Hello,New World

 合格発表のその日、黙って家で悶々と結果を待っているのも癪で、なんとなく母校の体育館に足を運んだ。すると、そこには三年間という月日ですっかり見慣れた双子の姿。片一方は秋口に実業団――正しくはクラブチームらしいが――に内定しており、もう一方はバレーは高校までと決心し調理の専門学校に進むことになっている。
 お前ら、とっくに進路決まってるくせに、なんで後輩の練習に混ざってんの?
 そんな意図を込めてきゅっと眉間に皺を寄せると、それだけで二人は俺の言わんとしたことを悟ったらしい。
「今日、あっちのほうオフやねん」
「で、巻き込まれた」
「ハァアアン? 家から一歩も出歩かんヒキコモリ状態の治クンを連れ出したったんやろ!」
「誰がヒキコモリじゃ、勉強しとるだけやろ」
「きっしょ、なんやねん勉強て」
「そらするやろ、専門の勉強するために行くのが専門学校やで?」
 テンポよく繰り広げられる会話はこれまで聞き慣れたそれと変わらない。そんなすぐに変わるわけないか。むしろ、あの宮兄弟だ。一生このテンションで会話をし続けたっておかしくはない。本当に、この一年で尾白さんの偉大さを痛感した。北さんは北さんでブリザードによりこいつらの暴動を止めてくれていたが、尾白さんは尾白さんでこいつらが脱線しすぎないよう突っ込んでコントロールしていたのだ。そんな舵二つを失った去年の今頃は、……思い出すだけで頭が痛い。何がきついって、銀が素直すぎるせいでまるで舵取りをしてくれないのだ。必然的にしわ寄せはこっちにやってくる。いっそ後輩に任せてしまおうかとも思ったが、流石にそれは黒須監督が許してくれなかった。
『角名、お前しかおらん』
 やけに神妙な響きの声は、一年経った今でも鮮明に再生できる。
 あーあー、あれこれ考えるのは止めよう。とにかく後輩に混じって宮兄弟が練習しており、合格発表待ちの俺もついこっちに顔を出してしまった。それだけのことだ。おかげで、後輩共の「角名くんや、角名くんや、ブロックの相手してくれへんかな!」というキラキラとした視線が突き刺さってくる。制服なのが難点だが、まあいい、上等だ、全員相手してやらあ。
 ネクタイを解いて上着を隅に置くと、ぱたぱたと後輩が駆けてきた。
「三対三しませんか!」
「……それ俺に言う? あいつらに言いなよ」
「あっちは平介が」
「あ」
 ほんとだ。ネットのそばに目を向ければ、ちょうど平介が双子に声を掛けているところ。一年前に比べて、平介もなかなかにたくましくなった。侑に強引に肩を組まれてもニシシッと笑みを浮かべている。もちろん、強がりではなく。
 これが、稲荷崎高校男子バレー部の特徴なんだろう。やりたいことは、とりあえずなんだってやってみる。やらない後悔よりやる後悔。上下関係はそれほど厳しくなくて、後輩が先輩にため口聞いても、案外怒られない。俺自身、注意したことなかったし。この人はすごい・やばい! と思えば自然と敬語になるというか、そんな感じ。
 それとなく体育館を見渡せば、双子と俺を相手に何をしてやろうか、後輩たちが目をギラつかせていた。力試しをしようなんて殊勝なもんじゃない、目一杯先輩を「使」おうとしているのだ。いやホント、たくましいコト。
 白い制服の裾を軽く捲った。普通の上履きだけど、極端にすり減ってはないから、たぶんどうにかなる。ガッツリ動くのは双子に任せればいい。任せなくったって、あいつらならムキになって動くか。
 体育館にある時計は十三時十五分を指していた。このご時世の癖に電波時計ではないアレは、約五分進んでいる。つまり、今の時刻は十三時十分。俺の合格発表は十四時だから、……良いか、十四時までやっていこう。どうせスマホで確認はできる。それに、職員室にいる担任も、自席のパソコンで俺の合否を確かめてくれているだろうし。
 あちこちからきた推薦を蹴りに蹴り飛ばして、俺は声を掛けられなかったバレー強豪校を受験した。部活と勉強の両立が、これほど苦しいとは思わなかったが、身近な先人がいたからこそどうにか頑張れた節もある。その先人って北さんね。あの人はヤバイ。なんで春高まできっちり出といて、しれっと旧帝大に合格してんの、ありえねーだろ。こちとら、そこそこの私大でヒーヒーしてんのに。
 話が、逸れた。それだけ、受験に捕らわれている。意識が逸れている。こんな状況でバレーしたら、侑に怒鳴られそうだな。あと治ににやにやと意地の悪い顔を向けられそう。どっちも勘弁。
 一つ、二つ、三つと数えながら息を吸い込んで、同じ時間をかけて吐き出した。
 春高を終えて、約二か月。引退の儀式と化した追い出しの紅白戦をしたのはセンター試験の後だったから、ボールに触るのは一か月半ぶりといったところ。体力と筋力は、どれだけ保っているだろうか。大学でもバレーをするからには、多少鈍っていたとしても現役生に負けたくない。
 軽く体をほぐしたところで、九メートルのマスへと足を踏み入れた。

 ――結論を言おう。俺は体力の衰えをこれでもかと思い知らされることになった。

「ッあ~くっそ、ぜんっぜん動けねえ!」
「ンなカッコしとるからやろ」
「それに抜きにしてもヤバイ、勉強漬け駄目だわ、マジ鈍る」
「おい、聞いたかサム。デブらんよう気ぃ付け」
「だれがデブるか、お前こそハジメテの一人暮らしでホームシックならんようになぁ?」
