雨
雨に降られた。
それも買い物帰り。両手に買い物袋を持っているときに。しまった。今日は折りたたみ傘を持ってきていない。万が一のために、いつでも持ち歩くようにしていたというのに。今日に限って持ってきていないなんて。
これで小雨程度なら、ぱたぱたと走って帰路についたことだろう。多少自分が濡れるくらいなら問題はない、軽く濡れる程度で済むのなら、甘んじて受け入れよう、と。
けれど、明らかにこの雨は小雨で済んではくれなさそう。なんたって、ぽたりと落ちてきた一粒目が、すでに大きな水滴となっていたからだ。二秒か三秒を数えるうちに、帰り道のコンクリートはまだらに塗り替えられていく。早くも、濡れた髪や肩の辺りがべったりとしてきた。手に提げているエコバックにも染みはできはじめるし、逆の手で掴んでいるレジ袋は水滴を纏い始めた。まずい。
今朝の天気予報は、なんと言っていたか。夜から雨が降る、とは聞いていた。でも日中の間の降水確率は、〇か一〇パーセント。今日は洗濯物、外に干してもいいな、なんて思ったはず。
あ、あかん、洗濯干したままや。
さっと頭を掠めるが、そのうちに雨脚は強まっていく。この調子で降られると、自分はもちろん買い物袋の中までぐしょぐしょに濡れてしまう。
一刻も早く帰らなければ、洗濯を取り込まねば。数歩だけ足が急ぐが、それを邪魔するように雨粒が立ちふさがる。それから、遠くから響く雷の音。かと思えば、カッと空が光を放った。
……あいつ、今日午後は家にいる言うてたよな。ちらりと同居――向こうは頑なに「同棲」と言い張っているが――している男の顔が過った。買い物に行こうと玄関を開けたとき、ちょうど家に帰ってきたあの男。
『あれっ、北さんお出かけですか』
『おう、スーパー行ってくる。お前飯は?』
『これからのつもりですけど、……冷蔵庫テキトーに漁るんで大丈夫ですよ?』
『……かに玉なら冷蔵庫に突っ込んである』
『じゃあそれいただきますね』
えへへ、北さんのゴハンやあ。既に冷蔵庫で冷やされていて、できたてのあたたかさは微塵も残っていないだろうに、あの男は至極幸せそうに顔を緩ませた。近頃のこのでろでろ具合、どうにかならないのか。つられて、こっちの顔も緩みそうになる。ふにゃりと真一文字の口元が歪みそうになるのを必死に堪え、行ってくると家を出た。
どうせ、この雨の中は帰れない。洗濯物、取り込むよう言ってみようか。昼寝していなければ、はいはいとすぐに動いてくれると思うのだが。
ぐるぐると頭を巡らせながら、傍の軒下に飛び込んだ。おそらく、何年か前まではたばこ屋だったのだろう。寂れた「たばこ」の看板がついている。けれど、この店のシャッターが開いているところは見たことがない。東京に来て、五年半。その間ずっと、閉まったシャッターの前にこの看板は佇んでいる。まるで取り残されたみたい。……まあ、どうでもええか。
買い替えたばかりの電子端末をどうにかこうにか操作して、あの男にショートメールを送る。すっかりメールにとってかわった緑のメッセージアプリではなく、かつてCメールと呼ばれていた別の通信機能。なんとなく、あの緑のアイコンのほうは使い慣れなくて、ショートメールばかりを使ってしまっている。文明の利器、さっぱり使えてないわあ。そうぼやいたら、あいつは「北さんらしくてええんちゃう?」とこれまたふにゃりと笑っていた。
既読未読の確認はできない。が、すぐにぽんと帰ってきた「わかりました」にほっと胸をなでおろした。ああ良かった。
ほうっと安堵のため息を吐いてから、軒下から空を見上げた。広がっているのは、どんよりと分厚い雲。そこから滝のように降り注ぐ、この雨。一応屋根の下にはいるものの、地面にぶつかって跳ねた雨粒がぱちぱちと足を叩いた。足が濡れるのは回避しようがないらしい。
ぼんやりつま先を眺めていると、ふと、尻側のポケットに入れたスマホが震えた。のろのろと取り出して画面をつければ、メッセージが一件。
『迎え行きますか』
「は」
並んだ文字を見た瞬間、つい、低い声が漏れた。送り主はあの男。……迎え云々の前に、あいつはちゃんと洗濯を取り込んだのだろうか。
『洗濯は入れましたよ あと布団も』
浮かんだ疑念は、即座に拭い取られた。こちらの腹の中を読んだかのメッセージが入ってくる。なんでわかんねん。つい、突っ込みたい衝動が込み上げてきた。
『傘持って行ってないすよね』
こちらの返事を待たずに、あいつはぽんぽんと文字を送ってくる。ちょっと待て。こっちはまだこの滑らかな画面の文字入力に慣れていない。たどたどしく画面に指を滑らせるが、その間にも向こうからメッセージは送られてくる。ちょっと待て。本当に待て。返事をする余裕を寄越せ。
……なんだか、ちまちまと指を滑らせるのが馬鹿らしくなってきた。
