おきてがみ

 重たい瞼を持ち上げた。
 こんなに重たいのは、いつぶりだろう。昨日も一昨日もその前も、すんなりとこの瞼は持ち上がったというのに。今日は重たくて仕方がない。目を開く、たったそれだけの動作すら、億劫。……瞼でこうなのだ、体の、他の部分も当然のように重たい。まるで自分の体ではないみたい。
 どうにか腕を突っ張って、怠さばかりがまとわりつく上体を起こした。寝たはずなのに、疲労感。いや、「寝た」からこその、疲労感だ。
 あの男と同衾した翌朝は、いつも、こう。
「ぃ、た……」
 口にするのも憚られるような部位に、違和感が走った。つい零してしまった声は、無残なまでに嗄れている。浅い息をするだけで、背中は軋むときた。どうしようもなく凝っている。思えば、なかなかに無理のある体勢をしていたな。あの姿勢のまま何分何十分もしていたとなれば、ばきばきに凝り固まっても致し方あるまい。ああ、痛いな、これは。どうせなら、整体にでも行ってみようか。……整体、行って、なんでこうなったか聞かれたら、困るな。なんて答えたら良いか、わからん。馬鹿正直に答えれば羞恥に苛まれるのは目に見えている。自分で、労わってみて、それでも駄目だったら、行ってみることにしよう。そうしよう。
 全身にのしかかる気怠さをたっぷりと味わっているうちに、頭はがっくりと俯いてしまう。薄く開いた視界には、軽やかな羽毛布団が映った。尻に触れているベッドシーツは、濡れているということもなく、さらりと心地のいい肌触り。正直に言おう。倒れ込んでしまい太い。柔らかなタオルケットと、ふわふわの布団を被って、再び夢の世界に旅立ってしまいたい。
 欲に、身を任せてしまおうか。
「しごと、いかな……」
 脳裏を掠めた誘惑は、ぽつりと漏れた呟きと共に霧散していった。
 仕事。そう言葉にした途端、頭が切り替わっていく。怠けてなんか、いられない。どんなに体が怠くたって、仕事は仕事。無計画に有給を消化するのは、性に合わない。使うのならば、計画的に。ココという時に使いたい。
 それに、仕事にさえいってしまえば、この情の名残を意識せずに済む。
 感覚の鈍い足をフローリングに下ろした。夏が近づいてきているとはいえ、床板はひんやりとしている。しばらく、素足でその冷たい床と踏んでから、ぐ、足に力を込めた。立たなくては。腰が砕けようと、膝が笑おうと、まずは、立たないと。それから、その辺に落ちているだろう下着を拾って、適当なシャツを取り出して、のろのろと身につけながら台所に行って、朝飯。
「……くそ」
 思考は目覚めだすものの、体はまだ、思うように動かない。力を込めたはずの足はすっかり脱力してしまった。
 立てない。立つ気になれない。んなワガママ言うてる場合か、仕事、行くんやろ。こうやってうじうじぐだぐだ時間浪費したところで、何も良いことはない。むしろ、身支度に使う時間が減って、自分の首を絞めるだけ。
 ぐらぐらと揺れる意識に平手打ちを食らわせたい。
 ベッドに腰掛けたまま、頬杖をつくような格好で頭を抱えた。あと何分、こうしていられるだろう。十分か、五分か、あるいはそんなことも言ってられないほどに切羽詰まっているか。
 腫れぼったい瞼を薄く開けたまま、ヘッドボードに視線をうつした。デジタルの目覚まし時計は、あいつが「これがいい」と言って買ったもの。曰く、アナログの時計は、嫌いらしい。なぜかというと、かちかちこちこち、鳴り続ける音が耳障りだから。自分としては、一定の間隔で鳴り続ける秒針は嫌いじゃない・それどころか好ましく思うものなのだが、あいつにとっては違うらしい。もっと喧しいやつとず~っと一緒にいたんですけどね、あの秒針の音、どうもだめなんすよ、俺。気恥ずかしそうな顔が、ついこの間のことのように思い出される。
 そんなデジタル時計は、いちばん左に「5」と書いてある。左だけじゃない。並んでいる数字、すべてが5。五時、五十五分、五十五秒。六秒、七秒。……五十、六、分。
 二度寝、できるな。
 そう浮かぶや否や、背中は布団に倒れていった。
