君に溺れて右往左往
様子がおかしい。
確かに思った。自分の中にある普通の概念の枠を、ひょいと軽々飛び越える程度に、こいつはおかしいと。
けれど、何かたくらんでいる風にも見えた。後輩が言った、そしてこの目で見た嫌味な性格と、コート上でのどこまでも冷徹な顔が過ったせいだろう。
一体何を思って、こんな道化を演じているのか。途中まで騙されたふりをして、逆に引っ掻き回してやれないか。身の程知らずだったのかもしれない。でも、ちょっとくらいなら、自分にだってできるだろう。そう思ったんだ。
「思ったんだけど……、なあ?」
がっしりと、腰に回された腕。
言っておくが、立ち姿勢ではない。俺は座っているし、コイツに至ってはぐったりと横たわっている。ぐったりとしているくせに、腕にはこれでもかと力が込められている。実は起きてるんじゃねえだろうな。下腹に顔を埋めているのをいいことに、にやにやと踏みつぶしたくなる笑みを浮かべているとしたら。
じわりと殺意がこみ上げてきて、旋毛をぐりぐりと押した。そういえば、つい最近日向が月島に下痢ツボを押されたと騒いでいたっけなあ。別に下痢ツボじゃねえらしいぞ。なんだけ、百会と言ったっけか。ばあちゃんが万病に効くツボだと言っていたはず。日向はそこを下痢ツボだと信じているのだろうか。今度教えてやろう。
遠慮なく、親指でごりごりと押したところで起きる気配はない。それどころか、気のせいと思いたいのだが、いっそ気のせいであってくれと神様仏様に祈りたいところなのだが、力が強まっている。
ひとつため息を吐いてから、旋毛を押すのをやめてやった。ほらほら、力を緩めなさい。いい加減帰りたいんだ。朝練あるし、明日古文当たるから口語訳しないとだし。あと足痺れてきて感覚ないし。ほんとこれが一番つらいかも。腕を引っぺがして頭を枕に転がしたところでしばらく立てないかもしれない。うわやだなあ。
「ん、ぅ……」
「唸るなら起きろっての」
「……」
「ま、起きるわけねぇよなあ」
数時間前までは、きっとワックスでセットされていたであろう髪の毛。撫でつければ簡単に形が変わる。くるりと遊んでいた一房一房が萎れて、ぺったりと丸くなった。子供みたいだ。18歳なんて、はたから見たはまだまだクソガキか。
脚やら腰から伝わる体温は、平常のそれよりずっと高い。服を布越しであろうと伝ってくるくらいだ。撫でている頭も汗ばんでいるし、これなら、まあ、うなされるのも分からなくはない。辛かろう。何かに抱き付いていないとやっていられないのだろう。
でも、それに俺を選ぶのはどうかと思う。
ようやく鳴り響いた電子音。重い体に手を滑り込ませ、音の発生源であるボールペンと似た大きさの物体を取り出した。モノクロの画面に表示されたデジタル数字は、左からさん、はち、てん、ろく。思ったより高いし。うわあ、うつされたらやだなあ。同じ空間に1時間以上一緒にいるんだから、今更だけど。
いつになったら解放されるんだろう。
と、いうか、どうして1時間ほど前の自分はあんなことを思ったんだろう。全力で逃げておけば。もしもを考えたところで時間がまき戻ってくれることはない。前向きに考えよう。これも一種の人助けだ。人助け。
ひとまず、脱がすだけ脱がして放置したブレザーとワイシャツを引き寄せて、皺にならないよう畳んでやろう。人の気も知らずに熱にうなされるオイカワトオルというこの男に、少しでも恩を売っておくためにも。
◆◇◆◇
事の発端は、気まぐれに駅前を歩いていた時だった。
気まぐれというのは少しおかしい。辛いと評判のラーメン屋ができたと聞いて、一度くらいは行っておこうと思ったのだ。バスターミナルを見下ろしながら、その店がある方に向かっていた。そういえば、清水がロフトに行きたいと言っていたなあとか、月島から聞き出した邦ロック探しにツタヤ行こうかなあとか、目的はあるもののぐだぐだと。
