ぼくのおうじさま
家に帰ると、見覚えのない瓶が目についた。
この玄関には、特に飾りだとかは置いていない。せいぜい、たまに、思い出したかのように消臭剤を置く程度。棚というか、物置と言うか、そんなスペースの下が靴箱になっているのだが、その靴箱には靴箱用の消臭剤が置いてある。だから、棚に置かれる消臭剤も気休めというか、なんとなくというか、本当に気分で置いたり置かなかったりされている。そんな、ろくに使われていないスペースのくせに、埃を被っていることがないのは、あの人の習性によるところが大きいだろう。もし、自分だけの住処だったら、うっすらと白くなっていたに違いない。
そんな、我が家の玄関、真っ先に目がつくスペースに、ちょこんと置かれた瓶。下にはコースター程度の大きさの布が敷かれている。きっちりと蓋をされたそれは、持ち上げたところで液漏れする気配はない。代わりに、透明な液体に浸かった推定植物がゆらゆらと漂っていた。なんだっけ、こういうの。最近流行りの。……最近、というほどでもないか、こういう瓶詰めの花のインテリアは数年前から目にしている。
なぜ、こんなものがあるのだろう。あの人の気まぐれ? でも、こういうインテリアにはあまり興味がなかったと思う。本だけは躊躇いなく買うから、棚はぎっちりしているけれど、他は最低限。ミニマリストただし書籍は除く、という感じ。かくいう自分も、物は最低限で生きている。あれこれあっても、使わない。というか、代表シーズンとリーグシーズンとを交互に繰り返しているせいで、家にいるより、日本中ないし世界中を飛び回っている時間のほうが長いのだ。そのせいで、自然と自分の物は少なくなった。他の選手も、似たようなもんだろ、きっと。
とん、と瓶をコースターの上に置いて、靴を脱いだ。忘れずに揃えて、ダイニングにつながる扉を開ける。たちまち、ふんわりと味噌汁の匂いが漂ってきた。
「たーだいまあ」
「おかえり」
振り返りもせず、その人は返事をくれる。いつものこと。火を使っているから、あるいは包丁を持っているから、わざわざ振り返ってはくれない。そうじゃない、盛り付けをしているようなときはこっちを見てくれることもあるけれど。今は、ガスコンロの前に立っているからかな。
部屋の隅に鞄を置きつつ、ちらりと食卓を見やった。
と、そこには、またもや、花。こっちは、瓶詰めではない。背の高いガラスコップに、一輪の花が生けられている。真っ赤な、花だ。俺だって知っている。薔薇だ。これは、薔薇の花。これで間違っていたら恥ずかしいコトこの上ないが、この形は薔薇だと思う。薔薇のそっくりさんとかという冗談はやめてほしい。
どうしたんすか、これ。あと玄関のアレも。
そう尋ねたいところだが、手洗いとうがいを済ませないと、その人は間違いなく返事をくれない。意識だけ食卓の花に残しつつ、洗面所に向かった。ざっと水を出してざっくり両手を濡らす。一旦水を止めたら、ハンドソープを二回プッシュ。この「一旦水を止める」と言うのが大事。この程度。出しっぱなしでも節水に繋がるものかと思うこともあるが、あの人のキリッとした目には敵わないのだ。靴を揃えるのと一緒。あの人と過ごすようになってから染み付いた俺の習慣。手首まで覆った泡をきっちり洗い流したところで、今度はうがい。毎日取り換えられるタオルで手を拭いたら、やっとダイニングに戻ってこられた。
そのうちに、北さんは夕飯の準備を少し進めたらしい。テーブルの上には茶碗と箸、それからたっぷりの千切りキャベツの上に乗った生姜焼きが置かれている。ちなみに、薔薇の花は、置かれたまま。
今なら、もう尋ねても良いだろう。冷蔵庫から神宗の佃煮を取り出しつつ、ガスを消したその人を見やった。
「どうしたんすか、アレ」
「アレ?」
「花。玄関と、あとテーブルの上」
「ああ」
適当なところにタッパーを置けば、それとなく北さんは花をテーブルの端に寄せる。そして、花が置いてあった位置に鍋敷きを置いた。ソコに味噌汁の鍋置けばいいんすね。コンロの上に乗ったソレをひょいと持ち上げれば、場所を空けるようにその人はテーブルから避けた。
「今日ホームセンター行ったんやけど、」
「え、北さん今在宅勤務すよね。サボりすかあ~」
「あほ、昼休みに行ったわ」
「冗談ですって。……てか、それやったら、飯食いました?」
「……で、買い物帰りに、目について」
「聞いてます? 飯、昼飯、ちゃんと食べたんすか」
「一口二口食ったわ」
「それ食ったて言いませんて」