ふっと文字を入力する手を止め、画面に浮かんだ「戻る」の三角に触れる。たしたし何度か触って最初の画面に戻ったところで、今度は電話マークを、たし。履歴の一番上を、たし。画面が切り替わったのを見てから、スマホを耳元に当てた。つ、つ、と通信が始まる。一度途切れて、次はコール音。
が、聞こえ出す、前に。
『はあい』
「……早すぎちゃう?」
『そりゃあスマホ触ってましたし』
あいつの声が聞こえてきた。機械越しなのに、生の声とほとんど変わらない。どころか、耳元で囁かれているかのよう。通話機能も、ここまで高音質になるとは。
それでも、周りの雨の音が邪魔で、そいつの声はいつもより遠かった。ぷち、ぽち、側面にあるボタンを押して、少しずつボリュームを上げ、はっきりと聞き取れるところまで調節する。……本当に、耳元にあいつの口があるみたいだ。肩に顎を乗せて、くふくふ笑うあいつのよう。これだから、あまり音量を上げるのは好きじゃない。
『で、どします』
「何が」
『迎え』
「いらん」
『えぇえいらんてことないでしょうよ』
この雨の中迎えに来られたって、濡れ鼠が一匹から二匹に変わるだけだ。二人に増えたらどっちが先に風呂に入るかどうかで一悶着するし、このアホは「一緒入りましょ」と喚きだすに違いない。体積を考えろ、ギュッと体を縮めたところで成人男性二人だぞ。そう言えば「この家の風呂めっちゃ広いやんか、二人くらい平気ですってええ」と腰に抱き付かれるのだ。目に見える。
迎えだって? 来させてはいけない。
『今どこですか』
「……」
『いや答えてくださいよ』
「答えたらお前来るやろ」
『え? えへへ』
なにがえへへや。はあ、とため息を吐くと、カッと辺りが白く染まった。突然のことに、つい肩が震える。近い。そう思うと同時に、呻くような雷鳴が響いた。
『……雷、すごいすね』
「こんな天気やし迎えなんて来んな。家出るほうが危ないわ」
『んー、それはまあそうですけど』
「とにかく雨落ち着いたらすぐ帰る。じゃあな、」
『うぇええ待って待って待って』
思ったよりも近いところから雷が聞こえたせいだろうか、妙に心臓が逸る。スマホを握る手にも、どこか力が入った。けれど、軋むほどの強さで握っているわけではない。この些細な動揺は、そいつには伝わっていないはず。……ただ、そうやって済むのも時間の問題だろう。しれっとこっちの頭の中を読み取るようになった今、いつまでもだらだら喋っていたら、こっちの動揺に気付かれてしまう。
早く切りたい。のに、そいつはやけに引き下がる。そっと下唇を噛んだ。
『雨あがるまで、電話、してません?』
「電話代」
『ざあんねえーん、契約時の設定により俺と電話する分には通話料かかりませえん!』
「……家族間ちゃうけど」
『今は家族やなくてそういう設定でき、……あかん家族やないてのぐっさりきたあ』
「事実やん」
『だって俺ら同棲中ですよ?』
「同居中、な」
『同棲です、付き合ってるんですし』
「切るぞ」
『あぁああああやめてえええ!』
一体、何がしたいのやら。通話料がかからないのはわかったが、こっちが電話を切りたいことにかわりはない。そりゃあこっちから電話をかけたにはかけたが、「迎えにくるな」と一言伝えた時点で用件は済んでいる。同棲だ同居だのディベートをする気はない。するとしても、家に帰ってからで十分。
たかたか落ち着かない心臓を携えながら、空を見上げた。自分のいるあたりはまだどんよりと暗いが、少し離れた辺りは明るいように見える。もう何分か待てば、通り過ぎてくれそう。轟々と呻く雷も、きっと遠ざかってくれる。
だから、大丈夫。だいじょうぶ。自分にそう言い聞かせた。
『雨、』
ぽつり。雨粒が落ちるように、声がした。意識がゆっくりと、電話の奥へ向く。戻る。
『……雨降ると、切なくなりません?』
なんでわかんねん。この数分で二度目となる突っ込みが脳裏を掠める。人格ポンコツだの、人のことを慮るのが得意ではないとか、散々あいつの片割れは言っていたけれど、俺に対してはどうにも適用されないらしい。ああいや、たまにポンコツちゃうかと思う事もあるけど。底なしに体を求められるときなんか、よく、思う。
雨が降ると、雷が鳴ると、胸が、ぎゅ、と締め付けられる。その苦しさに喘いで、心臓がばくばくとやたら大きく騒ぎだす。事実だ。悔しいが、紛れもない、事実。
だが、そのとおりと認めてしまうのも、癪。というか、なけなしのプライドが許さない。
つん、と口を尖らせながら、努めていつもどおりの平坦な声を出した。
「ぜんぜん」
『嘘やろ!?』
あ、こいつまんまと騙されよった。詰めが甘い。
内心ほくそえんでいれば、電話の向こうでそいつはあからさまに慌てだす。いっそ、こっちの動揺も忘れてしまいそうなくらいに、わたわたと焦りだす。
『えっ、そんな……、ほんまに寂しくなったり、しないんです? えっ嘘ォ』
「なんでそんなん思ったん」
『だって、ぐわーっだぁーっ雨降ってくるとき――、』
とき?
