こーひー
待ち合わせ時刻は午後三時。手首に巻き付けた時計を見やれば、その十分前を指していた。社会性とあわせて身に付けた十分前行動は、当然のように私生活にも適用される。真面目と言われようが知ったことか。相手を待たせるよりずっと良い。なにより、あいつに「待て」は似合わない。
自動ドアをくぐると「いらっしゃいませ」と軽やかな声が聞こえてくる。レジカウンターに目を向ければ、馴染みの店員がにこりと微笑んでいた。
いつもの。その四文字で、注文は事足りる。ラテ、ショートサイズ、エスプレッソショット追加。本来ならばそこまで言わなければならないし、この店に通いだした頃はきちんとカタカナを並べて喋っていた。よくもまあ口が回ったものだと、心底思う。育った環境を思えば、比較的舌は回るほうだが、決して多弁な質ではない。まして、言い慣れないカタカナ文字の羅列。それこそ初めの頃は、メニュー表を指差して確かめるように発音していた。やけに拙いものだから、隣にいたあいつにくふくふと笑われたものだ。
ひたり、靴底が床板に擦れた。軽食でも頼もうか。歩きながらも、視線がショーケースに移る。ずらりとならんだ各種ケーキ。と、下の段にサンドウィッチ。NEWと書かれたものもあるが、いまいち気分が乗らない。……やめとこか。そこまで腹減ってるわけやないし。あいつと合流して、用事済まして、ちゃんとした飯食ったらええ。
つい、と視線を戻して、カウンターに置かれたメニュー表を見やった。
いつもの。そう言うつもりで、ラテと書かれた欄に指を乗せる。
「……、」
そこで、ふと。迷いが生じた。マットな表面から、一度指先を離す。その人差し指で小さく宙に輪を描くと、店員の首がわずかに傾いた。あら、いつものじゃないの? 新商品の宣伝、してみようかな。そんな空気が漂ってくる。
二つ折りのメニューの、左半分の多くを使って掲示している新商品。その淡色は、春色と言うにふさわしい。散りばめられた薄桃はあたかも花びらのよう。暦の上では春とはいえ、まだ風は冷たいと言うのに。この店に限らず、世間は春めいてきている。
春。はる。ハル。
頭の中に響かせながら、もう一度ショーケースに目を向けた。NEWと印のついてるケーキは、やはり春色。再び、メニューに視線を戻す。この寒空を思うと、冷たいのより温かいほうがいい。いや、それよりこんな甘ったるそうなもの、自分は飲み切れるだろうか。胸焼けして、途中でうんざりするのでは? けれど、あいつはよく飲んでいる。そこまで甘いものが得意というわけでもないのに、このチェーン店の新メニューが出るたびにあいつは頼んでいる。
とん、と、メニューに指を乗せた。その先は、意識を向けていた春色を差している。
「……これ、ください」
「かしこまりました」
少し間を置いてから頼めば、店員は穏やかな声を返してくれた。ああ、頼んでしまった。注文した傍から、後悔が滲んでくる。そう思うくらいなら頼まなければ良かったのでは。会計を済ませていない今なら訂正できるのでは。くるくると思考が回転するが、それらの思いは渦巻くだけで声にはならない。
小銭を置いた。彼女の手が、二枚の硬貨を掴む。戻れない。いかにも甘そうなドリンクを飲むしかない。いや、飲むために注文したんやろ。定型文的な言葉と共に、銀のトレーに釣銭が乗せられた。それらを財布にしまったところで、レシートを手渡される。その表面に印字されているのは、間違いなくあの春色。「いつもの」の四文字が示してくれる飲み物ではない。
オレンジのランプの下でお待ちください。さらなる定型句が鼓膜を震わす。数歩先の受け取りカウンターへ向かえば、あいつに負けず劣らずな身長の男が温められた牛乳をカップに流し込んでいるところだった。慣れた手つきでホイップクリームが絞られ、ぱらぱらと薄桃を散らされる。いかにも女子受けしそう。いんすた映えともいう。そこにプラスチックの蓋が被せられ、丁寧な東の発音を添えて差し出された。
