はつこい
水木から離れて暮らす日のことを思って切なくなった鬼太郎の話
鬼太郎や、お前が六つになったら、この家を出ようか。
畳の上にころりと寝転がっていると、卓袱台の上からしゃがれた声が聞こえた。はて、父さんは今、何と言ったのだろう。寝返りを打つように向き直り、ぺたんと畳に手を付いた。そうして起き上がると、胡坐をかいた父の神妙な顔、もとい目玉が見える。
きょと、首を傾げると、父さんはゆっくりと話しだした。
六つになったら、人間は学校に通い始める。このまま水木の家で人間のふりをして暮らすのならば、鬼太郎も学校に行くことになろう。それが、心配で、心配で仕方がない。いくら人間に育てられているとはいえ、本性は妖怪だ。幽霊族だ。そんな存在が、真っ当に人間の学校に通えようか。仮に通い始めたとして、人間の巣窟の中じゃあ、酷な羽目になるのは目に見えている。……そうなってしまうくらいならば、学校へ通いだす前に、この家を出てはどうか。いや、出るべきだ。
将来、妖怪の世界で生きるぼくには、それが最善であると、父は考えたらしい。
「ここを、でる?」
「そうじゃ」
ただ、当時の、齢五つの幼子には、些か難しい話であった。
言い聞かされた意味を理解しあぐねて、きゅっと眉間に皺を寄せる。父の真似をしたら、少しは意味が分かるだろうか。試しに腕を組み、右へぐんにゃり首を傾げた。しかし、理解に達することはない。ならばと左に向かって頭を傾け直したが、父の意図を汲み取ることはできなかった。
ここをでる。家を出る。うんうんと呻いているうちに、襖の向こうから人の気配が迫ってくる。ツンと口を尖らせたまま視線だけを持ち上げれば、卓袱台の上に陣取っていた父が慌てたようにぴょーんと飛び跳ねた。着地した先は、ぼくの頭の上。さっと髪の中に隠れたところで、黄ばんだ襖が開けられた。
「どうした、やけにむずかしい顔をして」
「むずかしい……?」
「頭でも痛いのか」
「んーん、いたくないです」
「それならいいが」
寝巻姿の養父の手には、灰皿が提げられている。首を傾げたまま目で追うと、その銀色が卓袱台の上に放られた。ちょうど、父が胡坐を掻いていたあたりだ。煙草とマッチも置いた養父は、一つぼくの頭を撫でてから、押し入れを開ける。ぎゅっと詰められた布団が畳に降ろされ、流れるように敷かれていった。
畳の上に転がるのも好きだが、布団の上はもっと好き。なんたって、よく眠れるから。いつまでもそこに転がっていたいと思うくらいに、布団の上は気持ちが良い。
あれこれ考えるのをやめて、敷かれたばかりの布団に飛び込んだ。
「コラ」
「だめですか」
「まだ歯磨きしていないだろう」
「しましたよお、お昼に」
「夜もするんだよ」
うつ伏せに転がった体は、養父の手であっけなく仰向けにされてしまう。呆れた顔をする養父の向こうに、裸電球のじりじりとした灯りが見えた。
このまま口を開けたら、歯を磨いてもらえないだろうか。かぱ、と口を割り開くと、ぼくの意図に気付いた養父はわざとらしいため息を吐いた。けれど、嫌な感じはしない。むしろ、ほのかな優しさを纏っていた。
「ほら、起きろ。流しにいくぞ」
「えぇ……」
「ええじゃない。虫歯になりたくはないだろう?」
そう言いながらも、養父はぼくの額をやわく撫でる。潰れた片目にかかっている前髪もちょいと払った。目は開かないが、多少の明るさはそっちの目でも感じ取れる。なんだか眩しさが増した気がして、きゅう、見えている方の目を細めた。
養父の手は、ゆったりと額から頭へ移動する。中に隠れている父が、再び慌てふためきながら、髪の中を逃げ惑った。それがなんとも擽ったい。うひひ、堪えかねて声を漏らすと、なぜか養父の方がにんまりと笑みを深くした。撫でられて、喜んでいるとでも思ったのだろう。
それも確かに嬉しいから、間違っては、いない。
養父に頭を撫でられるのは、気持ちが良い。布団で寝るのと、いい勝負。細めていた瞼をぱたんと閉じ切れば、上の方から「コラ、だから寝るなって」と叱る声が降ってくる。頭を撫でてくれていた手は頬に移動し、ぺちん、やわく叩いてきた。
「しかたがないなあ」
「お前、どこで覚えてきたんだ、そんな言葉」
覚えて間もない言葉と共に、ちらりと瞼を持ち上げる。
どこで「仕方がない」を覚えたかって? そんなのに、水木さんが使っていたから覚えたに決まっている。なんたって、他に、ぼくに言葉を教えてくれる人間はいないのだから。まあ、妖怪だったら、いるけれど。
ぼくの世界のほとんどは、父さんと水木さんでできている。妖怪のことは父さんを、人間のことは水木さんを見て、覚えていた。そのどちらも、自分にとっては大切な世界だ。どちらかに絞れるものじゃない。父さんも、水木さんもいないと、嫌だ。
もし、父さんの言う通り、六つになって家を出たら、水木さんはどうなるのだろう。一緒に家を出てくれるのだろうか。でも、家を出たぼくの行く先は、妖怪の世界である。あっちの世で、人間の水木さんが暮らせるとは思えない。
この人は、夜、丑三つ時を待たずに眠ってしまうし、朝だって太陽が昇るのと同じころには起きてしまう。日中はシゴトとやらで家を出て、帰ってくるのは日が暮れてから。父さんが教えてくれる暮らしとは、ほとんど真逆の生き方だ。
