熱と芽生えと十八歳

 帰れと、大地や旭に言われたような気がする。
 言われるのも仕方が無い、と自覚はあった。なぜなら風邪をこじらせて、そこはかとなく熱っぽいから。傍から見たら、顔も赤かったろう。朝練に顔を出して早々に、あの月島ですら「大丈夫ですか」と言ってきたくらいだ。後輩にみっともないところを見せてしまった。
 放課後、何事もなく体育館に向かおうとしたら襟首を掴まれた。通りすがりの旭にも、止められた。今日は帰れ、そして休め。平気だと口を開こうもんなら、主将命令と追加の一言。はあ、溜息を吐けば、清水から使い捨てマスクを渡された。小さめのそれは、明らかな女性用。しかし、自慢などではなく人より一回りほど小さい自分の顎周りには、丁度いいだろう。
 マスクをつけて、いつもならば向かうべき体育館から遠ざかる方向、校門へ。歩くたびに視界は激しく揺れ、地面は歪んでいく。朝よりも、確実に悪化している。朝の時点で無理せず休めば良かったろうか。とはいえ、高校三年となったこの時期に休むのも如何なものか。対してノートも取れていない、ということは棚にあげさせてくれ。
 このまま自宅に帰っても、数日寝込む羽目になるのだろうか。それは勘弁こうむりたい。一日でも早く治して、部活に復帰しなければ。校門を曲がって、舗装された道を歩く。いらぬ凹みなど存在していないのに、転びそうだ。平坦な道で転ぶなどという醜態を晒して堪るものか。一度足を止めて、校庭との境にあたるフェンスを掴んだ。マスクをしているせいで息苦しい。吸いづらさを分かった上で、大きく深呼吸。どうせだから、かかりつけの内科に寄ってから帰ろう。何か処方してもらって、そうして帰ろう。狭まる視界と、立っているだけで歪む足もとに叱咤をして、ふらりと一歩、踏み出した。


***


 模試、とはなんと面倒なものだろうか。そのせいで部活に参加する時間を削られ、挙句の果てに居残り練をせずに帰れと言われる。過度な練習で怪我をしたと分かってはいるものの、やりたいものはやりたいのだ。宙に向けて、はーっと息を吐いたところで、白くは染まらない。
「ん?」
 十数メートル離れたところか、見覚えのある顔を捉えた。いや、見覚え、というにしては記憶に残りすぎている。だが、その記憶に比べて、随分と頼りなく見える。爽やかさも、冷静さも、その顔色からはうかがえない。疑問に思ってしまえば、それを解決しなければ気が済まない。もしかしたら弱みを握れるかもしれないじゃないか。口の両端を吊り上げて、一歩二歩と、彼の元へ歩み寄った。
 なんと声を掛けてやろうか。何も言わずに、肩を叩くだけでも十分かもしれない。振り返り際、満面の笑みを見せてやろう。それだけで「しまった」という顔をしてくれるに違いない。人の焦る顔を見るのは楽しい。世の中の可愛い女の子たちと喋るのに並ぶか、それに勝るくらいには自分を愉快な気分にさせる。人の不幸は蜜の味。性格が悪いとか、歪んでいるとか、そんなことは知っている。当然だ。
「やあ!」
 無視されるのも物悲しいため、一応、それらしい声は出しておいた。どうせなら、肩を叩いたその手の人差し指を立てておけば良かったかなあ。ぷすりと、頬に刺さった瞬間の顔もなかなか面白い。飛雄や岩ちゃんによく喰らわせたものだ。花巻や松川の白けた視線は、流石に応えたが。今の部内で面白い反応を見せてくれそうなのは、やはり金田一だろうか。今度仕掛けてみよう。
 ゆったりとした動作で、彼は、スガワラは振り向く。笑顔の準備は完了済み。その反応を楽しむだけだ。
「ぉいか、わ?」
