縄張りへの道中

EJPの本拠地が長野だと想像していた頃の話(本当は静岡です)


 背中が電柱にぶつかった。足元では、大騒ぎの発端になった初雪がぐちゃぐちゃに溶けている。今年は初雪遅いねなんて言っていたら、白いものがちらつきだして、でも積もることはないだろうと高を括っていたらこの様だ。このあたりよりも山に近いところに住んでいるスタッフは、あっちはもっと厄介だと言っていたっけ。
 雪が降った。雨じゃない。雪。ともなれば、そりゃ冷える。暖かいわけがない。いくら代謝は良くたって、練習を終え、たらたらと帰路につけば勝手に体は冷えてしまう。真っ白な景色に焦って、慌てて朝飛び出したのも悪手だったな。マフラーこそひっつかんだものの、手袋の片一方はどこへやら。きっと寮の前に落ちてんだろ。ああ、左手が冷たい。指先がかじかむ。
 そんな冬の騒々しい足音のせいで、何もかも、すべての反応が遅れた。
 目の前の、ここにいるはずがない男が立っていたとか。その男が、無表情のままこちらに迫ってきたとか。肩を掴まれ、顔を寄せられ、乾燥してるな、いてーなー、なんて思っていた唇を、塞がれた、とか。
(え?)
 そしてようやく――時間にすれば八秒ほどだと思うが――状況を把握できた頃、そいつの唇が離れていく。冬の空気がカサついた表面を掠めた。突然、何? 閉じそびれていた目を、さらに見開いてしまう。
 唖然とする俺に何か思うところがあったのか、そいつは静かに手を伸ばしてきた。指先が頬に沈む。ピクッと肩を震わせてしまったのは、きっとその指先が冷たかったせい。決して、無表情でいたそいつが口元を緩めたからではない。断じて。違う。絶対に、そんなわけない。この男の挙動に、振り回されるもんか。
「なんでここに」
 やっと声が出せたかと思えば、再び唇を重ねられた。しかも、今度は触れるだけではない。こっちの口が開いたのをいいことに、ぬるりと、厚くて、熱い舌が入り込んでくる。そのくせ、ぴくりとも自分の体はブレなかった。電柱なんていう心もとないものに背中を預けている上に、足元だって溶けた雪で滑りやすくなっているのに。自分の体幹の良さがこんなところで発揮されなくたって。
 おい、治、なんでお前、こんなところにいんの。今日は連休の中日でもないし、そもそも土日ですらない。十二月の平日。ただの第一水曜日。おい、店はどうした。定休日は月曜日って言ってたろ。ちなみに、なぜ月曜日かというと、あの人でなしや昔馴染みたる先輩が休養日で押しかけてくるかららしい。へえ、人の良いことで。
 ということで、なんで、お前はここにいる。
「ん、……ッぉさむ!」
「ぅエッ」
 しっかりきっちり現状を理解したところで、正面に構えていた胴を押した。手加減はしない。突き飛ばすくらいの勢いをつけて、そのガタイを突っぱねた。なんせこの男、それくらいの労力を使わないと離れてくれないのだ。いつもはそう。いつもというほど会ってないか。会ってないから、会うたび抱きしめてくる力が強くなる? 知らねーよ、そんなの。
 とにかく、こいつを押し退けねばならない。
「っぉ、おお?!」
「えっ、わっ、ワッ」
 ただ、その一心だった。
 だからまさか、簡単に体が離れるとは、思いもしなかったんだ。
 せいぜい顔しか見えなかったそいつの上半身が、すっかり見える。いや、もう全身と言っても過言ではない。見えた体躯は、転ぶのでは、というほどに傾いていた。傾き方から察するに、びちゃびちゃの雪に足を取られたのだろう。
 これは、転ぶだろうな。溶けた雪の上に、ガタイの良い大人が尻もち。こいつの服は無事には済まない。かつ、その衝撃でこっちに溶けた雪が撥ねてくるのも、目に見える。
 気付くと、そいつの腕を掴んでいた。折角剥がした体をこちらの方に引き寄せる。腕に力を込めるのに合わせて、重心を動かした。
「あぶな」
「お、おぉ……?」
「ねえ、今転ぶとこだったのわかってる? 俺助けてやったんだけど」
「転ばそうとしたのもお前やん」
「転ばされても仕方のないことしたのはどっちだよ」
「そうやった?」
「とぼけてんじゃねえ、っておい何で腰に腕、~~ッ尻を撫で回すな!」
 ぎゅ、と一度抱き留めるように体を支えてやった途端、治の腕は俺の腰に巻き着いてきた。バレーボールを軽々と掴める手の平は、しれっと尻を掴んでくる。ジャージの、柔らかな素材のせいで、手指の感触が如実に伝わってきた。転びかけた癖に、この言動。平然としすぎているあたり、計画犯か? こんなことなら助けるんじゃなかった。知ったこっちゃないと転ばせてしまえば良かった。
「ここ、公道なんだけど」
「ええやん、誰もおらんし」
「そういう問題じゃぅムッ!」
 言葉を遮って、またもや口を塞がれる。こいつは一体全体、何がしたいんだ。謎の時間にやってきて、場所も構わずに手を出して、俺の心境すらもお構いなし。
 現役バレーボール選手に、力で敵うと思うなよ。なんて言えるほど、自分はパワー型じゃない。普段は、必死になって突き飛ばしているのだ。単純な腕力だったら、こいつの方があるのだろう。しかも、高校の頃の先輩の手伝いと言って、農作業をこなしている。あれは重労働だ。下手すると、学生時代よりも腕力差がついているかもしれない。
