらく飲んでいないな。似た青色を思い浮かべながら、入道雲の浮かんだ空を見上げた。間もなく午後二時になる。お天道様はてっぺんから傾いてはいるものの、いちばん暑くなる時間。立っている歩道からの照り返しで、脚もちりちりと焼ける感触がした。
「き、たさん、て」
「ん?」
「買い食い、抵抗ないんすね……」
「そらするときはするやろ、俺をなんやと思っとるん」
「……俺らの大将で、ザ・優等生」
「ふ、お前らの大将やったら買い食いくらいするやろ」
「あぁ、あ~? う~ん」
「つか、これ買うたの侑やん、すまんな貰ってもうて」
「や、金は貰いましたし、しかも余分に……」
「けど、自分で食お思て買うたんやろ?」
「そ、なんです、けども」
うんうん呻きながらも、侑のアイスが減る速度は速い。まだ三分の二は残っている俺に対し、半分以上を平らげてしまっていた。こりゃあ、家に帰るまでにもう一本欲しくなるわけだ。そして、家に帰ったら帰ったで、家にあるアイスを食う。風呂上りにも、食う。目に見える。
いくら何でも一日四本は食いすぎちゃうか、と口にしそうになって、半分は自分の想像だったと思考を振り払った。待て、片割れはそんなペースでアイスを食らっていると言っていたような、そうしたいという話だったか。……どちらにせよ、不確かな話だ。口は、しない。言葉には、しない。
ざくざくっと最後の塊を口に入れた侑はちらちらと棒の両面を確かめてから、ゴミ箱にソレを放り込んだ。そういえば、この手のアイスは当たり・外れがあるのだった。
とはいえ、コンビニで当たりの交換をしてもらえるものなのだろうか。幼い頃、昔ながらの駄菓子屋で当たりを交換してもらった覚えはあるが、ここ数年、そんな習慣はない。コンビニでも、交換できるもんなんかなあ。
やっと半分になったアイスを少し斜めに傾け、しゃくり、角に当たる部分に齧りついた。侑がとっくに食べ終わっているというのもあって、いつもよりも大きく齧りついて呑み込めば、かき氷を食べたときのようにキンと頭が痛くなる。目の前が眩む。斜め上にある金髪の眩しさも相まって、つい、目を細めてしまった。
「北さーん」
「ンン?」
「溶けてますよ」
「知っとお」
「なら急いで食べてください」
「食えるもんなら食うとるわ、今頭キーンしとんねん」
「……ゴリゴリ君で?」
「ならん?」
「ぜんぜん」
「お前の三叉神経どうなってるん?」
「さんさしんけい? てどこにあるんですか」
「喉、とか」
「ほぉん」
聞いておきながら、関心のなさそうな相槌が返ってくる。こいつ、生物選択ではなかったか? そりゃあ、三叉神経を覚えていなくても、高校生物では問題はないのかもしれないが。勉強に関しては本当にコレだ。バレーさえ絡めばくるくると俺の想像を絶する回転をしてみせるというのに。
はあ、とため息が零れる。それと同時に、手の元アイスに嫌な軋みが走った。ム、割れる。これは割れる。侑と言う通り、早々に食べてしまわないと、ぼったり半分近くの氷が地面に落ちてしまう。食べ物を粗末にしたくはない。まして、金は払ったとはいえ、人様から貰ったものを。
慌ててもう一方の手をアイスの下に構えれば、カッと侑が目を見開いた。その顔つきに、治の顔つきが過る。それも、空腹時に差し入れの匂いを嗅ぎつけたときの、あの顔だ。やはり同じDNA、なんて確信を抱いていれば、おもむろに侑の顔が近づいてきていた。
なに?
尋ねるよりも、ずっと早く、厚みのある唇ががっぱりと開いた。立派な歯が見える。歯並びは良い。顎の大きさを思うと、親知らずも困ることなく生えてくるのかもしれない。……いや、一年のころ、親知らずを抜いたとかなんとか言って顔を腫らしていたことがあったな。別に顎の大きさは関係ない。偏見だった。
過去に一瞬意識を飛ばしているうちに、侑の顔はさらに近くへ。眼前へ。後ろに一歩退く前に、アイスを掴んでいるほうの手首を捕まえられた。
ぎゅっ。そんな感触に、咄嗟に目を瞑ってしまう。ほぼ同時に、しゃくっと氷の粒がひしゃげる音がした。
しゃく?