カップに触れた指先が、じんわりと温められていく。定位置である壁際、観葉植物の横に腰かけて、しばらくその熱に浸った。
これで中身がいつものラテなら、そろそろ口をつけているのだが。気まぐれとはいえ、こんな甘そうなもの、頼まなければ良かった。いや、飲んでみたら悪くないかもしれない。存外、気にいってしまうかも。
一つ、息を吐き出した。考え込んだって、カップの中身は甘そうなドリンクにかわりはない。
ひたり、飲み口に唇をつけた。そして、そろり、そろりとカップを傾けていく。
舌に触れるか、触れないか。チョコレートを思わせる甘い香りが鼻孔を掠めた。う。それだけで胸焼けしそうになり、角度を垂直に戻した。飲める気がしない。かといって一口も飲まずに捨てるわけにもいかない。せめて一口は飲もう。それで無理だと思ったら、あの男に飲んでもらおう。お代はいらないからといえば、きっと受け取ってくれる。
さあ今度こそ。カップに口をつけ、静かに傾けた。熱の重心が、ゆるゆると移動していく。
「ん、」
つる、り、と。あたたかな舌触り。もったりとした重さはいつものラテと相違ない。しかし、味はまるで違う。舌に乗るのは、角のとれた苦みではなく、纏わりつくような甘さ。ほのかに桜の香りもするが、甘さを助長するばかり。
こくんと飲み下したところで、カップから口を離した。瞬く間にため息が零れ出る。あいつはこんな甘いものをいつも頼んでいたのか。口内に残る香りに噎せ返りそう。
もう一口飲もうなんて気分には、到底なれない。
「――おまたせしました」
くらり、頭が揺れた。とろりと甘い、声がした。
ただでさえ口の中が甘さでいっぱいだというのに、聴覚すら甘味に引きずられる。脳みそが溶けてしまいそう。いや、蕩けてしまいそう。あたかも、湯煎したチョコレートのように。
俺の顔を覗き込んできたそいつは、にこりと甘やかな表情をしていた。
「あつむ、」
「どーも。珍しいモン、頼んだそおですね」
「なんでわかったん」
「店員のオネーサンが教えてくれました。普段甘いモン頼まんのに~て」
一度飲み物のカップをテーブルに置き、着てきたコートを椅子の背にかける。その下は黒地のカットソー。襟ぐりから鎖骨がくっきりと見える。つい、目が留まる。たくましい首筋から鎖骨にかけてのライン。ちょうど、首を捻ったときに綺麗に浮かび上がるあたり。そんなところにどうしようもない色気を見出してしまうのは、恋人の贔屓目のせいだろうか。
はー寒かったと侑は席に腰かけると、テーブルに置いたカップを手に取った。手のひらが大きいせいか、やけにカップが小さく見える。……小さい、な。明らかに、カップが小さい。いちばん小さいサイズではないか。珍しいこともあるものだ、いつもならこれより一回りは大きいサイズを頼んでいるのに。
カサついた唇に、ひたり、白い蓋が触れる。それから、一口。喉仏が上下した。
「にっっっが!」
「……は?」
「うわにっが、なんこれ、うわ……、ッアァ」
「お前、何頼んだん……?」
「ん? いつも北さんが飲んではるやつ」
そう言うと、侑は紙のカップを左右に揺らす。その側面にマジックで書かれた文字には見覚えもあった。いつも、俺が、飲んでいるもの。覚えていたのか、それとも店員に聞いたのか。
呆けたまま見つめていれば、再び侑はラテに口をつけた。体は背もたれに預けて、伏し目がち。こくんと飲み下したところで、瞼を持ち上げる。カップの角度が直って、ふ、と息を吐いた。
……腹が立つ。いちいち様になる仕草に。そして、その仕草に見惚れている自分に。
目が合うと、すまし顔がたちまち緩んだ。
「っはー、めっちゃ苦いわ……、一口でやめといたら良かった」
「ならなんで買うたん」
「北さんがいつもどんなん飲んでるか気になったもんで」