互いに気付いたのは、どちらが先だったのだろう。ふと、目があった時には、オイカワがじっとこっちを見ていたようだけれど、どこかおかしいなと思った。目が死んでいるというか、どこに焦点を定めているのかわからないというか。それでも視界に俺を捉えてはいたらしく、こちらに近づくにつれて整ったあの顔をやたら甘ったるくさせていた。甘いより辛いのが好きなんだけど。つーか、俺ラーメン食いに行きたいんだけど。あわよくば麻婆豆腐も。
「さ~わや~かくんっ!」
「ハ?」
「えっ、爽やか君でしょ、烏野の」
「なんだよ、その……爽やかって」
「エッ、だって名前知らない」
この野郎、と思ったのは内緒。漢字まで正確に覚えているかと言われたら否としか答えようがないものの、こちらはオイカワトオルというその名前を記憶しているというのに。そりゃあ、一介のベンチ部員(でも試合でコートに立ったし、戦えた)なんだから、覚えられていないのも当然なのだけれど。
よりにもよって爽やか君ってなんだ。せめて2番君とか、番号で覚えておけよ。影山にスタメンとられた正セッターとか、嫌味に言われなかっただけマシと思えとでも言うのか。あ、やべえ、自分で考えててちょっと切なくなってきた。
ひとまず、この場は逃げよう。相手にしてはいけない。敵であるけれど敵に回したくなかった手の人間だ。ついでに言えば、友達にもしたくない。だって明らかに性格歪んでるじゃん。真っ向から可愛い後輩を叩き潰すとか、ドヤ顔で言ってくるんだぞ。
そっと視線を逸らして、オイカワから逃れるべく足を速めた。
「ねーねーなんで逃げようとすんのー」
反応してはならない。
「あっ、ちょっとーさすがの及川さんも凹んじゃうよぉ」
するだけ、無駄だ。
「無視しないでよぉ、さぁわやぁかくぅん」
さっさと目的地のラーメン屋に行こう。いや、もうそれどころじゃない、帰ろうか。
「ひっどいなあ聞こえてるでしょ、ねぇ、ねぇ、」
ゆったりと足を向ける方向を変える。ついてくる。ついて、くる。
「ねぇ、ねぇっ、今日はどこに行こうかなあ~、ねえ爽やか君どこ行くの!」
「しつけぇな、帰るとこだよ!」
「ふーん、ついてってイーい?」
「いや、お前も帰れよ」
「君の家に? 誘われちゃった~照れる~」
「自分家帰れって」
「えっ、爽やか君俺ン家来てくれんの、うーれしー!」
「行かねぇよ!?」
「さぁ行こうか!」
「聞けよ!」
気付くと手首を握りしめられていて、降りようとした階段とは全く別の方に引っ張られていく。腹立つけど力強いなこいつ。揺すった程度じゃ離れる気配無いし。元の方向に戻りたいものの、抵抗するほど手首の皮やら筋やら引っ張られて痛い。
声をかけたところで鼻歌が返されるだけ。なんで上機嫌なんですか、俺がお前に振り回されている様が滑稽で仕方ないからですか。ねじまがった性根叩き直してやりたくなる。
が、高3にもなれば簡単に人は変わらない。大地にあれだけ叱咤されて尚へなちょこな旭が良い例だ。青城でも4番の、岩泉と言ったか、彼に引っぱたかれてもこの性格ということは、俺がどうこうしたって無駄の一言で終わるに決まっている。
ならばどうする。帰りたい。ラーメン食うことを断念するどころか、行く予定が微塵もなかった家に連れて行かれそうになっている。世間でこれを誘拐と名付けてくれたらいいのに、俺もオイカワも同い年で、せいぜいDQNに絡まれる学生Sにしか見えないに決まってる。人によっては、仲が良い男子高校生にも見えるのかも。うわあやだ。
「おい、離せよ」
「離したらどっか行っちゃうデショ」
「せめて力緩めろ、……イタイ」
「うわ、何今の及川さんの徹君にきそう」
「日本語ヘタにもほどがあるだろ」
「わかんないの、わっかんないか~、それでもいいよ!」
「うっぜえ!」
くふくふと笑う様を、ウザい以外に表わせない自分の語彙力。鬱陶しいなんて仰々しい漢字をあてるには軽すぎるし、空いた手の一挙一動のチャラさと相まってまさにウザいなんだ。
何を言ってもこの調子では埒が明かない。強烈な一手を用意しなくては、この手首が解放されることはないだろう。帰らせろよ、この数分でこんなに疲れたのいつぶりだと思っている。旭がああ見えて小心者のビビりネガティブだと発覚したときぶりか。いや、清水にでれっでれの田中のフォローに回ったときも疲れたな。あの時は影山と日向の目がすさまじかった。