「なるかそんなん、第一寮やぞ、寮」
「なるかもじゃん。俺はなったよ、ちょっと」
「「嘘やろ!?」」
「おまえら俺をなんだと思ってんだよ……」
 ゼイゼイと切れていた息がようやく落ち着いてきたところで、どっかりと床に座り込んだ。汗でびっしょり、というほどではないが、なかなかにキている。特に足。思った以上に、一歩目が上手く踏み出せなくなっていたのだ。体幹のおかげで打ち分けはまだマシだが、最高到達点も落ちている。こりゃ、大学入ったら基礎トレーニングから丁寧にやらなくては。……そういう設備とか、方針がきっちりしている大学を選んだのだから、否が応とも体作りにいそしむことになるのだろうが。
 合格、すれば。
 チラ、と時計を見上げれば、先ほど見た時からちょうど長針が一周したところだった。もう結果は出ている。公表時間きっかりでもないから、回線が込み合っているなんてこともないだろう。
 ずるずると這うようにして移動し、制服の上着を摘まみ上げた。その下にはぐしゃぐしゃのネクタイとスマートフォン。胡坐をかいた姿勢のまま、ブックマークしていたページを開いた。案の定、混線することもなくサイトは表示される。つらつらとした数字の羅列。それだけで頭がくらくらしてきそう。だが、何度もあの紙切れを眺めていたおかげで、自分を指し示す数字だけはよく覚えていた。1から始まって、1で終わる、あの番号。震える指先で、画面をスクロールしていく。汗をかいているせいか、変に文字列を選択してしまう。違う、そうしたいんじゃない、俺はスクロールしたいの。細やかな苛立ちと共に、自分を表す番号の数が、近付いてくる。
 1、4、3、ここだ、このあたり。末尾が22、23、35、うわすごいとんだ、こんなに落ちたの。ヤバイ、心臓が、痛い、かもしれない。
「あ」
 と、思った瞬間、ドッと心臓が跳ねた。
 51。14351。一から始まって、一で終わる、俺の受験票に書いてあった番号。
 ぱしぱしと瞬きをしてから、今度は制服の上着のポケットから小さく畳まれた紙切れを取り出した。受験票、だったもの。そこに書いてある数字も、確かに14351だ。間違いない。このページは、俺が受験した大学の合否発表ページ。学部も間違っていない。年度だって、あっている。
「受かった」
「ほんま?」
「ッわ」
 ぽそ、と声を漏らした途端、背後から落ち着いた声が降ってきた。慌てて見上げるように振り返れば、軽く屈むようにしながら俺を見下ろしている治。まさに背後。なんなら、結構近い。自分の上に、影だってできている。なのに、気付かなかった。……相当、この結果を見るのに、緊張していたらしい。
「ぜんっぜん反応せぇへんから、あかんかったかと思ったわ」
「残念でした、ちゃんと受かったよ」
「……良かったやん、オメデト」
「ん、ありがと」
 そう返すと、どっと疲れが両肩に乗ってきた。バレーをしたせい、ではない。緊張から解き放たれたせいだ。ああ良かった。報われた。これで心置きなく、散々勉強を見てくれた北さんにも連絡ができる。とりあえず、先に職員室だな。ぎりぎりまで部活をしたうえでの、一般入試ってんで、結構面倒もかけたし。受かったってのはもう知ってるだろうけど、俺も確認しましたよーと報告にし行こう。
「っし、じゃ、俺行くわ」
「どこに?」
「どこって、職員室」
「ああ、報告」
「そ」
「じゃあ」
「じゃあ?」
 よろよろと立ち上がって上着を羽織れば、しれっとした顔をしたまま俺のほうを向いている。何、まだ練習に混ざっていくんじゃないの? 侑の喧しい声はまだ体育館に響いている。あいつが家から連れ出したというのだから、気が済むまで治も付き合わされるものだと思っていたのだが。
 んん、と首を捻れば、器用にも治は唇の片一方だけを釣り上げた。その笑い方ちょっと侑っぽい。と、言ったら、たちまち唇をヘの字に戻してしまうだろう。だから、あえて言わないで置くことにする。
「飯行こ。合格祝いや」

***

 てっきり侑も行くものだと思ったら、あっさり治は片割れを体育館に置き去りにした。曰く、あいつこのあと用事あんねん、と。詳しく話したがらない様子から察するに、バレー関係だろう。4月から所属するチームの関係とか。もう進路もそれぞれ別だってのに、どうして今日は一緒に行動してたんだろうな。それとも今だけだからこそ、侑は治に声を掛けたのか。……あのポンコツにそんな情緒があるとは思えない。ボールを触りに行くついでに、後輩だけじゃ物足りないからという程度の理由で治を引きずってきたに違いない。
 でも、それはそうとしてさ。
『ツム、飯行くから帰るわ!』
『ハァ? さっき食ったやろ」
『角名の合格祝い』
『お! 中大受かったんか、おうおう黒鷲旗覚悟しとけや!』
『一年で出られるわけねーだろ、ってかそれ侑もじゃない?』
『は? 俺は出る。絶対出たる。つか合格祝いなん? なら俺も』
『お前このあと用事ある言うとったやん、堺まで行くんやろ、間に合うんか』
『ヴわッ』
 ……一体、あの男は何時にどこに行かなければならなかったのだろう。具体的なことは何もわからないままだが、慌ただしく帰る準備をしだした侑を見事にスルーし、治は俺の腕を掴んで体育館を出た。
