トラ転

 北さんからなんか連絡きてへんか?

 ファイナルが終わって、代表合宿が始まって。さらに親善試合と紅白戦を経た汗ばむ陽気の日の夜、片割れからメッセージが届いた。ぽこんとスマホの画面に現れた吹き出しは、ほんの六分前を示している。ちなみに、その前の吹きだしは四日前。下から順に「草」「トビオクンにボコボコにされとったな」である。他になんかあるやろ。なんでそういうこと言うん。確かに、ボコボコにされたけど。されましたけど。されましたけどォ!
 脳裏に浮かんだ治のにやけ顔を突っぱねながら、スマホの画面を見下ろした。追加のメッセージは来ていない。そのまま何秒か待ってみるが、来る様子もない。
「……?」
 なぜ、こいつは俺に連絡を寄越したのだろう。そんな疑問が浮かんでくる。仕事の取引相手、というのもあって、あの人と治はそれなりに連絡を取っている。なのに、俺に聞くとは、一体。
 ざわりと、胸に靄が纏わりついた。その靄は気道のあたりにいるらしい。少しだけ、息が苦しくなる。
 足元も、なんだか歪んでいるように思えて、沈むようにベッドに腰を下ろした。どふんと、合宿所にしては上等な掛布団が空気を押し出す。
「なんや、神妙な顔して」
「……んん、」
 兵庫時代からの馴染んだ声が聞こえる。今回の合宿は、久々にアラン君と同室になった。これが昨シーズンであれば、そこにいるのはBJの学年が一緒の方のチームメイトで、俺が何をしようと無反応を貫き通されていたことだろう。いやはや、タイミングが良いのか、悪いのか。
 もすんとベッドに倒れ込みながら、視線をアラン君のほうに移した。動画でも見ていたのか、手の中にはスマホがあり、耳の片方にはイヤホンが引っかかっている。がつんと明るくはない室内灯の元、向こうのスマホがちかちかと点滅していた。
 目が、痛く、なりそう。
 自分のスマホに視線を戻すのも嫌になってきて、ぱたん、瞼を閉じた。代わりに、唇ははくりと開く。
「サムから」
「おん」
「北さんから連絡来てへんか、って、ライン来た」
「北から?」
「うん」
「……北が、治やなくお前に連絡寄越すことあるん?」
「ない」
「即答すんなや、切なくなるやろ」
「言うてて俺も切なくなってきたわ」
「冗談さておき」
「俺の切なさを冗談で済まさんといてー」
 ほとんど棒読みの主張は、さくっとスルーされてしまう。あのアラン君が突っ込んでくれないなんて。心が折れてしまいそう。単に、俺の緩い返事に突っ込むよりも、北さんが気になっているだけのなのだろうが。アラン君、友達思いやからな。仕方ないわ。
 うっすらと瞼を開けば、親指がスマホの画面を走っていた。間もなく、その端末が耳に当てられる。どこかに電話をかけているらしい。話の流れを思うと、北さんだろうか。きゅと、唇閉じて耳を澄ませば、微かにコール音が聞こえてくる。けれど、そのコールが途切れることはない。留守番電話にも、切りかわらない。そういえば、いつだったか治がぼやいていた。あの人、いつまで経っても留守番の設定をしてくれないと。
 視界の先には、眉間に皺を寄せたアラン君がいる。出ないと踏んだようで、スマホを耳元から離したところ。
「ど?」
「出ぇへんわ。この時間やったら、大体出んのになあ」
 便所行っているだけやったらええんやけど。へたくそな笑みを作りながらアラン君は言う。確かに、あの人は、絶対にスマホを便所に持っていかない。それで電話に出られなかった、という話だったら、どれほど良いことか。心臓のあたりに纏わりついていた嫌な予感は、肺へと滲んでいく。本当に、たまたま、忙しくしているだけなのか。それとも、何か、命にかかわるようなことがあったのか。
 病気? 怪我? 就農してからの健康的に日に焼けた姿を思うと、どうも結びつかない。そもそも、「ちゃんと」過ごすことに専念しているあの人が、そう簡単に身体を壊すだろうか。そりゃあ、避けられないものはあるかもれしないけれど。
 いつの間にか暗くなっていたスマホの画面をじっと眺めてから、ホールドを解除した。表示されるのは、数字の二と〇。夜、八時を指している。