「あ、っぶな」
「……なに、した」
「え、……あ゛ッ」
眼前に、あからさまにしまったという顔が浮かんだ。つい、やら、癖で、やら、反射的に、やら、侑の目にはあれこれと理由が渦巻きだす。食い物を粗末にしてはならない。それは宮家の共通認識であり、それについて少々治のほうが我が強くはあるものの、侑も、似たり寄ったりなくらいに強い、と。そういうことらしい。
いや、どういうことだ。
呆けながらも、残ったアイス、二口分を強引に口内に入れ込めば、よろよろと侑が後ずさった。その顔には、依然として「しまった」という色が浮かんでいる。
「す」
「うん?」
「すんませんっしたァッ!」
「お、……おう?」
ちょうど俺と侑の間にできた空間を使って、そいつは直角に腰を曲げる。おかげで、侑の頭は俺の腹に近い高さにまでなっていた。
いきなりこいつは何を謝っているのだ。考えるまでもない。俺に渡したアイスが融けて地面に落ちそうになっていたから、落ちる前に食らいついた。もったいないことをするくらいなら、自分が食べる。食べたい。食べてしまえ。そんな本能と、あれと双子という境遇による刷り込みのせいで、事件は起きたのだろう。
「あ、あの、ひゃく、ひゃくえんも、」
「いや、いい、いらん。そこまでせんでええ」
「でも、俺ぎだざんのアイス食うて」
「一口くらいええわ」
「北さんの一口よりめっちゃ大きかったっすよね!?」
「一口は一口や」
「ですけどぉお」
「治やあるまいし、んな食いモンに執着せえへんわ……。第一、これかてお前に会わんかったら食うてへんし」
棒切れに当たりの三文字が書かれていないことだけを確かめてゴミ箱に捨てれば、視界の隅で未だに侑はむずむずと唇を波打たせていた。そこまで俺に不躾な行動をとってしまったことを悔やんでいるのか。……これは怯えているといったほうが正しいか。
あかん、どないしよ、北さん怒ってはる? 俺、もう死ぬんちゃう? 明日の朝日、拝めるんやろか。
顔を見ずとも、侑の考えていることがわかってしまう。どうもこいつといると、自分は妖怪・サトリの類ではないかと思えてくる。だが、単純に侑の考えていることが顔に出やすいだけということにしたい。しておきたい。
今日二度目となるため息を吐いてから、改めて侑のほうを向き直った。たったそれだけで全身を震わされるのだから、困ったものだ。そんなにビビるんじゃない。こっちが悪者のようではないか。この場合、どっちが悪いということもないというのに。
「あ、あの、こ、ここれ」
「ココレ?」
「これで、差し支えなければ、お、おおさめくだ、さぃ」
表情を怯え一色にしたまま、侑はぎしぎしと手を動かしだす。コンビニ袋の中には、どうやらアイス以外のものも入っていたらしい。道理で捨てていないわけだ。
取り出されたのは透明なペットボトル。ココレ、なんて言ったからコーヒー飲料の一種かとも思ったが、そうではなかった。中身は水か、あるいは、流行りの透明飲料か。青を基調としたラベルにはスパークリングと書いてあるため、炭酸飲料と予想がつく。ああ、サイダーか。
「すまん、俺、サイダー苦手やねん」
「え゛ッ、なんで、えっ甘い、から? 甘くないすよこれ」
「いや、甘い甘くないは関係、」
ないんやけど。
そう続けるより先に、侑はボトルの蓋を捻った。パキキキッとプラスチックが割れる音に続いて、炭酸飲料独特ともいえるしゅわしゅわという泡の音が響く。その空気が抜ける音の勢いは、微炭酸のレベルとは思えない。まさしく強炭酸。酒を割るのにも使われていそう。
かつて飲んだラムネですら、ほのかな痺れに肌が粟立った覚えがあるのに、これは、拙い。単純に、自分は炭酸飲料の痺れるような感触が苦手なだけなのだ。甘い・甘くないは、関係ない。
だが、俺の内心など知りもしない侑は、蓋の開いた、今なおパチパチと弾ける音を鳴らすボトルをこちらに向けてきた。
「ほら、匂い嗅いだら甘くないの、わかると思うんですけど」
「……ちゃうねん、甘い甘くないやなくて、炭酸のびりびりすんのがあかんのや、俺」