 そのまま真っ直ぐに昇降口に向かおうとするのを引き留め、一度職員室へ。受かりましたー、お世話ンなりましたー、と緩く挨拶をすれば、担任やら進路担当、それから黒須監督にぐちゃぐちゃと頭を撫で回される始末。どうにか職員室から出た瞬間、俺の頭を見て噴き出した治のことは一発殴っておいた。クソ、絶対に髪切ってやる。切るったら切る。
 そんなこんなで連れてこられたのは、何度か部活帰りに寄ったことのあるラーメン屋だった。学生向けの安かろう多かろう、といった店ではなく、メニューに記載されている値段はどれもそれなり。……ただし、稲高生を除く。学生証を見せることで、値引きか大盛かのサービスをしてもらえるのだ。そりゃ何度も世話になるに決まっている。通学路と逆方向に無かったら、もっと通っていたに違いない。逆に、双子は通学路上にあるため、治は常連らしい。侑? あいつは、偏ったモンばっか食えるか、家で食う、とか言って真っ直ぐ帰ってたんだと。すごくない? あのいかにも道草食ってそうな外見してるのに、真っ直ぐイイコにおうち帰っちゃうんだよ。まあ、北さんの正論を三日連続で浴びたからというのを思うと、そりゃそうなるわとも思うけど。
 ランチタイムでも、夕飯時でもない時間なのもあって、店内は随分と空いていた。大学生と思しき男が一人いるだけ。なんとなく見覚えのある顔だから、稲荷崎のOBなのかもしれない。
 慣れた様子で治はカウンターにどっかりと座る。テーブル、じゃないんだ。広々してたほうが良い気がするのだが、……ああでも、治だったら、作るところ込みで見たいのかも。折角奢ってくれると言ったんだし、大人しくカウンターに座るか。
 こっそり唾を飲みこんでから、のろのろとカウンター席に腰を下ろした。
 すると、そのタイミングで推定大学生が立ち上がる。伝票を持って、奥のレジへ。淡々と会計を済ませた眼鏡の男は、満悦な表情のまま店を出ていった。
 と、いうことは。
 今、治と、二人、きり。
 ちらりと掠めた思考を、一思いに殴り飛ばした。カウンター席なんだから、店長がすぐそばにいるじゃん。レジの方には、奥さんぽいおばちゃんいるし。二人きりじゃない。決して。
「おっちゃーん、俺」
「チャーシュー大盛に炒飯ね」
「おん」
 妙な緊張を抱える俺を余所に、治は一言で注文を済ませてしまう。慣れすぎでは、ないか。おっちゃんって声掛けただけって。通っていたとは聞いていたけれど、どんだけだ。まさか毎日? さすがにそれはないと思う。でも、このペースで食欲が続いていたら、侑の言う通り太ってしまってもおかしくはないのでは。治に限ってそれはないとも思いたいが、……いや、二十年後くらいに下っ腹が膨れた様なら想像できるわ。逆にらしいとすら思えるレベル。
 はああ、なんで俺こんな緊張してんだろ。軽く頭を掻いてから、店内の壁に掛けられたメニューを眺めた。
「俺は、……醤油お願いします」
「そんだけ?」
「そんだけって、なんで」
「奢ったる言うたやん」
「んえー? じゃあ、んん~餃子も」
「ん。じゃあ、おっちゃん、餃子二皿追加で」
「ふた、さら?」
「俺も食う」
「あ、そ」
 しれっと二皿と発したが、店主は「あいよー」と返してくるだけ。淡々と頼んでいたが、こいつ今日いくら持っているんだ? 奢りと言ったからには奢ってもらう気でいるが、懐は大丈夫なのだろうか。それとも、早々に進路が決まったのをいいことにバイトでもしていた? ありうる、飲食店でバイトする治、あまりに様になる。
 奢り、奢りかあ。あのポンコツと同じDNAをしているが、こいつはこういう気遣いもできる男である。あれ、侑も合格祝いなら行くとか言ってたから、別に治が特別ってわけでもないか。……けど、侑は奢らないだろうな。なんとなくだけど、あいつは自分から「奢ったる」なんて言わない気がする。テキトーに茶化して乗せれば「奢ったるわ!」て言いそうだけど。そのへんチョロいんだよなあ、あいつ。
 あのポンコツと顔を合わせるのももうすぐ終わり。と、思いたいが、なんやかんや試合で会うことにはなるだろう。一方、隣に座る治はというと、どうだろう。バレーを完全に辞めてしまうとなれば、接点はなくなる。そりゃ、稲高OB会とかに顔を出せば会うこともあるだろうが、OB会の飲み会なんておっさん連中の集まりだ。俺らみたいなワカモノが言ったら、かったるいくらい絡まれる。そんなくらいなら、俺は行かない。尾白さんや双子が参加すると言っても、自分は遠慮する。ということは、だ。治とはしばらく会わなくなるかも、しれないのか。そうか。そうなる。そういうことに、なる。
 雑に差し出されたお冷に口をつけながら、漂ってくる油の匂いにニコニコする治を盗み見た。
「ん? 他にも食う?」
「いんや」
「遠慮せんでええよ」
「お前相手に遠慮なんかするかよ」
「ふっふ、それもそやな」
 相変わらず上機嫌なそいつを眺めながら、カウンターに頬杖をついた。厨房の中をキラキラとした目で見つめる治を、つい見てしまう。普段なら他人の横顔なんて見ずにスマホを触っているというのに。
 思いのほか、感傷に浸っているのかもしれない。大学に受かったのは嬉しいけど、「気心の知れた友人」と離れるのは惜しいな、と。
 お冷のコップを、それとなく手に取る。視線はまだ治に向けたまま。するりとコップを引き寄せて、縁を唇に添えた。
 ふ、と、治の目が、こちらに流れてくる。
「……んやねん、じろじろ見て」
「えー、横顔だけはやたらと整ってんなあって思って?」
「はあ? 正面から見ても男前やろ」
