雪を見たい

 静かだ。
 どこまでも、静か。耳を塞いでいるときのような、籠ったような沈黙ではない。掃除機か何かで、音を吸い込まれてしまったかのよう。いや、掃除機なんて喧しいものを使ったのなら、そっちの轟音が耳につくか。
 とにかく、静かなのだ。無駄な音がまるでない。しん、と静まり返っている。
 こんなにも静かな朝は、久々だ。
 おかげで、もう少し布団の中で微睡んでいたくなってしまう。室内が、そこそこ冷えているせいもあるのかも。暖房のタイマーを入れておけば良かった。意識した途端、布団から出ている鼻先がじんっと冷えた。
 さむ、い。身じろぎをしながら、顔の半分を布団に埋めた。柔らかく沈む敷布団に、蹴れば飛んで行ってしまいそうな羽毛布団。その中は、当然のように心地いい。あと五分、あと十分。もう少しだけ、この中で、夢見心地を漂っていたい。……が、二度寝をするのは、性分にあわない。規則正しい生活をしないと、自分は調子が狂ってしまう。早起きは三文の徳。
(静かやなあ)
 ようやく、瞼が開いた。寝起きの、少しぼやけた視界。一回、二回と瞬きをすると、少しずつ滲みが晴れていく。曖昧だった線が、クリアに。より、鮮明に。
 ぱちん、と。三度目の瞬きをすれば、ふやけた色合いもいくらかハリが出てくる。
「っぅお、」
 ――低い視界に入り込む、間抜けな、寝顔。
 そうだった。
 この男と、旅行に来ていたのだった。
 できるだけ音を立てないように、上体を起こした。寝惚けていたいた意識はどこへやら。そいつの顔を見た瞬間に、目が冴えてしまった。心臓に至っては、ドッドッと低く呻いている。浴衣の合わせ越しに胸を押さえれば、その響きが指先に伝ってきた。落ち着け落ち着け、深呼吸しながら言い聞かせてみるが、そこは早鐘を打つばかり。さっぱり、平生を取り戻してはくれない。
 くそ、胸が痛い。非常に痛い。直接心臓を握りしめて、ええ加減にせえよと諫めてやりたいくらい。自分の体なのだから、素直に言うことを聞いてもらいたいのだが。……そう、上手くできなていないのが、人間というものか。
 改めて、深く息を吸い込んだ。冷えた空気が、肺に入ってくる。手指の冷えと、手指の乾燥。どちらが嫌かと聞かれれば、後者と答えるこの男。それに合わせて、暖房は消して布団に入った。加湿器は一応動かしていたように思うが、その手の機械音は聞こえてこない。一晩の間に、タンクの中の水、すべて吐き出し切ってしまったらしい。
 取り込んだ空気を吐き出していけば、ぶるりと寒気が肩に張り付く。室内で、こんなにも冷えるのか。こんなことなら、暖房を切らなければ良かった。
 そっと布団を抜け出して、壁についたスイッチに指を乗せた。
「……寒、」
 畳から上ってくる冷気に、素足を擦り合わせた。寒い。駄目だ。起きようと思ったが、幾らか部屋が暖かくなるまで布団の中にいよう。
 あれほど出発前に最低気温を見て、覚悟を決めてきたはずなのに。何事も、体験してみないとわからないものだ。
 ここは、兵庫でも、大阪でもない。東北だ。それも山の中。年末年始の、酷く慌ただしい時分に、まさか東北の温泉街に来ることになるなんて。他に良い時期があったのでは。いや、ある意味では、今が良い時期なのかもしれないが。
『雪、見に行きたい』
 こいつの、そのたった一言。それも、電話越しの、声。
 その一言のせいで、旅行の計画を立ててしまった。雪景色が映える旅館を調べ、費用と時間を算出し、四十五日前という早割のさらに早割で予約をし。……きっちりかっちり、何事も抜かりなく、ちゃんとやる。そんな性分が、仇となった。