「あ、そっち?」
そう、そっち。やっと気付いたか。サイダーが苦手と聞いたら、大抵はあの痺れる感触が苦手だと思われることが多いのだが、まさか、甘い甘くないで判断されるとは。こいつの脳内の俺は本当にどういう嗜好をしているのだろう。いつだったか、休憩時に大耳の隣に座っていたら「老夫婦みたいすね」と言われたあたり、年寄りくさいと思われているのは間違いない。まあ、確かに、自分でもそう思うが。
はあ~と妙な息を吐きながら、侑はボトルを自分のほうに引き寄せる。そのまま飲み口に唇を当てた。
まずは、一口。
なんでもないように、そいつは喉を鳴らした。一旦、口を離したかと思えば、またすぐに口を付け、ボトルの中身を飲み下していく。くっきりと浮き出た喉仏は、飲みこむのに合わせて上下した。
ボトルの表面は濡れている。アイスと同じ袋に入っていた、というのもあるが、冷蔵庫の中できっちり冷えていたのだろう。そんなキンと冷えた、甘くもない強炭酸水をなんてことなく飲み下していくとは。本当にこいつの喉はどうなっているのだ。
つい、じぃっと見つめてしまう。
そのうちに、侑の体の角度がじりじりと変わりだした。踵に重心をおいて、俺からそっぽを向くように、向きが変わる。首筋に見えた汗の粒は、ただ暑いから、というだけではない、ように、見える。
「……すまん」
「ッや、いえ、そんな!」
ぽつ、呟けば、勢いよく侑は振り返った。微かに宙を舞ったのは、汗の飛沫か、炭酸水の泡か。
しまった。今度はこっちがそういう顔をする番だ。表情に反映されているかは別として、一抹の後悔が背骨に纏わりつく。自分の目つきは、威圧感がある。後輩、特に説教をしてばかりの双子にとっては、恐怖そのもの。苦手に思われているのは承知している。なのに、つい、とはいえ、がっつりと見つめてしまった。自分にとって、不思議としか思えないことをやってのけたから興味深かっただけなのだが、侑にとってはさぞ居心地が悪かったことだろう。
三度目となるため息を吐きながら、誤魔化すように前髪のあたりを掻いた。
「え、っと」
「……かえろか」
「あの」
「ん?」
「飲んで、み、ます?」
「……それ、を?」
「や、気になるんやったら、飲んでみたほう、早いんちゃうかなあ~なんて、なんて……」
尻切れトンボに言いながら、侑の背筋がきゅうと丸くなる。あわせて、おずおずと突き出されるボトル。
そんなふうにされたら、受け取らないわけにはいかないのでは? 別に自分はNOと言えない日本人の典型的パターンには当てはまらない。いらないものはいらないとはっきり言う。言える。
だが、それはそれ、これはこれ。
ああやって、侑が平然と飲んでいたものが、一体どういう飲料なのか、気にならないわけではない。強炭酸。きっと、いや、絶対に自分は苦手だろう。だが、しゅわしゅわとこうしているうちにも炭酸は抜けていっている。強炭酸が故にこのような音が鳴っているのだろう。
気付くとボトルを受け取って、口を覗き込んでいた。中ではしゅわしゅわと音を立てて泡が弾けている。香りはよくわからない。しいて言えば、水。つまるところ、匂いがない。
今更飲めないと突き返すこともできず、そっと飲み口に触れた。ボトルをゆっくりと傾けていけば、微かに炭酸の飛沫が唇に触れた。そして、口内に透明な液体が流れ込んでくる。舌がひやりとした水に包まれる。
弾ける、炭酸。ぴりぴりと舌や、頬の内側が震えた。振るわせられた。これは堪らない。痺れが、強い。味わう間もなく飲み込むと、今度は喉元にじりじりとした感触が走る。ああ、これが大人の言う喉越しというものなのだろうか。遠くなりそうな意識を必死に繋ぎとめていると、やっと液体は胃に落ちてくれる。そうしたらそうしたで、気体を含んだ液体は存在感を強く放つときた。気を抜けば、けふっと息が出てきそう。
わかったこと。これは、自分が苦手とする炭酸飲料水で間違いない。
わからなかったこと。炭酸が強すぎて、味まで感じられず、甘い・甘くないを確かめそびれた。