「並だろ、並」
「上やから」
「……そこで特上って言わないのが治だよね」
「ポンコツやったら、絶対特上て言うわな」
「寿司やったら大トロやぞ! とか」
「あー、言うわ、言う言う」
 大トロやなくても鮪は旨いのにな。顔面の話がなぜ寿司の話になったんだ。つか、自分で自分の顔のコト「上」って言っておきながら、赤身でも良しってことになってない? ぽこぽこ浮かぶ言葉で会話のリズムを組み立てようかとも思うが、治がお冷を口にしたのもあって、流れを止めてしまった。
 肉厚な唇が、たっぷりと水を呑み込む。静かに縁から離れた下唇はほんのりと潤っていた。
 本当に、横顔だけは整っていると思う。彫りが深いというか、鼻筋がはっきりしているというか、全体的にはっきりとした顔立ちをしているからそう思うのだろうか。正面から雰囲気イケメン程度なのに、横から見ると顔が良いなと思ってしまう。
 ……カウンターに座るのは、もしかすると歴代の彼女とのデートでついた癖なのかもしれない。正面で向き合って食べるよりも、横顔を見ながら食事したい、とか。真偽は定かじゃないけれど。
 彼女。彼女か。彼女。
「そういやさー」
「んー」
「治って、専門大阪なんだよね」
「おん」
「……サイトーさんってさ」
「斎藤?」
「うん、斎藤さん。東京、だよね。アオガク行くとかって、聞いた気がするんだけど」
 些か、急だったろうか。顔の話から、進路の話に戻るなんて。でも、これは俺の合格祝いだし、周りの連中がどこに行くとかって話をしたっておかしくは、ない、と思いたい。
 だから、そう、治の彼女の話に触れたって、変なことではないのだ。大丈夫。不可思議な方向には走っていない。いや、そりゃあね、なんで治の彼女の話持ち出したんだよっても思うんだよ。どうせ惚気られるだけだろって。去年からちょいちょい、どこそこでアレを食べたコレを食べたって、やっぱり綺麗に飯食うからあいつはイイ女やって話、聞かされてるってのに。
 でも、口から発してしまった言葉は戻ってはこない。訂正することも、非常に難しい。
 こくんと、再び治は水を口に含んだ。
「らしいな」
「らしいな、って」
 何故か、他人行儀な答えが返ってくる。どうして? 彼女なんだろ。付き合ってるんだろ。少なくとも、冬くらいまでは付き合っていたはず。これは間違いない。だって、惚気を聞かされていたから。そのたびに胸焼けを起こしそうになっていたっけ。どんだけ食ってんだよって、いくら食欲旺盛な男子高校生であっても、げんなりとしてしまうレベル。だが、治にはそれで丁度良かったのだろう。なんたって、この男、食い物への執着が尋常じゃない。食べ歩きに付き合ってくれる彼女となれば、さぞ大事にしていると思っていたのだが、まさか? いや、そんな、まさか。
 ラーメンが来るまで、あとどれくらいだろう。なんだか、聞いてはいけないことを聞いてしまった気がしてならない。口が滑っても、「フラれたの」なんて言っては、いけない。にやけそうになってもいけない。ふわふわと胸に歓喜が巡るのだって、悟られてなるものか。
 謎の緊張で震えそうになる手で、コップを握り込んだ。
「聞いてないの、本人から」
「まったく」
「なんで、彼女だろ」
「いや?」
「は?」
 ああ、予感が当たってしまった。
 ほけ、と口を開けて呆けていると、カウンターにどんっと餃子が二皿乗せられた。瞬時に治は腕を伸ばし、その皿を自分と、それから俺の前に置く。早速、小皿にタレを流しこみ、割り箸を手に取った。
「……は?」
「冷めるで?」
「いや、うん。……じゃねーよ、なに、別れてたの」
「おん。フラれてん」
「い、つ」
「ん~」
 考える素振りを見せながら、治は餃子を摘み上げる。きつね色に焼けた皮が、パリッと音を立てた。そのまま、ちょんっとたれを引っかけ、大きな口の中に。一飲み。ぎゅむぎゅむと頬張りながら、幸せそうに目尻を下げる。
 これは、飲み込むまで答えは返ってこないな。内心で舌打ちをしつつ、俺も割り箸を手に取った。湯気の立つソレを一つ摘まみ上げる。けれど、治と違って一口ではいかない。半分ほど、ざくり、噛みついた。あつっ、でも、ウマ。咀嚼しながらも、残り半分を口内に放り込み、横目で治を見やった。……五個乗っていたはずの餃子は、既に二つに減っている。はえーよ。
「十二月」
「え、なに」
「やから、別れたん」
「……うっそお、気付かなかった」
 まったく、気付かなかった。聞いてないんですけど。そんな顔を向ければ、治もけろっと「言うてへんし」という顔をする。
「たぶん、あっちも別れた~て言いふらしてへんし、誰も知らんのとちゃう?」
「あ、そう……」
 続けて治は餃子を口に放り込む。その都度、旨いと顔を綻ばせて、ラーメンの湯切りをしている店主に満面の笑みを見せていた。
 別れた、ということ自体について、傷ついている様子はない。単に、もう清算しただけなのか。それとも、別れるの自体、抵抗がなかったのか。あ、てか、冬ってことは一年半くらい付き合ってたことになる? 侑との賭け、俺の圧勝じゃん。あとでなんか奢ってもらわなきゃ……。
 じゃ、ねえよ。あの子と上手くいってたろ。過度に干渉もしてこなかったぽいし、バレーもそこそこ応援にきてたし、オフが重なればデートを満喫して、片割れに「ハラタツ~」と歯ぎしりさせるくらいに順風満帆だった、お前らが。別れただって?
