墓堀り恋慕
侑→北と見せかけた報われない話
「付き合ってください」
一月、春高もセンター試験も終わった時分に、後輩に呼び出された。カーディガンを羽織っているものの、冬真っただ中。指定場所たる中庭は、真昼の日差しこそ降り注いでいるものの、じんわりと寒かった。
そんな寒々しい中、告げられたのが、件の言葉だ。
どこに? なんてボケをするつもりはない。俺と買い物なんて、こいつにとっては罰ゲームのようなものだ。鬼の所業にも感じているかもしれない。その鬼の大将の元で、こんなことをほざくなんて、余程のことがあったに違いない。それこそ、二年の間で何かを賭けているとか、治なり角名に何か吹き込まれたとか。
さて、俺に告白なんて真似をしてきた意図はなんだ。逆に「どこ行くん?」としれっと返してしまうのが正解だった気もしてくる。まったく、バレーのことであればこいつの思考回路は手に取るようにわかるのに、今、この瞬間はさっぱりだ。まるでわからない。
……わからない、となれば。
尋ねるまでのこと。
「なんで」
「えっ」
「なんで、告白してきたん?」
「そ、りゃ、好きやから」
「何を」
「うぇ」
「俺の、何がお前にとって好意的に思えたん? 少なくとも、春高終わった頃までは苦手で怖くてしゃーなかったやろ」
何故、お前は「付き合ってください」と俺に言ったのか。付き合うというからには、何かしら俺に好きだと思える部分があったということ。その正体はなんだ。憧憬か。罪悪感か。それとも宣戦布告か。
真っ直ぐに侑の目を見据えて、言葉を重ねていけば、じわじわとそいつの頬が色づきだした。疑問ばかりの告白に対して、こう問うのは当たり前に思えるのだが。それほど羞恥を煽る言葉だったろうか。今一度、自分が発した言葉を思い返してみるものの、どうも、唇を引き結んで恥ずかしさに震えるほどのものであったとは思えない。
仕方なく、侑が何か喋るまで待つかと、緩く首を傾けた。ついでに、体育で言うところの「休め」に値するくらいに両足を開く。手持無沙汰な両腕はとりあえず組んでおいた。
仁王立ちの亜種の体勢になっているのはわかっているが、多少の圧をかけたほうがこいつは口を開きやすい。だからこそ、その姿勢を保ったまま、じ、と侑を見つめた。
「そ、の」
ようやく唇から零れた音は、大した意味を持たない。俺が聞きたいのはその続きだ。その、なんだ。その、何が良いと思ったのだ。
ひゅるりと自分たちの間を北風が通り抜けた。どこから飛んできたのか、崩れそうな枯葉が校舎にそって高く昇っていく。その小さな茶色が視界から消えてなお、侑は口ごもっていた。珍しい。思ったことを、間髪入れずに発するこの男が、こんなにも言葉を選ぶなんて。それとも考えている? いや、この顔は浮かんではいるがその通り俺に伝えたら、叱られると思っているときのものだ。
いっそのこと、叱られるのを覚悟の上で言ってしまえば良いものを。自分はもうとっくに引退している。同じ学び舎にいる以上、先輩・後輩の関係はつきものだが、部活に勤しんでいた時ほどの正論を突き刺す気はない。……センター試験が終わって、一つ肩の荷が下りたからこそでもあるが。
「侑?」
ほれ、言うてみ。
そんな意味を込めて、名前を呼んでみた。たちまち、そいつの方が大きく揺れる。これが漫画であったなら、ビクッと大きな擬音がついていたことだろう。
改めて、そいつの顔をまじまじと見れば、眉は綺麗な八の字を描いていた。唇はもごもごと波打っているものの、開く気配はない。イコール、俺の求める答えを発してはくれない。それどころか、赤く染まった皮膚の面積が増えているように見えるのは気のせいだろうか。いや、気のせいではない。顔中、耳も首も、血が上って真っ赤になっている。
おい、どうした、侑。
もう一度、声を掛けるべく息を吸えば、それよりも先に侑の唇が開いた。ちらり、歯の白と、舌の赤が覗く。ふっと視界を掠めた水滴は、唾だったのか、鼻水だったのか、それとも涙であったのか。
「――出直してきますッ!」
潤んだ目にうっすら濡れている鼻の下、勢いよく発せられた声を思うと、全部ありえて、正直見当が立たない。
「そうか」
「はい!」
一言ずつ交わしたところで、侑はばたばたと校舎のほうへと戻っていった。その背中をしばし見送る。なぜなら自分も進行方向は同じだから。出直してくると言った相手を追いかけるのは、流石に気まずかろう。誰って、あいつが。
一体全体、これはなんなのだ。なんの茶番だったのだ。誰か教えてはくれないか。
こっそりため息を吐いて頭を掻いたところで、俺の求める明確な解答は見いだせなかった。
ただ、茹蛸の如く真っ赤に染まったあの男の顔が、網膜に焼き付きはした。
◇◆◇◆
それから約一か月。来週の土日は前期試験という頃合いに、そいつは再び俺の前に顔を出した。
「北さん、付き合ってください」
前回よりは、はっきりしたトーン。わずかに目元が赤くなってはいるが、瞳からは何らかの意思を感じる。なるほど、俺が尋ねた問いの答えをちゃんと準備してやってきてくれたらしい。
とはいえ、場所が悪い。ここは教室だ。俺の、あと一か月と世話にはならないだろう教室。自由登校期間であり、校舎の施錠時刻も近いこともあって自分とソイツ以外に人がいないのが幸い。それでも、隣の教室の電気はついていたはず。誰かに聞かれたら、こいつはどうするつもりなのだろう。男が男に告白するなんて。多様化社会と叫ばれる昨今でも、ここは学校という閉鎖空間。何が起きるか、わかったもんじゃない。
はあ。一つため息を吐いてから、ここ一か月で世話になった赤本を閉じた。ついでにノートも閉じて、シャーペンと消しゴム、それに赤色のボールペンを筆箱にしまう。わざとゆっくりその動作をしていれば、戸口に立っている男は居心地が悪そうに身じろぎした。
「……聞こえましたよね?」
「おう」
「ならッ」
「急かすな、もう校舎閉まるやろ。続きは外で」
「う~」
丁寧な動作を続けながら、ちらりと侑を盗み見た。と、その顔はあからさまな不機嫌を映している。それが告白してくる奴の顔か? うっかりそう問いたくなってしまう。
「なんなん、その顔」
あ、尋ねてしまった。
「……先に言うたの、俺なんやけど」
「長くなるやろ、そっちの話は」
「こっちだって長くなりますよ」
「ふぅん」
相槌を打ちながらも、机の上に散った消しゴムのカスを一か所に集めた。そのまま、ぱらりと左手に閉じ込める。右手には鞄を持って、椅子を机にしまって、まずは侑のところ……、ではなくゴミ箱へ。戸口のすぐわきに置いてあるのだから、実質侑のところのようなものか。ぱらぱらと黒ずんだカスを捨てたところで、廊下と教室の間にそびえ立つ長身の真横をするりと抜けた。三歩廊下を進んでからロッカーに向き直る。いちばん右側の列、上から五番目、下から二番目。かぽっと四角い扉を開ければ、朝畳んだ通りのカーディガンが入っていた。