ということで、控えめにもう一口、いや、一口の半分程度、さらに口に含んだ。それでも、泡はぱちぱちと口内で弾けていく。どうにか耐えながら舌を転がしてみるものの、水、という印象以外ない。しいて言えば、こくんと飲み下したあとにほんのりと苦みが残る程度。
なんやねん、コレ。
「ぷっ」
「あ?」
「あ、すんません、北さんのそういう渋い顔、初めて見たもんで」
「んな顔しとる?」
「してます、めっちゃしとる。なんやねんコレて、顔」
「……なんやねん、コレ」
「ぶっふ……!」
ボトルを返しながら侑の言葉を繰り返すように言ってやれば、何が面白いのか、空いているほうの手で口元を押さえた。変に堪えられるよりは、一思いに笑ってくれたほうが気が楽なのだが。いやはや、先輩を笑うのは失礼、という礼節がこいつにもあったとは。……いや、俺を笑うと何を言い返されるかわからないから我慢している、というほうが正しい気がする。
「で、なんなん、コレ」
「ふ、フッフ、や、ただの炭酸水っすよ」
「ほんまにただの炭酸の水やん」
「そうそう、おとんが酒割るのに使っとったんすけど、そのまま飲んでもええ~とか、海外じゃ健康目的で飲んどるらしい~とか言われたんで飲んでみたら、」
「お前好みやった、と」
「はい」
けろっとした顔をして言い放ったそいつは、「でも治はめちゃめちゃ顔歪めてましたわ、今の北さんみたいに」と続ける。喧しいわ。俺からしたら、コレを平然とぐびぐび飲めるお前の正気を疑いたいところ。
しかし、侑の話を信じるのなら、炭酸水をそのまま飲む物好きはコイツだけではないということになる。……それにしたって、この強炭酸はどうなんだ。こんなにも強い炭酸水を好んで飲む人間がどれほどいるのやら。俺が思った以上に、大量にいたらどうしよう。
炭酸に侵された思考を巡らせている今も、舌にはほんのりと苦みが残っている。この苦みも、自分はあまり得意ではないな。けれど、侑にとっては苦でも何でもない。平然と突き返されたボトルを傾け、喉を上下させている。まったく、信じられない。
「よお、ンな勢いで飲めるなあ」
「なんかスッキリしません? ジュワッとくる感じが」
「あかんわ、俺には向かん」
「ぽいっす」
「……ならなんで飲ませたん?」
「うぇ、だって北さんがじって見てきはったから!」
飲みたいんかなって思ったんです! 喚きながらも、侑はそれを飲み干していく。ボールを掴めるだけの大きな手に掴まれたボトルの中では、液体が揺れるたびに泡が浮かび上がり、弾けて消えていった。
蝉の声と、そいつが喉を鳴らす音。そこに差し込む、しゅわしゅわ炭酸の弾ける音。降り注ぐ日差しは熱いし、体を包む空気だってこれでもかと熱を孕んでいる。
夏だ、な。
こいつは夏が似合うな。夏生まれの自分より、余程、似合う。
まるでどこかの広告塔。首を伝う汗をそのままに、炭酸水を飲み下していく横顔は、爽やかな色気すら纏って見えた。
「――、」
「北さん?」
「あ、いや、」
「なんすか、いつもならザクッと一突きしてきはるのに」
「そのザクッと一突きされるにいたる言動を控えてくれたら、俺の手間も減るんやけどなあ」
「ヴッ」
「冗談や、お前は好きにしたらええねん。あかんほう突っ走りだしたらすぐ止めたるし」
「……その止め方がキツいんですってぇ」
そんなことを言ったって、ドスリと一突きで仕留めなければ、お前らは止まらないのだから、仕方がなかろう。
バレーに関してはまさにそう。慌てふためく後輩たちを落ち着かせること、背中を守ってやるのが俺の役目。とはいえ、後者については、当人たちは実感がないかもしれない。なんとなく、調子が良い、くらいに捉えて終わってそうだ。でも、それでいい。俺は華々しい活躍よりも、確固たる土台になれさえすれば構わないのだから。
しかし、だ。インハイこそ準優勝で終わったものの、予選ではとんでもない点差をひっくり返されかけたこともある。まだまだ後輩だけでは詰めが甘い。そこを、春までに自覚してくれればいいのだが、どうなることやら。
