そこの烏を捕まえて
ぐにゅりと歪んで、上辺だけ食まれる。
「ンッ」
喉だか、鼻だかにかかった声と言えぬ音が鳴った。
うっすらと振動が響いて、咄嗟にそいつは離れていく。途端に歪みが取れて、いつも空気にだけ触れているのと変わらぬ感触に。
ぼんやりとそいつを眺めていたら、たぶん普通よりも比較的大きな目が馬鹿みたいに見開かれた。眉は、平常時の涼やかさなど欠片も残っておらず、見事はハの字を描いている。ついでに口はヘの字になって、ああひらがなだけで似顔絵が描けそう、なんて。
と、いうか、こいつもこんな情けない顔をするんだな、と。
いつだって腹立たしい表情ばかりで、焦った面なんて一度も見たことがなかったから(悔しくも、試合中は好戦的なそれしか見ていない)、ほんの少しだけ優越感。写真に撮ってしまうのは、さすがに性悪すぎるからしないけど。
「あ、」
「うん」
「ぅえ」
「ん?」
「えぁあああ」
「うん?」
意味をなさない声に首を捻れば、ぐるりとそいつは踵を返した。なあ、そっち今来た方向じゃねえか。引き返すのか。忘れ物を思い出したとでも言うのか。
「んんん?」
コンクリートと点字ブロックの地面を蹴って、駅前へと走り出す。その背中を見送りながら、さらに首の傾斜角度を鋭くした。長い手足がせわしなく動いて、あっという間にその背は遠ざかっていく。そこまで人通りが多い時間帯ではないから、たぶんあれだろう、という目星はつく。自分の学生服とは正反対の明るい色をしているからなおさらだ。
腕を組んで、顎のあたりに右手拳を置いた。顎を乗せたという方が正しいだろうか。首を斜めにしたまま少しばかり前に倒せば、ついさっきまであいつが立っていた石畳が視界に入る。
ついでと言わんばかりに、指の付け根の骨が、唇にあたった。
ぐにゅりと、そこは、歪む。
「ッ!」
ほんの数秒前、あいつに触れられたのはその部分。そっと右手を動かして、親指の腹で下唇を押してみた。確かに、間違いない、この部分だ。しかも、指と唇とが触れたのではない。俺の唇と、あいつの唇との、接触だ。
ふつふつと謎の熱がこみ上げてくる。男同士で、なぜこんな真似をしたんだという憤りからだろうか。肩のあたりが冷えていくあたり受け入れられない気持ち悪さも感じているのかもしれない。けれど、しっくりくるかと聞かれれば、それは否。
なんてことだろう。そっと顔を上げたところで、あいつの背中はもう見えない。人の頭を好きなだけ混乱させておいて、お前、逃亡しやがって。
じわじわと染み出してきたものは、今度こそ憤り。そりゃそうだ。キスだけして脱兎の如く逃げ出すとはお前、何様だよ。大王様とか言い返されたところで反逆してやるからな。そもそもお前の臣民じゃねえけど。
何でこんなことになってしまったんだ。ただ、参考書探しに駅から程よい距離にある大型書店に足を運んだだけだったのに。丁度その店を出たところで、駅方向から歩いてきたそいつと会ってしまい、そこで一言二言。その、あと、どうしたんだったか。アレのせいですっかり記憶が飛んでしまった。でも向こうからしてきたのは間違いない。
今度は左手で口元を覆った。歪められた感触を誤魔化すように軽く顎をもんで、あいつの立ち去った方向を睨み付けた。するだけして逃げやがって。第一、した方が逃げるってどういうことだよ。普通、された方がした方を殴るとか蹴るとかして、それから逃げるってもんじゃねえのか。あいつは加害者、俺は被害者。言ってること間違ってるか、いや間違ってない。たぶん。
