QA

Q.なんで、そんな俺のこと特別扱いすんの?
A.そら好きやからな。――抱きたい、て思うくらいに。

 ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に突き刺した。がちゃんという錠の外れる音を確かめてから、ゆっくりとドアノブを捻る。あわせて手前に引けば、鉄製の扉が軋みながら開いた。ごくん、と、唾を飲み下した音は、背後にいるそいつに聞こえてしまったろうか。蝶番の軋む音が被さったから、大丈夫? 大丈夫、ということに、したい。させてほしい。
 いつも通りを意識しながら玄関の敷居を跨いだ。すると、掴んでいた扉の重さが手から消える。ちら、と後ろを盗み見れば、角名の手が扉を押さえていた。目が合うことはない。そいつの目線は、うらうらと足元のほうを泳いでいる。
 ああ、いや、足元から上ってきているな。ゆっくりと、角名の瞼が持ち上げられていく。俺の足が止まったせいだろう。なんでこんなところで立ち止まってんの、さっさと中入れよ。そんな文句の気配を携えた目を向けられる。
 その目に、恥じらいも孕んで見えるのは、気のせいだろうか。
「なに、怖気づいた?」
「……怖気づいてへん」
「づいてんだろ、今の間は」
「俺は、別に、……つか角名こそビビってんちゃうの」
「はぁ? 誰がビビって、」
 と、角名の動きがぴたりと止まった。
 え、なに。つられて呆けると、少し離れたところから、カン、カンと階段を上る足音が聞こえてくる。隣人か、あるいは上の階の住民か。よくもまあこの足音を聞き取ったものだ。俺だったら絶対に気が付かない。
 妙な感心を覚えている間も、足音は階段を上っていく。……ということは、隣人ではないらしい。徐々に足音は遠ざかり、かすかに上の階から扉の開いて、閉まる音がした。ぼんやりと、風の吹き抜ける音がする。人の気配は、壁で区切った空間以外からは、漂ってこない。
 ようやく、角名の肩から力が抜けた。
「……ビビるよ、そりゃ」
 投げやりに吐き出された声を聞きながら、振り返る。それとなく見やった角名の両足は、まだ共用廊下の上。頭も上枠を越えてはいない。
「まさか、……好きとか、抱きたいとか、言われるって、思わないじゃん」
 それもこんな図体の大男を、わざわざ組み敷こうと思う気が知れないよ、俺だったら絶対無理、どんなに細身だったとしても自分よりでかい奴を抱こうとか、思う?
 つらつらと、角名は早口気味に付け加えた。かといって、声を大きく荒げるふうではない。内緒話をするときみたいな、掠れそうな、声色。それがかえって色っぽく聞こえる、と言ったら、どんな顔をするだろう。
 こくん、と、もう一度唾を飲み下した。喧しい心臓を、どうにか落ち着かせる。緊張なんか、してる場合じゃない。
「角名」
「……ナンデショウカ」
「いやなんで敬語?」
「うるせえな、ビビってんだよ」
 わかる、俺もちょっとビビっとるし。怖気ついてないわけがないのだ。でも、そうやっておろおろしていたって、前には進めない。折角の機会を逃して堪るか。あれよあれよとタイミングを逃して、いつまでもあの先輩と顔を合わせられずにいるポンコツとは違う。 
「俺、」
 おもむろに、角名の、扉を支えていないほうの手首を捕らえた。
「冗談で人のこと「好き」とか「抱く」とか、言わんから」
「ぅ、……ッへ!?」
 ぐ、と力任せに引き寄せれば、俺より数センチばかり大きい体躯が前屈み気味に敷居を跨ぐ。ぎりぎり頭はぶつけずに済んだらしい。ここで額を強打していたら、カッコつけた意味がなくなるところだった。ああ良かった。
 安堵しているうちに玄関扉はがちゃんと閉まる。すぐさま空いている方の手を、扉に突き立てた。引っ張られて、けれど即座に引っ張られた側から圧を掛けられて、がくんがくんと角名の体が揺れる。まさにされるがまま。俺の動きに従うしか、できない。これ、幸い。
 ガチンと錠をかけながら、そいつの薄い唇に噛みついた。
「ぶ」
「っ、ぶ、ね」