父さんの言う通り、この家を出たら、きっと水木さんと一緒には、いられなくなるのだろう。
くるくると考えを巡らせているうちに、ようやくソコに辿り着く。
なんだか、……とても嫌な、未来だ。
「ウ」
ぽか、と開けていた口を噤む。ついでに唇を内側に巻き込んで、柔らかなそこを噛みしめた。
父さんと遊ぶのは好きだ。妖怪のことを知れるのも、楽しい。だからといって、ぼくの世界から養父を切り捨てられるかというと、否。なんたって、ぼくの世界の半分は、水木さんでできているのだから。
「ゥ」
嫌だなあ。家を出るの、嫌だなあ。
六つって、もうすぐだ。あっという間に、ぼくは六つになってしまう。どうしたら、六つにならずに済むだろう。ずっと五つのままでいたい。そうしたら、父さんとも、水木さんとも、一緒にいられるのに。
しかし、いくら考えても、五つのままでいる方法は思いつけない。それどころか、刻一刻と、六つに近付いている。発達した耳は、玄関に置かれた時計の振り子の音をもとらえてしまう。かちこち鳴るそれは、正しく時が流れている証拠。
聞いていたくなくて、もたもたと両耳を塞いだ。眉間には、変な力を込めてしまう。この調子だと、鼻の付け根にも皺ができていることだろう。
事実、ぼくは随分な顰め面をしていたらしい。養父の指先が、ちょこんとぼくの鼻先をつついた。
「またむずかしいかおをして。本当に具合が悪いんじゃないのか」
「う」
「熱は、……ないみたいだな。いや、ないのか? お前は、いつだってひやりとしているからなあ」
流れるように養父の手がぼくの頬を包み込む。湯上りの体温が、じんわりと伝わって来た。いつだって、養父の体はあたたかい。ぽかぽかとした熱に意識を向けると、いくらか気も紛れた。
とはいえ、あくまで紛れただけだ。小さくなった不安は、未だ胸の内側に佇んでいる。ムッと顔を膨らませたまま、身じろぎをした。布団の上に手をついて、そばに腰を下ろしている養父に向き直る。
「ぼく」
「うん?」
小さく呟きながら、腕を伸ばした。養父もまた、それに応えるように腕を広げてくれる。広い胸に飛び込むと、手の平と同じ体温と、石鹸の匂いに包まれた。
自分の本性は、あたたかいところより、冷たいところを好む。ぽかぽかしているより、じめじめしているようが良いし、いやに清潔な匂いを嗅ぐと勝手に体が強張ってしまう。
養父の腕の中は、本来のぼくの苦手を、たっぷりと含んでいる。なのに、―― 信じられないくらいに、気持ちが良かった。
「ぼく、ここにいたい」
すぅと息を吸い込むと、胸が勝手に苦しくなっていく。変に肩が持ち上がって、カッカと顔が熱くなってきた。これ以上、ここにいるのは危ない。そう思うくせに、離れる気には、なれなかった。
「まだ、ここにいたいです、ぼく」
六つになっても、七つになっても八つになっても、こうやって抱きしめて欲しい。どうした、鬼太郎、と甘くて柔らかい声で話しかけて欲しい。それを叶えてもらえるのなら、夜な夜な墓場に遊びに行くのをやめたっていい。……いや、それは無理だ。夜は妖怪の時間。妖怪の時間も、自分には、必要。
まったく、うまくいかない。世知辛くなってきて、ツンと目の奥が痛んだ。間もなく、涙が溢れてくることだろう。目元に、じわりと熱が滲む。濡れた感触を拭いたくて、養父の衿に顔を押し付けた。
「なぁに言ってる」
すると、養父の大きな手が、ぼくの頭に乗る。
鼻を啜りながら見上げると、もう片方の手で背中を優しく擦られた。
「ここはお前の家なんだ。いればいいさ、好きなだけ」
「ほ、んとう、に?」
「本当に。俺は嘘は吐かないよ」
よくもまあおめおめと。髪の中で、父さんが独り言ちる。それに、はてどうしたものかと頭―― もとい、目玉―― を抱えている気配がした。
でもね、父さん。ぼくはまだ、水木さんとも一緒にいたいです。
ぐ、と腕を伸ばして、首に抱き着いた。間もなく「どっこいしょ」という掛け声と共に、ぼくの体は抱き上げられた。布団で寝るのも、頭を撫でられるのも好き。けれど、こうして水木さんに抱きしめられるのは、一等、好きだ。
ひし、としがみつきながら、やっぱりずっと五つでいたいなと、心底思った。
結局六つを迎えても、その倍の十二を迎えても、水木の家で暮らしていた。
ようやくその家を出る決心がついたのは、急にひょろりと背が伸びた十五の頃。
あ、俺、水木さんより大きくなったのか。思えば、もう何年もこの人に抱きしめてもらっていない。昔は、抱きしめてもらいたい一心で、子供のままでいたいと思っていたのになァ。今じゃ、逆に、この人を抱きしめたくて、抱きたくって、仕方がない。
「はぁあ。初恋は実らないなんて、よく言ったもんだよ、人間は」
「お、なんだなんだ鬼太郎、お前まさか人間の女にでも惚れたのかい? ぃヨシッ、このねずみ男様が仲を取り持ってやろう!」
「馬鹿言え、お前、引っ掻き回したいだけだろう」
「たりめーじゃねえか。なぁにが楽しくてお前の恋路なんざ応援しなきゃあならねンだ。派手に砕けて酒の肴になってくれや」
荷物を詰めた鞄を背負い直しながら、薄汚れた悪友を一瞥する。
「―― いやだね」
そうして、たっぷりもったいぶってから、初恋のあの人のように吐き捨ててやった。