なんとかして、とっ捕まえられないだろうか。それで理由を聞き出したい。できることなら、一発くらいぶん殴ってやりたい。今から追いかけたところで追いつけないのは目に見えている。かといって、あいつの連絡先をしっているわけでもない。知っていそうなやつの心当たりもなくはないけど、渋い顔をして「及川さんと知り合って良いことないスよ」とか言ってくるに決まっている。要するにあてにはできない、ってことだ。
口元を軽く揉んで、一つ唸った。
「ア」
「ん?」
「おおお?」
聞き覚えのあるような、ないような、そんな声に顔を上げると、先ほど見送ったのと同じ制服を着た二人が横断歩道を渡ってきたところだった。片一方の手には黒っぽい、近くのレンタルCDショップの袋がある。やべえ、借りっぱなしのいつ返せばいいんだっけ、明後日とかそれくらいだったとは思うけれど、ちょっと心配になってきた。延滞料金まで払いたくない。
「噂のスガワラ君じゃーん」
「っはー、そっち側すっげえ勢いで走ってると思ったら、なになに、ついにアレ、なんかしちゃった?」
「噂の、って……」
にまりと笑って近寄ってくる、身長百八十センチオーバーの二名。名前は何と言ったか、とりあえず、青城のレギュラーのMBとWSなのは確か。十センチ以上の差はあるだろうか。威圧感たっぷりだ。とはいえ、試合とは打って変わって、気の抜けた雰囲気なので身長差が作る圧迫感は中和されているが。
「俺、そんなスゲーことしてねーよ」
「えーすげえって」
「つーか、名前覚えられてたってのにびっくりした」
「んははっ、毎日のように及川が言うかんなァ」
「及川が俺を? 影山じゃなく?」
「あー、そっちもなくはないケド」
どちらかと言わなくとも低い方(それでも10センチ程度の差はある)と話しているうちに、大柄な方がやたらと大きなスマホを片手で器用に操作する。手、そのものが大きいから問題はないのだろうが、いや、あれ結構でかいよな、すげえな。
「ん、おっけ」
「あ、及川呼んだの」
「いんや、けどスガワラ君とマック行くって、LINE送ったった」
「エッ、俺マック行くの」
「あ、都合悪かった?」
「いや、全然ヒマだけど」
「じゃ、一緒いこーよ」
な、と笑顔で声をそろえて言われたら。断るにも断れない。特にこの後用事もないし、何やらあいつと連絡を取ってくれているらしいし、マックもそこまで離れてないし。
控えめ気味に頷いたら、背の高い方がへらりと、比較的低い方がにやりと笑った。
***
ソファとイスからなる四人席に腰かけて、さくりとポテトを咥えた。LLセットとやらを頼んだでかい方(たしか松川)は正面に座って上機嫌にダブルチーズバーガーを頬張る。夕飯はまた別に食うと言い切られて目を見張ったら比較的小さい方(たしか花巻)がケタケタと笑っていた。その花巻は隣に座っていて、ひょいとナゲットを口に放り込む。
なんとまあ、妙な組み合わせ。言われるままについてきてしまったところはあるが、いざ来てみると不思議としか言いようがない。試合で顔を合わせただけで口をきいたこともなかったのに。唯一、しかし仲が良いとは言いがたい及川に引きずられてきた方がまだ違和感を抱かずにすんだろうか。
何を話したらいいものか、ぐるりと頭をまわしながらジンジャーエールを飲み込んだ。
「てかさ」
「ん?」
「スガワラ君って辛いの平気なんだ?」
「え、うん。むしろ辛い方が好きかな」
「っへえ、まじかよ、俺甘党だと思ってたワー」
「俺も勝手に仲間だと思ってましたワー」
「花巻クン、甘党なの」
「ハァイ!」
「こいつ一人で勇猛果敢にスイパラ行くから」