オイカワの足は、迷うことなく進んでいる。着実に家に近づいているということだ。この状況を前向きに捉えるとしたら、どう考えたらいいだろう。
むしろ、こいつの目的がなんだ。誰でもいいくらいに人恋しい、なんて可愛らしい理由だったなら笑う通り越して引く。お前ほどのルックスがあれば女子も選び放題だろうが。よりにもよって、なんで俺。何に目をつけた。何を面白いと思った。頭いかれてるんじゃないかという程度に上機嫌なコイツをさっぱり読めない。
とりあえず、俺を振り回してやろうと思っている、ということにしておこう。せめて家に着く前に逃れる手立てを考えねば。手首を離して、あわよくばオイカワが怯むような手を。
会話を吹っかけずとも、愉快でいっぱいのオイカワを睨みつつ、くるりと頭を働かせた。
うわっ、と言わなかっただけ優秀だったと思いたい。
結局いい手立ては思いつかず、せめて時間を潰して飽きさせようとしたものの、まるで効果はなかった。『真っ直ぐお家に帰らないとだめなんだよ』って、どこの小学生だ。第一俺はお前のせいで『真っ直ぐお家に帰らない』だめな子になってるし。
半ば引きずられるようにしてたどり着いたのは、こりゃあ、うわあ、えっ、となるくらいにでかい家。やたら広い庭に、整えられた様々な盆栽、いくつも岩が置いてあって、定かではないけれど池もあったように見えた。瓦屋根の、所謂古風な日本家屋。古いとそれだけほころびが生じてもおかしくないはずなのに、壁はきれいに白塗りされているし、玄関の両開きの引き戸は博物館の入り口にありそうだ。
通された玄関はこれまた広く、大きな上がり框に何足か靴が並んでいる。靴箱は当然別にあって、中を見ようなんて気にはならないけれどずらりと靴が入っていることだろう。
適当に脱ぎ捨てられる靴に、それでいいのかと突っ込みたくなる。上がるまえにヒザカックンでもしてやれば良かった。整然と並ぶ中に飛び散った一足を、そろえた方が良いのではないかと不安になる。怒られるとしてもそれはオイカワであって、俺が不安に思うことなど全くないのだけれど。
「たっだいまー」
未だ手首は離してくれない。一つ舌打ちをして靴を脱ぎ、少なくとも自分の分はそろえると、奥からおかえりの声がした。女の人の声。母親か、お姉さんか。どちらでもいい、解放のチャンスだ。
「母ちゃん、はーやくー!」
「ハイハイ、今行くって」
声が増える。小学生か、まだ幼稚園児かもしれない。それくらい幼い声。腰を持ち上げながら振り向くと、その先には坊主頭の少年の、とても、とても美人のお姉さん。一目でわかる、これはオイカワの姉だ。いや母親だったらどうしよう、いくらなんでも若すぎる。
じゃあ、こっちの少年はなんだろう。弟、がいるのかなんて、俺が知るわけない。
「丁度よかった、今買い物行ってくるから留守番よろしく、……あ、友達連れてきたの? ゆっくりしてってね~」
「母ちゃーん!」
「だから今行くって言ってるでしょ」
にこりと微笑みかけられたら、笑い返すしかない。苦笑いになっていなかったろうか。決して濃くはない化粧、ナチュラルメイクとはきっとこういう人のことを言うのだと思う。明らかにオイカワの面影があるのに、性別が違うだけでこんなに印象が変わるのか。見惚れてしまう。
会釈をしながら目線で追うと、引き戸を開けた少年を筆頭に彼女は家を出ていった。どういう家庭環境なのかとか、どうでもいいくらいには美人。一方的に用件だけを述べていたのにも目を瞑ろうというレベル。遺伝子すげえなあ。
「ん?」
そこでようやく、手首が軽くなっていることに気付いた。彼女と少年が来たから、体裁もあったのだろう。これはナイスタイミング。今帰るしかない。ゆっくりしていってと言われたものの、その言葉通りにする必要なんてどこにもないのだ。
よし、帰
「かーえらなーいでっ」
「うひゃっ!」