「治の進路のことか?」
「ッなんで知って!?」
「前から相談されとったし」
「そう、だん?」
「おう。他ん三年はほとんどバレー続けるらしいけど、俺だけは高校までて明言しとったからやろか。お前がユース合宿行っとったとき、何回か神妙な顔して相談してきてん」
「んなの、知らん」
「言うてへんからな」
「な」
「なんで言うてくれへんかった、て?」
「……俺の頭ん中、実は見えてはる~とか言います?」
「顔見たらわかるわ。第一、ただ、頭ん中見えたところで脳みそしか見えへんし。思考まで読み取るなら、シナプスの」
「あーあーあー難しい話やめて!」
「……お前、生物選択やろ」
カーディガンを羽織りながら、じとりと侑を見やれば、さっと視線を逸らされた。これは先日の考査結果を聞いたほうが良いだろうか。しかし、自分は生物をとっていない。理科は化学と物理。点数を聞いたところで、誤った問題を見たところで、適切に教えることはできない。ちなみに、地歴は世界史B。大耳に「変態や」と言われたのは二年の春だったか、一年の冬に「世界史おもろそうやな」と零したときだったか。おもろそうやん、世界史。実際おもろかったで。十二月ぎりぎりにどうにかセンターの範囲終わったときは、ちょっとハラハラしたけどな。
まあ、この間、職員室で見かけた黒須監督の顔はそれほど疲弊してはいなかった。赤点は回避したのだろう。ぎりぎり回避の可能性もなくはないが、回避したことに変わりはない。これで、新体制への準備を進められると胸を撫でおろしていたようでもあったし、なんやかんやこいつの生物のテストはどうにかなったということにしておこう。
「……」
「……」
「……なんか、言うてくださいよ」
「よくもまあ、治と喧嘩した勢いで俺んとこきたなあ、とは思う。説教したほうええか?」
「キタサンノゴズイイノママニ」
「ふ、せえへんよ。疲れるしな」
「えっ」
「ん? されたいんやったらしたるけど」
「イエッ、あっや、なんつか、疲れる、て」
「疲れるやろ、説教」
人に何かを説くにはエネルギーを使う。しでかした当人たちがこちらの話を聞く姿勢にさせなければならないし、こちらも適切な言葉を選ぶ必要がある。そりゃただ怒鳴り散らすだけなら簡単だ。大声で思いついたことを言えばいいだけなのだから。その声を張るエネルギーさえあればいい。だが、説くとなれば、こっちの頭もフル回転。当人がどう思っているかも踏まえて状況を整理し、何が嫌だったのか、何が堪忍袋の緒を破裂させたのか、何故止められなかったのか、平和的に解決するにはどうするべきであったのか。説く側たる自分と、相当な場合で説かれる立場にあった侑と、共通の認識を構築しなければならない。そりゃあ疲れるに決まっている。こいつに説教した後、はちみつ味の飴を必ずくれる赤木には世話になった。
なんたって、俺の想像を超えた先にあるコトを平然とやってのける男なのだ。脳みそはこれでもかと糖分を消費し、部活前にもかかわらず空腹を訴えることすらあった。
「お前も、俺も」
「……これまで、すんま」
「謝ったところで時間は戻ってけえへん」
「ヴンン」
しまった。本日二回目。
自分の癖なのだろう、相手の言葉を遮って諫めるかのような言葉を吐き付けてしまうのは。無意味に謝ってほしくはない。その時間を他に使うこともできたろうにと思わないことはないが、あの喧嘩もそれなりに譲れないものを守るためにやったのであれば、侑にとっては必要な時間。……しょーもない喧嘩に巻き込まれたときは、「ええかげんにせえよ」とドスを効かせて時間短縮に努めたし、良いのだ。
カーディガンのボタンをきちっと留めて、教室内の窓の鍵がちゃんと閉まっていることを遠目に確かめる。黒板も綺麗。チョークの粉も溜まっていない。よし。ぱちぱち、と六つのスイッチを切りかえれば、瞬く間に辺りは薄暗くなった。隣の教室も暗い。というか、三年の教室があるこの階が、ひっそりと薄暗くなっている。そうか、自分が最後か。それなら、こいつが告白の言葉を発したのにも納得する。いや、納得できるかは別の問題か。何故、俺に好意を持ったのか、明らかにしていないのだから。
静かに息を吐きながら、ぱたぱたと階段へと向かっていく。背後、というよりは隣という位置取りで侑もついてきた。コンパスを思えば明らかにこいつのほうが歩幅は大きいのだが、こっちだって自分より十センチ以上でかい奴らと歩くのは慣れている。特に急ぎ足ということもなく、いつものペースで歩みを進めた。
あわせて、そっと話をこいつの片割れに戻す。
「とにかく、俺は治の話聞いて、ソレを決めるのは俺やない、お前自身や、て言うただけ。大した事なあんもしてへん」
「……はぃ」
「納得できん?」
横目で隣を見やれば、濃紺に染まった窓を背景につんと唇を尖らせたそいつが見えた。「はい」と言いながらも、まったく「はい」と言う表情はなっていない。本当に、顔に出やすい奴だ。これでセッターというのだから、面白い。いや、コート上のこいつと、廊下を歩く一高校生としてのこいつを同一視するのはやめておこう。バレーボールという競技が絡んだ瞬間、こいつの目はがらりと色味を変えるのだから。
その、バレーをするにあたって――正確にはバレーだけではないのだろうが――これまで並走を続けてきた片割れの話。
『バレーを続けることって、どれくらい大事なんでしょうか』
件の片割れからぽつりと尋ねられた際、人によるやろ、と淡々と返してしまったのは、自分でもアホやったなと思う。何か一つのことをどこまでも追及してやり遂げるのは確かに貴いとされやすい。だが、あくまで自分たちがしているのは部活だ。所詮部活。たかが、部活。強豪校であったとしても、部活動という学校生活の一部分でしかないのは間違いない。それにどこまでも固執するものありだろう。多くのスポーツ選手という人間は、高校や大学の部活動で大成したことをバネに、ソレで食っているのだから。しかし、そんなの一部の人間だ。少なくとも、自分はその質の人間ではない。バレーで食っていける? そんなわけあるか。
だが、目の前にいる男となると、話は別。バランスの取れた能力は、セッターというポジションにこだわり続ける偏った男と並走してきたからこそ身についたのだろう。その力があるのなら、長い目でみれば、それなりにバレーボール選手として食っていくこともできなくはない、と思う。
と、ここまでは、生きていけるかどうかの話。治が尋ねてきたのは、どれだけ大事か、だ。大事。それは主観による。個々、人によって度合いが変わってくる。侑だったら、バレーが何よりも優先されるから大事の頂点に君臨しているだろう。そこそこ手抜きが上手いとはいえ、県外からバレーをするためだけに稲荷崎に入学してきた角名なんかも、バレーの大事度は高いと思う。じゃあ治は? ぱっと過るのは、侑と並んでバレーをするところと、至極幸せそうに飯を食っているところ。