 そんな奴の両手で、胴体を抱きしめられたら? 俺が身動き取れなくなるのも、仕方あるまい。
 『恋人』という、贔屓したくなる関係性がなかったとしても、だ。
 雪が鬱陶しくて、早く帰りたかった。家に帰って、手袋を捜索して、ストーブを付けて、ついに雪が~なんてSNSに投稿して、そんで飯食って今日はさっさと寝よう。甘い空気なんて、欠片も求めちゃいなかった。そりゃあ、人間ホッカイロは場所を取る分しっかりあったかくなるし、寒くて妙に心細くなる胸に効くのも事実だけど、今は、さあ。時期ってもんがあるじゃん。ついこの間は松本でホームゲームをしたし、今度の土日はアウェイだし。今、気分をオフにしたくはない。するとしても、せめて年末年始とか、とにかくタイミングを考えろよな。
「ちょ、っと」
「ん」
「ぁ」
 制止を試みようにも、角度を変えながら何度も口付けられて失敗に終わる。それどころか、俺が好む質のキスをを仕掛けてくるときた。上顎を擽ってから、丹念に舌を絡めてきたり、軽く吸われたり。それこそ、行為を強請るときのよう。さすがに、こんな人の往来がある場所でしでかすような奴ではないと思いたいが、如何せん、アレと同じ遺伝子というのを思うと不安も過ってしまう。
 寒いし、つーか屋外だし、なんなら公道だし。行為自体は嫌いじゃないが、他人に見られて悦ぶシュミはない。
 にもかかわらず、反応してしまう体のなんと憎たらしいこと。
「っは、ぁ~」
「……その気ぃ、なってきた?」
「なってない。それよりなんでお前がここにいるんですかあ、おにぎり宮はどうなさったんですかあ!」
「店内拡張のための改装工事につき、臨時休業しております」
「へーえ、いつから営業再開されるんですか」
「一月五日、火曜日の予定です」
「自動返信みたいで気持ち悪い」
「真摯に答えただけやん」
「腹立つなその笑ぃ、……ッまた!」
「ん~?」
 営業スマイルを携えたまま、ちゅっと唇を啄まれる。気を抜いたらこれだ。舌を入れられなかっただけマシ? こいつ相手に隙を見せたら、すぐに付け入られるんだよ。それで、俺も気を許しちゃうんだよ。チョロいから。自覚あるなら、直せって? そう簡単に自分の性分変えられるもんか、四半世紀もこのスタンスで生きてきたんだ。休めるときは休みたい。これだけ寒けりゃ、人肌のぬくもりも愛おしくなる。
 大きくため息を吐いてから、半ば諦め気味に治の肩に頭を預けた。身長差があまりなく、こいつの肩幅がどっしりとしているおかげで、妙な安定感がある。落ち着くともいう。調子に乗るから、絶対に教えるつもりはないけれど。
「そんな休んで良いのかよ、ポンコツの相手はどうすんの」
「さあ? 月曜が楽しみやな」
「……俺、今週末大阪でアレと試合なんだけど」
「ぼこぼこにしたれ」
 耳のすぐそばで、くつくつと喉で笑う音がする。
 簡単に言ってくれる。俺と佐久早の相性悪いの、知ってるくせに。慎重過ぎてやりにくいんだよ。それでも、対戦経験が多いからって、だいたいあいつと一番多くぶつかるローテにされる。俺を抜けた先には古森。これが、対佐久早の布陣。もう一人の厄介要員だったニンジャは、今シーズンはブラジルへ。だから、まだやりやすい。やりやすい、と、思うことにしている。
 呻きながらごりごりと額を擦りつけてやれば、腰に回っていた腕がするすると頭に上ってきた。それからあやすように撫でられる。好き勝手してからの、この手付き。なんて狡いんだろう。どうしたら俺を絆せるか、よくわかっている。悔しい。敵わない。ぶんぶん振り回してやりたいのに、結局こいつの手のひらの上。会うたび、こいつは大人になっていく。どこでこんな手口を学んだんだ。……あのやり手の農家か。
「ふっふ、めっちゃ心臓バクバクしとる」
「うるせーな、誰のせいだよ」
「俺やろ、いやあ嬉しいわ」
「ムカつくなあ」
 わざとらしく舌打ちをしてから顔を上げると、まあ甘ったるい顔が眼前にぶつかった。負けて、堪るか。その一心で眉間に皺を寄せながら睨みつけると、クッと喉を鳴らされる。あわせて、まあるく、そういう意図を持って腰を撫でられた。尻だったら、危なかったな。
 いや、腰でもまずい。
 これは、まずい。腰が、抜ける。
 朝イチで、柔い雪原もどきの上を走ったせいもあるだろう。びしゃびしゃとはいえ邪魔なことにかわりはないと、雪かきだってした。それから先日の試合の反省点を踏まえながら練習し、鬱陶しく溶けた雪道を歩いて帰る。だから、とにかく、今日の俺は疲れていたんだ。そこに、突然恋人が目の前に現れて、しれっと蹂躙してきたら。……言うまでもない。
「ねえ、おさむ、なんできたの」
「うーわ、めっちゃ甘い声出すやん、我慢できんようなるで、俺」
「真面目に聞いてんだけど」
 顔を顰めるのも馬鹿らしくなって、すっかり治に寄り掛かりつつ口を動かした。疲れたと自覚してしまえば、口を動かすのすら億劫。出てきた声に甘さが混じるのも当然。必然。自然の摂理。これはさすがに言い過ぎか?