 二個目の餃子に手を伸ばせないまま呆然としていれば、やっと治は決まりの悪い顔をした。餃子の皿が空になったからとか、俺がいつまで経っても残りの餃子に手を付けないでいるからでなはない。おそらく。
「なんつーか、な」
「ついに、アタシとバレー、どっちが大事なのとか、言われた?」
「言われてへんわ。そんなん言う奴ちゃうし、つか平気な顔して俺より音楽とる奴やで?」
「おんがく」
「おん。あいつバンドしとって、や、ロックとかやなくて、ジャズ? えー、っと、ビッグバンド?」
 そういえば、彼女は吹奏楽部だった気がする。侑に対して、音止めたいんやったらもっとわかりやすくやれやポンコツと凄んでいた。そのまま喧嘩に発展するかと思えば、いかに指揮者というものが格好良く、その動作で止めさせることが最も強そうで圧を与えられる云々で盛り上がっていたっけ。おい、お前の彼女、片割れとキャッキャしてるけど良いの。それとなく指を差しても、あいつは大丈夫、なんて治は言っていた。まあ、そんな、女子。
 うん? そもそも、そこまで仲良くもなかったのか? 恋人というよりかは、友達の距離感で丁度良かった? ぐるぐると考えてみるものの、コレという解を導き出すことはできない。数学みたいに、つるつると解けたら楽なのに。
 ハッとすると、俺の皿から餃子が一つ消えていた。
「おい」
「冷めるやんか」
「ちゃんと食うから。……てか、サ」
「別れた理由?」
「話が早い。教えてよ」
「……あいっかわらず性悪やなあ、そこフツー聞かんとこちゃう?」
 くっと治は笑うと、隙ありと言わんばかりに再び俺の皿に箸を伸ばしてくる。防ごうにも、治の食欲に勝つことは非常に難しい。というか、箸捌きが鮮やかすぎて、防ぎきれないのだ。これで持っていかれたヒレカツは数知れず。ワッと悲鳴を上げるころには、三つ目の餃子も治の口の中に消えていた。くそ、もう一つもやるもんか。ムキになって、四個目を口に放り込めば、じゅわっと肉汁。ほのかなニンニクと、ニラの香り。パリッとした皮と混じり合って、……端的に言おう。めちゃくちゃ旨い。なんで二個も盗られなきゃならねえんだ。そりゃ、治の奢りだけど。奢りだから盗られても仕方がない? いやいや、そういう話にはならないだろう。
 最後の一個も口に放り込めば、今度はラーメンのどんぶりが置かれた。海苔三枚ほど見えているのが俺のほう。そのどんぶりより一回り大きいのが治のほう。それぞれのどんぶりを手に取れば、すぐに治の分のチャーハンも出てきた。
 これこそ冷める前に食わなくては。邪魔なほど伸びてしまった髪を耳にかけた。
「他に」
「うん?」
「好きな人いるみたい」
「……うん?」
「て、言われてもーて」
 さく、とメンマを齧れば、ラーメンにふーふーと息をかけつつ治が話し出す。そこから啜るペースは速い。それで本当に味わえているのかと思いもするが、どことなく頬が緩んでいるから、旨いは旨いと思ってはいるらしい。
「前もそんな理由でフラれてなかった?」
「つか、大体それでフラれとる」
「どんだけだよ、誰彼構わず飯行くからじゃね?」
「女子は付き合っとるやつとしか行かんし」
 つか、しばらく斎藤としたか行かんかったし。
 肉厚なチャーシューを噛み締めながら、淡々と治は言う。浮気を疑われるようなことはしていない・あいつ以外とどっか行くような時間あったらバレーしとったし・俺がバレーしてる間、延々とサックスの練習しとる女やし、と。ああそうでした、お前も大概バレー馬鹿だった。ほんのちょっとだけ、バレーよりも飯に執着しているというだけで。
「ほんま、浮気とかしてへんねん。けど、あいつにそう言われて、なあんも言い返せんと呆けてたら、遠距離なるしな、別れよか、て」
 治曰く、そう言ったときの彼女は少し寂しそうな顔をしていたと。でも、泣きはしなかった。引っ叩いてくることもなかった。それどころか、深呼吸一つした程度で、ニカッと笑ってみせたのだ、と。
 ぽつぽつと言う治を見るに、どうも他に好きな奴がいるようには見えない。どころか、未練があるようにすら、見えるような、見えないような。
「馬鹿だね、適当に取り繕っちまえばよかったじゃん」
「な、アホやなあ、俺。惜しいコトした」
「お、傷心? 傷心してる?」
「……するわ、そら。けど、まあ、ウン、手ぇ出せへんかったし、そういうことなんやろなって」
 思ったら、何も言い返せへんかった。
 そこまで言った治は、一度箸を起きレンゲを手に取った。綺麗な半球に盛られたチャーハンにすとんと白を通す。掬い上げられたそれらは、瞬く間に治の口に飲み込まれていく。油でか、玉子でか、ぱらぱらの舌触りと思しきソレ。醤油ラーメンを食ってる最中だってのに、食べたくなってきた。半チャーハン、俺も頼めば良かったかな。
 それより、だ。
「手ぇ出せなかったって、なに、どういうこと?」
「キスはしたんやけど」
「あ、ノロケは結構です」
「セックスはできへんかった」
「だからノロケは、……え?」
「そういうに、あいつんこと触れへんかった。そういうタイミングもあったんやけど、なんか、……アカンかった」
「……まじ?」
 一年以上付き合っていたのは間違いない。高校生で、一年以上、となれば、まあそれなりにヤる奴はヤる。むしろヤってないほうが少数派なんじゃないの。