「……え、なんか顔色わるく」
 ふわっと、何かが香った。おそらく、スガワラの体臭ってやつなんだろう。男の体臭を嗅いで何が楽しいと言うのか、その割に嫌悪感を抱かないのは、洗剤とか、柔軟剤とかの香りに近かったからか。
 視界から、彼の姿が消える。間髪おかずに視線を下げて胸元を見やれば、ぐりぐりと頭を押し付けてきていた。俺の脇を通って、両腕も背中に回っている。ハグだ、ハグに違いない。首筋に当たる明るい色の髪の毛は、どことなくしっとりとしている。耳はほんのりと赤く染まり、時折あげる唸り声は色香を帯びている。
 なんかこれ、まずくないか。ごくりと唾を飲みこんでしまう。さらには、徐々に心拍数が高まっていく。予期せぬ彼の行動に動揺しているせいだ。
「ちょ、っと、なになに、えっ、どういうことなの」
「ん、ぅう~」
「唸ってるだけじゃあ分からないんだけどさっ」
「ふふ、及川あせってらあ」
「しっあわせそうな顔で言われてもねえ!」
 不意に顔を上げて、満面の笑みを向けられる。待ってくれ、それはこっちがしようと思っていたことだ。慣れたはずの笑みは上手く作ることができない。予想外のことが起きても、臨機応変に対応できる自信はあったのだけれど、ひしっと抱きつかれて動揺している自分がいる。
 染まっているのは耳だけではなく、頬や目元も赤い。笑みを浮かべているせいで細められた瞳は潤んでいるようで、丁度俺の首にかかる吐息は湿度も温度も高い。まるで興奮しているみたいじゃないか。
 恐る恐る頬に手を当てた。及び腰になっているのは指摘しないでいただきたい。しっとりと汗ばんだ肌が手の平に吸い付いてくる。米神に張り付いた髪を払ってやると、睫毛を揺らして手に擦り寄ってきた。背中に回った手は、ちゃっかりと制服の布地を掴んでいる。ぞくりと、足元から何かが昇ってきた。
「ど、したのさ、こんなことするようなキャラ、だった、の」
「ふは、えーなにがあ」
「なにがって、こっちが聞きたいよ」
 とくとくと、心臓の音は着実に加速していく。愉悦を顔いっぱいに表して擦り寄ってくるスガワラは、楊貴妃や妲己のような、傾城の美女と似通った能力を持っている。と、思う。だらしなく笑う顔を見つめていれば、潤んだ目元に反して唇が乾いているのが目についた。もしリップクリームなどを塗って、艶めかしい輝きを含んでいた事ならば、迷うことなく噛み付いていただろう。
「って、なんでこーんな時期に乾いてんのさ」
「う?」
 首を傾げて、不満そうに唇を突き出してくる。だから噛み付きたくなるんだって。言ったところで、今の彼はやめてくれる様子はない。
 さて、これは一体どういうことか。着実に、血液の巡るスピードは加速していく。体は熱を持つばかりだ。恥ずかしい、とは少々異なるが、人に抱きつかれてこんな気持ちになったのはいつぶりだろうか。たぶん、きっと、おそらく、初めてではない、はず。抱きついてくるスガラワの体温も高いようで、触れている体の前面は互いの熱でカッカと火照ってくる。このまま熱が昇りつめたら、近頃女の子にすら見せたことのない赤面を晒す羽目になるのではなかろうか。それはぜひとも回避したい。
 くふくふと笑って引っ付いてくるスガワラを、一先ず引き離すことにしようか。冗談で男子高校生が戯れているように見えているはずだが、あまりにも長い時間くっついていると邪推をされかねない。なにより、見知った女の子に見られたくないのだ。幸い、スガワラが抱きつく力は然程強くない。両肩に手を当てて、思いっきり突っぱねれば、余裕で引き離せるだろう。
「いくら及川さんでもそっちの趣味はない、から!」