『バレーが、一等大事な人間もいる。侑みたいな奴とかな。けど、俺なんかはバレーがどれだけ大事かていうと、ルーチンに組み込んでもうたから、なくなったら違和感はあるやろうけど、……関わらんでも何一つ困らず生きていけると思う』
『じゃあ、俺は』
『それは、治次第やろ。侑と並んで走るもよし。あいつのおらんとこで打ち込むもよし。まったく別の、バレーとは関係のないことをするのも、よし』
『……バレーと、関係の、ない』
『……個人的には、大学生くらいまではお前のバレー見てみたい気ぃするけどな。それで生きていくかどうかは、さっきも言うたけど治次第』
『大学、う~』
『何に悩んどるん?』
『高校で、スパッとやめて調理の専門行くか、大学でバレー続けてから、食品関係の仕事するかで、迷って、マス』
『ふ、俺個人の希望は無視してええよ。自分がどうしたいか洗い出して、親御さんと話しあって、そんでちゃんと自分が納得できる進路、選んだらええよ』
この話をしたのは、ちょうど侑がユース選抜の最初の合宿で不在にしているときだった。片割れがいないからこそ、聞きにきたのだろう。侑がいると、どこで聞かれるかわかったものではないから。それくらい、侑は治がバレーを続けることを「当然」と思っている。俺だってわかるくらいだ、十七年間隣にい続けたこいつは、俺よりもはるかに敏感にその「当然」を受け止めて生活しているはず。
がしがしと頭を掻く姿は、侑に少し似ていると思った。ただ、どれをしよう、と迷う表情は、侑はほとんど浮かべない。まるで、自分がすべきことが線のように見えているみたいに。治と、侑。双子で、どんなに似ていても、別個の人間だ。同じ道を進もうと、異なる人生を進もうと、否定することは誰もできない。
この会話を要約したのが「大した事、なあんもしてへん」としたら、文句を言われそうだ。主に相談主に。めちゃめちゃ真剣に相談しに行ったんですよ俺! て。
「納得、つか、拍子抜け、つか、あの! ずっと、あいつも、バレーやるもんやと思っとったから」
「おん」
「けど、あいつの、言い分もこう、た、……正しい、んやろなって思ったり、して」
「……おん」
「そんなら、八十なったとき、どや、俺のが幸せやったって言ったる! 啖呵切ってもうて、」
「ふふ、……うん」
「そしたら、あ、北さんとこ行かな、て、思って」
「うん?」
「八十なったとき、幸せやったでしょって、北さんに評価してもらわなあかんな、て」
階段を降り始めたところで振り返った。相変わらず、侑の背中の向こうには、紺色の空が見える。今日は晴れていた。家の辺りなら、星もよく見えるかもしれない。少し離れたところにあるショッピングセンターの灯りで、一部分は欠けてしまうだろうが、仕方あるまい。
数段、俺のほうが低い位置にいるせいで、俯き気味の侑の顔もよく見えた。恒星の如く我儘に傲慢に輝き続ける男が、ずっと隣にあった「当然」を「当然ではない」と必死に噛み砕こうとしている。
ただ、そうやって片割れのことをぐるぐる考えているところに俺が登場するのはどういうことだ。ああ、バレーで幸せになると決めた男対飯で幸せになると決めた男の対決を見届けろということか。そういえば、春高のあと似たようなことを言われたなあ。
「……安心せえ、活躍のしようによっては孫ん代まで自慢しといたるから」
「アッやっ! それはそれでそうなんですけど!」
「活躍のしようによってはな」
「……それ二回言います?」
そりゃ言うだろう。活躍してくれなくては自慢のしようがない。細やかなことで自慢をしても良いが、それで満ち足りないのはお前のほうだろう? 日本一になったとか、日本代表になったとか、……世界で一番のセッターになったとか。そういうことを自慢してほしいのだろう? こと、結果にこだわるお前のことだ。中途半端な満足で事足りるわけがない。
そりゃ活躍しますけど、と吐き捨てそいつは、トトトッと軽やかに階段を降りていく。あっという間に俺を追い抜いて踊り場へ。あの脚の長さで、よくもまあ器用にこの低い段差を駆け降りられるものだ。妙な感心をしつつ、自分もトトトンとリノリウムの足場を降りていく。
「んんんとにかく、北さんと、一緒、いたいんすよ」
「ふうん」
「だから、つき、あって、ほしい」
「一緒いたいだけやったら付き合う必要ないやろ」
同じテンポで階段を降りつつ、ぽんぽんと会話をパスしあう。
一緒にいたい。だから、付き合ってほしい。これが男女の仲であったのなら、もっと話はスムーズに進んだのかもしれない。だが、自分たちはどちらも男。繋がりといえば、ほんの二年弱、同じ部活動をしていたというくらい。たったそれだけのつながりで、「付き合う」にまで発展するか? 普通は、しない。たまにOB会に顔を出して、あれこれと成果を誇らしげに語って、聞く関係では駄目なのか。
あっという間一階まで辿り着くと、職員玄関の正面にある事務室の電気が見えた。他の灯りは、どれも落ちている。
早足で昇降口に向かえば、今日の鍵担当と思しき教師が昇降口に立っていた。さっと確かめた腕時計は、校舎施錠時刻の五分前を指している。大丈夫。間に合う。
「恋人にならんとできんことがしたいから付き合うんやろ。そういうのせぇへんなら、友達とか、先輩後輩の関係のままでええやん」
それぞれの下駄箱に分かれる際、同様に駆け足になった侑に一句放り投げた。その瞬間、ぴたりとそいつの動きが止まる。ぎ、と不自然さをもって、首が向きを変えた。振り返ろうとしたのだろう。しかし、俺が視界に入るところまで、首が捻られはしなかった。思うところが、あるらしい。
これ幸い。すっと冬の空気を吸い込んで、畳み掛ける。
「前も聞いたよな、お前、俺の何を好きと思って、付き合え言うたん?」
告げると同時に、侑の胴体は下駄箱の向こうに隠れた。それでも、身長のせいもあって額から上は下駄箱から覗いている。薄暗い昇降口では、眩しいばかりの金髪もずんとくすんで見えた。
なんとなく昇降口を見やれば、施錠担当の教員と目があった。俺のクラスの、副担任。こんな時間まで学校で勉強とは、北は真面目やな。そんな視線が突き刺さる。そりゃあ、二次試験まで一週間切りましたから。家で勉強してもええけど、安心しきれる場所よりは、少しピリッとした空気を味わえる場所で勤しみたい。自由登校? それはそれ。俺が好んで、学校に来ているんです。
それまで履いていた上履きを下駄箱の上段にいれた。この動作をするのも、あと半月。そうしたら、俺はこの学び舎から去っていく。次の通う場所へと、居所を変える。体育館に顔を出すことはあれども、校舎に入る機会はなくなってしまうことだろうなあ。