今日何度目かのため息を吐きながら軽く俯けば、視界の中に強引に金髪が入り込んできた。
「……なんやねん」
「さっき、なんか言いたそな顔、してはったやないですか」
「そうやった?」
「そうやって誤魔化してぇ、俺の目は節穴ちゃいますよ?」
「……大したことやないで」
「でも気になります」
「ほんまに」
「気になる」
侑の手元では、三分の一ほどになったボトルのキャップが閉められた。だが、ボトルの中では、限られた空間に向かって気体は溶けだし、細かい泡を作っては弾けていく。底の窪みにも、ボトルの側面にも、水面ぎりぎりのあたりにも、一ミリあるかないかといった大きさの気泡が浮かぶ。
「――かっこええなあって」
「はい?」
「お前の飲みっぷりが、そういう広告、CMとか見とるみたいでな」
「え、と」
「かっこええなあ、夏似合うなあって、思っただけ」
「あの」
「おん」
「俺、」
「ん」
「褒められてます?」
きょと、と侑は首を傾げた。顔の中央辺りにある垂れ目は、重たそうな瞼を跳ねのけてぱっちりと見開かれている。ついでに、ぐびぐびと炭酸水を飲み込んでいた唇は、ぽかんと開いていた。
「うん、褒めとる」
素直に答えれば、さらに目は大きく見開かれた。そんなに開いたら、目玉が零れ落ちてしまうのではないか。さすがにそれは現実的ではないとしても、乾いてしぱしぱするんちゃう?
開いていた唇は、たっぷりと時間をかけながら閉じて、もぞもぞと波打った。それもほんの数秒のこと、ぐっと引き結ばれた唇の両端が持ち上がった。
にんまり。きらきらと輝かんばかりの笑みが、そばにある。幼さも感じられる笑顔は、その図体を思うとアンバランス。けれど、試合の時はしょっちゅう浮かべている顔だ。ある意味では見慣れている笑み。だが、こんなところで拝めるとは思ってもみなかった。
この顔に、女子は落ちるのだろうか。ふわりと、あつむ・おさむと描かれたうちわを持った女子陣の顔が過った。
「俺、かっこええんすよ、今気付きました?」
「自分で言うなや」
「でもでもでもでも、北さんかて、かっこええなあって思ってたんでしょっ!」
「……まあ」
「もお~、もっと言うてくれてええのにぃ」
「アー、アツムハカッコエエナア」
「棒読みやめてください」
「お前は真顔をやめえ」
「どうせ言うなら心を込めて! ほら、はいっ!」
どうぞ、と振られたところで言い直す気にはなれない。逆に、言いたくなる奴がいたら見てみたい。……尾白なら乗るか、乗るだけ乗って、何言わすんじゃってノリツッコミする。たぶん。
さておき、俺が言い直さずとも侑は上機嫌を保っている。当初の委縮はどこへやら。鼻歌まで歌っている始末。
いっそ踊りだすのでは? という機嫌のまま、侑は炭酸水のキャップを捻った。反時計回りに捻られたそこから、シュッと空気が飛び出す音が聞こえる。あわせて、中身の気泡が無数に浮かんで空気に融けていった。
その空気ごと、侑は飲み下していく。傾けられたボトルの中身は減る一方。一切の抵抗なくそいつの口を、舌を、喉を通り抜けていった。
開けて然程時間は立っていない。当然、炭酸は抜けきっていないことだろう。一口目と同じ、強炭酸のままであることは想像に容易い。それにもかかわらず、なんの躊躇いもなく飲み下せてしまうとは。
やはり、自分には信じられない。
「よお飲めるなあ……」
「だって好きなんすもん」
「痛くないん?」
「や、全然、平気です。……え、北さん痛いんすかコレッ」
「痛いつか、……まあ、痛いな」
「ひぇー」
それこそ侑は信じられないという声を挙げた。
おそらく、慣れにも左右されるのだろう。炭酸飲料自体が苦手だというのに、こんな強炭酸水を飲んだら、余計に強く感じるに決まっている。逆に、普段からコレを飲んでいる侑には、なんともない。きっと、そういうことだ。