「まっじかよ!? うっわ、月島に見習わせてぇ」
「見習わせんの、ってか誰々月島って」
「ほら、うちにでっかいメガネいたろ、松川くらいの身長でさ」
「あー、影山と仲悪そうな」
「そうそう、そいつ」
ああなんだ、悩む必要もなかったか。ジンジャーエールを置いて、まだ温かいチキンを手に取った。そこにかけるのは真っ赤な袋に包装されたレッドペッパーをふりかける。それからもう一つ。ついでにもう一つ。きゅっと袋を折って、軽く振ればハイ完成。
「うん、三つはねーな!」
「いやー正気の沙汰じゃないねえ」
「うまいよ?」
「いやあ俺無理だワ、むしろチキンの微妙なスパイスがもう無理ー」
「花巻はなー、王子様カレーでも食ってろ」
「あ、うん、俺それ好き」
「「まじで!?」」
「さすがになー、この年でスーパー行ってそれ買うとかできねーけど」
「ああ、なんだ良かっ」
「母さんがたまに買ってくるからよー」
「くっ、食うのか」
「食べます」
花巻がドヤ顔で言い切ると松川はバーガーを食べ終わった。ひーっという顔をしながらも、包み紙を折りたたんでいるあたり、存外几帳面なのかもしれない。
ざくりと音を立てて衣を食い破ると、鶏肉の肉汁が染み出してくる。流れて袋の下にたまる前にもう一口を頬張れば、ぎりっとした辛みが舌をついてくる。これがうまいんだ、これが。あまりに真っ赤で健康に良いか悪いかだときっと悪い部類なのかもしれないけれど、好きなんだから関係ない。次の一口を大きく頬張れば、なぜか「おお」と歓声がした。
「ほんとに食ってる」
「食うよ、そりゃ」
「えーまじで、やせ我慢とかじゃなく」
「まじまじ、なら食ってみる? 一口」
「よーし、いけ花巻」
「ハァア苦手だって言ってっぺや!」
「ほれ」
「ぅええまじまじで、まじでこれ食うの」
ニッコリと笑って、花巻にチキンを差し出した。ほんの一口かじってみればいい。悶絶するだろうけれど。旭や大地にしでかした経験に裏付けられた確信もある。自分はうまいと思うが、度が過ぎた辛党であることくらい自覚しているし、辛いのが苦手だという人を馬鹿にするつもりもない。
だが、わざわざお膳立てして煽ってもらったのに、それを無駄にするほど野暮でもない。笑顔をきっちり貼り付けて、ずいっと花巻の方に差し出した。
「ぅおおおお色やばいってこれ、なあ」
「やばくねえよ、一口食えばわかるから、な」
「わかるって、見てくれからもうわかるって!」
「おお~、逃げんのか、逃げんのか?」
「松川テンメー、覚えとけよ!?」
ぎっと松川を睨んで、それから花巻は恐る恐る口を開いた。ああ、ほんと嫌そう。すんでのところで「や~めた」とでも言ってやったらいいだろうか。でも涼しい顔を真っ赤にしてのたうち回るのもちょっと見ていたい。だって面白そうじゃん。
さあ、来る。花巻の口先がチキンに触れる。
「あぁぁあああ!!」
寸前だ。がっしりと手首を掴まれたと思うと、後ろに引っ張られた。
突然目の前からチキンという名の恐怖が消え去ったからか、花巻はどこか安堵を浮かべている。ついでに、前方から松川のげたげたとした笑い声が聞こえてきた。で、俺の、チキンは。
腕の流れた方向に、ぎしぎしと首を回していく。先にそれを視界にとらえたのか、花巻もぷっと噴き出した。あ、これ、あれだ。なんかもう見なくてもわかる気がする。
なぜかここまで戻ってきたアイツだ、そうに決まっている。
「がらぁああいぃいい」
ほらみろ。
「ばっかじゃねーの」
「いわぢゃんひどい!?」
「おー岩ー、おっつー」
「おー」
「さぁっすが、よくぞ捕獲してきた!」