 さりげなく治の方に重心を移すが、文句が出てくる様子はない。かわりに、手付きが俺を煽るようなものからしっかりと支えるものに変わってしまった。その気にさせておいて、手の平を返さないで欲しい。なんて酷い奴なんだ。こうなったら、なにがなんでもこいつをその気にさせてしまおうか。……そうしたとき、しんどいのは俺。やめやめ、どれを選んだって、結局こいつの好きにされるんだ。だったら、足掻いて悔しい思いをするより、あるがままを受け入れてしまった方が楽。やっちまったと、追々頭を抱えずに済む。
 だんだん、見上げているのも面倒になってきた。ぴた、と口を噤んでしまったこいつの脳内で、何が起きているかなんて考えたくもない。考えるだけ無駄。俺はもうこれ以上、こいつに関してエネルギーを使いたくない。
 再び、額を治の方に擦りつけた。
――あいたなってもうたから」
 ……なんで、こっちが顔を伏せた途端、甘ったるい声を出すかなあ。
「はらたつ」
「せやから、甘い声出すなて」
「人のコト言えないって、お前」
「はあ?」
「無自覚かよ、質悪いな」
 ほとんどしがみつくように治の背に腕を回した。力を込めると、その分、抱きしめ返してくれる。煽るなと囁いてくるが、無視だ無視。いきなりやってきて、誰もいないからとキスを降らせてきたのはどこのどいつだ。お前から先に仕掛けてきたんだ、今更手を引くなっての。
 それもこれも、俺が存外疲れている――まあ、その原因の一つに治も含まれているのだけれど――のを察しとってくれたから。あの人でなしと同じDNAのくせに。気遣いやがって。どうせ会いに来るなら、なりふり構わず貪り続けるか、完全に何もしないかのどっちかにしろよ。駆け引きなんてスパイス要る? 要らないよ。久々に会った。それだけで、充分、効く。
 もう一度だけ、と抱きしめてから、のったりと体を離した。自分の両足に体重が戻ってくる。鼻先と額に、冷たい空気が張り付いた。もう、そいつの体温が恋しい。ぎゅ、ってしたい。かといって、いつまでも往来にいるわけにもいかない。疲労の中に佇む理性が、いや、これは感情の方だろうか、暖を取れるところに移動しろと囃し立ててくる。
「……はあ、もうなんでもいいや、帰ろ、寒い」
「あ、今晩泊めて」
「言われなくても」
「宿代は?」
「この俺が久々にあった恋人から金取るオトコに見える?」
「……別のモン搾り取られそうやなって思う」
「正直にどーも。ふつーに明日も練習あるからしないよ」
「なかったらするんや」
「するよ、そりゃ」
 だって、俺たち恋人だよ。そこまで口にすることはなかったが、治の口元がむにゃむにゃと緩んでいたから、言わんとしたことは察したのだろう。こういうとこも、アレと違うんだよなあ。言葉にしきらなくても、勝手に気付いて、勝手にフォローしてくる。店を経営するようになってからは、余計その気が濃くなった。
 酷い男と思ったの、撤回しようかな。いや、そこまでせずに、酷くてイイ男ということにしておくか。
「なに笑ってんの」
 あんまりにやけてると、イイ男判定取り下げるよ。軽くそいつの腹を小突いて、そっと足を持ち上げた。ここまで溶けたら、別に雪道の歩き方はしなくていい。でも、滑りやすいことには変わりないから、転ばないよう注意はする。
 溶けた雪を踏む嫌な音を聞きながら歩き始めれば、べちゃっとやけに喧しい足音がした。ぱ、と隣を見れば、追い付いた治がにんまりと口角を釣り上げている。こういう、十代の頃だったらムカつくはずの表情すら、今じゃ愛おしいんだから、俺も大概重症だ。酷い男に引っかかるだけある。
「来て良かったと思って」
「あっそ」
 わざとそっけなく返して、家までの暖を取るべく、そいつの右手を引っ掴んだ。