 足は床に下ろしたまま。それでも、上半身が寛いでいれば充分安らげる。二度寝なんて、良くないのにな。二度寝の誘惑に、平然と打ち勝っていた学生時代が懐かしい。怠惰を覚えてしまった。
『ちょうどいい力の抜き方を覚えたんですよ、北さん、いっつもまじめやから』
 いつだったか、あの男ににんまりと言われたな。
 本当に、あいつと付き合うようになって、ここまで人間、駄目になるとは思わなかった。二度寝やら、夜更かしやら、深夜のラーメンやら、溺れるようなセックスやら。かえって、人間らしくなったと思えばいいのだろうか。機械的な規則正しさにスパイスが加わった、と。
 ぱた、と瞼を閉じれば、瞬く間に睡魔が押し寄せてきた。意識は、ずぶずぶと夢の中へと沈んでいく。
 一時間。一時間したら起きよう。二時間も寝たら寝坊になってしまうから、なんとしても、一時間で起きないと。念を押してから、強張っていた腕を投げ出した。
 ――かさ、り。
「ん……?」
 指先に、紙の感触がした。
 そのまま指先を動かせば、雑に折られたメモ用紙がひっかかる。なんやろ、これ。指二本でつまみ、鈍い動きで、顔のそばまで引き寄せる。
 畳まれたそれを開くと、決して綺麗とは言いがたい文字が並んでいた。微睡んだ意識をどうにか引き上げ、その雑な字にピントを合わせる。
『ごめんなさい、ひどくしました』
 あいつ、ひどくしてるて自覚あったんか。ないもんだと思てたわ。それなら、加減を覚えるのも時間の問題かもな。無尽蔵に求められる日々ももうすぐ終わりか。……それはそれで、寂しいような、物足りないような。あの終わりの見えない愛を味わえなくなるのは、もったいない、ような。
『ゆっくりしてってください』
 そうしたいのはやまやまなんやけど、仕事いなかあかんからな。もう一時間くらいだらけたら出るわ。それまでに、お前帰ってくるんかな。つか、あいつ、いつの間に外出たんやろ。ぐるーっとその辺走りに行ってるやろうけど、帰ってくるのは、はて、何時になるのか。それとも、今日はそのまま練習に行ってしまうのか。
『あと合カギ、おいていきます』
 どこに。ああ、ヘッドボードか。それか、机か、玄関の棚か。まあ、こう書いたてことは、それなりにわかりやすいところに置いてあるのだろう。それはさておき、合鍵、か。何度かそれとなく持たされているが、その都度、突き返している。
『もっていってもイイですよ』
 嫌や、断る。カギ閉めたら、今日もポストに突っ込んで帰ったるわ。
 どうしても持っててほしいんやったら、面と向かってそう言え。そしたら考えるわ。外堀から埋めていって、既成事実作って、もう逃げられない状況にしたいんやろな。小賢しいったら。そうやって受け取ってもうたら、俺の意思がないみたいで、なんか、癪。第一、そんな回りくどいことせんでも、真っ直ぐ言うてくれたら、相応に返すつもりなんやけど。……いっそ、俺から言ったほうええんやろか、合鍵寄越せて。けど、そうしたらそうしたであいつ「気ぃ遣ってません!?」てテンパるしなあ。
『そんでいつでもきてください』
「おまえ、留守してるほうが多いやん……」
 むっとした言葉が、紙切れにぶつかった。
「あつむ」
 小さく名前を呼んだ。返事はない。そりゃあそうだ、この家の中には、自分の気配しかないのだから。
 静かに息を吸い込むと、ふわりと匂いが鼻を掠めた。自分の匂いではないけれど、じんっと体の芯にしみこんでくる匂い。散々なくらい、昨日、浴びせられた匂い。
「……、」
 好き、やなあ。
 久々に顔を合わせたとたん、力いっぱい抱きしめてくれるところも。あまりの力強さに身じろぎをして抵抗すると、しゅんっと切なさを迸らせるところも。結局絆されて、こっちから控えめに腕を回したときの、どうしようもなく緩んだ顔も、好き。蕩けた顔のまま口付けてくれたり、弛緩した体をベッドまでゆっくり連れて行ってくれたりするのも、ココだけの話、好きやなと、思う。
 あの宮侑という男が、とにかく甘えてくるのが、好きで好きで仕方がない。