……感傷に浸るなんてらしくない。手際よくローファーを掴んで、とんと昇降口のタイルに揃えて置いた。侑はもう、校舎の外にいるらしい。スタイルの良い背中が、ガラス越しに見える。
「気を付けて帰れよ」
「はい」
千葉出身というその教諭は、こちらの訛りに染まっていない。つられて訛ることもなくはないが、その度に生徒に音が違うだのなんだの文句をつけられるせいで、標準語に徹しているのだ。俺はええと思うけどな。つられて訛るの。郷に入っては郷に従え。多少の違和感がなんだ。聞こえたとおりに話しているのであれば、文句を言う必要もあるまい。
「さようなら」
「ああ、さようなら」
丁寧な挨拶を交わしたところで、副担任は三年の下駄箱側の昇降口を閉めた。間もなくガコンと鍵のかかる音がする。一、二年がよく使う側はまだ閉める様子がないのを思うと、今日は、俺が三年で最後の下校者だったらしい。
面倒かけてもうたかな。ぽつ、と浮かべながら、姿勢よく立つ侑のほうへとつま先を向けた。
「ただしい、とこ」
「は?」
二段ほどの段差を降りれば、おもむろに侑の声が聞こえてきた。遠くからは野球部と思しきざわめきと、下校時刻無視常習犯の吹奏楽部の演奏の音が聞こえてくる。……常習犯は男子バレー部も一緒か。目の前のこいつが筆頭。今年は、オーバーワークをしないと良いが。
侑の横顔を見上げるようにして聞き返せば、つい、とそいつの視線が降ってきた。強い感情は見えない。けれど、真摯さはある。丁寧さもある。
厚みのある唇は、再び開かれた。
「北さんの好きなとこ。正しい所です。俺が、アホなことしようとすると、ちょっと待てて、ブレーキかけてくれる。でも、俺が正しかったら、背中支えてそのままどこまでも突っ走らせてくれる」
ほのかに息が白く見えるのは、今日が最後の冬の寒さを発揮しているからだろう。もうすぐ春が来る。梅のつぼみは膨らんでいるし、桜が開花する時期も近い。天気予報し曰く、今日は最後の冷え込みだろうと。
その、冷えた空気の中、じわりと鳩尾の辺りが熱を持つ。
「そういう、正しさが、好きです」
「正しさ、」
型破りなこいつが、そんなことを言うなんて。ちゃんとしたものを引っ掻き回したくなる。そういう性分のこいつが、まさか自分の最たる特徴を好意的に捉えているとは。しかも、その正しさを掻き乱したいという意味ではなく、正しさのまま享受することが、好き、と。
言葉を探して、はく、と空気を食んだ。珍しく、侑は静かだ。畳み掛けるようなマシンガントークを繰り出しては来ない。きゅ、と唇を閉じたまま、俺の言葉を待っている。殊勝に。大人しく。静やかに。まるで別人のよう。俺ら三年が引退して、治の進路を聞いて、心境の変化でもあったのか?
……いや、拳は握りしめている。唇も、閉じているのではなく、引き結んでいる状態だ。なんだ、堪えているだけか。男子、三日会わざれば刮目して見よとは言うものの、そんな短時間で性分まで変わりはしない。
こっそりと胸を撫でおろしてから、改めて晩冬の空気を吸い込んだ。
「その正しさは、先輩後輩の関係のままやと変わってしまうものか?」
「……変わらん、と思います、けど」
「なら、付き合う必要ないんちゃう?」
「なんっ、ちゃんと考えてきたのに!」
「付き合うんやぞ」
一つ一つの音を、強調するように言い放った。途端、侑の片足がじりっと後ずさりをする。ああ、怖がられているな。けれど、ここははっきりさせておかなければならないところ。俺の「正しさ」が好きというのなら、なおさら、今、正しく伝えねばならない。
侑の動揺に気付いた上で、かつこつと地面を鳴らしながら近づいて行った。もう一歩くらい退くかと思ったが、侑はぐっと耐えている。引き結んだ唇は噛み締めるものになっているから、恐怖と戦っていることに間違いはないのだろうが。
「恋人に、なる、てことや」
「……は、い」
今度は、あからさまな単語ごとに、口にした。
付き合うということ。恋人になるということ。それを真にお前はわかっているのか。女子と派手に付き合っているようでいて、バレー一辺倒であったこの男のことだ。内実を丁寧に考え、下心を持って「付き合ってほしい」と言ったわけではなかろう。
それなら、教えるのが、先輩としてできることでは? 自分で気付くことも必要だが、色恋沙汰は何かと盲目になりやすい。他者の冷静な視点を、適度に取り入れたほうが、搾取されずに済む。
ぐん、とさらに一歩侑に近づいた。
カーディガンの表面が擦れる。体温こそ伝ってはこないものの、至近距離と表して相違ないのは確か。
すぐそばにある喉仏が、ごくりと上下した。
「あの、ち、ちかく、ないすか」
「近い? 付き合ったら、この距離感で、キスしたり、セックスしたりするんやろ」
「せ、くす」
それをお前は、わかっているのか。
付き合うのなら、恋人になるのなら、体の触れ合いは免れない。プラトニックラブなんて言葉もあるが、そんなきれいごとだけで世界が回るものか。まして、健全な男子高校生。十代男性。どうやったって、溜まるものは溜まる。発散しないといけない。もちろん、恋人がその捌け口を担わなくてはならないという法律はないが、一緒にいて、そういう状況に陥ったら、キスなりセックスなりはするものだ。するもの、だろう。
「できるん?」
問いかけながら、背伸びをした。空はすっかり濃紺に包まれている。点々と校舎内に電灯はあるものの、うす暗いことにかわりはなかった。
かといって、視界が暗闇に覆われているわけではない。侑の、ハの字になった眉も、垂れた目も、すっと通った鼻筋も、……ふっくらとした唇も、よく、見えた。
重ねるのは、実に容易い。
――一瞬の、接触。予想通り、そいつの唇は、柔らかく沈み込んだ。
「ッわ、わ、わ、わぁぁあああ!」
「うっさ」
離れたのは侑から。叫び声をあげると同時に、素早く後方に飛び退いた。ゼロだった距離は、約二メートルに。そこまで離れる必要はあるのか。ちらりと思考を掠めたが、いきなり男からキスをされたら、それくらい仰天してもおかしくない。……付き合ってくださいと言ってきておいて、その反応はいかがなものか、という思いもなくはないが、相手は侑。あの宮侑だ。片割れに言わせれば人格ポンコツの暴言クソ豚。言葉と行動がかみ合っていなくたって、仕方がないと諦めるしかない。
「だ、だって今、今、北さん、き、」
「キスしたな」
「ッ!」
暗がりだというのに、侑の顔色が変わったのが手に取るようにわかる。赤面、ではない。……蒼白に染まったのだ。
気持ち悪い。気色悪い。唇同士の接触が、こんなにも得体の知れない感触だったなんて。しかも、清廉潔白・正しさの塊にしか見えない北さんからしてきただって? なんてことだ。天変地異の前触れか。明日の天気は槍が降るに違いない。体育館の天井に穴開いてもうたら、練習できるんかな。危険てことで、中止にされそ。それは嫌や。あかん。