「タイミングよかっただけだろ」
見事に激辛チキンと化したそれを一口、しかも結構な大きさを咥えたと見られる。器用にトレイを片手で支えながら、もう一方の手で口を押えていた。押さえるより、水飲むとかした方が中和されるだろそれ。ああ、押さえてないと耐えられないのか。あまりの辛さに涙目になっているが、他の三人は目もくれない。まじかよ青城。
花巻の向かい、松川の隣に岩泉は何事もなかったかのように腰かけた。ばっかじゃねーののたった一言で済ませてしまうとは、阿吽の呼吸恐ろしや。あれ、今関係ないか。
「あれっ、俺の席は」
「知るか」
「いーいよーだ、こっちのイス引っ張ってきちゃうもんね!」
「うっわ、もんとか言ったよコイツ、ねえスガワラ君どう思う?」
「ねーよなー、だよなースガワラ君」
「ないだろ、そういってやれよスガワラ」
「ないな!」
「ねえ待って、何でそんな瞬時に仲良くなってんの、マッキーとまっつんはまだしもねえ何でさりげなく岩ちゃんはスガワラ君のこと呼び捨てにしたのねえなんでカライ」
「辛いんだ!」
「辛いよ、すっごい辛いよ、なんだったのあれ、罰ゲー……、ってスガワラ君それ普通に食べちゃうの!?」
「うめえよ?」
大きくいただかれたからか、チキンはすっかり小さくなっている。サクサクと二口三口で残りと食べてしまえば、唇を真っ赤に腫らした及川が呆然という顔をした。
隣のテーブルから引っ張ってきたイスに腰掛けると、及川はドリンクを口にする。ポーションが二つほど置いてあるから、きっとコーヒー。ここのコーヒー飲むとは度胸あるな。辛い物より苦い物の方が苦手な自分としては、お前の方が信じられない。
「で?」
「んうぇ、どったのマッキー?」
「どったのじゃねーだろォ?」
「あ、んだんだ、お前スガワラ君に何したんだよ」
「……とりあえず一発殴っとけばいいのか」
「ボッ、ボウリョクハンターイ!」
あれほど影山やら田中やらを追い詰めた大王様もバレーを離れてしまえばただの男子高校生。しかもいじられ役ときた。ポテトを二本まとめて口の中に放り込んで、主にメンタルにおいては花巻に、フィジカルにおいては岩泉に追い詰められていく及川を眺めた。松川は適宜煽ったり笑ったり、トレイに乗った食べ物を片づけながらからかいに参加する。
烏野でもよく旭をからかっているし、どこに行ってもこういった構図は見られるものらしい。なにやら殴るではなく脛を蹴られたようで、及川は脚を抱えながら悲鳴を上げた。一切顔色を変えない岩泉に、ある意味尊敬の念を抱く。
「俺としてはさー」
「何々被害者としての意見?」
「あー……ウン、被害者っていうか、サ。俺が逃げるはずなのに、及川に逃げられちゃったからむしろ俺が加害者の気分を味わった、みたいな」
「とォ、スガワラ君は証言しておりますがァ、どーなんだよ及川」
「まさかまさかで言い逃げしたとか」
「……おい、それこそ逃げんなよ」
「岩ちゃん、ここは幼馴染のよしみで逃がしては、」
「だーれがするかクズ川、てめーのケツはてめーで拭え」
「キャーイワイズミサンオトコマぃいっだい脛はやめて脛は!」
がたりと立ち上がったものの、どうやら岩泉と花巻とにそれぞれ腕を掴まれてしまったらしい。動こうにも動けず、立っては座るを繰り返す。その間、こちらを見ることは一切ない。
そういえば、辛いだなんだと話しかけられてはいるが目線は合っていない。どうしてだろうか、本屋の前では確かにこちらを見据えていたのに。頬杖をついてじっと見たところで、及川の視線は花巻か、岩泉か、それか松川。うん、こちらを見ていない。なるほど、逃げるだけあって後ろめたさとかの類でいっぱいいっぱいということか。