話題があちこちに飛ぶのはいつものこと。最終的に、両方の聞きたいことがすっきりすればいいことになっている。順序通りに話せと言ってこないのは、北さんが諦めたからなのか、順応してくれたからなのか。どっちであれ、好き勝手話をしていい人に北さんがなってくれたというのは嬉しい限りだ。
お玉とそれを置く小皿もテーブルに載せれば、北さんは冷蔵庫から大きなタッパーを取り出す。多分、昨日の煮物だ。蓋の中央にある栓を緩めてレンジの中に放り込む。オートではなく、それなりにタイマーを設定するのは、この人らしいと思う。
「で、なんやったっけ、花?」
「そう。花。珍しいやないですか」
「あー、まあ、うん」
「うん?」
「玄関のは、ほんまになんとなく。半額やったし、玄関寂しいし、春なるしなと思て買った」
「半額て、それ季節外れなんちゃいます?」
「ええやろ、別に。桜色っぽかったし」
「うそ、あれピンクなん?」
「ピンクやろ、何色に見えたん」
「や、電気付けへんかったから、色までは」
「ピンク色、しとるで。明日確かめてみ」
「はぁい」
レンジのヴーンという音を聞きながら、食器棚から丁度良さそうな小鉢を探す。これは、大きい。こっちは、小さい。あれ、いつも使っとるのどこや。
「下の段、の奥」
「あ」
「……お前の身長やと探しにくいな、その段」
「や、北さんが取り出しやすけりゃええと思いますけど」
俺、そんなにこの家おらんし。という言葉までは付け加えないでおく。だって、むなしいから。折角一緒に暮らしているのに、一緒に過ごせる時間は酷く限られている。というのを、声にして実感したくない。
屈みながらごそごそと目的の器を取り出していると、チーンッと耳につく高音が響いた。北さんを横目で見ると布巾を手にタッパーを取り出している。一度平らなところの置いて、蓋を開けると、ふわっと湯気が立った。十分に温められたらしい。
「これでええ?」
「おん、ありがとう」
「いえ、ぜんぜん。……で」
「で?」
「あの薔薇は?」
「薔薇?」
「そのテーブルにある、薔薇」
薔薇、ですよね。これで薔薇ではないと言われたらどうしよう。めちゃくちゃ恥ずかしい。内心とくとくと心臓を逸らせながら、北さんの言葉を待った。しかし、菜箸を持ったその人はなかなか口を割らない。淡々と、器に煮物を移していくばかり。にんじん、しいたけ、たけのこ、ごぼう、それから鶏肉とさやいんげん。一日経っている分、彩はいまいち。でも、味は染みているに違いない。ほんのりと、口内に唾液が滲んだ。
「……星の王子さまて知っとる?」
「へッ?」
そうしてタッパーの中身を二つの器に盛り終えたところで、やっと北さんは口を開いた。不意打ち気味というのもあって、俺は素っ頓狂な声をあげてしまう。そんな俺を一瞥した北さんは、空になったタッパーを流しのたらいに入れた。水道のレバーをあげて、半透明のソコにどうどうと水を流し込んでいく。
「その様子やと知らんみたいやな」
「た、タイトルくらいは知ってますよ」
「……その童話はな、」
たらいの中に水が満ちたところで、キュッと水道の音が止まった。それとなく、俺は腕を伸ばして換気扇を止める。ダイニングに漂うのは、冷蔵庫のヴーンという唸りだけ。
ぽつぽつと、北さんは童話のあらすじを話し始めた。
飛行士の「僕」が、砂漠に不時着したところ、小さな惑星からきたという王子さまに出会う。その王子さまは、自分の星にいる薔薇を随分と大事にしていたらしい。けれど、あれこれ我儘を言う薔薇に困って、喧嘩をしてしまい、王子さまは自分の星を去ることにした、と。それから様々な星に行って、地球に辿り着いて、やっと本当に大切だったものに気付かされて、……自分の星に帰ることを選んだ。
それは随分と簡素化されたあらすじなのだろう。本当にざっくりとした流れしかわからない。し、どういう要点の話かもわからない。それこそ、北さんらしくない、話し方だ。
つい、首を傾げてしまった。それに、すぐ気付いたらしい。北さんの顔が、俺のほうを向く。
「喧嘩したとき出ていくんは大抵お前のほうやけど」
「う、ぇ、そうです、けど……。でも、どういうことすか? それで薔薇、て」
「ん~……」
ゆっくりと体の向きを変えた北さんは、とん、と台所に寄り掛かった。その視線の先には、テーブルの端に置かれた一輪の薔薇。鮮烈な、赤色。正直、北さんには似合わないなと思う。赤より、白のほうが似合いそう。凛とした目つきをしているから、濃い色も似合わないことはないが、どうも淡い色のほうがしっくりくるのだ。
「ファイナルも、終わったやん」
「……負けましたけども」
「でも、得るものもあったやろ? で、日本代表の合宿ももうすぐ始まる」
「そ、すね」
「から」
