仮初親孝行

水木と親子の距離感をはかりかねてる鬼太郎の話


 近頃、水木さんは、つかれやすい。
 本人にも自覚があるようで「まったく歳には敵わないな」とよくぼやいている。今日だって、同じ台詞を吐きながら眉間のあたりを揉んでいた。
 その人の目の下には、青いなめくじが二匹乗っかっている。もはや飼っていると言っても過言ではない。おかげで、養父の顔色はどんよりと濁って見えた。これじゃあまるで、自分たちと同じ、幽霊族のようだ。
 そうだったらいいのに。
 そんなわけ、ないのに。
「水木さん」
 相反する思考を巡らせながら、どっしりと横たわるなめくじの、片一方に手を伸ばした。それに気付いた養父は、煙草を咥えたまま視線だけを持ち上げる。けれど、それだけだ。何か、諫めるだとか、止めさせるとかいう類の言葉は聞こえてこなかった。
 自分は随分と、信用されているらしい。
 義理とはいえ、親子として暮らしているのだ。この程度の気安さ、当たり前といえば、当たり前。……己は幽霊族で、人間とは別個の種族である。そう認識してからというもの、この当たり前を素直に受け止められなくなってしまった。
 この人が、自分と同族だったなら。
 あるいは、自分がこの人と同じ人間であったならば。
「ん、どうした、鬼太郎」
 ありもしないたらればに気を取られているうちに、指先は養父の目元に届いていた。
 皮膚の薄いところに触れると、ようやく養父は煙草を離す。体に溜め込んでいただろう煙は、自分とは逆側へと吐き出された。ふわりと煙が広がって、奥にある煤けた襖が霞む。とはいえ、それも一瞬のこと。瞬きをするうちに、曇りは失せた。
「なにか、俺の顔についているのかい」
 聞こえてきた声に角はない。すっかり丸くて、柔らかい響きをしていた。
 耳に入り込むその音が、どうもくすぐったい。そわそわとしてしまって、つい、養父の下瞼を大きく引っ張ってしまった。赤い粘膜が覗くと同時に、ワッ、と小さな驚嘆が聞こえてくる。ついでに、目元に居座っていたなめくじもすっと萎れた。しかし、指を離すと、たちまち青いそいつは帰ってきてしまう。何度か繰り返してみるが、結果は同じ。いっそのこと、塩でも塗り込んでしまおうか。じとり、養父の目元をねめつけた。
「なんだなんだ、今度は。怖い顔をして」
「だって目が」
「目? 充血でもしてるのか」
「いえ、そっちじゃあなく、こっちの、なめくじの方」
「なめくじって……ああ、クマのことか」
 すると、やんわりと指先を握られた。人差し指、それから中指が、人間の体温に包まれる。自分との温度差のせいか、指先だけカッと熱を持ったような気がした。熱い、ああ熱い、熱い。火傷をしてしまいそう。
 それならば、振り払ってしまえば良いものを、ぼくの右手はぴくりともしなかった。どうにも、動かせない。人間の、やわく優しい力加減だ、振りほどくなど容易いに決まっている。
 だのに、どうしたって、その手を払いのけることができなかった。
 できることといったら、はくんと空気を食むことくらい。はくん、はくん、続けて二回ばかり煙草の香りの残る空気を食べると、ぱちん、ぱちん、養父の瞼が瞬いた。そうして、ぱちん。三度目の瞬きをすると、浮かんでいた柔らかな笑みが、ほんのりと苦くなる。
 しまった、鬼太郎が嫌がることをしてしまった。
 人の機微に疎い自分でも、水木さんがそう考えていることは、わかった。わかって、しまった。
「あ、ちが」
「ほら、いたずらはもう終わり」
 咄嗟に弁明しようとするが、それより早く養父はぼくの手を離してしまう。もう片方の手は、流暢に煙草を灰皿に押し付けた。まだ吸えたろう長さの筒が、ぐんにゃりと折れ曲がる。
「もう寝る時間だ、布団に行きなさい」
「……まだ、いつもより早い時間ですよ」
「寝る子は育つというだろう」
 男の子なんだから、背が伸びるに越したことはない。静かに言った養父は、広げていた夕刊をぱたんと閉じた。折り目のとおりに畳んでいき、すっかり小さくしてしまう。
 その流れでこの男も布団に入ってくれるのならば、仕方がないと自分も布団に向かったろう。
 だが、きっとそうしない。間違いなく、しない。
 それを示すかのように、養父は仕事鞄から紙束を取り出した。そうやって、家でも熱心に仕事ばかりしているから、目の下になめくじを飼うことになるんだ。わかっているのか、この人間は。改めてじっとりと睨みつけるものの、養父が動じる様子はない。
 ぱらり、紙を捲る、乾いた音がした。
「ぁ」
 その、瞬間、紙束から淀みが立ち上る。