「つーか、言い逃げじゃねえよな」
「っぅ、」
「どゆことどゆこと!?」
「――オイカワ、」
「な、に? スガワラ君」
「こっち見ろ」
「見てるじゃん」
「見てねーべ?」
「見てる、し」
ぱちり、ようやく目があった。さて、何秒持つだろうか、この調子なら三秒保てたらマシな方か。にんまりと笑って見つめれば、そらしたいと言わんばかりに黒目が揺れた。
一秒。まだ重なっている。二秒。おお、頑張って耐えてるじゃん。三秒、大きく揺らいだけれど、その黒目に
俺は映っている。四秒、は、無理だったか。瞼を閉じられれてしまった。
「理由が聞きたいんだけど、するだけして、逃げてった理由」
「……もしかして及川さ、」
「スガワラ君に手ェだしちゃった?」
「ひくわー」
「あああもうそこ三人は黙っててよ!?」
茶々を入れる三人は本当に面白い。なにより及川に容赦がない。つい、頬が緩んでしまう。普通だなあ。くつりと笑うといつの間にか両腕を解放された及川が乱雑に頭を掻いた。その髪セットしてるやつじゃねーのか。何気なく眺めていれば、やたらと大げさなため息が聞こえてきた。
「拒否られたら、コワイじゃん」
「それだけ?」
「それだけって、」
「だってもっと自信家なもんだと思ってたから。俺は絶対フラれなーい、みたいな」
「あってらあってら」
「ソーソー女子相手だとそんなもんだぞ」
「バレー絡めば、アッ!という間にフラれてっけどな」
「『私と部活どっちが大事ナノ!?』」
「常套句だよなー」
「だーから、いちいち挟んでこないでよ!?」
松川のわざとらしい裏声にジンジャエールを噴き出すかと思った。むせそうになるのをこらえて、「コワイ」という及川の言葉を飲み込む。少なくとも女子に対しては自信家で(実際モテるのだろう)、でもバレーが最優先で、試合をした限りでは知略の限りを尽くす後輩曰くの「大王様」。
平平凡凡をどこまでも貫いてきて、今でこそ諦めが悪くなったけれど、敵わない壁は敵わないものとしてすんなり認めていた自分が、まさか「コワイ」と思われうるとは。一体こいつの頭の中はどうなっているのだろう。頬杖のまま、小指で唇をなぞった。
「ふぅん」
「っああもう! 俺帰る!」
がたんと立ち上がった及川を、今度はどちらも引き止めない。岩泉は我関せずとバリューセットを消化しているし、花巻と松川は顔を見合わせて肩をすくめている。どうやらここが引き際らしい。これ以上からかうとまずい、というラインだ。
靴の音を鳴らして、テーブルを離れる及川を視線で追いかける。このまま見送ったら、きっともう、関わることはなくなるのだろう。青城の連中にからかわれる様を見ることも、何気なく会話することも、――書店前で突然声をかけられ、さらにはキスされることも。
一番最後のはイレギュラーすぎるとしても、ちょっと、もったいないかな、なんて。そっと笑って、何事もなかったかのようにナゲットを食べ始める花巻にそっと耳打ちした。
◇◆◇◆
今日は、なんて日だ。いや、彼を見つけるまでは、最高にハッピーだ、なんてアメリカのホームドラマばりに仰々しく思ったものだけれど。
かつかつわざとらしく踵を擦って歩く。拗ねている風に見えるかもしれない。実際その通りなのだから、あの人不機嫌だなあと思われても仕方がないけれど。ほんのちょっとだけ下唇を巻き込んで、歯形がつかない程度に噛み締めた。