耳元に息が吹きかけられる。びくりとしてから振り返ると、にんまりと笑ったオイカワの顔が、すぐそばに。ああ、これは本当に似ている。ほんの数秒見た美人の顔と重なって、カッと熱くなった。
近くで見ると、いや、近くで見なくったってオイカワは整った顔をしている。同性から見てもそうなのだから、異性が放っておく道理もない。性格がアレだとしても、人は見た目が9割、カバーしてもおつりがくる外見。うらやましい、と思う以前に魅入ってしまう。
ごくりと唾を飲み込んだ。
すると、解放された部分に、なぜか圧迫感。
「ゲッ」
「――行くよ」
「は」
家に着いたというのにこれからどこに行くのか。自室だろうか。気になるのは、先ほどよりも握る力が強まっているということ。ただでさえ室内という閉鎖的空間にいるのに、逃げないようにと縛りを強くする必要とは。
手首が痛い。骨を捉えられているよう。わざとなのか、無意識なのか。それと関係があるのかわからないが、オイカワの鼻歌は聞こえなくなり、先ほどまでの上機嫌が嘘のようにぴりぴりとしている。廊下突き当りの階段を昇る音なんて、拗ねた小学生のよう。一体この数分で何の心境の変化があったというのだ。
昇った先のドアをスルーして右に折れる。突き当りにある襖染みた引き戸の前で止まったから、きっとここがオイカワの部屋。部屋に連れ込まれたら本格的に逃げ場失うぞ。部屋に来たからと言って、なにか弱みを握れるわけでもないだろうし。あーもーどうすっかなあ。
スパァンと開いた戸。畳敷きかよ、と思ったか否かという瞬間に引っ張られる。と、間髪置かずに引き戸が閉まった。たぶん、足で閉めたのだと思う。だって両腕は俺を捉えて離さなかったのだから。行儀悪いぞと、注意したらいいか。そっと顔を上げた。
「ッ!?」
今度は引き戸に背中を押しあてられる。引っ張ったり押しのけたり忙しい奴だな。なんで俺こんな目にあってんの。扉に押し付けられてしまった以上、本当に逃げ場がない。顔の両サイドに手を突き立てられ、折の中に入った気分。身長差おおよそ10センチ。威圧感は半端ない。
どことなく目が座っているのは気のせいだろうか。逆行もあって、顔に影ができる。存外、彫が深い。はっきりとした目鼻立ちであるとは思っていたが、凄味が増す。じっと見据えられるだけで足が震えた。腰が抜けそうになる。けれど、何度も言っているように、逃げ場は、ない。
「俺だけ、見てよ」
テノールが響く。そしてブラックアウト。
正しくは、オイカワがより距離を縮めてきたせいで、顔を判別できなかった、という。
ぐにゃりと唇が歪んで、鼻筋がこすれて、睫毛がくすぐったかった。
「ふ、ぅ!?」
「ン……」
驚きと緊張と、一抹の恐怖。何度か食むように唇を舐められたものの、それ以上侵入されることはなかった。それもそのはず、状況把握ができていないのもあって、歯を目いっぱい食いしばっていたのだから。
唾液で唇が湿ってこようと、やらしくねっとりと舐められようと、口を開けない。
「ふ、ねえ開いてよ」
「ンに、……言ってんだお前は!?」
「口開けって言ってんの、濃いのできないじゃん」
「されたかねえよ! ってか、おンめぇなに考えて」
「るっさいなぁ、キス程度でビビんないでくれる?」
「ビビって……!」
る、んだけど。
がぶりと噛みつかれたときにはすでに遅い。歯を食いしばることも、唇を噛み締めることもできていない。
粘膜と粘膜の直接触。ぬるりと入り込む舌が熱い。ぐちゅりと唾液が混じって、そのまま上顎と犬歯の境目を擦られた。くすぐったいような、気が抜けてしまいそうな。触れる程度のキス経験しかないけれど、これは分かる。巧いってやつだ。女性経験豊富なだけある。いや、これ勝手な思い込みだったら申し訳ないけど。
息継ぎができなくてうっすら目を開くと、むかつくイケメンが超至近距離に。くっそかっこいいな!同性でこれってどうだよ。一般常識とか倫理観とかふっとぶ程度に気持ちいいってなんだよ。