 この時間であれば、農作業はしていないはず。この時期の農家が何をしているのか、詳しくは知らないが。たぶん、ぼちぼち、種蒔きして、手入れをしていそうな、してなさそうな。駄目だ、自分の頭じゃ、さっぱり想像できない。農家さん、今、なにしてはるんですか。
 今、北さんは、一体。
 不快感を胸に携えながら、寝返りを打った。天井を見上げながら、たらたらとスマホを操作する。呼び出したのは電話帳。指を滑らせて、か行に辿り着く。そこから、もう少し進めば、目的の名前が表示された。ぽん、ぽんとタップすれば、簡単に繋がる。ボタンを押すという感覚すらない。撫でるだけで、発信、できて、しまう。
 そっと、耳元に電子端末を引き寄せた。
 ツ、ツ、ツ、と、電子音が小刻みに響く。それを経て、電話らしい音に切り替わった。るるるるる。そんな緩い音が、鼓膜を震わす。目を閉じた。コールの音が、よく、聞こえる。三回鳴っても、途切れることはない。五回、六回。まだ、出ない。九回。そろそろ、諦めたほうがいいだろうか。十回。うん、出ない。駄目だ。切ろう。
 北さん、どうしたんやろ。
 胸が締め付けられる感触を味わいながら、スマホを耳から離した。
 離そうと、した。
『――はい』
「ッ、」
 聞こえてきた声に、息を、呑んだ。

◇◆◇◆

 衝動のままに、走っていた。リノリウムの床を蹴る。すれ違い様に、その建物の職員と思しき女性に睨まれた。走らないでください、という冷え冷えとした声も聞こえる。だが、言うことを聞けるほどの余裕、今の自分にはない。
 目的の番号の部屋まで一目散。辿り着くや否や、急ブレーキをかけ、ノックと同時に病室の扉を開けた。
「ッ北さん、」
「よお」
 途端、聞き馴染んだ声が耳に届く。視界に入った姿は、なんというか、その、……とても重症者には見えなかった。
「~~めっちゃ元気やんッ!」
 叫んだ瞬間、居合わせた威厳たっぷりの看護師に「お静かに」と凄まれる。すみませんでした。そらそうですよ、騒いだら怒られる。走っても怒られる。当たり前だ。
 ここは、病院なのだから。
 キュッと背中を丸めるようにして頭を下げていると、病室の中からくふくふと笑い声が聞こえてくる。吐息の多いそれは、いかにも笑いを堪えているといった様相。全然、堪えられてませんけど。俺の耳に、笑いとして届いてしまっていますけど。
 恨めし気に顔を上げれば、かの看護婦が俺の横を通り抜けていったところだった。
「……お元気そうで、なにより、です」
「いやあ、そうでもないで。一昨日、ICUから出てきたとこやし」
「……ソウデスネ、頭ニ、包帯、巻イテマスモンネ」
「脳挫傷やって」
「いやほんまなんでこんな元気なん?」
「日頃の行いちゃう?」
「……言うようになりましたね」
「ふはは、俺も歳取ったなあ、年々図々しくなっとる気ぃする」
 足をもつれさせながら病室に踏み入ると、消毒の匂いが強くなったような気がした。
 どうにかベッドの横の椅子に辿り着いて腰を下ろすと、北さんの日に焼けた顔がよく見える。髪は記憶よりも短くなっていた。……その頭の怪我の都合、切られたのかもしれない。あるいは、春だからと、短くしたのかもしれないが。
 結論を言おう。北さんは、入院していた。だから、連絡が取れなかった。
 あの日、北さんにかけた電話には、北さんのお姉さんが出た。まず女性が出ると思わなくて俺は固まり、その女性が涙声だったがために完全に凍り付き、トドメに北さんが意識不明で入院したと聞いて盛大にビビり散らかした。居合わせたアラン君曰く、突然ベッドの上で正座しよったから、普通に北が出たんやと思った、とのこと。残念でした。大変によろしくない知らせを聞いて、震え上がっていた、が正解。
 それからしばらく。北さんを気がかりに思いつつも練習に励み、あの日電話に出てくれたお姉さんからICUから出る時期を聞いて、自分のオフと照らし合わせ、今日に至った。
 長かったような、短かったような。
 無事だったのは良かったが、ここまでケロッとしていると俺の心配はなんだったのかと思えてくる。