二メートルの距離があるにもかかわらず、そこまで思考を読み取れてしまう自分が恨めしい。それもこれも、真っ青ながらころころと侑が表情を変えるからだ。
あーあー、やはりこの男はわかっていなかった。付き合うという意味を。恋人という関係性を。
大きくため息を吐いてから、首を傾げて見せた。
「嫌やろ?」
「あ」
「ないなーて、正直思ったやろ?」
「ぅ、」
「俺もやらんかったら良かったって思っとる」
「……」
思ったままのことを告げながら侑の横を通り過ぎれば、ぎこちなく振り返る気配がした。なら、なんでやったんですか。そんな恨めし気な視線が突き刺さる。視線がうるさいとはまさにこのことを言うのだろう。
自分でもわからない。こいつ、わかってへんなと思ったら、勝手に体が動いていた。唇には、まだあのふわりと沈み込んだ感触が残っている。とてつもない違和感だ。もう離れて一分以上経つし、風にも吹かれているというのに、まるで感触が消えやしない。さらには、侑の唇の熱まで残っているような気がする。さすがにそれは錯覚だろうが、……こんなところでファーストキスを使ってしまうとは、自分も大概疲れているのかもしれない。
「これって、付き合う必要、ないってことやろ」
バス停に向かいながら、振り返ることなく告げてやれば、ぐ、と侑の喉が詰まる音がした。言い返す言葉もありません。身をもって味わってしまったせいで、余計に言葉がでてこないのだろう。
付き合ってくれと言われても、正しさが好きだと言われても、俺が侑と恋仲になることはない。
ありえない。言外に突き付けたこれは、十分返事になっているはず。
ちら、と盗み見るように背後をみやれば、侑は校舎側とも帰宅方向とも言えぬ中途半端な方向を向きながら、がっくりと項垂れていた。
「か、考え直して、きます」
「……そうしてくれ」
そこは、わかりました・諦めますやろ。上手くいかないものだと、つい唇を尖らせてしまう。
その、薄い皮膚には、まだふわりとした感触が纏わりついていた。
◇◆◇◆
大学入試の二次試験も無事終わり、あっという間にやってきた卒業式。祝辞があって、答辞があって、各クラスの代表が卒業証書を受け取って、……淡々と式は終わり、最後のHRもあっけなく終わった。そう、感じているのは、あくまで自分だけなのかもしれないが。感傷に浸っている女子は、ぽろぽろと涙を零しているし、どことなく浮足立っている男子も多い。頼まれるままに卒業アルバムに書き寄せをし、また自分のソレにもサインを書かれ、ぼんやりと時間は過ぎ去っていく。
中学の時もそうだったが、卒業は自分にとって通過点に過ぎない。長い人生、八十年とも百年ともいう線上にある一点の出来事。部活を引退したときの思い入れのほうが、まだ強かった気もする。
三年間、思い出は様々ある。捨てる予定はない。かといって、大事に大事に宝箱に入れておくだけの思い出は数える程度。来週は、大学の合否判定。自己採点の手ごたえとしては、十分合格圏内。実家から通うことは決めているから、特段準備するものはない。……ああいや、スーツか。リクルートスーツと言うのか、歳相応のスーツは買わなくては。ネクタイの結び方はこの三年間で覚えた。あとで、どこに買いに行くか親に相談しよう。下手にばあちゃんに言うと、卒業祝いととんでもない枚数の万札を準備されかねない。ばあちゃん、それ、ばあちゃんの年金やろ。ばあちゃんが使ってや。とりあえず、目先の金のことはおとんとおかんに相談する。その先、大学生になったら、バイトを始めよう。春休み中に自動車免許も取ってしまいたい。今月は、忙しくなりそうだ。
混雑を避けるためにも、しばらく教室でぼぅっとしていたら、大耳すらいなくなっていることに気付いた。これは、おいて、いかれた? いや、ぼんやりしている間に赤木の声が聞こえた気がする。それから尾白も。あえて、置いて行かれた気がしてならない。最後に俺が登場することで、後輩に圧を掛けようという魂胆が垣間見える。俺らの大将なんやから、ちょっと遅れてくるくらいで丁度ええ。ニッと悪い笑みを浮かべながらそう言う連中が脳裏を過った。
そういうことなら、もう少し、喧騒が遠ざかるのを待つか。
がらんとした教室を眺めつつ、ぺったりと頬を机にくっつけた。
「あ」
「ん?」
ひんやりとした木の感触で顔が潰れたかと思うと、廊下からぽつりと声が聞こえた。外は騒がしいが、聞き逃すほど小さくはない、声。
緩慢な動きで、顔の向きを反対にした。たちまち左頬がぺったりと潰れる感触に切り替わる。
「……北さんも、そゆこと、するんデス、ね」
「そゆことてなんやねん」
「机に突っ伏すみたいな」
「夏場はようやるで」
「俺は年中やりますわ」
「授業中とかか?」
「……まっさかあ」
「先生に目ェつけられん程度に、……もうつけられとるか、お前は」
「男バレの宮兄弟は有名ですから~」
「主に素行の面でな」
「ヴッ」
きょときょとと教室内を見渡しながら、そいつはそぅっと七組の教室に足を踏み入れた。ビクビクせんでも、もう誰もおらんよ。教えてやろうかと思ったが、こいつでも上級生のクラスに踏み入るのは緊張するのかと思うと、少し可笑しくて教えるのが惜しくなった。
くるんと背後を確かめるように侑は俺の席に近づいてくる。廊下側の席にも人はいない、というのを確かめたかったのだろう。そして、教室内にまさしく俺しかいないとわかったところで、足取りがしっかりしたものになる。
ぺたぺたと、教室の床を引っかけるように足音を立てて、ぴたり、その長い脚を止めた。ずずず、と視線だけ擡げてみる者の、机に突っ伏している状態じゃ侑の顔まで視界に入らない。せめて、机、もう一脚分、向こうに立ってくれれば、楽にその姿を見つめられただろうに。
「卒業おめでとうございます」
「……ありがとう」
視線が合わないまま、侑は定型句を吐き出した。抑揚はない。ほとんど棒読み。これがポンコツたる所以か、おめでとうと言えるだけの情緒はあると喜ぶべきか。
視線を上げ続けるのも疲れて、ぱたんと瞼を閉じた。視界が柔らかい白に包まれる。これはグレーか? 見ているのは瞼の裏だから薄い赤なのだろうが、視覚が必要とするだけの光をさえぎってしまったせいで、上手く色味を表現できない。
遠い喧騒。静かさを携えた校舎内。開けた窓からは春風が入り込む。そばに立つ男に、大した害はない。このまま少し眠ってしまおうか。
穏やかな呼吸を繰り返し始めると、おもむろに、髪に触れられた。
「北さん、考え直した結果です。」
「うん?」
うっすらと瞼を持ち上げると、こちらに伸びてきている腕だけ見える。髪を梳く指は、やけに柔らかい。優しいともいう。まるで、ボールをセットするときの指使い。俺の頭が、丁度バレーボール大だから? 丸みを帯びているのは否定しないが、バレーボールより若干小さかったように思う。
「俺と、――付き合ってください」