今更な話ではあるが、同じ部活に所属していなかったら、間違いなく接点はなかったことだろう。それどころか、俺は侑を避けていたかもしれない。……どうだろう、目に余る双子乱闘が煩わしくなって、関係ないのに止めに入り、廊下に二人を正座させるまでの流れが簡単に浮かんでしまう。
もしもを考えているうちに、侑も明後日の方向を眺めながら残り少なくなってきたソレをこくこく飲んでいた。コンビニ前でたむろしているうちに飲み干してしまいそう。家までたらたら水分補給しながら帰る予定だったかもしれないのに。
……もし、そうだとしたら申し訳ないことをした。渡した百円で、もう一本買えたらいいのだが。それに、なんだか自分も喉が渇いてきた。アイスを食べたとはいえ、それで十分な水分を取れたとは言いがたい。お茶か、スポーツドリンクか、買っていこうか。夏に体を冷やしすぎるのもよくないが、熱中症になっては元も子もない。
吐き出した息は、もし今が真冬であったなら、白く、丸く、曇っていたことだろう。それくらい熱が籠っている。全身から汗が流れ出て、制服のシャツが背中に張り付いた。早く涼しくなってほしい。実りの秋が来てくれたら。……来たら来たで、収穫作業に駆り出されるのだろう。貴重な男手、それも食べ盛りの男子高校生となれば、親戚から引っ張りだこ。今度の土日は叔父の畑、次の土日は叔母の田んぼと連れ回される。夏の今も今で、ばあちゃんの家庭菜園にしては広すぎる畑で、毎朝一仕事しているのだが。
水を一本買うなら二本もそう変わらない。ついでに、侑の分も何か買ってやるかと、隣に立つそいつを見やった。
相変わらず、様になるその男。
目を、奪われた。
「――ほんま、かっこええなぁ」
ぽったりと、言う予定のない言葉が零れ落ちる。
途端、流し目気味に射抜かれた。そいつの唇は、まだボトルの口に触れている。そのボトルを、掴んでいる。けれど、片手は空いていて、流れるように、その手に肩を捕らえられた。
はく、熱い空気を食む。対照的にボトルから口を離した侑は口を真一文字に引き結んでいた。身長差の都合、僅かに上を向いている自分と、俯きがちになる侑。
なんか、飲みたいもんあるか。そう聞きたいのに、金縛りにあったかのように動けない。ほんのりと口を開けたまま、す、と距離を詰めてくる侑を待つことしか、できない。
待て、いくらなんでも近すぎやしないか。そんなことはない?
暑さで頭がどうかしてしまったのかもしれない。ただのスキンシップとしての戯れと、そうではない「なにか」との区別がつかなかった。
狂った思考は、イレギュラーを察知してはくれない。
ひたり、唇が、重なった。
それでも思考は追い付かない。
眼前に侑の瞳があって、その奥に自分の目が映っている。掠めた鼻先は汗ばんでいて、近すぎる肌は互いの熱を空気越しに伝えてくる。
向こうは唇を閉じたまま。こっちはうっすらと開いた状態。拙いのでは? 一瞬、真っ当な思考が戻ってきたかと思ったら、カランと何かがコンクリートに落下する音がした。続けて顎をやんわりと掴まれる。角度を調整するように、首が僅かに後ろに倒された。触れている指先もやけに熱くて、おもむろに今日は猛暑日予想だったことを思い出す。体温の熱なのか、空気の熱なのか、もう混じり合って、なにが、なんだか。
色気を孕んだ瞳が瞼で覆われるのを見て、自分も瞼を閉じた。それぞれの皮膚を睫毛が掠める。くすぐったいような、痛いような、やはりくすぐったいような。けれど、気にするなと言われれば、無視できる感触。
視覚が閉ざされると、――しゅわり、口内で空気が弾けた。
唇を濡らして、粘膜に流し込まれる水。ぱちぱちと泡が広がり、頬の裏、舌の先、上顎を刺激していく。喉元を通っても、泡が弾ける感触は消え去らない。
胃の中に落ちて、水に含まれていた気体がせりあがってきた頃、ようやくその感触は落ち着いた。
合わせて、唇が離れる。咄嗟に瞼を開いた。垂れた目は既に十数センチ遠くに離れていた。その背景には、どこまでも高く、広い青空と、真っ白な入道雲が佇んでいる。ちょうどそいつの頭の、旋毛のある辺りの斜め上には半分の月が見えた。意識しなければ、その存在を忘れてしまうような真昼の月。雲の白さばかりが際立って、夜中と比べると貧相な存在感をしている。
