つきん、

 真っ赤な紅葉が咲いた。
 はて、今は一体、何月何日だったろう。パッと飛び込んできた赤に、カレンダーを思い浮かべる。秋、と言われるような時期は、とっくに過ぎ去っている。ついでに、冬もほとんど終わり。間もなく春が芽吹き出す頃合い。明らかに、紅葉の季節ではない。まだ、桜の季節と言ったほうがしっくりくる。
 瞬きをしてから、視界に入り込む真っ赤なソレをまじまじ見つめた。五つに分かれた、手の平状の赤。というか、手の形をそのまま写したようにしか見えない、赤。
 気付くと、頬が緩んでいた。
「……ねえ、撮って良い?」
「良いわけあるか」
 にやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら電子端末を取り出すと、カメラの位置を覆うようにして手を伸ばされた。ぎゅむ、と、レンズに指先が押し付けられる。立ち上げたはずのカメラ画面は真っ暗に染まった。
 いいじゃんか、撮らせてよ。何でこんな面取られなあかんねん。こんなくっきりはっきりキレイに手形ついてんだよ、撮らないでどうすんの。……目線だけで会話をしてみるものの、そいつの指先が俺のスマホから離れる気配はない。むしろ、ぎゅむむむ、といっそう強く押し付けられているかのような感触がする。ああ、これは間違いなく指紋がついてしまっていることだろう。
「だめ?」
「だめ」
 念押しのように強請ってみるも、返事は一貫してノー。いっそ開き直ってピースサインでも見せてくれればいいものを。こういうとき、こいつの片割れだったらやってくれるのだろう。人付き合いが悪いようで、妙なところでノリが良い。けど、その写真を先輩らに見せようとすると、たちまち待て待て消せ消せと言ってくる。特に主将を継いだばかりのあの人には見せてくれるなと。あいつ、どんだけ北さんのこと怖いんだろ。そりゃあ俺らの中で一番正論パンチ喰らって完膚なきまでにメンタルボッコボコにされてるのは侑だけど。
 そんな片割れの話はさておき。
 頬に綺麗な張り手の痕をつけた治は、いつにも増して「ム」と口を歪めていた。
「つまんな」
「つまんなくないわ、第一お前、撮ったら真っ先にツムに見せるやろ」
「そりゃあね」
 見せるよ。治のそういうトコ見たとき、一番いい反応するの侑だもん。で、その侑のテンション上がりまくった顔をまた撮るのだ。なんでって、面白いから。
 ち、とまったく重さのない舌打ちを鳴らしながらスマホをしまうと、治は軽く息を吐いてから頬杖を突いた。ボールを掴めるだけの大きさの手のひらは、いとも簡単に真っ赤な痕を覆い隠す。……隠す、というより、押さえる、というほうが正しいのかもしれない。顔を乗せた手の平が、ゆるゆると腫れそうな頬を揉んでいる。まあ、あれだけ真っ赤に染まっていたのだ、痛くないはずがない。
「で?」
「で、て?」
「フラれたの、フったの」
「……フラれた」
「へーえ、何か月だっけ」
「三か月」
「お、結構もったじゃん」
「三日でフラれるポンコツと一緒にしなや」
「はは、まあねえ」
 脚を組みながら適当な相槌を打てば、やっと治はこちらを向いた。重たそうな瞼そのままに、じっとりと視線が刺さってくる。その瞳は、実に雄弁だ。人格ポンコツ野郎と一緒にするな。ひしひしと伝わってくる。ごめんごめん、でもお前だって、最短一週間でフラれたことあるじゃん。見ているこっちからしたら、どっちもどっち。団栗の背比べ。言おうものなら、深刻に凹むから言わないでおくけれど。
「オツカレサマ、フラれた上にビンタなんて災難だったネ」
「棒読みすんのか、面白がりたいのかどっちかにならん?」
「んー、正直ゲラゲラ笑いたいところなんだけど、治の手前我慢しとこうかなと思ったら棒読みになったかんじ」
「はらたつわー」
