三秒間のプライド

 座薬、というものをご存知だろうか。
 なんて問いは、愚問でしかない。知っている者が大半に決まっている。
 座薬、とは。肛門から入れる薬剤のこと。正式な定義は異なるのかもしれないが、医療従事者ではない限り、これさえ知っていればきっと十分。飲み薬がダメとか、逆に吐き気がすごいとか、すぐに効かせなくてはならないとか、おそらくそんな理由でよく子供に処方される。そして、主に母親の手によって捻じ込まれるのだ。弾丸のような形状をしたアレの、尖ったほうから尻穴に、ブスリ、と。その激痛たるや、思い出しただけで寒気が走る。それもそのはず。出口にあたる器官から、入れるのだ。機能に反している分、痛くないわけがない。
 そのうち、歳をとるにつれて、大人になるにつれて、座薬とは疎遠になっていく。少なくとも自分は、小学校に入る前を最後に、座薬を処方されたことはない。今、二十六歳になるまで、なかった。
 なかったのだ。
 なのに、どうして。
「なぁああんでこの歳で座薬使わなアカンのですか!」
「処方されたんやから使うに決まっとお」
「いーやーでーすーぅ!」
「喧しい、座薬が出されたてことは、これがいちばん適切て診断されたんやろ。はよケツ出し」
「うぅう、こないな時まで正論差し向けんといてくださいよ、俺ビョーニン!」
「そんだけ騒げりゃ大丈夫やろ、ほらケツ」
「つか、さっきからケツケツ言うのやめてもらえません!?」
「ケツはケツやろ、尻て言うてほしいん? それとも、肛門?」
「ンァアアアア」
 そういうことではない。が、だんだん、ケツと言われようが何と言われようが、もはやどうでも良くなってきた。
 俺の悲鳴を聞いたって一切表情を崩さないこの人。スンッという無表情。見事なまでに無表情を取り繕っている。つまるところ、この人は俺に座薬が処方されてしまった状況を、そりゃあもうめちゃくちゃ楽しいんでいるのだ。もしかすると「ついに侑のケツを好きにできる時が来た」くらい考えていたって……、流石にそれはないか。たかが座薬を入れる程度で「好きにする」と表現するのは相応しくない。だって、普段の俺は文字通り好きにさせてもらっているわけだし。
 話が逸れた。とにもかくにも、この人の手から座薬を取り返さなくては。どうせ使わなくてはならないというのなら、自分でちゃっちゃと済ませてしまいたい。わざわざこの人の手を煩わせたくはない。もとい、北さんに尻を向けるという情けない真似をしたくない。あ、ちゃうで、北さんが俺に尻向けてくれるんはこう、恋人としての愛故のものであって、決して醜態ではない。ちなみに、その愛が俺には無いのかと聞かれると、……なくはないが、ほとんどないようもの。できることなら尻を許すことはしたくない、と、思う。それだけはアカン。万が一、北さんがどうしても俺のコト掘りたいて言って、いっぺん掘らんと別れる、復縁もせんて言われたら考えるかもしれへんけど、その時はその時でどうにか掘られんで済む方法を捻り出す気がする。
 ひとまず、北さんの指先にある薬剤をキッと睨みつけた。相変わらず、その人は無表情。けれど、大真面目に楽しんでいるのが手に取るようにわかる。もうこの人とのと付き合いは十年近くになるのだ。このうち、恋人として過ごすようになったのはここ二年のこと。おかげさまで、北さんの微細な表情も読めるようになった。正直、読めないままブン回されていた頃のほうが幸せだったような。
 やめよう、そんな「もしも」の話は。
 今は、座薬を取り戻すのが先。何としても、自分の尻を守らなくては。
「いぃい嫌です!」
「我儘言いな、ほら、少しだけ我慢したら終わるんやし」
「なぁんでこういうときに限ってチョット優しそうに言うんですか、ずっるい!」
「……やさしくしたるよ?」
「ギィヤァアアア」
「何がギャアや。しょっちゅう似たようなこと言うては、えげつないモン俺のケツに捻じ込んどるやろ」
「そうですけど、そうなんですけれどもォ!」
 それはそれ、これはこれというものでありまして。
 そう叫んだ瞬間に、ンなわけあるかと一蹴された。その上で、ケツを出せの一点張り。
 もはや尻を向けるしかないのか。北さんに、尻を向ける、なんて。
「~~ッ嫌やあ、北さんにだけは向けたないぃいい」
「人の尻は好き勝手しといて……」
「やって北さんのおしりはむちむちでえっちでかわええもん!」
「野郎の尻になんつー形容してん。ちょっと我慢したらええだけやろ、ペロッとズボン下ろして、ケツ向けて、三秒あったら足りるて」
「その三秒がアカンのです!!」
「そういやお前、初めてンときも三秒持たんかったしなあ」
「ヴゥウンッ、今その話します!?」