軽口を叩きつつ、侑は三口目を口にする。やめといたら良かったと言ってはいるが、実は気に入ったのではなかろうか。つられて、自分も手元のカップに口付けた。それから、く、と口内に流し込む。……やはり、甘い。たった一口だというのにこの存在感。胃に溜まる感覚。この一杯で何キロカロリー摂取できてしまうのだろう。一食相当になると言われても納得してしまう。
そっと眉間に皺を寄せると、正面にいるそいつも似たような顔をしていた。唇は真一文字に結び、頬には「苦」「い」と一文字ずつ書いてある。なら俺には「甘」「い」と書いてるんやろな。
柄にもないことはするもんじゃない。お互い良い経験になった。そう言い聞かせて、三度目の甘ったるさを口内に引き入れた。
「ということで」
ふわりと、角のとれた声がした。目が合った途端、侑の片肘がテーブルに乗る。もう一方の腕は、流れるようにこっちへ伸びて来た。
指先が、掠める。自分より後からやってきたのに、冷えていないそれが触れる。自分の深爪ぎみのもの違って、綺麗に整えられてる。あかぎれやささくれなんていうまでも無い。丁寧にボールを繰る指先であり、しれっと俺を蹂躙する指先でも、ある。個人的に、いちばん大切にしたい部位。いっとう好きな、部位。
「交換しましょ」
そう呟くと同時に、迫ってきた指先は春めいたカップを奪っていった。代わりと言わんばかりに差し出されたショートサイズのカップは、ずいぶんと軽く感じられる。三口分減っているからか、あるいはトールサイズと比べてそう思ったのか。おずおずとカップを傾けてみると、そこまで減っているふうではない。しっくりくる、軽さ。甘ったるさから解放されたことで、軽く思えたのかもしれない。
ちらりと正面を見やると、侑は躊躇いなく、辟易しそうな甘味に口付けていた。
「わ! 甘ッ!」
「それめっちゃ甘いで」
「や、単なる甘さやったら前のチョコチョコしいやつのが甘いですけど、……コーヒーのあとやからかな」
「ただのカフェラテやん、そこまで苦くないやろ」
「いやいやいや苦いですて」
しっかしこっちは女子向けやな、とぼやきながら侑は桜風味のラテを飲み下していく。カフェラテを飲んだときの渋い顔は一切浮かべない。甘いものは得意じゃない、治に比べたら全然です。昔からそう言ってはいるが、常人に比べれば甘味への耐性は高いように見える。少なくとも、俺よりは、高い。
流行りに乗って、チョコレートを渡したほうが良かったろうか。高校在学中は貰ったものの大半を片割れに押し付けていた。あんなに食えるか、そう言わんばかりの顔をしていたものだから、恋人になってからも俺からチョコレートを渡すなんてことはしていない。し、侑からもらうこともない。俺らにとって、二月十四日なんて何でもない日だ。今年も、ただの平日と思って過ごした。
……いや、そうでもないか。たった一度だけ、バレンタインデーに乗っかったことがある。自分、ではなく、目の前のこの男が、だが。思い出すだけでふつふつの胸がむず痒くなる。俺としては、そこまで悪い思い出ではないが、侑にとっては羞恥の塊の経験らしい。確かに、似合わないことをしたなとも思った。けれど、そんな柄じゃないことを誰でもない俺のためにしてくれた、というのが堪らなくて、印象に残っている。
おそらく、侑が自らバレンタインに乗っかるのは後にも先にもあの一回だけなのだろう。俺から何か吹っかければ話は別なのかもしれないが、あいにく自分が流行りに乗るとも思えない。
数日前のイベントを思い出しながら、小さなカップに口をつける。ちょうどいい温度で、ほろ苦さが舌に乗った。しかし、苦みに角はなく、まろやか。肩から力が抜けるような穏やかさも持っている。馴染んだ味に、ほうと息が零れた。
「フッフ、」
「なに笑てんねん」