 この日程で、と示したあの日、「うそでしょ?」と言われたの、今思い出してもカチンとくる。お前が言うたんやろ、雪、見に行こうて。雪を見に行ける頃で、お前も俺も時間取れるのなんて、年末年始かないやろ。一月、二月になったら、試合も終盤。遠征はあったとしても、ゆっくりなんて、できるわけない。そしたら、この時期に行くしか、ないやんか。
 口をつぐんだ俺に慌てて「行きます行きますめっちゃ嬉しいですありがとうございます」と捲し立てられたが、果たして本心だったのか。……なんやかんや、昨日は燥いどったから、楽しんではくれたんやろうけど。
「……めずらし、」
 見下ろしたそいつは、高校時代の寝汚さを一切感じさせず、穏やかな寝息を立てていた。疲れたのだろうか。疲れたら、ふごふごと寝言なり鼾なり言うか? 足の甲を交互に擦りながら、じっとそいつを眺めてみる。俺の視線に気付く様子はない。起きていればすぐに振り返るのに。目玉カッ開きながら詰め寄ってくるのに。
 つまらん。
 と、思うのは、身勝手が過ぎるか。
 でも、一つくらい悪戯をしたくなくのは、ボケを生み出すための生来の習性か、あるいは悪戯好きのこいつに毒されたからか。
 顔に落書きは止めておくとして、寝顔を写真に撮るくらいなら良いか。一枚だけ、こっそり。高校時代を彷彿とさせる幼さを、パシャリと。……シャッター音で起きてしまいそう。このためだけに、無音のカメラアプリを入れるのもどうだろう。これだけぐっすりなのだ、小さなシャッター音くらい、いくらでも誤魔化せるか。
 そろり。冷えた足先を、充電器につながったスマートフォンのほうに向けた。冷えるからと、ぴたりと閉めた障子のそば。畳の片隅。光るランプは緑色で、十分に充電されたことを示している。
 かちり。コードから、端末を抜き取った。あわせてカメラを起動する。最初から入っているカメラアプリ。耳を生やしたり、やたらと幼く写ったりするカメラもインストールさせられたが、結局出番がないまま削除してしまった。シンプルに、写真を撮る・動画を撮るだけの、カメラ。
 ぴたり。寝顔に、ピントをあわせた。
「……、」
 しかし、画面が暗い。障子を閉めているせいだろう。白く柔らかな光は入ってきているものの、十分な光の量ではないらしい。
 わずかに考えてから、障子の取っ手に指を掛けた。朝日で起きてしまう可能性もなくはないが、まあ、こいつのことだ、一つ呻いた程度で目覚めることはないだろう。
 く、と軽く力をこめれば、微かな抵抗と一緒に障子が開いていく。差し込んでくるのは、思った以上に、柔らかな光。これくらいなら、こいつが起きることはない。大丈夫だ。
 ぐ、ぐ、と。光を取り入れるべく、障子を開いていく。
 淡い人から、ゆっくりと畳に乗った。それか、布団の上にも、かかりだす。
 ひやり、冷気が、素足を張った。

 ――真っ、白。

「わ」
 冷気のやってくるほう。椅子とローテーブルのある板敷きのほう。二重サッシになっている、窓ガラスの、ほう。その先に見える景色は、昨日までは、枯れた木々と土の色だった。
 旅館の女将は、今年、暖冬だと言っていた。だから、雪が少ないのだと。例年だと、コンクリートも石畳も土も分からないくらい真っ白くなる。けれど、今年は道端に点々と残っているだけ。雪景色を楽しみにしていたのなら、申し訳ない。そんなことを、妙齢の彼女は言っていた。
 言っていたのだ。
 だが、今、目の前に広がっているのは、終わりのない、白。その一色のみ。
「ん、さっぶぅ……」