 悲しいことに、突然北さんが発したソレはまさしく事実であって、否定の余地はない。だとしても、ここで持ち出す話ではないだろうに。先ほど俺が、それはそれ・これはこれと言ったことに対する意趣返しというやつか。
 北さんに尻を向けることとは全く別の羞恥が込み上げてくる。あんなの一生の汚点だ。この俺が三擦り半で達してしまったとか、状況を把握した瞬間の北さんの呆けた顔とか、そこからの破顔だとか、対して自分は三日ほど落ち込んで部屋の隅でじめじめとキノコになっていたとか。一つ浮かべば次々と記憶が思い起こされていく。それどころじゃないってのに。
 意識を逸らそうと心がけてみるが、熱に浮かされた脳みそはさっぱり言うことをきかない。むしろ、いっそう熱が上がってきたかのような心地になってくる。額に張り付けた冷却シートが、汗で浮き始めた。鼻の下を伝う鼻水もいい加減どうにかしなくては。充血のせいか、涙が溜まっているせいか、何故だか染みる目も閉じてしまいたい。けれど、額を身じろぎした瞬間、ティッシュに手を伸ばした途端、瞼を落としたら最後、ぐるんと体をひっくり返されるのが目に見える。尻を剥き出しにされてしまう。それが嫌で、みっともない顔を晒しながらこの人と対峙しているのだ。
「……とりあえず、鼻噛んだらどうや」
「ぞんなごど言うで、座薬ぶっさすんでじょ!」
「呂律もぐっちゃぐちゃやん。観念しぃや」
「いややぁぁああぅワギャッ!?」
 天井に向かって叫びをあげた。瞬時に気付く、北さんから目を離してしまった、と。あんなにも警戒していたのに。
 案の定、首を正面に戻した頃には俺の体はひっくり返されていた。まさに「あっ」と言う間。この人は一体どこにそんな力を隠していたのだ。これでも俺は、七十六キロあるのだが。あまりにもカンタンにひっくり返されてしまった。それだけ俺が弱っているということ? 体幹が狂ってしまっているということ?
「アッ、ァアーッ!?」
 混乱しているうちに、寝間着のゴムに手を掛けられた。咄嗟に押さえようとするが、北さんの動きが早すぎて、ぺちんと自分の尻を叩くに終わる。なんてむなしい響きなんだろう。ぺちん。指先に、汗ばんだ自身の肌の感触がした。ついでに、外気に触れた部分がひんやりとする。
 ああ、ああ。ついにこの人に尻を向けてしまった。晒してしまった。悔しさやら切なさやらで涙が溢れてくる。いや、これは熱のせい?
 もうどうにでもなれ。ズビッと鼻水を啜りながら、シーツに顔を突っ伏した。たちまち、顔からにじみ出た体液が吸われていく。ぐずぐずと、埋めた辺りが濡れていく。気持ちが悪い。汗に涙、鼻水・涎と吸い取られているのだ。凄まじい勢いで濡れるに決まっている。俺、このシーツの上で今日寝るんか。嫌やなあ。でもしゃーないよなあ。ああ、もうこの行き場のない情けなさをどうしよう。
「ヴッ」
「入れるで」
「ヴヴヴ」
「……力むな、入らへんやろ」
 せめてもの抵抗にとケツに力を込めれば、尻タブの片方をぺちぺちと北さんに叩かれた。最悪や、ついに尻を叩かれてしまった。もうアカン。立ち直れへん。終わった。何が終わったのかと聞かれると、よくわからないが、「何か」が確かに終わったのだ。
「侑」
「ヴぅ……」
「すぐやから、な?」
「ぎだじゃん」
「ん?」
 なおも北さんはぺちぺちと尻を叩いてくる。あやしているつもりなのだろうか。羞恥が増す一方だからやめてくれと主張したいところだが、突っ伏しているせいで、それから熱で思考を上手く纏められないせいで良い言葉を閃けない。やめてください、の一言すら舌に乗らないのはどうかと思うが、実際体が言うことを聞かないのだから仕方あるまい。
「がぜなおっだら」
「おん」
 絞り出した声は、鼻声の上にくぐもっている。聞き取りにくいことこの上ない。けれど、北さんは俺の尻をぺちぺちしながら相槌を打ってくれる。いや、そのぺちぺちは止めてほしいんすけどね。なんなら、俺の尻ぺちぺち叩くの気に入ってるやろ、あんた。ああもう。今後、うつ伏せになった時は気を付けよう。きっとこの人、俺のケツ、ぺちぺち叩いてくるだろうから。
 ぐり、と振り向くように首を捻った。しかし、シーツに埋まっていた状態から横向きにするのがせいぜい。俺の尻側に座っているだろう北さんを視界に入れることはできない。目を合わせることが、できない。
 まあ、いいか。散々みっともないところを晒したのだ。今更、何をしようとも、北さんがこれ以上呆れることはあるまい。
 自棄な気分も込めながら、痛む喉を震わせた。
「いっぱいえっぢさしでぐだしゃい」
