麦茶

 今は一体何時だろう。重たい瞼を持ち上げたが、デジタルの置時計は遠くて読めない。高校の頃ならはっきりと見えたのかもしれないが、卒業して数年、すっかり視力もおちてしまった。とはいえ、裸眼で運転を許される程度だから、視力が悪い、のうちには入らないのかもしれないが。
 瞼に負けず劣らず重たい体をのったりと起こした。昨日干した布団は、さっそく汗を吸って平たくなっている。倒れ込んだときにかろうじて香ってきたお日様の匂いもどこへやら。すっかり、湿った色香を纏っている。もう一度、干した方が良い。明日の天気はどうだったか。快晴だと良い。ついでに、局所的大雨も降らないでくれたら文句はない。この灼熱に雨が降ると、湿度が上がって息がしにくくなってしまう。
 ぼんやりとしながら、遮光カーテンのかかった窓を見やった。隙間から入ってくる日差しはまだ強そう。襖一枚挟んだところにある自分の部屋は、どうなっていることだろう。今の冷気は流れ込んでいないはずだから、噎せ返るような暑さになっているのかも。
 あまりにも愛おしい、どこかの誰かのせいで、すっかり冷房のある暮らしに馴染んでしまった。
 ゴウゴウとクーラーが音を立てる。むき出しの肌に風が当たって、ざわり、鳥肌が立った。あかん、風邪引く。夏に風邪なんて引きたくはない。きょと、と辺りを見渡して、リモコンを探した。冷房・除湿・暖房というボタンが書かれた、長方形は何処。閉じそうになる瞼に叱咤を打って、その塊を探す。
「ん、ぅ」
「……」
 と、すぐ隣から、呻き声。反射的に下を向けば、バレーボールを簡単に掴む大きな手が、きゅっとアイボリーを握っていた。
 お前か。一つため息をついてから、リモコンの画面を覗き込む。設定温度、二十一度。寒いわ。そら暑くなるコトしとったけど、それにしたって低すぎちゃう? 二十八度設定に信用がないと言って、二十五度や二十四度にするのはわかる。ケド、そこまで下げたら体に障るわ。それこそ、お前は体が資本なんやから。
 硬いプラスチックから指を引き剥がし、上向き矢印の書かれたシリコンを何度か押し込んだ。ぐぐぐと設定温度は上がり、二十六・五度。暑いと喚き出すまでこの温度にしよう。
 たちまち大人しくなったクーラーを一瞥してから、もう一度寝息を立てる男を見下ろした。ぷすう、と幼児を思わせる呼吸音。気の抜けた寝顔は、実年齢よりもいくらか若く見える。いや、贔屓目もあるか。こんな図体の男を「かわええな」と思ってしまうくらいだ。こいつに向ける評価には、間違いなくフィルターがかかっている。恋は盲目とは、きっとこのことを言うのだ。
 そっと、明るい金髪に、指を潜らせた。汗でしっとりと湿っている。そりゃあそうだ、あれだけ動いたのだから。いくら待てと言っても、待てへんとぐずりながら腰を振っていたのだから。思い出すだけで、じんわりと腰が重たくなる。ああいうふうに強請られると自分は弱い。それをこいつはよおくわかっている。だからか、情事中の「待て」を聞き入れられたことはほとんどない。……逆に、こいつの「待ってください」も、聞いていないのだが。
「ん~……」
「っと、」
 おもむろに、侑が寝返りを打った。咄嗟に頭から手を離す。ごろんと、横向きから仰向けへ。早速暑くなってきたのか、両手を広げて大の字に。当然、一八〇センチを超える体は、布団からはみ出してしまう。左腕と左脚は完全に畳の上へ。かろうじてかかっていたタオルケットは跳ねのけられ、惜しげもなく体が晒される。もちろん、局部、も。
「……風邪引くで」
 ぽつりと呟いたところで、返事は来ない。相変わらず、ぷすぷすと寝息を立てるだけ。まったく、ため息を零してから、くっきりと割れた腹の上にタオルケットを掛けてやる。暑いかもしれないが、腹を冷やして体を壊すよりはずっと良い。