一呼吸おいてから発せられた言葉は、確かに俺の鼓膜を震わした。
付き合って、ください。この三か月で、三回目。三度目の正直でも狙っているのか。やけに難しい言葉を知っているこいつのことだ、その諺も知っているとは思うが、そこまで世の中甘くできていない。
というか、そもそも、だ。
ゆっくりと体を起こすと、すり抜けるようにそいつの手は離れていった。テーピングの施されていない、綺麗な、手。指先。関節は太く、手のひらもしっかりとした面積はあるが、その爪先から手首までの滑らかさは女子ですら羨むほど。
惜しいなと思ったのは、ぐっと飲み込む。代わりに、半月ほど前の蒼顔を思い起こした。俺に、口付けられて、信じられないと愕然とした、あの顔。
「気持ち悪って、思ったんちゃうの?」
「思いましたよ。ぶっちゃけ、そういうことはできません」
「……なら、付き合う意味ないやん」
「あります」
ほう、ならばその根拠は。
ようやくそいつの顔を見上げて半ば睨むように見つめると、静かに侑は息を吐き出した。体の両側に下ろした手は、きゅっとズボンを握っている。心拍数、なんぼなんやろ。試合中とは言わないが、それに準ずるくらいになっているのではあるまいか。あるいは、不意打ちで俺に声を掛けられたときくらいとか。
……こんなにビビられる先輩になる予定やなかったのにな。
「キスせえへんけど、セックスもできんけど、そばにいてほしい」
すっと息を吸った侑は、一つ一つ、滑舌よく吐き出した。かといって、大ボリュームというわけではない。教室内だけに、凛と響く声。この声なら、体育館でもよく通るだろう。ただの怒号よりも、ずっと部員の心臓に響くことだ。
背番号を、キャプテンマークを、こいつに託したいと思った見立ては、悪くはなかった。そのことに、今更安堵を覚えてしまう。
俺の明後日な思考を余所に、侑は同じトーンで畳み掛けてくる。
「なんかあったとき、いちばんに連絡したいし、されたい」
その、何かとはなんだ。事故だとか、事件に巻き込まれたとか? ついそういう物騒なことを考えてしまうが、侑としたら、バレーで結果を残した時に、いちばんに伝えたい相手であってほしいという話なのだろう。
……じゃあ、されたい、というのは? 俺から侑に連絡するようなこと、あるだろうか。正直、あるとは思えない。それこそ、俺が事故ったとか、入院したとか、その手のことくらい。だが、それを侑に伝えてどうなる。見舞いにくるくらいなら練習せえと思ってしまう。第一、人が怪我した程度で、こいつは気にかける性格か? それはそれ、これはこれとぱっきり区別して、バレーに打ち込めるに決まっている。
しばし、脳みそを働かせてから、とりあえず「事故・事件に遭った」という体で話を進めることにした。
「なあ、「なにかあったときの連絡できる関係」て、今んとこ同じ戸籍入るしかないで」
「えっ、付き合うだけやと?」
「できんな。仮に、俺が事故って意識不明の重体になったとしても、いちばんにお前に連絡がいくことはない」
「キッツ!」
ああ、良かった。連絡「されたい」のほうは、事件・事故の類で間違ってはいなかったらしい。
失礼とは思うが、自分の身に万が一のことがあったとき、こいつにはいちばんに連絡してほしくない。普通に両親が良い。十八年育ててもらって、今のところ最も世話になっていて、自分をよく知る人物。金の問題もあるしな。余計な心配を掛けたくないという意味では、ばあちゃんも二番目とか、三番目がええな。
こいつには、……ぶっちゃけ知られたくない。俺の身に何かあったとて、こいつのプレー精度への影響はないだろうが、それでもだ。なかったらなかったで、いつまでも情緒の育たん奴やなと呆れるし、ブレたらブレたで、それで生活しとるやつがなにやっとるん、と思う。どちらにせよ、良い印象にならないのは確かだ。なんなら、知られたくもない。
恋人という関係性は、感情的には強い結び付きだ。けれど、それを確実なものと証明する物は何処にもない。どれほど遠縁だったとしても、戸籍における繋がりが優先されがちだ。
侑が思うようなことは、できない。
淡々と告げた言葉は、正しく侑に届いたらしい。あわあわとしながら綺麗な手が口元や胸元をうろつく。自分の考えは甘かったと思い知らされたと実感したらしい。
「えぇ……、付き合うメリットないやん」
「ああ、ない」
即座に断言すると、半開きだった口がきゅっと閉じる。目はぱしぱしと瞬きをしていた。その目には、俺と、背後の机の群れが映っている。俺の目にも、同様に侑と教室の光景が映っていることだろう。最後の最後に見る教室が、まさか後輩の姿を伴っていると誰が予想した。自分ひとりの、静かな空間を焼きつけて去るものだと思っていたのに。
一回目は、俺のどこが好きで付き合いたいのかを問うた。
二回目は、じゃあ、恋人らしいことをできるのかと試した。
三回目は、この先も続く確かな「繋がり」を求められて、「付き合う」だけではその願いが叶わないことを、教えた。
どう足掻いたって、北信介という男と、宮侑という男が恋仲になる必要性は存在しない。これが俺にとっての最適解であり、侑にとっても間違ってはいない解だ。
まあ、苦手と思われていた自分としては、良い思いをさせてもらった面もある。俯き気味に自嘲の笑みを浮かべてから、立ち竦んでしまった侑を見やった。垂れたその目を、ちゃんと見つめる。
「ただ、……まさか、お前に、俺の正しさが好き、て言われるとは思わんかった」
「え」
「ありがとう」
「っだって、だ、って、俺はそれで、何度も助けてもろて、来た、から」
「うん。けど、正論てキツいやん。それを、良しと捉えてくれたのは、……好きて言うてもろたのは、初めて」
「はじめて」
「そ、ハジメテ」
わざと四文字だけ口調をほんのりと変えると、固まっていた侑の顔に赤みが差していく。この程度で照れるな。こっちまで恥ずかしくなってくるだろうが。そもそも、十八年と数か月しか生きていないのだ。初めての経験なんて、これからもたくさん待ち構えている。そのうちの一つ二つをお前で経験したというだけのこと。
だけの、こと。自分に言い聞かせてから、ふつふつと胸から上ってくる熱に「そこまでにしろ」と指示を送って、口元を緩めた。
「ええ思い出もらえた、てことで終わりにしようや」
な。
軽く首を傾げて見せれば、ぼんっ! と完全に紅潮した侑が天井を仰いだ。その両手は自分の顔をしっかりと覆っている。くぐもった「もぉおお」という牛の鳴き声は無視することにしよう。
さて、外の雑踏も落ち着いてきた。そろそろ、この学び舎を去ることにしようか。離任式には顔を出すつもりだから、最後というわけではないけれど、教室に入れるのは、今日が最後。バレー部の連中は、待ってくれているだろうか。侑がここにいるのを思うと、「すんません、ポンコツが出てくるまで待ってもろていすか」と引き留められている気がする。逆に「もうちょいで北も出てきよると思うから、すまんなあ」と言う同級生の顔も浮かぶ。新旧主将がいないとなったら、送る言葉も送られる言葉もかけづらい。