この辺りは背の高い建物が少ない。とはいえ、コンビニはあるし、歩道には数メートルおきに街灯が立っている。おかげで、夜になっても天体観測は難しい。せいぜい月を眺める程度。この時間に西の空に月が上っているのを思うと、今日は星らしい星を見ることはできないだろう。
なのに。なのに、だ。
今、宙に星が舞っている。月が見えているなら夜だろうって? そんなわけあるか。さっきも思い浮かべたように、この月は真昼の月。星々の光は、日中は太陽光に負けて、夜半は街灯をはじめとする人工の光に負けてしまう。だから、この場所において、星が見えるはずがないのだ。
しかし、依然として、視界には星が浮かんでいる。きらきら、ぱちぱちと、視界を丸く囲むように煌めいていた。炭酸水の気泡の如く、どこからともなく浮かんでは消え、また現れる。
「……俺、口説かれてました、よね?」
確認するように、侑は口を開く。
しかし、流れる星のせいで何を言っているのか理解できない。弾ける泡が、働こうとする思考にしゅわしゅわと纏わりついてきて邪魔をする。こいつは、何を言っている。早く理解したいのに、炭酸水の痺れに押されて、脳みそは正常に動かない。
口内に広がっていた数多の泡は、痺れとなって残っている。ついでに、舌の上には後味の苦味が乗っていた。唯一、この味だけは理解できる。ほんの数分前、目の前の男に差し出されるままに口にした、炭酸水の、味。
ようやく、肩と顎に添えられていた手が離れた。カッカと火を噴きそうなくらいの熱感が消え、ぱちんっと何かのスイッチが切り替わる。……おそらく、それは、思考回路の、スイッチだ。
「ッ何して、」
「え、口説かれたから、応えなあかんなあって」
「口説いてなんか、」
「かっこええなぁって言うてはったやないですか!」
「言うて、」
「た!」
「言う、て、もた、けど」
「けど?」
「それは、あーほら、お前、もっと言うてほしいとか、」
「それとは別に言うたでしょ」
「……」
「俺のこと、改めて見て、かっこええなぁって、思てくれたんと、ちゃうの?」
話をしているうちに、だらだらと冷汗が流れ落ちてくる。背中に至っては、くっきりと肩甲骨が浮かんでいるのではなかろうか。だくだくと血液を送り出す心臓も、あまりの衝撃に口から飛び出してきそうだ。
何かが飲みたい。口移しで飲まされた炭酸水ではない、水がほしい。いっそ、炭酸水を飲まされたせいで余計に水分が欲しくなったかのようだ。唾液腺は真っ当な働きをしてくれず、とにかく口が乾く。何か飲みたい。炭酸水ではない、水分が、欲しい。
動揺していると、何故か侑はゆっくりと腰を折り始めた。自然と顔と顔の距離が近くなってしまう。また、来るのか。アレが来るのか。こめかみから汗が伝って、頬骨の真上を通り過ぎる。だが、顎に辿り着く前に髪に吸われて消えた。距離は、さらに近づいている。もう、だめだ。ぎゅ、と、目を瞑った。
ところが、来ると予想した感触は襲ってこない。ぱ、と目を見開けば、俺のすぐ横で屈んだ侑の旋毛が見えた。その手は、地面に転がっているペットボトルを捕まえる。拾い上げたそこには、小さな水たまりができていた。泡立っている水は、早速コンクリートに熱されて、蒸発しだしている。
ああ、あのカランという音は、ペットボトルが落ちた音だったのか。侑の手に収まったボトルは、すっかり空っぽ。あの水たまりを作って、力尽きたらしい。
あちゃー、という能天気な声が聞こえた。拾い上げたボトルは、流れるような手つきでコンビニに備え付けのゴミ箱に入れられる。キャップはキャップ、ボトルはボトル。それぞれの穴に吸い込まれて、そいつの両手は空になる。
ハッと、脳みそが本格的に稼働しだした。
俺はこいつに何をされた? 口付けられて、炭酸水を口移しされた。
次に俺はどうした? ペットボトルを拾おうとする侑の動きを、キスされると、勘違いした。
その前に、自分は何を口走った?