手近な位置にあるブレザーを右手が捉える。しかし唇を離してはくれない。酸欠になる。与えられる感触に酔いそうなのに、頭に酸素が回らなくて、助長してくるんだ。じゃあどこを掴んだら、押しのけたらいいんだ。ゆるりと左手を持ち上げていけば、ひたりと、顎に触れた。そのまま持ち上げると頬を包むような形になる。
「ぁ、つ……?」
熱い、のだろうか。自分も火照っているから、絶対の確証はない。けれど、なんだか、熱い。緊張もあって、俺の掌が冷たいだけだろうか。体温のぬくもりとは、こんなに熱いものだったか。
「ぃ、」
「ん~」
「ぉ、いっ!」
「あ……」
べちりと頬を叩くと、貪られるのが止まった。合わせて、顔を引きはがしたものの、なんだその情けない声は。俺が悪いことしたみたいじゃねえか。
まだ足りない、と熱に浮かされた瞳が訴えてくる。もっと欲しいだなんて、貪欲すぎやしないか。こっちはもうキャパオーバー寸前なんだ。もう流されて堪るか。一言申してやろうと、大きく息を吸いこんだ。
「あの」
「だめ?」
「サ、ぁ」
「ねえ、どうしても、だめ?」
目の色は相変わらずだというのに。声色だけやたらと甘えた。こいつ、末っ子だな、自分がどう振舞えば一番可愛がってもらえるかをよく知っている末っ子だな!
唇は重ならないものの、今度は額だけ重ねられる。至近距離に変わりはない。端正な顔が、文字通り目の前に。こつりと触れている額がやたらと熱い。自分の熱もあるけれど、オイカワも存外熱い。火照っているのは自分だけではない。
――ちょっと待て。
「おい」
今度は両手でオイカワの頬を挟んだ。かっかと掌を通じて熱が伝って来る。
「なぁに、もしかして君からちゅーしてくれンの?」
「……ン」
「んむっ!」
一度してしまったのならば、二度も三度も同じこと、派である。今更ためらうもんか。
くすりと煽られるままに触れるだけの、小学生でもできる簡単なキスを落とした。自分からやると、ちょっと恥ずかしいけれど、この際仕方がない。キレイな顔してやがるから、良いことにしよう。良いということに、させてくれ。
「お前さあ」
「へぁ」
「熱、あんだろ」
「ねつ?」
「ったく、布団どこ、今敷いてやるから。あとちゃんと着替えろ、その恰好で寝るなよ」
「ふとん」
「そ、布団。どこさあんの」
「あっ、ち」
ぴっと指さされた方には押入れがある。そこにあるんだな。
とんと胸を押せば、手首を振りほどけなかったのが馬鹿みたいに思えるほど、あっけなく退けていった。
背中に視線が突き刺さる。なんでそんなに見てんだよ。キスくらいでビビんなって言ってたくらいなんだから、この程度なんともないんだろ。触れるだけとはいえ、自分からキスしてしまったことを後悔する俺なんかとは違って、な。くそ、このイケメンめ。推定人タラシめ。
恥ずかしさを紛らわすのも兼ねて勢いよく襖を開けた。オイカワの言う通り、寝具が乗っている。布団と枕の上に乗ったジャージは、きっと寝間着だ。丁度いい、これを着せよう。全部まとめて畳の上に置いてから、人の家の割に手際よく布団を敷いていく。そっちに意識をもっていかないと、呆けているとはいえこちらを見つめ続けるオイカワが気になってしまうのだ。悔しいことに。
「ほら、着替え、これでいいのか知らねえけど」
「ウン」
「いや、座り込まれても」
「ウン」
「まあいいけど、着替えろよ? 制服皺になったら困るのおまえだろ」
「ちゅー、」
まだ強請るのか。つい、目を見開いてしまう。
「された」
「は?」
「ちゅーされた」
「あ、まあ、ウン」
「ちゅーされた!」
「~~~ああもういいから着替えろ、せめてブレザー脱げ!」
「ハイッ!」
小学生か。すとんと敷いたばかりの布団の上に座って万歳付きの返事。
ギャップありすぎだろ。テノールの色気たっぷりで「キス」と言ってのけた数分後にオイカワトオル5歳です!と聞こえてきそうな「ちゅー」の発音。頭を抱えてしまう。
横目でオイカワを見やれば、ものの見事にブレザーを投げ捨て、ネクタイやワイシャツも乱雑に放っていた。今はTシャツから頭を抜いたところ。
今なら、帰れるんじゃないか?