 ようやく絞り出した懇願がソレかいッ。明暗さんとアラン君と治の声がサラウンドで脳内に響き渡る。大事なことやん。俺の尻を預けるんやから、北さんの尻だって好きにさせてほしい。傍から見れば既に好きにしているようなものかもしれないが、一応限度は弁えているのだ。当然だろう、現役スポーツ選手の体力と、一般的なサラリーマンの体力とを同列に扱って良いものか。加減しないと、北さんの足腰が使い物にならなくなる。……本人曰くとしては、頭のほうが狂いそうになる、とのことだから、全身がダメになると考えて良いのかもしれない。
 そんな普段を踏まえての、「いっぱい」させてほしい。限界ぎりぎりまで、スケベなことさせてほしい。イカれる寸前まで、ハメ倒したい。
 熱で浮かされていなかったら、別の要望を言っていたかもしれないが、尻を向けてしまった辱めの代償はもうこれしか思いつかない。思いつかないのだ。アホか。好意で座薬いれたるのに、なんでそないな目に遭わなアカンの。そう返されたって、仕方がない。し、そう返されたら、全く以てその通り、言い返す言葉等ございませんとひれ伏すしかない。
 アホなこと口走ってもうたなあ。ずべずべと、顔をシーツに押し付けるふうに戻した。
――ええよ、好きにし」
 と、微かに、鼓膜が震えた。
 鼻水のせいで遠くなっている耳に、空耳とも思えるような言葉が、入り込んだ。え、嘘。なんて。いや、聞こえた。でも、そんな馬鹿な。
 なけなしの力を振り絞って、首を捻った。
「ぶぇ?」
「よっ」
「アァッ!?」
 その、瞬間。
 ――尻穴に、衝撃が走った。ずぷんと、数センチの何かが埋まる感触。痛い。非常に、というほどではないが、痛い。地味に痛いと言えば良いのだろうか。ジンジンする。それになにより、尻穴が広がっている違和感。この違和感が凄まじい。太い便を捻り出しているときのような、でもあれは排出するほうだから、この手の違和感は長くは続かない。ただただ、尻に、不快感が佇んでいる。
 もしや、これは、座薬を捻じ込まれた?
 やっと状況を把握したところで、ギュッと強引に下着ごと寝間着のズボンを腰まで上げられた。
「わっ、わっ!」
「よし」
「よし、て、アッなんかケツ、ケツやばい」
「漏らすなよ」
「漏らしませんよ!?」
「まあええわ、こっちの布団来れるか?」
「へ、え?」
「そっち、汗でシーツもタオルケットもぐだぐだやろ?」
「ぁ、あ、ふぁい……」
 咄嗟に尻穴の辺りを押さえながら起き上がると、すぐ隣にもう一枚の布団が敷いてあった。客用布団、ではない。普段北さんが使っている布団だ。どういうことだ、ここに寝ろというのか。そしたら北さんはどこで寝るのだ。それこそ、客用布団で寝るのか?
 もにょもにょと唇を波打たせながら移動を終え、ぽすっと頭を枕に預けた。すると、北さんの手がこちらに伸びてくる。その指先は、剥がれかけた冷却シートを抓んだ。ぺろんと簡単に剥がされたソレは、そのままゴミ箱に放られる。ほけ、と目で追いかけていれば、今度は顔面に蒸しタオルが降ってきた。熱すぎず、適温。揉むように顔と首の汗を拭われると、なんだかさっぱりする。最後にティッシュを差し出されたので、ぶずーぶずーと鈍い音を立てながら鼻を噛んだ。それらのちり紙も奪い取られてゴミ箱に入れられる。
 そして、顎の下まで布団を掛けられると、ふわり、好きな人の匂いがした。
「なに呆けてんねん、はよ寝ろ。家んことはしといたるから」
「はぁ、」
「……そんな痛かったん、座薬」
「や、違和感、は、ありますけど」
 それほど痛くは、ない。ビビっていたほど、痛くはなかった。それもこれも、北さんのおかげ? 案外、北さんって掘るのも上手い? ……熱が出ているときにこんなことを考えるのは止めておこう。ただでさえ悪い頭がいっそう混乱の渦に取り込まれる。
「ちゃんと寝て、飯食って、はよお治せ」
 淡々とした言葉と共に、額が冷たさに覆われた。新しい冷却シートを貼られたらしい。剥がれかけていた先ほどまでのと違って、とても冷たい。冷たくて、気持ちが、いい。
 自然と、安堵のため息が漏れた。
 そんな俺に釣られたのだろうか、北さんの口元も、僅かに綻ぶ。
――で、しこたまセックスするんやろ?」
 カッと頭に血が上ったのは、気のせいではあるまい。何も言い返せないまま、はくはくと口を動かしていると、両目を三日月のように細めた北さんが、ふんわりと俺の頭を一撫でした。
 たった、それだけ。その一つの動作で、俺の意識は夢の中へと落ちていく。一矢、報いるくらいしたいのに。唇の動きも愚鈍になっていくし、瞼の開きはどんどん狭まっていく。
 敵わん。この人には。でも。でもでも、でも。
(風邪治ったら、覚悟しといてくださいよ)
 どうにか念じたところで、俺の意識はぷつんと途切れた。
 もちろん、尻の違和感も、気にならなくなっていた。