そろそろ、行こか。小さく口を動かしてから、腰を浮かした。
「~~ッ北さん!」
の、だが、中腰でキープすることもできずに、硬い椅子にどすんと戻ってしまう。
なんてことはない。侑が、俺を挟み込むように俺の机と後ろの席の机に手をついたからだ。バンッと空っぽの机は大げさなくらい音を響かせる。
つい、ズ、と椅子ごと後ろに逃げた。しかし、その分侑はじりじりと迫ってくる。顔を赤くしたまま、その割に、真剣な、目をして。
「っんやねん、いきなり、つか近」
「き、たさん」
「あ?」
「もっぺん、キスだけしていすか」
「はあ?」
許可を求めながらも、侑はなお距離を縮めてくる。こっちもズルズルと椅子を退きたいところだが、どこまでさがってもこいつは迫ってくるだろう。なら、椅子を倒して立ち上がるか? そうしたら、がっしりと腕を掴まれてしまいそう。片手でボールを掴める大きさの手。俺より、一回り大きいだけとはいえ、身体能力じゃこいつに敵わない。捕まることは、目に見えている。
気付くと、鼻先がぶつかりそうなところまで、侑の顔は迫ってきていた。日本人の平均より、彫りが深いというか、それぞれのパーツがはっきりとしている。鷲鼻というほど曲がっているわけではないが、すっと通った鼻なんかは、欧州の人間らしさも醸し出していて、ああ、だからこいつはよく「かっこいい」と言われるのだなと、妙な納得を覚えた。
じんわりと、侑の熱と、汗の匂いを感じる。穏やかに窓から入ってくる暖かな風は、そよそよと耳の傍の髪を揺らした。
「あんときは北さんからやった」
「あんとき、って、この間の?」
「はい。でも、俺からなら平気かもしれへん」
「……俺は、嫌なんやけど」
「あんときは、俺も気分どん底でした」
「なら、もっぺんやったとこでどん底にかわりないやろ」
つん、と、ついに鼻先がぶつかった。近すぎて、目の焦点を合わせていられない。いや、まったく合わせられないわけではない。だが、より目と言うか、目に力が入ってしまう。目を見張っているから、そう、思うのかもしれない。
気持ち悪い、と思ったはずの行為をもう一度やろうと思うなんて、お前はどういう趣味をしているんだ。侑の性格を思えば、仕返しとして茶化しがてらかましてくることをはあるかもしれないが、二人きりじゃ突っ込みを担当してくれる奴はいない。
ああいや、もう、いい。こいつの目を見たら、わかる。茶化すつもりなんかない。仕返しでもない。ただ、前回は俺からやった。それも一瞬。男に触れられたということしか付き付けなかった。だから、改めて、相手が北信介と認識したうえで、やってみたい、という話。……どうしてこいつの考えていることが手に取るようにわかってしまうのだろう。わからなかったら、ないやろと強引に一刀両断できるというのに。
ひゅっと息を呑めば、顔を赤くしたままの侑はへにゃりと顔を緩ませた。
「この間は、ほんまに一瞬やったでしょ」
「……ん」
「でも、北さん、てわかって、その顔、見ながらやったら」
「あー、もう、もうええ、それ以上、言うな」
「北さんの笑ったり照れたりする顔、見られるんやったら!」
「聞けや」
「……どん底、には、ならんやろって」
フッフ。聞き覚えしかない笑い声と同時に、そいつの吐息が唇にかかった。触れるまで、もう一センチと猶予はない。ここで、侑が見たコトのあるような呆れ顔を浮かべたら、諦めてくれるだろうか。……ない、な。こっちだって、顔を赤くしてしまっている。頬が火照ってしまっているのだ。この時点で侑は満たされつつある。
その上でキスをしたら、どんな顔をする? 去年、ユニフォームを貰ってボロボロ泣いた時も、ギョッとした顔をしてこっちをしばらく見ていたし、春高のあと、妙にすっきりした心地でカラカラ笑っていたらそれはそれでじぃっと見つめられた。機械にすら思える俺の表情の変化が、楽しくて仕方ないのだろう。新しい玩具を与えられた子供のよう。実際、子供だ。興味があることにしか、一生懸命になれないのだから。そしてどこまでも、その先にある結果を求め続けるのだから。
気付くとため息が零れていた。侑の目を、見ていられなくなる。ふ、と、伏し目がちにして、ため息を落とす。そこから、一拍おいて、小さく、本当に小さく呟いた。
「一回な」
「当たり前やないすか」
「歯ぁぶつかった、もう一回はナシやで」
「……き、気ぃ付けます」
小さく息を吸い込んでから、完全に目を閉じた。
ほぼ同時に、柔らかな熱が触れてくる。歯をぶつけるな、と言ったのもあって、無闇に押し付けてくることはない。ゆっくり、じんわり、熱を共有するように唇を当ててくる。
「ふ」
三秒経った。五秒経った。七秒経って、もう十秒。それでも侑は唇を離してはくれない。やんわりと俺の二の腕を両方ともとらえて、ぎゅう、と唇を重ね続ける。まさか舌でも入れようというのか。そこまで、許したくはない。許されたら、自分の貞操観念がガラガラと崩れてしまいそう。
まだ、するのか。
恐る恐る瞼を持ち上げると、いつもの重たそうな瞼をした侑の瞳と視線が重なった。まさか目を開いているとは。いや、色んな顔を見たいと言っていたのだ、目は、開けていてもおかしくない。そう思っても、つい、目を見開いてしまった。たちまち、侑はきゅうと目を細めた。
瞬きをすれば、睫毛か擦れる。鼻先は擦れたまま。唇はぴったりと重なっている。掴まれた二の腕は、ブレザー越しなのに、じんじんと熱を持っている。息は、もう、限界。頭に酸素が回らない。思考が、じりじりと溶けていく。このまま唇の力を抜いたらどうなる? そんなの、決まってる。
「は、」
微かに、唇に、隙間ができた。狙ったかのように、侑の舌はその隙間をチロリと舐める。
――けれど、それだけだった。
「あー……」
ふっと、圧から解放された。眼前にあった熱が遠ざかっていく。二の腕も離され、一歩、侑は下がる。お互い、呼吸のしやすい距離。中腰を続けていた侑は、ぼんやりと顔を火照らせたまま、しばらく俺の唇を見つめていた。
ふわりと、開けた窓から春風が入りこむ。穏やかでぬくもりすら感じたその風は、火照った顔を冷やすには丁度いい温度をしていた。髪が揺れる。侑の、前髪も、ふわりと膨らむように揺れた。
と、視界から侑が消え去った。
「んんん~!!」
ハッと視線を下げれば、ガラ悪くしゃがみ込んだ侑が両手で顔を覆っている。牛の次はなんだ。サイレンの真似事か。動揺したいのはわかるが、その反応をしたいのはこっちだって一緒。第一、キスしようと提案してきた当人が照れてどうする。
ささやかな苛立ちと羞恥を絡ませながら、しゃがんだ足の、つま先部分を踏みつけた。