せっかく、したのにな。激辛チキンのせいで感覚なんて遥か彼方に消えてしまったし、なによりいつもの三人になじられ煽られみっともないところばかり見せてしまった。好きな相手の前では、格好良くいたいじゃないか。見惚れてもらいたじゃないか。
――見惚れていたのは、結局自分の方。なんだよ、最後のあれ。頬杖した小指で唇なぞるとかなんなの、誘ってるの、しかも少し緩んだ顔で笑うとかやめてよ。ずぶずぶと沼にはまっていく感触。田んぼに入ってみたとかそんなレベルじゃない。底の見えない淵に引きずり込まれているみたいだ。
なんて、
「情けない……」
ぼそりと、呟いた。すれ違う人にだって聞こえないくらいの、小さな小さな音量で。
するとズボンのポケットから振動が響いた。一回で終わらないあたり、メールではない。親や姉からだったら即取らなければ、家に帰るのが憂鬱になってしまう。ただでさえ、拗ねた顔を見られたらからかい倒されるのが目に見えているというのに。
ため息を吐きながら、スマホを取り出した。
浮かぶのは、見たこともない番号。誰だこいつ。ぎゅうと眉間に皺を寄せて、そのくせ軽快に画面をタップした。
「もしもし?」
『あ、もしもーし、オイカワ?』
「……誰?」
『俺ー、スガワラー』
「っへ、」
『これ俺の番号なー、登録しといてー』
「なん、えっ、……ハァッ!?」
『花巻クンに聞いた!』
「アッハイ!」
『ああ、あと、サ』
アーケードのど真ん中で気を付けに近い体勢をしているのはひどく滑稽だろう。それでも、崩せないのは、きっと彼の声が機械ごしとはいえすぐ近くにあるから。不機嫌さはどこへやら、とくとくとテンポアップしていく心臓の音が、なぜか心地良い。
「『そこでキョーツケはねーべ!』」
機械越しの大きな声と、背後からする生の声。恐る恐る振り返れば、くつくつと笑いをこらえようともしない彼がいる。ガラケー片手に笑うその顔だけで、もう昇天しそうだ。いつから後ろにいたんだ、というかついてきていたのか。よく見ると肩が上下しているから、走ったのかもしれない。自分のために? 嘘でもそうだと言ってもらえたら、ああ、きっと極楽まで自力で昇っていけるし、なんなら地獄に落ちて拷問を受けてきたって構わない。
いや、彼がいる場所にいられるのが、一番幸せなのだろうけれど。
「あーもう、ほんっと恥ずかしいとこ見られっぱなし」
「そう、普通じゃん?」
「かっこつけたいんだよ」
「ふぅん」
またそれ。鼻にかかった声が、魅惑的に聞こえて頭が揺れる。
うっかり同じ過ちをしてしまわぬよう気をしっかり持って、目の前までやってきたスガワラ君を見やった。今度はもう、視線が合わないなんて言われないように。様々羞恥心はあるけれど、これ以上のマイナス補正をかけるよりはマシだと思いたい、なん、
「て」
ぐいっと引っ張られるネクタイ。
すぐそばに迫った白い肌。
ふにゅりと歪む、互いの、唇。
「ん、え?」
至近距離の彼は、これまた眩しいばかりに、それとちょっとだけ頬を染めて、笑った。
「仕返し! じゃなっ!」
高らかに言い放ってくるりと彼は踵を返す。間髪おかずに走り出されて、あれ、これは追いかけるべきか、否か、さっぱり判断がつかない。こんな人目に付く場所で、その割に注目を浴びないのは、彼が都合のいいタイミングを狙ったからなのか、一瞬過ぎて誰の目にも留まらなかったからか。
真っ黒な学生服の背中はあっという間に遠ざかっていく。走って、追いかけたら、なにか変わるのか。右手で口どころか顔の下半分を覆って、ぐっと前屈した。
一秒、いま俺は、何をされた。二秒、彼はどっちに走り去ったろう。三秒、考えるより、動け。
右手が離れると同時に、全速力で彼を追いかけた。