 ああ、そうだ。これだけ汗を掻いたのだ、水分も取らせなくては。冷蔵庫に麦茶は作ってある。今朝、水出し用の麦茶パックを入れた麦茶。昼飯時にはもうできあがって、麦の濃い色がついていた。こんなんでええやろ、と台所で一口二口飲んでから、居間でくつろぐ侑の分もと、氷を入れて居間に持ってきた。
 確かそのグラスは、まだ。
 緩慢な動きで視線をちゃぶ台に向けた。布団を敷く都合、部屋の隅に追いやられた年季の入ったちゃぶ台。その上には、侑が読んでいたバレー雑誌と、スマホが二台、それから、色味の薄くなった麦茶のグラスが一つ、二つ。……氷、溶けてもた。溶けるときの、カランという涼やかな音を聞いた覚えはない。意識が飛んでいる最中に溶けたのだろうか。いや、まさか。それよりもずっと前に溶けたはず。
 情事に、耽っている間に、カランコロンと、その氷は溶けていたらしい。
「あー」
 気付かへんかった。そんなにあんあん喘いだつもりはないのだが、どうもこいつの息遣いしか覚えていない。
 そもそも、どうしてセックスするに至ったのだったか。麦茶を出して、なんとなく隣に座って。大河ドラマの再放送を何の気なしに眺めて。別に、昼ドラの濡れ場を見たわけじゃない。むしろ合戦シーンだったように思う。なんでやねん。
 突っ込んだところで、答えは返ってこない。代わりに、雪崩れ込む直前の光景が浮かんでくる。肩同士が触れあって、侑がじぃ、とこっちを見てきた。麦茶片手にその視線に応戦、一呼吸置くべくコップをテーブルに置いた途端、侑がぐっと距離を詰めてきた。ぶつかる鼻先、唇にかかる熱っぽい吐息。けろっとしていたはずの瞳には、たちまち欲が立ち込めて、あっけなく畳に押し倒された。絡めた舌は、やけに熱いし、シャツに潜りこむ手もじっとりと熱を孕んでいる。今、何時やと思ってんねん・昼間っから盛るな、今日スーパー行かなあかんのに。ぽつぽつと投げかけた制止は効かず、下手したら畳の上で始める勢い。仕方なしに、布団を敷いたらしてもいい、と妥協することになった。
 布団敷くの、待ってる間、めちゃめちゃ気恥ずかしかったな。こういうとき、布団は不便だ。するとなったら、敷かなければならない。するために、敷くことに、なる。黙々と布団を敷き出すあいつを眺めていると体が火照ってきて、いざ触られたときに「期待してくれてたんですね」とにんまり微笑まれた。期待なんかしてへん、ただ、セックスするんやな、て思ってしまって、ぞくぞくとしたというか。……これを世間一般では「期待」と表現するのかもしれない。
 アレコレ思い出していたら、喉乾いてきた。ぬるくなっているだろうが、飲まないよりはよかろう。膝をつきながら、のそり、ちゃぶ台のほうへ向かう。
「きーたさあーん」
「わっ」
 正しくは、向かおうと、思った、だ。
 ずりずりと膝で三歩、進んだところで、下腹に腕を回された。間髪おかずに引き寄せられ、浮いていた腰がすとんと落ちる。
「っなんやね」
 ンッ。
 最後の撥音は、侑の唇に飲み込まれた。こちらは振り向きざまだというのに、どうしてこうもキスの位置取りが上手いのか。手慣れているから? 俺で脱童貞したわけではないらしいが、経験人数が多いということでもない。個人的には、俺で童貞を脱したのではないかと疑っているが、真実は確かめられないまま。しゃーないから、こいつのプライドを立ててやっている。こっちは、童貞非処女だというのに。侑への恋心が実った代償というのなら、そんなの安いもんだ。
 さておき、たっぷりの色香の名残を、口移しで注がれる。大きな手の平が、不穏に下腹を撫でる。もう一方の手はつるりと滑って、太腿や内腿をくすぐってくる始末。
「ぁ、ぅう」
「んむ、」
「っは、あつむやめ、ぅン」
「むちゅ、ふ、ん~……」
「ふ、ンぁっ……、ぉいええ加減に」
「ム」
「んゥッ」