「あ」
 銀世界と呼ぶに相応しい白色に見惚れているうちに、斜め後ろから呻き声が聞こえた。たかが障子一枚、されど障子一枚。この一枚で隔てていた冷気は、這うようにしてそいつの鼻の頭に纏わりついたのだろう。こちらを向いている寝顔が、ぐしゃりと歪む。凛々しい眉が、情けなく垂れた。
「ぅぅうきたさん?」
「すまん、起こしたか」
「さむぃ」
「……冬やしな」
「ふゆ……」
 顔を顰めただけで、まだそいつは覚醒しきらない。だが、徐々に夢の世界から現実に引き寄せられてはいるらしい。不細工に歪めながらも、細く目が開いた。布団の中では、手足をぎゅっと縮めたらしい。布団のなだらかな丘が、丸い塊に変化する。もぞもぞと動きながら、そいつはどうにか俺を探す。
 俺と、窓の向こうを、意識しだす。
「なんか、そと、白い?」
「雪」
「ゆき」
「そ、雪」
「ゆき、……え、雪ッ!?」
 叫ぶや否や、そいつは布団を蹴りあげた。その勢いのまま立ち上がるのかと思えば、ぶるりと冷気に体を震わす。顔面に浮かぶ「寒い」の二文字。そのせいで、立ち上がる気力は削げてしまったらしい。だらだらと四つん這いでこちらにやってくる。
「あ、ぇ、ぉわ」
「暖冬て言うてはったけど、ふふ、すごいなあ」
「え、これ今も、降ってへん?」
「降っとる」
「っひー」
 窓ガラスを挟んだ向こう側。そこは、今もしんしんと雪が降り続いている。
 暖冬でも、雪は降るし、積もってくれる。もしかしたら、白いのは今だけで、すぐに融けてしまうのかもしれないけれど。それでも。
「お前、見たい言うてたやろ、良かったなあ」
 ほう、と息を吐いたのは自分のほうか、それとも布団から這い出てきたそいつのほうか。呆けながらも、そいつは真っ白な景色に見惚れている。横顔というのもあって、はっきりとした目鼻立ちが際立つのに、ぽっかりと口が半開き。おかげで、ちょっと間抜けに見える。そんな決まり切らないところが、無性に愛おしいのは、惚れた弱みというやつだろうか。きっと、そう。
「……すんません、」
 と、ぽつり、蚊の鳴くような声が聞こえた。静まり返っているからこそ聞き取れた声量。なんだろう、謝られるような覚えはないのだが。それとも、寒いから布団に戻っていいですか、と続けるところ? ……ありうるな、こいつはあまり寒さには強くない。家の中じゃ、周囲の目も気にせずにもっふりと着ぶくれる男だ。いざ外に出るとなると、一枚、二枚、三枚と羽織っている綿入れやらなにやらを脱ぎ捨てていく。それでもまだ膨れているのだから、可笑しくて仕方がない。ようやく、準備ができたと、いつものこいつらしい体型に辿り着くころには、部屋中に着込んでいた服が散乱している始末。このまま出掛ける気か、一旦片付けてからにしたらどうや、買い物行くのに買ってきたもんの置き場ないやん。ぽんぽんと思ったことを放てば、萎れながらもこいつは散らばった服を集め出す。その、叱られた直後の子供のような、しゅんとした仕草がまた可笑しいのだ。可笑しいし、可愛い。……やはり、惚れた弱みだな。なんでも愛おしくなってしまう。
 そんなことはさておき。
 布団に戻るんなら戻ってええよ、朝飯行くのも余裕あるし。さすがに何時間も二度寝されるのは困るけど、部屋が暖まるまでの数分なら。
「その、あー、俺、雪を見たかったんとちゃう、つか、いや、すごいなあては、」
「は」
「や! 見られて! 見られて良かったてか、やばッすごッては思てますよ!? ただっ」
「ただ?」
「……雪、見に行きたい、て言うたのは、」