「わっ、ぁっ……」
「へ、――っとおお!?」
「ふは、ひでえ顔してらなあ」
「ちょっと、なんで俺ばっか焦ってんの、ってか、ってか!」
 突っぱねた瞬間は良かった。ぽけーっとした顔のまま引きはがされて、後ろに一歩二歩。吹き込んでくる風が心地いい。だが、そのまま後ろによろめき続け、膝がかくりと落ちた。慌てて支えに入らなかったら、そのままコンクリートに膝を打ち付けていたことだろう。プロではないとはいえ、スポーツを嗜んでいることに代わりはない。いくら別の学校の選手であっても、その程度のことで体を壊してどうすると不安になってしまうだろう。
 二の腕を掴んで引き寄せると、抵抗など欠片もせずに距離が縮んだ。折角作った隙間は、無残にも消えてしまった。おかげで、スガワラの顔がよく見える。真夏でもないのに、額から滲む汗、潤んで明後日を見つめる瞳に映る自分の顔は、馬鹿馬鹿しい程に焦燥している。情けないものだ、赤の他人に、これほど神経を揺さぶられるとは。
「熱、あるじゃん」
「んー、うん、あるかも」
「かも、じゃないでしょ。ったく、そんなんで家まで帰れんのぉ」
「かえれるよお」
「いや、無理でしょ、絶対無」
 理。
 言葉の途中で、スガワラの体重がこちらにかかってきた。また、先程のように甘えた仕草を見せてくるのか。こっちの血圧を上げるような真似は止めてくれないだろうか。最初頭を押し付けて来たときとは違って、ずっしりとした重みが鎖骨にかかる。膝に力が入っていないのだろう、立っているのも頼りなさ気で、腰に当てた手を離せばそのまま崩れてしまいそうだ。
 地面に落下しないよう、この及川徹が男を気遣っているだなんて、自分でも信じられない。何をやっているんだ。呆れつつも、手の力を緩めずに、スガワラの顔を上に向けた。
「いきなりなんだ、ってー、えー、……えぇええ」
 ぱたりと閉じられた瞼の縁は、髪と同じ色の睫毛で覆われている。うっすらと、目尻に涙も滲んでいるだろうか。乾いた唇は半開きで、漏れ出す吐息は、荒くて、熱い。うっすらと意識はあるのかもしれないが、自力でどこかに行くということはまず不可能だろう。そして俺は、スガワラの家を、知らない。それもそうだ、試合で会ったっきりなのだ。知っているはずもない。
「どーしろってのよ」
 自分にだけ聞こえる大きさで呟いた。けれど、脳内では、我が家までの最短距離を描いていた。


***


 穴があったら入りたい。というか消えたい。むしろ死にたい。
 愛用のパソコンの前に体育座りをして、けれど布団のある方向を眺めて、ため息を一つ。自分と息が音を潜めると、もう一つの息の音が際立った。寝息と呼ばれる、その類。すやすやと、たまに呻きながらも聞こえてくるその呼吸から、完全に眠っていると分かる。汗ばんだ額を覆う冷却シートを眺めて、さらにため息。今日、どこで、寝ようか。
 スガワラを自宅に連れ帰って、三時間強経過した。自分が寝るにはまだ早いが、何かに手を付けるには遅すぎる。そんな時間。一先ず、ここまでの経過を振り返ってみようか、何か活路が見出せるかもしれない。
 まず、気を失ったスガワラを、まさかの、まさかの「お姫様だっこ」というやつでここまで連れ帰った。出会った場所と、家が近くて本当に良かった。どうしてこの俺が野郎を横抱きにしなければならなかったのか。簡単な話で、彼を背負うには力が抜けすぎていて背中にくっついてくれず、俵抱きにするには少々力が足りない。仕方なく、仕方なくその移動手段を選んだのだ。ちらちらと向けられる視線がどれほど痛かったことか!