 息継ぎの度に抵抗を試みるが、すぐに塞がれて蹂躙されてしまう。ぬっとりと歯列をなぞられ、舌を吸われ、上あごをサリサリとくすぐられ、終わったはずの熱を呼び起こすかのように口付けられる。弄ってくる手だってずるい。そんな、わざと焦らすように触れられたら、昂ってしまうに決まっている。
「ぁ」
 やっと、離れた。かと思えば、つぅ、と銀糸が伝う。息を荒げるのはいつだって俺のほう。どんなに激しいキスをしたって、こいつは一つも息を乱さない。それが現役スポーツ選手との差、というやつなのか。……こんなところで体力自慢はされたくない。どうせ自慢するなら試合のときにしてほしい。お前は試合中ずっとボールに触っていられるし、こっちは試合中ずっとお前のプレーを眺めていられるし。
「かあわい」
「……二十も半ば過ぎた男に言うことちゃうやろ」
「ほんまにかわええて」
「嬉しないわ」
「えぇー、嘘でしょお」
「なんで嘘言わなあかんねん」
「だって北さん」
 会話の合間にも、侑はちゅっちゅっとキスを降らせてくる。喋るのに支障がないよう、額やこめかみ、目尻なんかを中心に、何度も何度も、いっそしつこいくらい。鬱陶しいと払いのけたって、言うことは聞きやしないだろう。真っ最中の「待って」と同じ。そんなこと言うて、好きな癖に、と言われるのが目に見えている。
 やかましい、好きな奴にキスされて、嫌なわけない。淡々とこう言えれば、こいつは豆鉄砲を食らったような顔をしてからボッと発火する。けれど、少しでも羞恥が混ざってしまえば、にやにやと調子に乗るのだ。こいつは。くそ、今に見てろ。とりあえずじとりと睨めば、反比例するかのように侑の顔面が幸せそうに緩んだ。
「嬉しそうに、顔ぽやっとさせてますよお」
 指摘されるまでもない。自分でもよおくわかっている。どんなに脳みそが叱咤したって、頬が言うことをきかないのだ。まだこれが、事後じゃなければ、さっと羞恥を隠せたことだろう。そして攻めに転じられていたはず。涼しそうな顔をする侑をどこまでも慌てふためかせ、顔を真っ赤にしながら「きたさん、えっち、しよ」と強請らせることもできたろう。
 とはいえ、現実は事後。ほんの十数分前まで、こいつに良いように暴かれていた。その感触は、未だに体に纏わりついている。深く口付けられたら否が応とも熱を呼び覚まされるし、手の平で不穏に皮膚を撫でられれば冷めたはずの欲がふつふつと高められてしまう。このままじゃあ、こっちから「もういっかい」と縋る羽目になる。
 それだけは、勘弁。なんたって今日は、トイレットペーパーと洗濯用洗剤の特売があるのだから。
 言外にもう一回をほのめかしてくる侑の胸を、ぐっと押した。
「お前が昼間っから盛ったせいやろ」
「えぇ、北さんも気持ちよさそうにしてたやんかあ」
「そらお前に抱かれとるんやかな」
「……俺とのえっち、好き?」
「……まあ」
「そこは好きて言うてくださいよ」
「お前、それ言わせて楽しいか」
「めっちゃ楽しいわ、なんたって北さんが俺に「好きっ!」て言うてくれるんですから」
「……そうか」
 絶対にその「好き」の語尾にハートついたやろ。そう言いたくなるくらいに侑の顔は蕩けている。寝起きと、情事の名残と、あとは俺への甘えがそうさせているといったところか。
 抱き付かれているせいで、直接肌が触れ合う。汗を流していないせいで、ひたり、ぺたり、どちらともなく素肌は吸い付く。剥き出しなのに、冷えを知らない体。じんわりと、熱が中に伝ってきた。買い物、諦めてしまおうか。今日買わなくてもトイレットペーパーはいくらかあるし、洗濯用洗剤は頻繁に安売りをしてくれる。ああ、でも冷蔵庫は空に近い。日用品はさておいたとしても、食料品は買いに行かねば。スーパー。家。買い物。セックス。ぐるぐると頭の中を単語が飛び回る。