 治もまた棒読みのように言うと、ずるずると頬杖を崩して机に突っ伏してしまった。あらら、これは案外凹んでいる。呼び出されたかと思ったらむすっとして帰ってきたから、とにかく気が立っているモンだと思ったのだが、そうでもなかったらしい。突っ伏したおかげで旋毛がよく見える。その旋毛から、悶々と「なんで」「嘘やろ」「ええ俺なにしてもうたん」と自己嫌悪が滲み出した。
 まったくこの男、片割れとは打って変わって人が良い。いや、良い人であろうとしているというのか。そういやいつだったか言ってたな、あのポンコツと並んで堪るか、俺は人に優しく生きると決めたのだ、と。
 ゲリツボ、なんて思いながら、ドスッと旋毛を突いた。
「ヴッ」
「オラ、一人で悶々としてんじゃねーよ、なんてフラれたのか教えろよ、やっぱアタシとバレー、どっちが大事なのってやつ?」
「アホか、そんな常套句でフラれて堪るか」
「この間はソレでフラれてたじゃん」
「それはそれ」
「棚に上げやがって」
 ぷすぷすとなおも旋毛を突き続ければ、やたらと緩慢な動きでそいつは首を捻った。腕の隙間から、気怠そうな目が垣間見える。ついでに、手形の端のあたりも見えた。叩かれていない部分との色味の差は大きい。どれだけ強い力で引っ叩かれたのやら。
「……すきやないみたい」
「ん?」
 ふと、治が何かを言ったらしかった。しかし、もごもごとした発音で上手く聞き取れない。口元が腕で覆われているせいもあるのだろう。なんて? 聞き返すと、かろうじて見えていた治の目が、再び腕の仲へと隠れてしまった。おい、中途半端に言うんじゃねえ、言うならはっきり言えっての。ぷすぷす脳天を突くのを再開すると、くすぐったかったのか、突っ伏したまま治は身じろぎをした。
「好きやないんやろ、て、言われて、」
「あ、なに、彼女に」
「ん。で、言い返せんでたら泣きそうな顔されて」
「あらら」
「引っ叩かれた」
「……え、待ってなになに、どういうこと、いきなり飛躍してない?」
「知らん。すっごい悲しそうな顔しとる、おもてたらビンタ飛んできた」
「……それさあ、治なら避けられたんじゃない?」
「ブッ叩いてすっきりしてくれるんやったら、ええかな、て」
「でもフラれたんだろ」
「ん……」
 ず、と、腕に隠れた奥から鼻を啜る音が聞こえてきた。案外どころじゃないな、こいつ、半端なく凹んでやがる。そんなに彼女のことを好きだったのだろうか。それなりに大事にしてはいるように見えたけど。
 好きじゃない、ねえ。もごもごと喋った治の発音ではなく、治の彼女、ではないか、元カノの声色を思い出しながら脳内に音を作る。派手でもなく、地味でもなく、とりたてて個性のない女子。なぜ治と付き合っていたのかはわからないが、治は「箸遣いが綺麗」と言ってた。おそらく、学食かどこかで居合わせたときに治が見惚れて、向こうも治の食いっぷりに面食らって、なんやかんや付き合うことになったのだろう。たぶん。
「もう」
「ん?」
 相変わらず、治はもそもそと喋る。普段の、関西の人間らしいパキッとした喋り方はどこへやら。ここまで凹む様子を見て、やっと憐れに思えてきた。だって、前の彼女にフラれたときは、清々しいまでにはっきりと「フラれてきたわ」と言ってたものだから。それだけ、箸遣いが綺麗だという彼女に入れ込んでいたということ。
 かわいそうに。ザマーミロ。
 流れるように二つの言葉が浮かんでくるあたり、俺の性根は捻じれている。とはいえ、その捻じれた言葉を投げつけるほど、俺の人格はポンコツではない。よしよし、良いことあるって。仕方ねえなあ、ラーメン一杯くらいなら奢ってやるから元気出せよ。その調子で部活行ったら、侑にどやされるよ。辛気臭い面しよって、腹立つわ、やる気ないんなら帰れや、ってね。
 それまで旋毛を突いていたほうの手を、ぽすん、治の頭に乗せた。
 ほら、うじうじすんなよ、な?