 だが、しかし。思ったのとは全く違う感触。本来ならば、もっと柔らかく沈むはずなのに、硬い感触に阻まれる。ごつごつとした関節の、硬さだ。これはちょうど、指の付け根あたりだろうか。
 相変わらず良い瞬発力をしている。咄嗟に自分の口覆うなんて。キスをされると、読んでいたみたい。まあ、ええわ、あれだけ言い訳を並べるような奴が、一筋縄で屈するとは思っていない。
 ぎゅ、と唇を押し付けたまま、すぐそばにある切れ長の目を睨み付ける。と、ゆらり、黒目に逃げられた。冷静さを保ったままのこいつだったら、じぃっと見つめ返しながら煽ってくるはず。それをしないとは、相当動転していると見た。可愛えなくそ。
 じっ、と、そいつを見つめた。瞳は、相変わらず俺のほうを見てはくれない。……そろそろこっち見てくれてええんちゃう? 見てほしい。ふつふつと腹の底から泡のように欲が立ち上ってくる。いや、訂正しよう。気がするなんて曖昧な程度じゃない。俺のコトを見てほしい。視線を絡み合わせたい。
 こっち、見ろや。
 唇の表面で、そっと、角名のの中指、付け根の辺りを食んだ。それからチロリ、舌先で触れる。するとかすかに、肩が上下した。おや、舐められるとは思っていなかったらしい。どうせ、諦めてすぐに顔を離すと思っていたのだろう。残念でした。
 ちゅ、今度は付け根に吸い付いた。指の皮膚を引っ張るように吸って、舌でつついて、また吸って。……まだ、こっちを見てくれない。そろそろ観念しろや。しゃーないから、目があったら、一旦離れたるし。……キスを諦めるわけちゃうから、すぐまたちゅーするけど。
 なあ。
 ぢゅ、と、水音が鳴る。あからさまなものではない。けれど、そいつを煽るには充分な音量。黒目の縁が、ぶれて見えた。うっすら、目尻も色づき始める。イイ感じに、血、巡っている。着実に、角名の中が羞恥でいっぱいになっていく。
 なあ、角名。
 念じながら、また吸い付いた。こっちを見ろ。視界の端に俺を映すのではなく、中央に映してくれ。真っ向から、見据えてくれ。
「ぅ、あ、のさ」
「う?」
「ほんとに、する、の」
 ふと、瞳が震えた。斜め下方から、そろりそろり、移動してくる。文字通り眼前にある睫毛は、瞼と一緒に持ち上げられていった。
 ぴたり。目が合う。視線が重なる。この距離のまま永遠に見つめ合っていたい。でも、そんなことをしたら、セックスしにくそうだ。前言撤回、名残惜しことこの上ないが、一度、距離をとろうか。一回目が合ったら離れるって、念じてしまっているわけだし。これで離れなかったら、嘘吐きやがってと文句を言われてしまう。それもこれも、角名が俺の腹の中を完璧に読めたらの話だけれども。
「そのためにここまで連れてきたんやけど」
「まぁ、そーね、」
「ならええやん」
 この期に及んでやらないというほうが、ナイだろ。むしろ、ここまで期待させておいて「やっぱりダメ」というほうが酷。鬼畜。鬼の所業。
 名残惜しくも体を退けば、ずるりと口を覆っていた角名の手が滑り落ちた。現れた薄い唇は、綺麗なへの字を描いている。中央より左側に頂点を作っているから、本当に「へ」の字。
 ああ、くそ、塞ぎたい。
 上唇と下唇、それぞれ重ねてしまいたい。唇をくっつけたまま何度か押し付けて、ふにふにと感触を楽しみたい。それから角度を変えて、舌を捻じ込みたい。いやいやと引き結ばれる唇を絆して、解して、緩ませて、隙を見せた瞬間に中へ押し入ったらどんな反応をしてくれるんだろう。更に奥に逃げようとする舌を追いかけたら、歯列をやんわりとなぞってやったら、粘膜の薄い上顎をさりっと擦ってやったら。……やりたいことは尽きそうにない。
 ああ、もう、キス、したい。キス。
 この際、ぎゅむ、と、押し当てるだけでも、良いから。
「ぅ、む」
「ん」
 気付くと、互いの唇が、触れていた。
 ふわりと、唇を重ねるだけのキスを、交わしていた。
「っは、ぁ、……気、済んだ?」
 触れていたのはほんの数秒のこと。あんなにも疚しい欲を抱えていたのに、一ミリか二ミリほど沈ませた程度で、離れてしまった。あれ、なんで? もっと濃厚なものをしようとおもったのに。この際、なんて妥協を過らせてしまったからか?