 一つため息を吐いてから、膝の上に頬杖をついた。
「で、なにしてンな怪我したんすか」
「ああ、トラ転してもうて」
「は?」
 しかし、早々に顎は手からずり落ちる。
「トラ転」
「虎……、はい?」
 あんぐりと口を開けて呆けている俺に、北さんは淡々と繰り返す。虎天とは。とらてん。トラテン。自分の中で繰り返してみるものの、どういう言葉であるのか、さっぱりわからない。熟語じゃないとすれば、略語か? 一体なにを略したら、トラテンになる? とら、トラ、トラ……。
「あっ、とらくたー?」
「そ。トラクター転倒」
「とらくたー、てんとう」
「おう、で、トラ転」
 なるほど。それなら確かにトラ転だ。
 って、なるかーい。強引な略し方せんといてー。込み上げてきたツッコミ衝動は、とりあえず飲み込んでおいた。仮にも、この人は傷病人になるのだから。なるんか? なるよな。なるなる。
 下唇を軽く噛んで喋るのを堪えていると、北さんの薄い唇が震えた。ふふ、と吐息の多い笑みを一つ、二つ。続けて、負に落ちないと言わんばかりの俺としっかり目を合わせてから、口を開いた。
「山本さん家の田んぼ、代かきしとったら、石かなんか引っかかったみたいでなあ、トラクターばったーん転倒してもうて」
「えぇ……、山本さん誰ぇ……?」
「ほら、俺ん家の近所で田んぼやっとる山本さん。御年八十三歳。三年くらい前に、免許返納したからって、代かきとか頼まれるようになって……、ああいや、治には言うたことあったけど、侑には初めて言う話やな。すまん、突拍子もないこと言うて」
「ああ、イエ、そういう、あー、はい」
 本当にこの人は集中治療室を出て数日なのか。そう思えるくらい、饒舌に北さんは喋る。一般病棟に移ってこられる程度には回復したのだろうけれど、……医療は難しい。
 しいていえば、治には話したけど俺に話していない話、というものの区別がきっちりついていないところは、頭を打った感がある。普段の北さんなら、そこを混ぜることはない。まあ、多少は混乱もしているのだろう。そういうことに、しておこう。
 軽く息を吐いたその人を、じ、と見つめた。いつもの澄まし顔をしながら、手の甲で自分の額を撫でいる。「しまった」という困惑を甲で拭っているように見えた。本調子じゃないという自覚が芽生えたのかもしれない。
 ぺた、ぺたん、と額を撫でていたその人は、再び薄い唇を開いた。
「どえらい経験してもうたわ」
 漏らすように言うと、ゆったりと腕がベッドの上に降りてきた。続けて、今度は深呼吸。病衣に身を包んだ肩と、胸が、空気の動きに合わせて上下する。
「死ぬかと、思った」
 一言、二言。零れるように、言葉が落とされた。
 あの日、過った嫌な予感は、この人が死の淵に立っていたことを示していたらしい。虫の知らせというのものは、本当に存在していたのか。
「北さん」
「ん?」
「俺もね、生きた心地、しませんでしたよ」
「……死にかけたのは、俺のほうやけど」
「うん。でも、北さんこと、お姉さんから聞いて、俺めっちゃ焦りましたもん」
 具体的にどう慌てふためいたのかは、アラン君に聞いてくれればいい。多少盛られるだろうが、まあそれなりに電話したときの状況を再現してくれると思う。
「生きててよかった」
 目を合わせているうちに、ぽたり、言葉が出てきた。独り言のようで、そのわりに鮮明な音をしていたせいで、その人の耳にも届いたらしい。俺よりも丸に近い形をしている目が、さらに見開かれた。そんなに開いたら、目玉、転がり出てしまいますよ。そんな軽口は、頭に浮かぶだけで、声にはならなかった。
「まさか」
「ん?」
「お前に、心配される日が」
「うん」
「くると、思わんかった」
「……俺、そんな薄情な人間に見えます?」
「ちゃうちゃう、なんて言うたらええんやろ、」
 ここで「見える」と言ってくるのが、普段、俺の周りにいる連中。なんなら、俺だって薄情だと思う。バレー以外のことについては、未だに強い興味を持てないから。で、手放しに褒めそやしてくるのは、俺のことをろくに知らない連中。
 じゃあ、この人の場合は?