視線をもたげると、侑は口元に三日月を浮かべていた。腹の底を隠すような、吐息を過分に含んだ笑い声付き。この笑い方で何人騙してきたことだろう。飄々とした、食えない、性悪で、腹黒。人格ポンコツ野郎と片割れに言われるくらいだ、あながち間違ってもいないのかもしれない。だが、それもこれも、こいつはバレーボールに直向きすぎるせい。
ぽっかりと浮かんだ月が満ちていく。顔を出すのはウサギでもカニでもクジラでもない。雄弁な、赤い、舌。
「間接キス、」
――あの好戦的かつ真摯な姿勢に見惚れて、早いものでもう五年。すっかりこいつなしでは生きていけなくなってしまった。
「やなあ、思いまして」
「……二十歳超えたいい大人が言うことちゃうやろ」
「でも、言われたら意識するでしょ?」
ひたり、飲み口が下唇に触れた状態で、手首が引き攣った。多感な中学生やないんやし、そんなんで意識するか、アホ。吐き捨ててやりたいのに、声は喉もとでつっかえる。
十数秒前、確かに侑はそこに口をつけていたし、今侑の手の中にあるカップに俺も口をつけていた。間接キス、したのは事実。だからなんだ、毎日のようにキスされているのだ、こんなのどうということはない。動揺することでは、ない。いまさら、羞恥を感じることでもない。
なのに、顔が熱くなってくる。首から上に、ふつふつと血が集まってくる。
俺、こんな初心やった? 違ったやん。なにアホなこと言うてんねん、キスしたいならはっきり言い。そう淡々と言い返すんが俺やろ。あかん、頭おかしなっとる。
カップで隠しながら、そっと唇を噛み締めた。
ことり、テーブルに桜模様のカップが置かれる。ほぼ同時に、侑は頬杖をついた。左手は、そろりとこちらに寄ってくる。冷えを知らない指先が、頬骨の辺りに触れてきた。それから、薄皮一枚だけを撫でるようにして、つ、つつ、と滑っていく。
その親指が、ぐ、と、カップを押しのけた。
「なぁ北さん、ちゅーしたい」
「今したやん」
「直接」
「ここどこやと思ってん」
「今したい」
「あかん」
「きたさん、」
ぐずりと、声色が蕩けた。崩れたと言っても過言ではない。
息を飲むと、ちゅ、と押し当てられていた親指に吸い付いてしまった。
しまった。そう思うと同時に、色の灯った両目に射抜かれる。隣も、その隣も空いている。逆側は壁。けれど、店内には他の客もいるし店員もいる。見られたらどうすんねん。公共の場でいちゃつくほど、鬱陶しいもんないやろ。
第一、お前のその顔、誰かに見られんの――、
「っふ、ン」
嫌、なんやけど。
浮かんだ瞬間、塞がれた。触れるだけじゃ飽き足らず、ずるりと舌まで入り込んでくる。気に入っている苦みは瞬く間に絡み取られ、代わりに噎せ返りそうな甘さを擦り込まれた。
「買い物、明日にしません?」
「後回しにするん?」
「優先順位つけただけですよ」
ゆったりと唇を離した侑は、しれっとした調子で喋る。そのわりに、瞳から欲は抜けていない。むしろ煌々と輝きを増している。
玄関は嫌や、せめて畳の上にしてほしい。そう思ってしまうあたり、自分の頭のネジは何本か飛んでいる。こいつがバレーボールに向ける愛と限りなく近くて、絶対的に一致しない情を浴びせられて、すっ飛んでしまったのだろう。
「そーんな顔した北さん連れて歩けるほど、俺、心広ないんです」
「……こっちの台詞や、アホ」
どちらともなく立ち上がった、午後三時二十分のこと。
腰に回そうとしてきた手を叩き落とす代わりに、ふにりと唇を掠めてやった。外でこんなことするなんて、数年前の自分が見たならなんと言うだろう。……考えるまでもない。こいつが自覚するよりもずっと前から愛おしく思っていた自分のことだ、「羨ましい」と言うに決まっている。
がしゃんと、玄関の扉が大げさな音を立てた。引き戸のせいもあるだろう。身じろぎをするたびに、重なっているもう一枚とぶつかって、耳障りな音を立てる。玄関は嫌だ、そう思ったばかりだというのに、まったく。