 キスは、した。治はそう言った。そりゃあそうだ、付き合ってんだもん。してたっておかしくないし、付き合っていた期間を思えば当たり前。でも、それだけの期間、カレシ・カノジョしてたくせにセックスしなかっただって? そんなプラトニックな関係で満足していたということか。いや、違う、違うな。そういうタイミングあったって、今、こいつは言った。そのうえで、「アカンかった」と。
 ダメだ、意外過ぎて、思考が追い付かない。侑並に外道とは思わないが、治も結構手ぇ早いモンだと思ってただけに、……そんな印象を持っていたのは俺の勝手か。それにしたって、動揺はする。しまくり。
「なに、えっ、は、ヤんなかったの?」
「おう」
「一年以上付き合っといて?」
「……なんやねん、悪いか」
「う、そお、なんのために付き合ってたわけ?」
「おま……、それやったらセフレでええやん」
「……それはそうっちゃそうだけど、ええ、なに、治もう枯れてんの?」
「んなわけあるか」
「じゃあなんで」
「なんで、て」
 チャーハンを食べる手がぴたりと止まる。あわせて、考え込むように治の眉間に皺が寄った。重たそうな瞼の奥にある瞳は、うらりと泳ぐ。これはなにかしら心当たりがある顔だ。おい、どういう理由で抱かなかった。婚前交渉はどうかと思う、なんて言ったらそのやたらと広い背中ぶっ叩いてやるからな。
「……ええやろ、別に」
 どうやら、教えてはくれないらしい。言えよ。俺とお前の仲だろ。って、言うほど仲良いか微妙だけど。ぶっちゃけ、治より侑のほうが話すし、くだらないことで盛り上がることも多い。治ともそこそこ仲は悪くないと思うが、たぶんそれはクラスが同じだったから。別だったら、どれくらい親しくなっていたことやら。
 もそもそとラーメンに向き合い始める治に、仕方がなく俺もラーメンを箸で持ち上げる。もうもうと湯気を立てるソレに、何度か息を吹きかけて、ずるるっと啜った。
 一年以上、付き合ってたってのに、キス止まりだったんだ。デートはよくしてたのに。あれは食べ歩き? 惚気と思って聞いていた治の話は、思い返せば「あれが旨かった」「これが美味かった」ばかり。彼女が可愛かったという内容は多くない。俺と同じ量食って平気な顔しとった、とかは聞いたけど。要するに、なんだ、彼女とは名ばかりで、食べ歩きトモダチだったということか。でも、キスはしてたぽいし。
 つき、り。おもむろに、肺の辺りが苦しくなった。器官の方にでもいったかな。しかし、噎せる気配はない。
 治と、元・彼女のことを考えるほどに、つきつきと痺れに近い痛みが走りだす。まるで、惚気を聞かされていた頃の胸焼けのよう。あれ、これ胸焼けか? 受験のストレスから解放された直後に餃子とラーメンは重たかった? まさか、そこまで虚弱は極めていない。
 違和感を振り払うように、話を下世話な方向へと戻した。
「もしかしての話して良い?」
「すんな言うてもするんやろ」
「うん」
「なん」
 受け答えをしながら、治はコショウを手に取る。入れない派かと思ったが、ある程度食べてから入れる派なのか。赤いキャップを親指で押し上げ、大きなどんぶりへと向ける。
「治って、――童貞?」
「アァッ!?」
 バサッと、勢いよくコショウが落ちていった。え、それ大丈夫なの。かなり入ったけど。ギャッと続く治の声から察するに、まずいのかもしれない。神妙な顔をして、ラーメンの水面を眺めている。一秒、二秒、三秒ばかり考え込んでから、コショウを置いた。箸を手に取り、そろそろとどんぶりの中をかき混ぜ始める。そうして、おずおずと、一口。その瞳が「あ、イケるわ」と輝く。ほんと、食に関してはわかりやすいなお前。
「で、どうなの」
「その前に言うコトあるやろ」
「ごめんって。でも美味いんだろ、なら良いじゃん」
「お前のせいでかけすぎたんやからな」
「わかってるって。で?」
「……」
「しらばっくれんなよ。どうなの、実際のとこ」
「……」
「黙りこくんないでくださーい、無言は肯定とみなすよ」
 もし違うの言うのなら否定をしてください。わざとにやにやと悪い顔をして煽れば、またもや治の眉間にぎゅうっと皺が刻まれた。そのまま、ぶっきらぼうにコショウの瓶を掴む。あ、やばい。治が構えるより先に醤油ラーメンのどんぶりを避難させれば、柄の悪い舌打ちが聞こえてきた。
 でも、ちょっとはかけよっかな。ひったくるようにして治の手から瓶を奪い、トントンと適量をスープに落とした。
 その間も、治から、否定の言葉はかえって来ない。
「いやー、まーじかー」
「……悪いか」
「いや、悪いってこと、ないけど」
 意外だなって。言葉にはしなかったが、通じたのだろう。むっと尖った唇にスープの入った蓮華が吸い寄せられていく。
 わざと悪い顔を作っていたはずが、今やにやけないよう表情筋に叱咤を打つことになるとは。だって、にやけちゃうだろ。こんなの。あの宮治がまだ童貞なんだよ。ちょっと可愛いじゃん。あれだけもてはやされて、彼女もいたことがあって、長続きだってしていて、見事なアオハルやってのけたとおもったらまさかの、童貞発覚。面白すぎるだろ。
「そういうお前はどーなん」
「え、俺?」
「ん」
 そもそも彼女いたことあるのか。治の顔にはそう書いてあった。まったく、失礼な奴だな。口にしないのが片割れとの違いってとこかな。彼女ね、彼女。いたことあるよ。これでも。こんな面でも。三か月くらいだったけど、その三か月で、お前よりずっと進展したのは断言できる。