 ついでに、同年代の男を横抱きにするのもなかなかの重労働で、スガワラを床に降ろした瞬間、俺は畳の上に崩れ落ちた。重かった。肩が痛い。だが布団を敷かねばなれない。怠い体に叱咤を打って、脳はきびきびと活動していた。
 帰宅した際、親のいる居間の前を通らずに正解だった。小言の代わりに「ついに男に手を出したか」と言われるに決まっている。もちろん、親への説明は別途行ったので、結局はその台詞を言われてしまったのだが。そんなつもりは微塵もない。むしろさして仲良くもない知り合いを介抱しているという、人情味あふれた行為を褒め称えて欲しいくらいだ。
「はあ」
 ここでひとまずインターバル。これだけでスガワラが安眠していてくれるのならば、死にたいだなんて思わなかったろう。問題は、この後だ。思い出すだけで顔に血液が集中する。口のすぐ内側に心臓があるみたいだ。こんなの鬼畜ロードワークをこなした直後にしか体験してこなかった。
 ぶつけたい思いをどうすることもできず、ちっ、と舌を鳴らした。
「ン、ぅ」
「っ! っお、……きては、いないか」
 嗄れた喉から漏れる声は、事後を彷彿とさせる。そんなやましいことは一切していないのに、肩が震えた。
――そうだ、やましいことは、して、いない。
「思った時点でアウトか……」
 今日だけで何度吐いたか分からないため息を零して、膝に顔を埋めた。火照る顔が、早く冷めればいいのに。
 布団に横たわらせた時、スガワラは意識を取り戻したようだった。とはいえ、記憶までできているかは定かじゃない。俺の顔をじっとみて、ぽやっとした表情を浮かべていたかと思えば、おもむろにシャツのボタンに手を掛けた。ちなみに、皺が付いたなんだと後から文句を言われるのは御免だったので、学生服の上着は既に脱がせておいた。あくまで好意からだ。下心なんて、ない。これは、ここまでは確かだ。
 何をしていると手を止めれば、「らってあつい」と舌っ足らずな一言。弾け飛ぶかと思った。何がって、全てが、だ。顔も手も、男の急所も、ついでに言えば理性ってやつも。下唇をぎりりと噛みしめて思いとどまったせいか、今になって唇がひりひりと痛む。それから脱ぎたいだの汗が気持ち悪いだの、幼子の我儘を聞き流して寝付かせた。
いくらなんでも男相手にそりゃないだろ。頭痛がしたが、気の迷いから来るものだろう。そう思って、自分も部屋着に着替えた。
 ふと思い立ってスガワラに目を向ければ、ちゃくちゃくと汗を流している。軽くでも拭くとか、着替えるとか、させればよかったろうか。その布団は自分のもので、なのに他の野郎の汗がしみつくなど、言語道断だ。適当なシャツと、ジャージの下を取り出した。ぽいと畳に放り投げて、今度はタオルをとりに脱衣所へ。親への説明もこの時済ませた。「甲斐甲斐しい」と(笑)付きで言われ、つい、むくれた。
 部屋に戻っても、スガワラは寝息を立てていた。暢気なもんだ、こっちが面倒事を一手に引き受けていることも知らないで。その割に、親が指摘した通り甲斐甲斐しく介抱している。こんな聖職者のような一面があったとは、自分でも驚きだ。
 濡れタオル片手に、スガワラのシャツのボタンを外していく。女の子のブラウスを開くより、緊張していたかもしれない。
「~~~まずい、よなあ」
 ぱさりと開いて、濡れタオルを押し付けた、その先。思い出すと、顔に一層熱が集まってきた。あまりの気恥ずかしさに、涙まで溜まってくる。
――淡い、ピンク色。
 こんな色、リアルあるんだと感嘆した、数時間前。熱を孕みつつも、普通より白い肌。しっとりと手の平に吸い付く胸にある、二つの突起。濡れタオルで拭く動作の中で引っ掻くと、スガワラは眠ったまま、色のついた声を漏らした。勃つかと、思った。