「もう、――いっしょめしくえへん、」
「ぁん?」
 と、乗せた手のずっと下から、やはりくぐもった声が聞こえてきた。テンションの落下と共に、低くなってしまった声。凹みすぎて呂律も怪しくなっている。それでもまあ、聞き取れなくは、なかった。
 治らしい、といえば、らしい。が、正直なところ。
「……えっと、」
 折角浮かんだ憐みは綺麗さっぱり霧散して消えていった。代わりに現れたのは、完全なる呆れ。顔を合わせにくくなるとか、もう話せないとかではないあたりに、こいつがこいつたる所以を感じる。
 ほんとお前さ、メシ、好きだね。
「凹むトコ、そこ?」
「ハァッ!? 大事なことやろ!」
「うわっ」
 勢いよく治は顔を持ち上げた。反射的に、頭に乗せていた手を退いてしまう。俺と治の間に衝立などなく、あるのはただの空気のみ。否が応とも、持ち上げられた顔がよく見える。左頬を真っ赤に染め、ぎゅっと眉を寄せて、かろうじて泣いてはいないものの、鼻水が垂れかかっている、顔。
 撮りたい。制服のポケットに突っ込んだスマホを取り出し、この無様かつ不細工な面をカメラロールに加えたい。なんでって、面白いから。あとちょっと、可愛いから。可愛くない? こんな大の男が小学生みたいにぷるぷる震えながら泣きそうなの我慢してるんだよ。きっとサイトーとかサトーとかクドーとか、あのへんのなんでもかんでもカワイイと言う女子ならわかってくれる。
 いや、ほんとぶっさいくな顔してんな、こいつ。
 もにょ、と唇が波打った。
「……随分とオトコマエな顔してんネ」
「やかましいわ」
 仕方なしに箱ティッシュを差し出すと、間髪おかずに三枚引き抜かれた。そして豪勢にヂーンと鼻を噛む音。強く抑え過ぎたのだろう、その一回噛んだだけで、うっすらと鼻が赤くなっていた。これもまた、不格好。こっそり口元を綻ばせていると、情けない面をした治に椅子を蹴られた。それすらも悪あがきに思えて笑えて来る。
 なんとまあ、馬鹿で憐れで可愛いんだ。
「次の子とは、上手くいくといいね?」
「……本音は」
「また盛大にフラれたら教えてよ」
「腹立つわあ……」
「なんとでも」
 カラカラ笑いながら、結局その無様な顔を写真に収めさせてもらった。

 それからしばらく。治は別の女子に告白され、まんまとそれを受けたらしい。理由は食いっぷりが良かったから。どこまでも食が基準な治らしい。とはいえ、その彼女ともどれだけ続くことやら。ひっそりと侑と賭けの相談をしていたところ、アホなコトしな、と貫録を増してきた主将に釘を刺された。
 たちまち北さんのところに駆けていった侑を見送り、彼女ができたばかりの治に視線を移す。今日は一緒に帰る日らしい、治の背中はいそいそと体育館から出ていった。
 ねえ、治。侑は一か月に駆けてたよ。え、俺? 俺は大穴一年半。だいたい、俺らが三年の春高の辺りまで。ということで、長く続くと良いね。
 仲睦まじい二人の背中を、ぼんやりと思い浮かべた。
 すると、――ツキリ。
「……?」
 胸に違和感が走る。なんだろう、今日、変な練習したっけ。侑の無茶ぶりには付き合ったから、そのせいかな。
 すっかり体育館から治の背中が見えなくなったあたりで、我の強いセッターに名前を呼ばれた。はいはい、今行くって。
 ぬるい体育館の空気を吸い込むと、過った胸の違和感は跡形もなく消え去っていた。