 まさか、これじゃない、とでも言うのか。正直、雪が見たいと言われたら、誰だってこの雪景色を想像すると思うのだが。それとも、スキー場だとかの大雪原のイメージだった? それこそ、ウィンタースポーツをしたいとか。スキーをしたい、スノボをしたい。こいつなら、言い出してもおかしくはない。じっと情緒に耽るよりは、身体を動かすほうが性に合っているだろうし。つい、自分の好みで温泉宿を選んでしまったが、こいつの好みをあまり考えていなかった。
 次は、そういうアクティビティが豊富なところにしよう。……次が、あるかは、わからないの、
――あんたと会う、口実が、欲しかっただけ、で」
 だ、が。
 はくんと、空気を食んだ。冷たいソレが、口蓋にぶつかる。舌を転がる。そのままこくんと飲み下せば、肺のほうにも冷たさが広がった。
「~~旅行は嬉しいですよ、めちゃめちゃ!」
 しかも温泉やし、北さんも楽しいやろなとか、湯上りのあんた色っぽいやろなとか、つか色々期待してええんかなとか。等々、そいつは捲し立ててくる。ツッコミを挟む余地もない。いや、呆気にとられたせいで、俺が挟みそびれたというのが正しいか。そんな反応の薄さに居心地が悪くなってきたのか、徐々にそいつのマシンガンはトーンダウンしていく。冷えている、というのを抜きにして、頬が赤くなっていく。
「だから、その、ぅう~」
「……素直に雪に喜ぶ俺見て良心の呵責に苛まれたと」
「はい……」
 いつの間にか、そいつはキチッと正座していた。完全に叱られる姿勢。叱られるのを、受け入れる姿勢。こいつは、チームでもこんな様子なんだろうか。そこそこ楽しそうにしているふうではあったと思うけれど。いや、いつだったか、尾白と顔を合わせたとき妙な結託を見せていたな。笑いがズレとるとか、バレーとは関係ないことでやんややんや騒いでいたように思う。
 しゅんと俯いたそいつを、甘やかしたくなるかと言われると、案外そうでもない。言うべきことは言う。慰めるときは慰める。ただただ甘やかせば言い訳ではない。親戚の子供じゃあるまいし。
 そっと、指先をそいつの額に伸ばした。
「あほ」
 そして、ぱちん、軽く額を爪先で弾いてやった。あわせて、そいつが「あてっ」と声を上げる。ついでに、俯いていた顔も、こちらを向いた。
 その顔の、なんとまあ情けないこと。
「口実なんかいらんやろ」
「え」
「……恋人なんやから」
 結局甘やかしてしまった? 疑問符が浮かぶより先に、侑の顔が別の情けなさで満ちていく。ふにゃふにゃに緩んだ顔。背後には、ぶんぶんと揺れる尻尾の幻覚が見えてきそう。この調子では、飛び掛かられるのも時間の問題。
「~~北さッ」
 ほら。
「じゃ、風呂行ってくるわ、雪見風呂なんて贅沢、そうできんし」
「あっあぁ~いけずぅうう!」
 勢いよくのびてきた両腕を潜り抜け、淡々と羽毛布団を踏みつけた。それから、押し入れの襖に手を掛け、ストックされているタオルを取り出す。それとなく背後を見やれば、そいつは上半身だけ布団に埋めながら、長い手足をバタバタと騒がせていた。
「ここは! おふとんもどって! いちゃいちゃするトコ!?」
「朝飯食いっぱぐれるやろ、なしやなし」
「えぇええ!」
「……侑」
 静かに名前を呼ぶと、すんと手足は大人しくなった。顔は、依然として布団に突っ伏したまま。背中からは、いちゃいちゃしたい、あわよくばセックスしたいと漂ってきている。朝っぱらからそんなこと、できるか。してたまるか。
 冷えた空気をひょいと吸い込んだ。
――夜まで我慢せえ」
 まだ、雪国の旅は始まったばかりなのだから。