 どちらかといえば、「まあ薄情なほうやと思う」とはっきり言うタイプ。俺に心配されると思わなかった、なんて言うくらいだ。俺のこと、バレーボールにしか興味が無い男だと、よくわかっている。
 その上で、薄情かという問いに、否と答えたのは、なぜ。
 頬杖をついていた腕を解く。背筋を伸ばしながら、膝の上で両手を組んだ。良いこと、言ってもらえる気がする。北さんに、俺のことを「ちゃんと」見てくれているその人に、褒めてもらえる、気が、する。
 北さんは数秒ばかり宙を見つめた。おそらく、適当な言葉を探している。それから、もう数秒。喋るのをじっと我慢していると、ようやく「ああ」と感嘆詞が聞こえた。納得のいく言葉を、見つけたようだ。
 彷徨っていた視線が、俺のほうへと、戻ってくる。
 見慣れたそれより、ずっと血の気の薄い唇が、ふんわりと動いた。
「お前が心配する枠の中に、俺も入れてもらえたんやなあって」
 口内が見えるほど、くっきりと唇を動かしはしない。だから、歯も、当然舌も、見えない。何かと口を大きく開いて喋る自分とは、大違い。
「――嬉しいわ」
 添えられた微笑みのあたたかさに、眩暈がした。
 それでいて、くすぐったさも感じる。自分は、この人のこういう顔に、あまり強くない。むしろ弱い。高校時代、能面みたいな面ばかり拝んできたせいもあるのかもしれない。叱られることが圧倒的に多かったからこそ、今、こうして認められると無性に嬉しくて地べたを転がり回りたくなる。
 ぎゅ、と組んだ手を一度握り合わせてから、ふっと力を抜いた。抜いたついでに、右手を口元に引き寄せる。指先で触れたそこは、思った通り、緩んでいた。どうにか引き締めようと揉んでみるが、力を抜くとすぐににやけてしまう。
「別に、その……」
「ありがとう」
「ヴッ、や、あのぉ、ソノ」
 畳み掛けられる五文字を聞くや否や、顔に血が集まってくる。
 北さんに、そう言ってもらいたくて、心配したとか、そういうわけじゃない。心配したのは、本当に、怪我したと聞いて、意識不明だと聞いて、気が気じゃなかったから。こんなリターンを見越して心配したのではない。でも、打算で心配した気分になってきた。違うのに。
 それもこれも、心配されただけで、しみじみ、感慨深く、北さんが「ありがとう」って言うから。「嬉しい」って、言う、から。……人のせいにすることじゃない。わかっている。それでも、自分の中で妙な悔しさが燻ぶる。
 気付くと、口元を隠したまま、北さんのことをじっとりと睨んでいた。
「こんなんで、ありがとうとか、やめてください」
「ん?」
「お礼とか、いらんから、その、えっと、……俺ん知らんとこで勝手に怪我すんのとか、死にかけるんとか、ほんまやめて」
「まあ、善処するわ」
「そこは約束してくださいよ」
「確約できへんのに約束しても意味ないやろ」
 生きている以上、絶対に病気・怪我をしない、とは言い切れない。だからこそ、北さんは「うん」と頷いてくれないのだろう。プロのスポーツ選手として生きている自分だって、それはよくわかっている。
 でも、それでも。
 人づてに聞くまずい話ほど、心臓に悪いことはない。
「えぇ……?」
「不満そうな顔すんな。破るの前提の約束なんて、約束やないやろ?」
「そうですけど……。あ、じゃあ、せめて、なんかあったとき連絡ください」
「連絡?」
「はい。俺に、直通で、ぽーんと」
 今回の件で、痛感した。治にほのめかされて、アラン君も心配そうな顔をして、いざ電話を掛けたら絶望に染まった北家・長女の声を聞く。一つ二つと不穏分子が増えるのに合わせて、自分の中の不安も膨れ上がった。