慌てふためいた侑の声が、おもむろに詰まった。どうした、そう言おうと、口が開く。
その、ときだ。――空を砕くような嘶きが響いた。
「っぅお」
『……ね、ほんとに平気ですか』
「平気やって、」
嘘だ。たぶん平気じゃない。もはや耳元から鼓動が聞こえる。背中に嫌な汗がべったりと張り付く。強張ると同時に怒った肩は、力んだまま固まった。
大丈夫、大丈夫。平気、平気。二つの単語をぐるぐると脳内に走らせる。それと並行して、電話の向こうに伝わりませんようにと必死に念じた。こんな情けないところ、知られたくない。薄々気付いていたとしても、このタイミングで確信されたくはない。
ゆっくり、侑に聞こえないように、細く息を吐き出した。
『北さん』
「なん」
『ほんとにほんとのほんっとーに、俺行かんでも、大丈夫ですか』
「…‥大丈夫やって」
『俺は迎えに行きたい』
「来んな、危ない言うたやろ」
『でももうちょいで雨止みそうですし』
「雨あがるんやったら、それこそ迎えいらんようなるわ」
『あー』
確かにそれはそうなんですが。そいつの声が尻すぼみに聞こえてくる。その間に、晴れ間が先ほどよりも近くにまでやってきているのが見えた。もう少し、あと少しで雨があがる。雷の音も、聞こえはするが大分遠くへ行った。わざわざこいつが出てくる必要はない。
雨が上がったら、いつもよりゆっくり帰ろう。とろとろ歩きながら、この騒ぐ心臓を落ち着かせよう。家に帰ったら、もうなんともない、という顔でいられるように。腹の中も、もう平気という状態になるように。
だから早く、雨、止んでくれへんかな。
『でも、』
「しつこい」
『だって、北さん、雷酷い日、いっつも俺にくっついてくるから、』
「……は?」
『最初は雨とか雷とか気付かなかったんで、甘えたな気分なんかなーて思ってたんですけど』
あ、これ雷鳴る時だけなんやな、って気付きまして。そう続ける侑の声に頭がくらくらしてきた。
『だから、迎え行きたいなあって、思ったんです』
だめ? 甘ったれた声が、すぐそばで聞こえる。そんな言い方をされたら、来て、と言いたくなってしまう。来て欲しいなんて思いに負けてしまう。こんな顔見られたくないのに。
どうにか来ないほうにこいつの意識を向けられないか。上手い言葉を閃けないか。北さん、北さんと強請り続けるそいつに意識を引っ張られながらも思考を巡らす。……あかん、ぜんっぜん頭回らん。こいつの声聞いてるだけで、色んなことが「どうでもええか」と思えてくる。プライドなんて、どうせ些末なモンだ。投げ捨ててしまおうか。
とことこ逸る心臓の辺りを、ぎゅ、押さえた。手首に買い物袋の持ち手が食い込む。赤くなっているかも。跡がついているかも。でも、手首なんかより胸のほうがずっと苦しい。
いっそ迎えに、来てもらってしまおうか。
『「あ」』
「あ?」
ふと、正面のほうから、声がした。まったく同じ音声は、耳元からも聞こえる。咄嗟に、俯き気味になっていた頭を持ち上げた。
案の定、そこにいるのは、電話をかけている男。ぱちっと目が合い、にんまりとそいつの口角が持ち上がったところで、ぷつん、通話は途切れた。ツーツーなんて機械音が、耳元で鳴り響く。
そいつが持っているのは、薄っぺらなスマートフォンと、今差している大きな傘の一本。
「……なんで傘、一本しか持ってきてへんの」
「聞く必要あります?」
やけに嬉しそうな顔をしながら、そいつの片手は足もとに置いていたレジ袋を掴んだ。日用品が詰まっているせいで、見た目のわりに重たい袋だが、なんのそのと軽々持ち上げる。ワッともウッとも言わない。思っているようにすら、見えない。そういうカッコつけは、女子ども相手にしか効果がない。そう言えたらいいのに、俺の荷物を奪った所作があまりにも自然で、つい見とれてしまった。
よくもまあ、いい男になってくれたもんだ。
「相合傘して帰りましょ」
大の男がするもんじゃない、肩濡れてまうやろ、なんで傘一本しか持ってこなかったん。いくらでも文句は浮かんでくるけれど、どれもこれも声にはできなかった。