 優先すべきはどれか。俺一人分の飯で良いなら、買い物は後回しにしたろう。間違いない。けれど、侑の分もある。体が資本。粗末なものを食わせたくはない。ちゃんと栄養になるものを食って、血肉にして、バレーにいそしんでほしい。と、なれば、買い物の優先順位が上がってくる。
 侑とのセックスがどんなに心地よくたって、これを譲ってはいけない。よし、さくっとこいつを押しのけて、ざばっと頭から水を被って、ついでに汗を吸った服から着替えたら、買い物に行こう。行くんだ。決めた。
 もう一度、侑を押しのけるべく、ひたり、厚い胸板に手のひらを当てた。
「で?」
「は?」
「好き?」
 こてん。すぐそばにある侑が、首をかしげて見せる。あざとい。一瞬にしてその四文字が過った。そんなんで俺を絆せると思ったか。舐めんなや。ぱちんと額を指で弾けば、さすがの侑も諦めることだろう。もぉおおと牛のように呻いてから布団を転がり、静止すること三十秒。何事もなかったかのように寝息を立てはじめる光景が浮かぶ。おやすみ三秒とは言わないが、こいつはころころと布団の上を転がっているとたちまち寝入る習性がある。……ちょうどいい、この習性を使わせてもらおう。そして、寝入った隙に自分は買い物に出ればいい。荷物持ちが居ない分、大量に買い込むのだけは注意。
 よし。
 ――と、決心を固めたというのに。

「すき」

 掠れ気味の声が、唇から、ぽたり、漏れた。
 侑の目が、わずかに見開かれる。今、何て言うた。雄弁な瞳が、そう問いかけてくる。まるで、「好き」と言ってもらえるとは思っていなかったかのよう。……おそらく、俺に額を弾かれると思ったのだろう。何年も同棲しているのだ、お互いの手の内は知れている。 
 こう問いかければ、きっとこう返してくる。そしたら自分はこうなって、相手はこうなって。そういう侑の予想は、俺のやろうとしていたことと一致しているのだろう。けれど、俺のほうが、予想と反することをしてしまった。故に、侑は呆ける。俺だって、言うつもりがなかった台詞というのもあって、正直、驚いている。
 なんで、俺。
「好き」
 すき、なんて。
 思ったそばから、もう一度同じ単語が飛び出す。
 嘘やろ、また言ってもた。ハッとすると同時に、カッと顔から火が出る。これはまずい。脳内にけたたましい警鐘が鳴り響く。触れている手の平から、侑の鼓動が伝ってきた。ドクドクと、低く、深く、そして強く駆ける。これで顔を見てしまったら。今日は、もう、買い物になんて行けないだろう。だから、見ちゃいけない。視線を、合わせては、いけないのだ。
 思えば思うほど、瞳は、侑を求めて彷徨いだす。
「きたさん」
 吐き出された声に、ぞわり、腰が震えた。
「もう一回、えっち、しましょ」
 言い切る寸前に、視線は絡めとられた。腰もがっちりと掴まれ、逃げることはできない。まあ、逃げる気なんて、まっさらに消滅したところだけど。
 頷けば、もう一回が始まる。ごくり、唾を飲み込んだ。
 そこで、はと、気付く。
「なあ、その前に」
 頷けばけば、それを合図にこの体は押し倒される。散々流した水分を補給せずに、いっそう体から水を失うことになる。いくら冷房が効いていたって、夏は夏。運動不足で鈍ってきたこの体はもちろん。スポーツ選手の体にだってよろしくない。熱中症は怖いんやで。水分補給で治るとか、点滴一本で回復するもんやないんやて。
――麦茶、飲んでええ?」
 でないと、夏の暑さと、お前の熱に負けてしまう。侑に負けじと、こてんと首を傾げながら、ぬるくなったグラスを指した。アレ、飲ませて。冷えてる麦茶に比べたら不味いかもしれへんけど、今の俺らにはちょうどええかも。素っ裸で、きんきんに冷えたモン飲んだら、腹下しそうやんか。
 返事を待って、じぃっと侑を見つめていると、ふはっと侑の顔が綻んだ。
「ふふ、麦茶セックスや」
 なんやねんソレ。つられて笑ってから、どちらともなく麦茶のグラスを手に取った。