 子供でもできるような触れるだけのキス。国によっては、挨拶のうちに入ってしまうことだろう。それほどまでに、軽やかなもの。気が済むなんて、そんなわけがない。
「……」
「なんか言えよ」
 しかし、だ。
「……や、ば」
「は?」
 角名の呆れた声と同時に、唇に吐息がかかった。熱を孕んだそれは、じんわりと肌に沁み込んでくる。それこそ、さっきのキスの感触のように。ゆっくりと、脳みそを侵食していく。
 キスをした。誰と。角名と。それも触れるだけのキス。色気は欠片もない。遥か彼方へ旅にでも出たみたいにない。さすがに大気圏を突破するほどの遠くへは行っていないだろうが、海を越えるくらいはしたかも。北海道とか。九州とか。……や、九州はな、案外近いか。なら、北海道で。そんな感じのところに、色気は旅立ってしまった。
 つまるところ、あれこれ思い描いた、やらしいキスはしていないのだ。
 にもかかわらず、この、胸を満たす、熱は。
「結構、満た、された、かも……?」
 そろそろと、自分の口元を手で覆った。人差し指が上唇、中指が下唇にあたる。じわ、と、滲むように広がる熱は、自分の手の熱感ではない。触れていた、角名の、体温。
「まじで言ってる?」
「ど、どないしよ、俺枯れたんかな」
「俺に聞かないでよ、てか、は? ほんとに?」
「うわ、うーわ、嘘やろ、なんか、うぅう」
 先ほど、指の付け根に吸い付いたときはなんとも思わなかったのに、唇同士の接触になった途端コレとは、どういうことだ。唇を中心にして、熱が顔中に伝っていく。鼻の頭、目頭、額のルート。頬、目尻を経由して耳に辿り着くルート。顎を通り抜けて、首、そして体へと伝播していくルート。ああもう、体中が熱くて仕方がない。
 こんな予定じゃなかった。もっと、濃密で艶やかで淫靡なキスをして、こいつの足腰を砕く予定だったのに。あくまで予定は予定。予定である以上未定でしかなくて、決定事項にはなりえないと?
 悶々と自問自答を繰り返しながら、もすり、角名の肩に頭を乗せた。あんなにもこっちを見ろと思っていたのに、今度は俺が角名のことを真っ当に見ていられない。たった一つのキスでこんなにも動揺するなんて。思春期じゃあるまいし。じゃあどう理由付けたらいいんだ。予想外に、角名のことが好きで好きで仕方がなかったと? そりゃあ、学生の頃から、特別に好きだったとは思うけれど、ここまで拗れているとは思わなかった。これじゃあ片割れを笑えない。
「俺、角名とキスしたんやなって、思たら」
「……待って、やめよう、お前のせいでこっちまで恥ずかしくなってきた」
「キス、できたんやなって、思、」
「やめろってば!?」
 ぐりぐりと額を押し付ける力を増やせば、耳元でギャンッと角名が叫んだ。すまん、でも俺ばっか恥ずいの癪やから、死なば諸共・一緒に羞恥に苛まれてほしい。
 身勝手なことを考えながら、ずり、ず、ずずと、落ち着く体勢を探して頭の位置をずらしていく。肩に額の全面を乗せる。ちょっと違う。こめかみを肩に乗せてみる。さっきのほうがマシ。首から肩にかけてのラインにくっついてみる。首を傾げてくれたら良い塩梅かも、けど、今の体勢のままだと収まりが悪い。
 良い位置、見つからんな。閉じていた目をそっと開くと、薄くも熱い皮膚が、視界一杯に広がった。人の首は温かい。太い血管が通っているから、という理由で間違いなかったろうか。
 角名さんの体温を、感じられる位置。唇が纏っていたのと、近い温度に触れられる場所。収まりは良くなかったとしても、熱を感じられると言う意味では、悪くないポジションなのかもしれない。頭を預けたまま擦り寄ると、毛先がくすぐったかったのか、ンと鼻に抜ける声がした。オワ、今の、声、なんか色っぽい。もう一回聞けたら、試される大地に飛んでった色気も帰省する気になるんちゃう?