気付くと同時に立ち上がり、押し付けられていた引き戸の方に向かった。
「どこいくの」
「う゛」
やべ、と思った。振り向いた。振り向かなきゃ、良かった。
引き締まった上半身が惜しげもなく晒されている。どうしてそんなに綺麗に筋肉がつくんだ。しっとりと汗ばんだ肌が、そっと迫って、ああ、腕の中。個人差があるとは分かっている。練習量に差があるのも予想できる。経験値なんて言うまでもない。それにしたって、これは不平等だ。
誰もが認める、オトコラシイ体型。こんだけ汗かいてるのに気にならないとか、イケメンのスペック舐めてたわ。つい、避けることも、抵抗することも忘れて、されるがままになってしまう。
「いて」
「その恰好じゃ、悪化するぞ」
「いてよ」
「早く上着ろって」
「いてよ、ね」
「……分かった、から」
「ふふ、ありがと」
◇◆◇◆
そして今に至る。
いてよと懇願されて、離れたら帰ってしまうと恐れたオイカワがとった手段が膝枕。やだよの抵抗は一字一句同じやだよで返された。
本当にもう足がまずい。血がめぐってなさすぎる。痺れる通り越して冷たいもん。立てないんだろう。感覚がないを経て痺れて痛いになり、さらにそれを乗り越えてやっと治る。くそオイカワめ。
どうせ寝るんなら、俺を解放してくれよ。帰りたい。帰らないと明日が辛い。いっそすべてを諦めて俺も寝てしまおうかと思うくらい。どちらにせよ、正座で、寄りかかれるもの無という状態で寝れるほど器用ではない。ただただ、無駄に時間を浪費していく。
「どぉおすっぺなぁあ」
「ぅぉおおぉお、徹!!」
「ッ、しーっ!?」
「しーっ?」
「ちょっと猛、あんた邪魔しない、の……」
ああ、この2人、帰ってきてたんだ。勢いよく開けられた襖に驚いちゃったよ。ハハハ。ハハ。
ウン。待って、この状態を、どう説明したらいい。ねえ、待って、えぇとタケル少年はまだしも、お姉さんには、どうしたらいい。俺はどうしたらいいんですか。手持ちのカードを見たって、「あっ」と「えっ」と「その」しか書いてないよ。日向もびっくりの日本語不自由っぷりじゃん。
「オイカワ……、えっと、トオル君、熱あった、みたいで」
あの。
悪いことは、していないと言い切れないけど、俺からはほぼしていないと言って過言ではない。なのに赤面してしまうのはどうしてか。
「迷惑かけたわね、スガワラ、コウシ君?」
「はぃ、――え、何で名前」
「当たってた? いっつもうるさいのよソレが」
「ソレ、」
顎で指したのは、言うまでもない、膝の上のオイカワトオル。
いつもうるさいとはなんだろう。こいつと会話したのなんて、それこそ今日が初めてのはずなのに。そもそも、お前今日会ったとき名前知らないとか言ってなかったか。名前を呼べない都合でもあったというのか。それとも度忘れしたとか? そんな馬鹿な。
「会いたい、話したい、遊びたい、って小学生みたいに。そんなんだし、鬱陶しいだろうけど、良かったら仲良くしてやって」
察しのいいお姉さんは、くすりと笑った。なんとか頷けば、今度は満足げな顔してこちらに一歩、二歩。三歩進んだどころで、ぐったりとしたオイカワの腹を、容赦なく、蹴とばした。