 無心を装い体を拭いて、取り出したシャツとジャージを着せる。それでも起きないスガワラは、鈍感なのか、それだけ体調が悪いのか。最後に冷却シートを貼り付けて、そこだけ意識が浮上したのか、
『しゃっこい……』
 と緩んだ顔を見せられた。終わった。なんで、こんな台詞で。
 軽く、前屈みになりながら、トイレに向かった。出てきた時に親に遭遇した際、にたりと笑われたのが強烈に羞恥を煽ってきた。
 穴があったら入りたい。というか、消えたい。むしろ死にたい。どうして野郎に振り回されなきゃならないんだ。どうせなら女の子に振り回されたい。本音を言えば、自分が振り回す立場でありたい。
「どう、しよう」
 風呂に入ったところで、夕飯を手早く済ませたところで、悶々とした熱は消え去ってくれない。こんなの、生殺しじゃないか。表現に納得はいかないものの、自分の語彙力ではこれが一番しっくりくる。聞こえてくる寝息が恨めしい。自分だって、そんなふうに何事もなく眠りたい。もう考えるのをやめてしまいたい。
 ……やーめたっ。
 男二人が寝るには狭い。こうなったらうつされるの覚悟で抱きついてしまおうか。ぎゅっと懐におさめてしまうと、スガワラの熱はすぐに伝わってきた。まだ夜は肌寒いことだし、こうして今晩は暖をとろうじゃないか。頭が沸いているだって? そんなこと知っている。
 鼻先をそっと噛むと、くぐもった声がする。これが女の子だったら完璧だったのに。まあ、スガワラなら、いいか。ぬくさに睡魔が誘き寄せられ、そう時間をかけずに、自分も意識を手放した。


***


 目を覚ますと、目の前にいけすかない野郎がいた。
 なんてこと、いったいどれほどの人が体験したことがあるのだろうか。背中に回っている手を引っぺがして、かぶっていた布団を跳ね除けると、隣で眠りこけるそいつは小さく唸ってタオルケットを引き寄せた。どういう、ことだ。まるで頭がついていかない。急に起き上ったせいで、頭に血が巡っていないせいもあるのだろう。
「んだ、こ……」
 そういえば、やけに喉が掠れている。左手でさっと覆うものの、声が出てくることは無い。不調なのは喉だけではなく、全身がそこはかとなく怠かった。腰から背中にかけての怠さが、特に酷いだろうか。
 はっとなって自分が今着ている衣服に目をやった。自分のものではない。袖を伸ばせば手の平が隠れるくらいの長さになり、下に穿いているジャージは足先まで覆っている。自分の服ではない。そもそも、俺は制服を着ていたはずだ。見慣れない部屋の壁をぐるりとみわたすと、見覚えのあるブレザーの隣に黒い学ランが掛けてあった。暢気に眠るこいつはブレザーの高校だから、あの学生服は、自分のもの。
 じゃあどうしてそこにかかっているのか。脱いだ記憶なんてない。そして俺は、おそらくこいつの服を着ている。なんとなく、体が怠い。確かこいつは、女たらし。嫌な予感しか、しない。
「んん~……」
 呻りながら寝返りを打つ。やるしか、ない。一瞬で決心を固め、腕を振りかぶった。
 間もなく響き渡る、はじけるような打撃音。びくりと体を震わせて、そいつは目玉をかき開いた。
「痛い!」
「しるか、死ね!」
「なにそれ理不尽!!」
「こっちの台詞だ」
「酷くない、熱出して気を失ったスガワラを介抱したの俺だよ!?」
「んに言ってんだ、この、……えっ」
「えっ、ちょ、昨日の事覚えてないの?」
「覚えて、覚えてって、何、あ、んだ俺早退して、え、なにこれ、えっ!?」
「うっわー、俺と会ったときもう意識朦朧としてたんだ」
 ああ痛いと言いながら、及川は頬を押さえた。音に見合うだけの衝撃があったから、もう少ししたらもみじ型の痕ができるかもしれない。ざまあみろ、そして青城女子に笑われてしまえ。