 ちゅ、う、と。首と体の境目、鎖骨のすぐ上あたりに、吸い付いた。
「ン、ちょ、なに、やめっ!?」
 これは、色気も帰って来るな。
 慌てふためく声を聞き流しながら、しれっと角名の腰と背中に腕を回した。
「いや?」
「い、きなり、首噛まれたら、……びっくりするじゃん」
「噛んでへん」
「噛んだようなもんだろ」
「キスマーク、つくし?」
「痕は、つけないでほしい、ナー」
「……」
「ッおい無言止め、ぅ、ア」
 角名の要望は聞かなかったことにして、おおよそ同じところに、きつく吸い付いた。頃合いを見計らって口を離せば、くっきりと鬱血痕が咲く。こいつの肌そのものが白いのもあって、赤いそれはよく映えた。これはいい、もう一つつけたい。一つと言わず、二つ、三つ。
 口内に滲んできた唾液を飲み下し、もう一度吸い付かんと首筋に顔を埋めた。
「なぁにしてくれんだよ!?」
「あだっ」
 しかし、吸い付くより早く、脳天に拳を下ろされた。これは拳ではなく指二本を突き立てられたと言ったほうが正しいか。振動が強かったせいで「あだっ」と声を上げてしまったが、痛いか痛くないかで言えば痛くはない。旋毛の辺りがじんっと痺れる程度。えぇー、と不満を口にしているうちに、その痺れも失せていく。
 後ろ髪を引かれながらも首筋から顔をあげると、すぐそばに角名の口元が見えた。ほんの少し体を傾けたらキスができる近さ。ふ、唇に、吐息がかかった。
「ほんとに、首はやめて」
「なんで」
「見えるじゃん」
「見えても」
「良くねーよ」
 吐き捨てた角名の顔を見上げれば、くっきりと眉間に皺が刻まれていた。嫌ヨ嫌ヨモ好キノウチ。なんて格言を信用するほど、俺の人格は破綻してはいない。本当に、嫌がっているやつ。かつ、実際に角名が困るやつだ。困らせたくはないし。
 首に吸い付くのは止めよう。心に決めて、もそりと傾けていた頭を起こす。
 真正面から、角名の顔を眺めた。学生の頃より、髪は短くなっている。みょんみょんと跳ねていた毛先は、きちんと頭の形に沿って流れている。チャラついた印象は、ほとんどない。大人になったというべきか、スポーツマンらしくなったと思うところか。変わらないところと言えば、前髪の分け目くらい。つるんとした額が、黒髪から覗いている。
 ごつ、と。その額に、自分のソレを重ねた。必然的に、鼻先もぶつかる。
「改めまして」
「改められまして」
「キスしてええ?」
「……いまさらすぎない?」
「たしかに」
 クッと喉で笑ったのは角名のほうか、俺のほうか、あるいは両方であったのか。笑み交じりの吐息が落ち着いたところで、残る一センチの距離を削った。それをするのに、コンマ一秒とかからない。
 ふに、と、触れた瞬間、ほんの少しだけ抱きしめる力を強めた。
「ん」
「む」
「ゥ」
 鼻を抜ける声を聞きながら、そろり、片手を腰まで滑らせた。それから、シャツの裾に指先を潜らせる。
「ッふ」
 あ、今の息遣い。ぐっとくる。
 侵入させた手の平で、薄皮一枚に触れるように腰を撫でた。驚いたとき、くすぐったいとき、こいつは背を丸めるんだったか、反らすんだったか。……意識して観察したことないわ。わからん。指二本で歩くように皮膚を擦ると、かすかに上体がこちらに倒れてくる。よりくっきりと浮いた背骨に指を乗せると、今度はひくんと体が震えた。
「ぁ」
 同時に響く、裏返った、声。
 堪らないったら。
 ずず、と、大人しくしていた、背中に残していたほうの手を移動させる。シャツの布地に引っかかりながら、どうにか襟首へ。でも、目的地はもう少し上。うなじに触れると、毛先が指を掠めた。艶やかに見えていたが、毛先は案外乾燥しいる。ぱさぱさ。自分と違って、染めたことはないはずなのに。こんなにも髪質が違うのか。さりさりと短く切り揃えられたソコを逆立てるように手を滑らせていく。髪の感触は、指だけでなく、手の平をも、覆っていく。
 そうしてすっぽりと、そいつの後頭部を、押さえた。
「角名、」
「んだよ」
――好きや」
 至極真面目に告げれば、きょとんと、眼前にある顔が呆けた。けれどそれも一瞬。じわじわと、目尻に朱が差し始める。薄い唇は、もごもごと波打った。