 軽い優越感に浸りながら、口を開いた。
「高1の終わり頃」
「……は」
「に、付き合いだした子と」
「や、やったんか」
「……ヤった」
「う、嘘やろ!?」
「嘘言ってどうすんだよ」
 ぶっちゃけ、そのセックスが原因で別れたんだけど。角名君大きいし、怖かった。優しくしてほしかった、ってさ。こっちだって初めてだったんだから、どうしようもなくね、と思いはしたものの、彼女にとっては軽いトラウマになったらしく「ごめん」と謝ってサヨナラ。
 そんな背景はさておき、俺が非童貞であることにかわりはない。ふふん、と偉ぶって見せると、治のレンゲを持つ手がプルプルと震えていた。そのくせ、右手の箸はチャーシューを捉えて離さない。動揺しても、食欲を脅かすまでの衝撃ではないって? 本当に、飯が好きな奴だ。
「うそやろ……」
「先越されたの悔しい? 悔しい?」
「くやしい、つか、あぁ~くそっ、意地でもヤっとけば……、いやそんなんムリやったし、」
 暇があったらボールを触っていた。侑に振り回されることも多くて、デートの時間より圧倒的に体育館にいることの時間のほうが長かった。なにかと飯を食いに出かけはしたが、夕方にはバイバイしていたし、そういう機会がなかったこともないが、お互い腹が膨れてしまってそういう雰囲気にも辿り着ききらなかった。ウンヌン・カンヌン。
 もそ、とチャーシューを食んではひとりごち、またもそもそと頬張っては陰鬱としだす。見ているだけで、面白い。だが、俺の中に佇んでいた優越感はしゅるしゅると萎み始めていた。こんなことで悦に浸ってどうするんだ、っていう思いと、ここまでわかりやすく落ち込まれて不憫に見えてくるのと、その二つのせいだろう。
 トモダチと苦しむ顔を見たいって性分じゃない。好きな子ほど虐めたい? くだらないね、小学生じゃあるまいし。
「……そんな童貞卒業したいの」
「したいわ、男やぞ」
「そんな男がなんで二年近く付き合った彼女に手ェ出さなかったのかも不思議だけどな」
「あぁああ喧しいわ、こっちにはこっちのやり方があんねん!?」
「まさかアンチ婚前交渉派?」
「ンなわけあるかッ、ただ、」
「ただ?」
「こう、なんつーか」
「オラ、どうしたポンコツ、言語化しろよ」
「こっ、」
「こォ?」
「壊れそう、やん、……あんなちっさい体、組み敷いたら」
「初心か」
 人間そう簡単に壊れやしねえよ。ましてそういうふうにできてんだから、お前が望めばホイホイとセックスくらいできたろうに。そう言ってやりたいところだが、自分の経験を思うと閉口せざるを得ない。そういえば、彼女は結構小柄だった。一六〇はない。そのくせ治並に食うと言うのは信じがたい話ではあったが。
 それはそうとして、片割れがホイホイと女子に手を出しては盛大なビンタを食らっているのだって、こいつは見ている。女って、結構強かだよ。いくら小柄と言ったって、自分の身長と同じくらいの楽器ケース、ほいほいと持ち歩いてたじゃん。確か。押せば、やれたかもしれないのに。
「じゃあ、あっちが小柄じゃなかったら手、出してた?」
「……小柄じゃない、て、例えば」
「女バレみたいな、俺らとそう変わんない身長の女とか」
「……?」
「想像してみ」
「あかん、むり」
「即答かよ」
 残っていた餃子を口に放り込んで咀嚼していれば、ついに箸を止めて治はうんうんと唸りだす。
「むり、つか」
「うん」
「捌け口、に、したら、悪い、と思てもて」
「……ほんとにお前アレと同じDNA? 人が良すぎない?」
「おんなじてわかっとるから気にするんやろ」
 どんだけ優しんだ。
 ……人に優しく生きると、決めたからこそ、なのか。話が掴めてきた。こいつが未だに童貞なのは、あれこれ体裁を気にして、あえて手を出さないできたからだ。その結果、勘違いをされて「好きじゃないんでしょ」と言われて別れる羽目になる、と。哀れな男だ。
 ラーメンに箸を戻せば、おずおずと治も箸を動かし始めた。ただの俺の合格祝いのはずが、テーマトーク「宮治は何故童貞なのか」になるなんて。誰が予想した。侑が来なくてよかったのは間違いない。
 気遣いのし過ぎなんだよ。もっと好き勝手すれば良いものを。アレとやりあっているときと同じくらいのベクトルを向けるのは勧めないが、こいつが思うほど気を遣う必要がないのも確か。まったく、サイト-も厄介な男と付き合ったもんだね。よくもまあ、二年近く耐えたよ。いや、彼女だからこそ、耐えられたというか、やってこれたと思うべきなのか。治、たぶんお前、惜しい女を逃したよ。サイトー、東京で良い男見つけろよ。
 もやもやと考えごとをしながら食べると、物の味がわからなくなる。というのは、よくある話だが、ここのラーメンは考えごとをしながらでも旨い。ハッとするくらい旨い。俺もチャーシューにしとけばよかったかなと思うくらい。治のどんぶりから、一枚盗んでやろうか。……無理だな、そんなことしようものなら、一生恨まれそうだ。
 ふわっと治に意識を向けると、相変わらずの整った横顔でラーメンを啜っている。良し悪しは別として、これだけ優しい男が、今、フリー。待て待て、俺今何考えた? これだけ優しい男にちゃんと愛されたら、さぞ幸せだろうなとか、思って、ない? ……思ったよ、認めよう、思った。サイトーのほうこそ、もったいないことしやがって、っても、思った。