『――ほんま、かっこええなぁ』
その言葉は、間違いなく本心で、なんの迷いも曇りもなく、口からするりと零れ落ちた。侑が、かっこいい、なんて。別に間違っては、いない。バレー部員の中では顔は整っているほうだと思う。プレーが巧みというのもあって、女子人気も高い。かっこいい、という言葉でこいつを形容しても、決して間違いではないだろう。
かといって、炭酸水を飲んでいる横顔を見て言ってしまったのは、何故。
考えれば考えるほど顔が熱くなってくる。文字通り、火を噴きそう。もしくは融けそう。穴があったら入りたい。そのまま融けてしまいたい。いや融けたら困る。ばあちゃんの畑の手伝いできへんし、掃除もできん。学校に行って勉強すんのも、バレーすんのも、できんようなってまう。それは、あかん。
あかんけど、この状況を作ってしまったのは、もっと、あかん。
「で、続き、ええすか」
「つづ、き?」
「そう、続き。っても、キスしてから言うのもアカンつか、順番逆やろ、って感じなんすけど」
「待て」
「待ちません」
「お、まえ、なんでンな平然としてられるん……?」
「……んん、場数すかね」
「ハラタツわ」
「すんません、モテるもんで」
「ほんっまハラタツわぁ」
「目がマジやん、こっわ」
その口調から察するに、怖いなど微塵も思っていないに違いない。先輩としての威厳がガラガラと崩れていく音がする。今後、こいつが何かしでかしたとき、真っ当に説教できるだろうか。……それとこれは別の話か。やらかして、過失がこいつにあるのであれば、それを諭すのは当然のこと。いくら喚いたとて、本来すべきだったことを教えることの何が悪い。
べち、と一度自分の顔を覆った。手の平も顔も熱くて、汗ばんでいて、気持ちが悪い。早く家に帰って、風呂に入ってしまいたい。
そんな思いとは反するように、膝はゆっくりと折れて、腰は曲がり、……その場にしゃがみ込んでしまった。地面が近づいた分、暑さが増す。立ち上がらなくては。そう思えども、情けなさが先立って、思うように体が動かない。
そのうちに、そばにいた男もしゃがみ込む気配がした。わざわざ同じ姿勢をとることもなかろうに。それとも、場数を踏んでいるからこその行動とでも?
恨めしさをたっぷりと込めながら、指の隙間からそいつを睨んだ。
「俺な」
「……」
「北さんに「かっこええ」て言われんの」
「……」
「めっちゃ嬉しかったんすよ」
ああそうか、それは良かった。こいつが上機嫌になると、バレーのほうも調子が上がる。春高予選は調子よく進むかもしれない。
なんて、打算に思考が向けば良かったのに。真摯に、真面目に、侑の声を聞いてしまっている。甘ったるく紡がれる言葉を、聞き入ってしまっている、とも、言う。
「これって、」
静かに侑の手が伸びて来て、俺の顔から手を引き剥がされた。抵抗など、できるわけがない。
こんなに格好いい男に、触れられているのだから。
「北さんのこと、好き、って、ことやと思うんですけど、あんたは俺のこと、どう思ってます?」
その問いに、自分はどう答えたら良いのだろう。正解がわからない。数学や物理みたいに、公式と一緒に一つの綺麗な解があればいいのに。
どうにか開いた唇は、混乱で震えていた。
「たぶん、すき」
発し終わると同時に、開いたままの唇はぱくんと食べられた。
キスがレモンの味と定義された原典は、どこにあるのだろう。