 あんな思い、もうしたくない。
 じゃあどうする? ……人づて、じゃなく、直接聞ければ多少はマシになる、気がする。どういう状態か、よくわかっている人――今回であれば主治医になるのだろう――から、誰かを介することなく連絡をもらえさえすれば。今回よりは、脈を無駄打ちせずに乗り切れそう。
 俺にしては、名案では。
「どうすか!」
「あー……」
 意気揚々と尋ねれば、何故か北さんは目を逸らした。ついでに、右手で口元を隠す。隠すというか、考え込むように指を添えていると表したほうがらしいか。
 北さんなら、良しなりダメなり、即答してくれると思ったのに。考えるだけの余地があるのなら、まったく手段がないわけではなかろう。なにかしら、やりようはある。ただ、そのやり方が厄介とか、俺が億劫がるだろうとか、そういう理由で良しともダメとも言いあぐねている。きっと、そう。
 嫌な思いしないで済むのなら、面倒な手続きでも構わない。そう伝えたら、北さんはやり方を教えてくれるだろうか。思い立つと同時に、口を開いた。
「うちに、」
「俺、ぇ、あ?」
「ん?」
「あ、イエ、どうぞ」
 その瞬間、声が重なる。ほんの少しだけ、北さんのほうが早かったかもしれない。どぎまぎしながらも北さんを促せば、その唇が、むにゃり、波打った。
 微かに、こくんと唾を飲み込む音がした。あわせて、北さんんの喉が、うっすらと上下する。一瞬、漂う緊張。けれど、目線を絡ませているうちに、その目が呆れたようにきゅうと細められた。えっ、なに、その、顔。叱られる? このタイミングで?
 ドッとこれまでとは異なる意味で、しかし、酷く心当たりのある焦りが身体に走る。
 改めて、色味の薄い唇が動いた。
「うちに、――婿養子に来たら」
「へ」
「必ず行くと思うで、連絡」
「あ、ぇ、むこ?」
「そ」
 婿。淡々と、北さんは吐き出す。
 婿って、誰の? これは、ええと、そう。北さんの、あの、電話したときにでたお姉さんの婿とか、そういう意味。たぶん。あれ、でも、あのお姉さん、左手の薬指に指輪しとったよな。このご時世、、ファッションという可能性もなくはないけれど、妙齢の女性があの位置に付けるのはどう考えても結婚指輪か、婚約指輪の類と思うのが、妥当。
 なら、この人は、どういう意味で、婿養子と言ったんだ。他に女きょうだいがいるって? まさか。第一、それなりに親しい後輩に、会ったこともない女を勧める質か? 否。北さんは、そんな性分はしていない。
 じゃあ、どういう?
 考えるほどに、顔が熱くなってきた。深い意味などない。言葉遊びの範疇。そう自分に言い聞かせたところで、思考の軌道修正はうまくいかない。
 と、いうか、だ。俺、そんな、そういうことを、言ったのか。言ってしまっていた、のか。
 自信満々に述べた自分の言葉は、どうやったら回収できるだろう。考えるまでもない。一度発してしまった言葉は、どう足掻いてもなかったことにはできないのだ。だから、人は炎上する。わかっている。
 項垂れながら、両手で顔を覆った。勢いづいたせいで、バチンッと鈍い音がする。触れた顔はまあ熱い。熱すぎて、触っているのも嫌になるほど。
 傍らにいるその人は、相変わらず呆れた気配を纏っていた。
 ああ、くそ。
「きたさん」
「……誰彼構わず、ああいうこと言うの、やめえや」
「言いませんよ、あんなこと」
 あんたにしか。あんたこそ、婿とか、そういうの、他の奴に言わんといてくださいよ。
 それらの言葉はまるっと全部飲み込んで、ただ、こくんと頷くにとどめておいた。