 こんなの、同情を通り越している。まるで、俺が治に好意を持っているみたいじゃないか。そりゃあ好意は持ってるけど、そういう、……性欲が伴うようなものじゃない。チームメイトとか、友愛とか、そういう類のもの。万が一のことなんて起きることはない。天地がひっくり返ったって、ありえない。治は専門に行って、料理の勉強して、そのうち可愛い女の胃袋掴んで結婚する。俺だって、大学行って、バレーしながら彼女ができたりして、トントンと歳をとっていくんだ。そうに、決まっている。そういう人生を、歩まなくちゃならない。
 道を、踏み外してくれるなよ。
 自分に言い聞かせてから、スープまできっちり飲み干した。カランとレンゲをどんぶりに放ると、治はチャーハンの皿を空にしたところだった。俺よりも一回りは大きかったどんぶりの中身も、いつの間にか空になっている。
 腹はいっぱい。お冷を飲んで、一息。もう、満足、している。
「あのさ」
 ごちそうさま。ありがと治。支払いはよろしくネ。……そう、続けるんだ。
「た、とえば、の、話なんだけど」
 おい、馬鹿、何を口走ってんだ。
「女が駄目なら、男みたいなガタイは、どーなの」
 ああ、あああ。言ってしまった。何を言っているんだ。なんてことを言っているんだ。どういう流れだ。そりゃ、女じゃ気にしてしまってできないって話だったけど、だからってこれは、ない。ないだろ。ないよ。馬鹿。
「どう、て」
「さっきの、ほら、手出せるかとか、そういう」
 ほら、治戸惑ってるじゃん。さっさと「なんてね、冗談」って誤魔化さないと。
 いくら自分に言い聞かせても、脳内でけたたましく警鐘を鳴り響かせても、さっぱり口は言うことをきかない。
「おとこ?」
「そ」
 そ、じゃないよ。
 くそ、背中がじっとりと冷たくなってきた。体育館で動いていたのと、変わらないくらいに汗をかいている。それも冷や汗。まずいことを言っているという自覚があるんだ。あるのに、止められない。なぜ? どうして理性が効かない。興味の赴くままに口にしてしまう。これじゃ、あの人でなしを笑えない。
 何アホなこと言うてん。そう、言ってくれ、頼むから。気持ち悪いだろ、治だってそう思うだろ。だから、その、ああ、なんで呆けた顔から真面目に考え込む顔付きになっているんだ。考える余地があるとでもいうのか。嘘だろ、期待しそうになる。……期待、だって? 馬鹿な、俺は本当に何をしたいんだ。あくまで俺は、治のことはチームメイトとして好きで、恋愛感情を向けたことはなくって、――でも、彼女ができたという話を聞いた時に胸が痛んだのも事実で。
「俺、」
「っ」
 目があった。途端、心臓が跳ねる。肩は揺れなかったから、動揺は悟られていないと思う。にやけることはあっても、それ以外の表情には乏しい俺だから、焦った顔だってしていない、と思うし。
 嫌だ、聞きたくない。耳を塞いでしまいたい。けれど、治の厚みのある唇は、はくりと空気を呑み込んだ。
「お前やったら」
「ま、って、待て、まって、やっぱ今の話」
 なし! もう奢ってくんなくていいよ、金置いてさ、俺帰るから。飯付き合ってくれてありがとう。だから、だからだから頼む、それ以上は、言わないで。
 焦るままに、カウンターから立ち上がった。
――抱けるわ」
 天啓を受けたかのような顔で、そいつは俺を見上げてくる。
 さらには、きゅ、と俺の手首を捕らえていた。
「……じゃあ、抱いて、みる?」
 思考は真っ白。なのに、舌だけは回っている。あれ、俺なんて言ったよ。やばいこと、口走ってねえだろうな。もしかしたら、大学受かって、結構浮かれてる? そんな、馬鹿な。
「ええの?」
「……え、ええの、って」
「してええの」
「えっ」
 アッ、はい。
 とりあえず頷いてしまった。頷かなきゃいいのに、何マジになってんだよ、冗談だって、って言うべきなのに。やばい、どうしよう。混乱は止まることを知らない。脳みそは依然として真っ白なまま。さっぱり動いちゃくれない。
 気付くと、治は立ち上がっていた。俺の手首も離している。逃げるなら、今? でも、足は動こうとしない。視線で、治の背中をおいかけるばかり。その背中は、財布を持って奥の古ぼけたレジに向かっていた。おばちゃーん、お会計。やたらと大きく言った治を、ただただ見つめることしかできない。
 颯爽と会計を終えて戻ってきた治は、鞄を肩に引っ掛け、再び俺の手首を掴んだ。がしり、と。ボールを片手で弄ぶ大きさの手が、しっかりと、俺の腕を掴んで、離さない。
 もう、逃げられない。
「いこ」
「え」
 どこに。尋ねる前に、治は歩き始めてしまった。斜め前方から、ぐいぐいと腕を引かれる。腹の中に後悔が巡るが、一方で浮足立っている自分もいる。数分前の自分の口を塞ぐか、頭を引っ叩きたいのに、よく言ったと褒めたくもなっている。
 ああ、もう、だめだ、わけがわからない。なるように、なれ。クソッタレ。
 と、絶望と期待が渦巻く体を引く力が、消えた。え? 顔を上げると、治がこちらを向いている。視線の先にあるのは俺、ではなく、店内。
「おっちゃん、ごちそうさん、今日もンまかった!」
 ――ああ、くそ、こいつのこういうとこ、すき。

 そうして俺は、まんまと治の家に連れ込まれ、脱童貞劇に巻き込まれたのであった。