突然始まったバレーの話。唐突にも思えるが、たぶん、北さんの中ではちゃんと繋がっている。そう信じて、特に突っ込むことなく相槌を返した。
今シーズンから、ファイナルの枠が変わった。その枠に残れたものの、結果は五位。負けて終わった。もとい、絶対的な大砲を使いこなしてくる相手を止めきれなかったのだ。悔しい結果。しかし、この人の言う通り、得るものもあった。負けて終わりじゃない。何故負けたのか、反省して、次の勝負に生かすのだ。
ふいっ、と北さんの髪が揺れた。耳が隠れるくらいまで伸びている。そういえば、最近「散髪せんとなあ」と言っていたっけ。柔らかな毛先が踊って、眉まで隠れた前髪がこちらに。必然的に、ぱっちりとした両目も俺のほうを向いた。
「お前と思って、丁寧に育てたろかなって」
何を? いや、薔薇を、だ。それくらいは話の流れでわかる。
でも、何故? 繋がっているとばかり思っていた話は、俺の理解を超えたところでしか繋がっていなかったらしい。あかん、解説してもらわな。
そう思考をぐるぐる巡らせているうちにも、北さんは言葉を重ねていく。
「言うて、ちゃんと育てられるかわからんから、とりあえず切り花。いけそうやな~と思ったら鉢で買おうと思う」
「すとっぷ」
「……なんやねんその顔」
「ほんまに話の繋がりがわからんので、もうちょいちょいばかし丁寧に説明していただけないでしょうか」
「へったくそな敬語やなあ」
「ああもう、ええから説明して! 俺でもわかるように!」
イーッと喚くように捲し立てれば、俺を見たまま北さんはカラカラと笑った。それから、ふむ、と納得したように頷く。この数秒で自分の話したことを振り返り、確かに意味不明やったな、とでも考えているのだろう。
高校時代の俺を知っているあんたなら、わかるでしょ、俺、アホなんですよ。バレー以外のことに関しては。だから、本当に、わかるように話して。通じるように話して。意思疎通、大事。コミュニケーション、めっちゃ大事。バレーで重要視されるそれは、同棲においてももちろん大事なことだ。
ほう……、と息を吐いた北さんは、改めて、口を開いた。
「王子さまと薔薇はな、恋人同士で、一度は、離れてしまったけれど、経験を詰んだ王子さまはちゃんと薔薇のところへ戻っていった」
静かな声が、鼓膜を震わす。
王子さま。薔薇。恋人同士。離れるけど、ちゃんと、戻ってくる。言われたばかりの言葉を、ぽつぽつと俺の脳みそは繋げはじめる。それを、邪魔しないくらいの声量で、北さんは、さらに付け加えた。
「何してもええけど、――ちゃんと帰ってきてほしいな、て」
そんな願掛け。
ふ、と口元を緩ませた北さんは、さっと煮物の入った器を手に取った。コトンという音を立てながら、お互いの茶碗の前に置く。白飯と味噌汁はそれぞれ自分でよそう制。もう一度流しに戻って、北さんが手を洗ったところで、夕飯の支度は完了した。
席についたら、きっとすぐにイタダキマスが始まる。冷める前に、夕飯に在り付きたい。その反面、食べ始めたらこの話の続きはもうできないだろうなという予感もある。
ちゃんと、帰ってきてほしいなんて。
俺の帰るところは、ここだけだというのに。信用ないんかな、俺。なんて、北さんを疑ってしまうあたりが、王子さまに例えられているということなのか。童話そのものの話を全く知らないからなんとも言えないが、とりあえず、この健気な人を抱きしめたい。抱きしめたろかな。よし、ぎゅってしよ。
手を拭いたその人に、そっと腕を伸ばした。
しかし、その腕は宙で止まる。
「……ほんまはな、」
「はえ?」
「待つだけ、より、……なんか、物、渡して、こいつは俺のやで、てやったろかとも思ってん」
「うっそ、うそうそうそお、くださいよ、え、なに、ネックレス!? 指輪、……は俺から渡したいんで待ってほし」
「なんも準備してへんわ。第一、何渡したらとか、……わからんし」
「なぁんでもいいんですよお、北さんからなら」
ぴたりと止まっていた腕は、すぐに北さんの両肩を捕まえた。そして、ぐわんぐわんと俺より一回りどころか二回りは小さい体を揺らす。やけに頭がかくんがくん揺れているのは、おそらくわざと。だって、この程度の力加減で、激しく首が揺れるはずがない。俺の言動を楽しんでいるのだ、この人は。
まったく、敵う気がしない。
「……なんでも、うれしいです」
たとえ、プレゼントがなくったって、俺のことを考えてくれているのなら。俺のことを真摯に待っていてくれるのなら。
俺の、帰る場所で、いてくれるのなら。
堪らなくなって、結局ぎゅううと抱きしめると、ふっふと笑みを零した北さんは「飯冷めるで」と口にした。