「おいこら、たっぷり三十秒やったんやから感想の一つでもおいてけや」
「ギャッ、やっ、あのッ!?」
ばっと顔を上げた侑はほんのりとまだ顔を染めている。だが、幾らか落ち着いてきたのだろう。その赤みは「なんでもない」で誤魔化せる程度の顔色になりつつある。一方自分はどうだろう。表情筋が硬いのは知っているが、一度動くとしばらくは言うことを聞かなくなる。と言うことは真っ赤で情けない顔をしたまま? 確かめるように自分の口元を触ってみるが、緩んではいなかった。それに、手よりも顔の皮膚は冷たい。侑が呻いている間に冷静になれた? それなら幸いだが、鏡がないことには正しく確かめることはできない。
「正直、っすね」
うら、と侑が目線を泳がせた。
何を言いだす。未だ目元以外を両手で覆っているせいで、表情が上手く読み取れない。下手なことを言われて、粘られたら? そんなことありえないが、……念を入れたって、良いだろう。
侑が続きを紡ぐ前に、口を開いた。
「俺はない」
「ブフッ」
手で遮られていたのもあって、侑の噴き出す声は見事にくぐもっていた。
あまりにも滑らかに吐き出された否定の言葉は、侑にしかと刺さったらしい。ちらりと俺を見つめて、そろ、と後ろめたそうに目をそらして、すぐにまた俺のほうを見上げてくる。
じ、と目があって三秒。内緒話をするような掠れた、けれど聞き取るのに支障はないくっきりとした声色で、侑は言った。
「実は俺もです」
「ならなんであんな長かったん……」
「あー、北さんの目ぇ、こない近くで見る機会、ないんやろなあって思ったら、……つい?」
「目玉くらいいくらでも見したるわ」
「あっわっ怖い! その! その目は怖いッ!」
宣言通りカッと目を見開いてやれば、ギャッと喚きながら侑は尻もちをついた。そのまま、いつものぎゃんぎゃんと喚きながら自分の肩を抱き、キュッとコンパクトに長い両脚を畳む。
「俺が言いたいのは、あの距離で見るつー意味、で、あ~もう、……はぁー」
「ため息吐きたいのはこっちのほうや」
「北さんもう吐いてはったやーん」
「出てくるもんはしゃーないやろ」
そもそも、お前の突拍子もない行動を見ていいるとため息だって吐きたくなる。心躍るのはバレーの試合中だけ。練習試合? あれはない。練習してへんことをいきなり実践ですな。何度他の選手と衝突しかけたことか。だってかっこええやんか! という主張は子供染みていてもう聞き飽きた。なんやねんこの十七歳児。治曰くの、試合になると精神年齢五歳下がるというのは、適切な表現だ。十二歳児と言われれば、まだ納得できなくもない。……近頃の小六て、こんな幼いんやろか。親戚は自分より上か、生まれたばかり。あかん、わからん。
しゃーないの言葉通り、さらにもう一回ため息を落として、椅子から立ち上がった。
それから、床に胡坐をかいている侑に手を伸ばす。意図は正しく伝わったらしい。すぐに侑の手が乗り、ぐっと俺が引っ張る力にあわせてその腰を浮かせた。
しゃんと立てば、こいつの背は俺より十センチ弱高い。……いや、十センチ差になっているかもしれない。あっという間ににゅるにゅると身長を伸ばしやがって。重ねてため息を吐き出したくなってくる。
何を言うでもなく鞄を手に取り、卒業証書を小脇に抱えれば、一歩先に侑が教室の扉に向かいだしたした。
「……インハイ、見に来てくれます?」
「どこやっけ、九州? 行けたらな」
「つか、北さん神大ですよね、予選は来てくださいよ!」
「ああ、行ったる行ったる。生半可なことしとったら野次飛ばしたるわ」
「こっわ!」
振り返ることなく尋ねられたソレに、ツレない返事をしてやれば、侑は戸口ところで綺麗なターンをして見せた。先ほどのように、怖いと言いながらも顔にはニパッと笑みが浮かんでいる。いい笑顔しよって。
つか、ユースの最終メンバーにも残ったんやろ。今月から合宿あるんちゃうん。ユースと部活と、どっちかを疎かにすることはないと思うけど、体壊さんようにな。……こんなこと、言うだけ無駄か。こいつなら、大丈夫だ。なんせ、孫の代まで自慢できる後輩になると啖呵を切ったくらいなのだから。
「じゃ、そろそろ行こか」
「ッス」
さて、男子バレー部は残ってくれているだろうか。いい加減、諦めて帰っている奴もいそうだ。あるいは、治の尾白に対するダル絡みのおかげでまだたむろっているか。
こっそり盗み見た後輩の横顔は、ついこの間見たときよりも、精悍に見せた。
男子、三日会わざれば刮目して見よ。あの諺は、やっぱり間違っちゃいないのかもしれない。
◇◆◇◆
昇降口を出た瞬間にやっとでてきたかと言わんばかりに囲まれた。何をしていたんだという文句に主将の引継ぎと答えれば、二年は揃って「ああ、いつもの説教か」と顔をニヤつかせる。即刻、侑は否定を入れるが、俺が特に何も言わないため、あれこれ諭され説かれ暴走するなと釘を刺されたものと勘違いされている。そりゃあそうだろうな。普段の行いを思えば、致し方あるまい。
それからあれよあれよと餞別の花束と色紙を渡され、現役生一同がありがとうございましたの声と共に直角に腰を曲げる。最敬礼の意、ということで、受け取っておこう。そんな大したことはしていない。ほんの少し、ブレやすい二年の手綱を握っていただけ。とはいえ、あれこれ諫言を挟むのは無粋。ありがとうと一つ言って、しばらくもみくちゃにされた。
そうして、最終的に双子に引きずられていく尾白を見送ってしまえば、帰り道は必然的に一人になる。萎れるのを回避した花束は、白色を中心に纏められていた。花束自体はランダムに卒業生に渡していたが、これは北さん! と残していてくれたらしい。白、か。黒のチームにいた、正しさの、白? 悪ふざけもソコソコしたのにな。
ため息とも、ただの呼気ともつかない息を吐き出せば、もう家まで辿り着いていた。
「ただいま」
「おかえ、……あらあら信ちゃん、どないしたん、目え真っ赤にして」
からからと引き戸を開ければ、見慣れた景色と匂いに包まれる。出迎えてくれた祖母に花束を頼みながら苦笑いをすれば、閃いたように手を叩かれた。
「あっ、今日卒業式やったもんなあ」
「うん」
「あっという間やったねえ」
「……うん」
靴を脱いで、身を翻し揃えて置く。三年間。俺にとってもあっという間だったが、ばあちゃんにとってはもっとあっという間だったことだろう。なんなら、ついこの間、産まれたばかりやったのに、なんて言うくらいだ。
ほう、と息を吐き出して、ヒリヒリする目元をそっと押さえた。
「目一杯、青春、してきたわ。勉強も、部活も……、」
恋愛、も。
さすがにその一言ばかりは、口にできなかった。
この青い春の記憶は、大切にしまっておいて、命尽きるまで閉じ込めておかなくては。あの男に、幸せやったろ判定を求められて、そのから、この身が息を引き取るまで、ずっと、ずっと。