 紫煙のように細く伸びたそれは、空気に溶ける素振りをしてみせたあと、養父の体へと迫っていく。ふわり、ふうわり、穏やかに揺蕩いながら、欠けた耳の縁を掠めた。
「ン」
 違和感はあるらしい。養父の手が、緩慢にその耳を掻く。しかし、淀みを払うには至らない。それどころか、淀みは耳に掛かっている指先を伝い出した。節くれだった指を越え、血管の浮いた手の甲を這い、きゅ、と引き締まった手首を掴む。さらに、淀みは走る、走る。
「ん、ン」
 養父の眉間に、皺が寄った。頭が淀みから逃れるように傾げられ、肩がゆっくりと回される。関節の、鈍い音が、聞こえた。それでも淀みは、養父の体に纏わりついている。ついには、衿からぎょろりと、何かが覗いた。
「ッ」
 気付くと、腕が伸びていた。
「ぅお」
「あっ……!」
 己の握りこぶしが、養父の肩に沈んでいる。おかげで、淀みはその肩から立ち消えた。……ただ、おもむろに養父の肩を殴ってしまったのも、事実。
 しまった。そのがっちりとした肩にこぶしを押し付けたまま、ぎくりと体を強張らせてしまう。これじゃあ、早く寝ろと言われたのに癇癪を起したみたいじゃあないか。八つ当たりといってもいい。
 なにか、言わなくては。言い訳をしなくては。ぐるりと頭を巡らすが、何一ついい言葉は閃かない。無性に、ねずみ男の無駄に回る口が羨ましくなった。
「鬼太郎、」
 養父の声がする。静かな声だ。怒っているだろうか。それとも呆れているのだろうか。目を合わせるのが嫌で、よろめくようにその人の背後へ回った。手持無沙汰になっていたもう片方の手も養父の肩に置き、ぎゅうと背中を丸める。
「まさか、お前、―― 肩叩きしてくれるのか?」
「えっ」
 続けて耳に届いた声は、相変わらずの柔らかさを携えていた。
 跳ねるように顔を上げると、肩越しに振り返っている養父と視線が合う。疲れているからか、憑かれかけたからか、平生より目尻が垂れて見えた。
「かた、たたき」
「あ、いや、ちがった、か……?」
「ッ」
 あたかも呼子のように繰り返すと、養父の眉がハの字を描く。しまった。またもや、手に取るように考えていることがわかってしまう。
 違う。確かに今度は、違う。肩叩きなんて真似、しようとしたわけじゃない。かといって、妖怪に満たない怨念が取り付こうとしていたと説明できるか? 否。
 ひゅっと細く、煙草の匂いが残る空気を吸い込んだ。
「し、ます、肩叩き」
 か細く返すと、養父は目を瞠る。まさか、本当に肩叩きなんて親孝行をしてくれると思わなかった。見開かれた両眼に、まざまざと書かれている。それほど、自分は親不孝な真似をしているのだろうか。近頃の自身を顧みて、ああ、そういえば人間の子供は夜な夜な墓場へ遊びには行かないんだったと思い出す。
 ぼくは人間じゃあないし、水木さんは妖怪じゃあない。どうしたって、ぼくらは交わらない存在だ。むしろ、交わっちゃいけないのだろう。
 同族だったら、こんなふうに思い悩まずに済んだのだろうか。
 きゅ、二つの拳を、小さく握り込んだ。そうやって丸くなった二つを、養父の凝り固まった肩に乗せる。右・左・右・左、交互にそこを叩き始めれば、いつの間にか前を向いていた養父は穏やかなため息を吐いていた。
「ふ、上手上手」
「……どうも」
「照れてるのか?」
「照れてなんか」
「はは、本当に上手だよ。肩がどんどん軽くなる」
「そうですか」
「そうですよ」
「真似しないでください」
「ウ、ア、それもイイ。あぁ、効く」
 調子を取り戻した養父がどうも憎たらしくて、拳をぐぐぐと肩に押し付けた。だが、それはそれで良かったらしい。なんなら、肩を叩いていた時よりも気持ちよさそうな声を出す。その声は、熱い湯に浸かった時の父さんと、そっくりだった。
 水木さんは人間で、ぼくは幽霊族だ。本当は、互いのために距離を置くべきなのだろうし、将来ぼくはこの人から離れて生きることだろう。
 でも、それは、この人が嫌いになってそう生きるんじゃない。この人間のことが好きだから―― 父さん風に言えば「愛している」から―― それを、選ぶのだ。
「……じゃあ、これはッ、どう、ですか!」
「ウ、ぃてててて、あ~それは、ア、あぁあ」
 ついに養父の手から紙束が離れる。痛いなんて声をあげてはいるものの、こっそり盗み見た顔はどこか嬉しそうだった。
 ぼくが人間だったなら。あるいは、この人が幽霊族か、妖怪か、せめて半妖だったなら、もっと素直な親孝行ができたのだろうか。つかれてしまったこの人を、何の葛藤もなく労われたのだろうか。あれこれ苦悶しそうな思考は「あっはっは」なんていう養父の笑い声で霧散する。
 つられて、ぼくも「あはは」と人間の子供のような笑い声をあげてしまった。