 と、思う裏で、風邪で早退した以降のことを覚えていない自分を殴り飛ばしたくなる。病院に寄って帰ろうと、そこまでは確かに記憶している。だが、どうやってかかりつけの病院に向かったのかは分からない。おそらくその道すがら及川と会ったのだろうが、意識がはっきりしていなかったのか、さっぱりだ。
 喉が嗄れているのも、体が怠いのも、風邪のせい。前髪を掻き上げると、膝の上にシートが落ちた。湿布のような布地に、ブルーのゼリー。熱を出したときに、よく額に貼るやつだ。
「思い出せそう?」
「……」
「ま、それならそれでいーけどお。あーあー、折角恩を売れると思ったのに」
「あーさいあくだあー大地に怒らえる……」
「ちょっと、そっちの心配する前に俺にお礼の一言を頂戴よ」
「あ! 朝練!!」
「ねえ聞いて!?」
 慌てて起き上るものの、よろけて布団に膝をついてしまう。昨日、及川と遭遇したらしい頃と違って意識がはっきりしている分、回復したと思ったのだが、存外体調は優れないらしい。だからと言って、学校を休むのだけは避けたい。もう一度部屋を見渡せば、まだ朝の五時過ぎ、この場所の住所が分からないと烏野までどれくらいかかるか分からないが、二時間もあれば辿りつけるだろう。もう一度、足に力を入れた。
「ねえ、具合悪いんじゃないの」
「だからっていつまでもここにいるとか無理」
「何気に辛辣だよね、爽やか君も蓋開けたらこんなもんか」
「なんだよその爽やか君、て」
 ふらりと立ち上がると、合わせて起き上った及川に背中を支えられた。一人で立てると睨み付ければ、苦笑をして、背中に当てた手を頭に乗せてくる。ぽんぽん、とあやすような手つきのそれ。敵意は、見えない。そのままスライドして、額に当てられた。熱を、測っているのか。
「やめろって」
「で、どーすんの? 俺としてはもう少し休んでってくれて構わないけど」
「帰りたいに決まってんだろ」
「じゃ、シャワー浴びてきなよ。熱も下がったっぽいし。今案内する」
「……きもちわりいな」
「人の好意を無下に扱わないでよ」
「性格悪い奴に甲斐甲斐しくされたら誰だってそう思うだろ」
「だぁよね~、って納得はしないよ?」
 軽く手を引いて、及川は歩きはじめる。大人しくついて行けば、なんてことはない、風呂場に辿りついた。ぼんやり眺めていれば、手際よくタオルを取りだし、ざっくりと何がどこにあるか教えてくれる。気持ちが悪い。君が悪い。影山がいたら、信じられないと倒れるのではないだろうか。第一、試合でしかあった事のない野郎に、ここまで世話を焼くタイプなのだろうか。あの性格の悪さを思うと、裏があるようにしか思えない。鎌をかけてみようか。
「そーんなに見つめちゃって、なんなら一緒に入ってあげよっか」
「……」
「無言は肯定とみなすよ」
「いいよ、って言ったら」
――、まじ?」
「……なに顔赤くしてんだよ、お前ホモだったの?」
「いいいいや違うよそんなことは無いよっていうか別に興奮してないからね!!」
 一見落ち着いている風だったが、さっきから焦っていたのかもしれない。ばたばたと両手を動かして否定するのは、むしろ肯定しているようにしか見えなくて笑えてくる。性癖はさておいて、こいつはちゃんと自分と同い年の高校生だったのだ、と妙な安心感を覚えた。喉が痛いせいで大口を開けて笑えない。代わりに、ふっと息を多めにだして笑えば、一層及川の顔が赤くなった。
「く、そ……」
「気持ち悪いとは思うけど、お前のみっともないとこ見れるのなんてめったにねえだろうからな」
「……乳首がキレーなピンク色している人に言われてもぉ」
「……は、」
 数秒の間を置いて、自分の胸元を隠した。まるで女子がやるみたいに。なぜ、こいつがそれを知っている。頬を引き攣らせれば、及川は相変わらず赤い顔で、にやりと笑った。形勢逆転とはいかないものの、優勢だったのが対等にまで持ち込まれてしまった。
 一歩、後ろに下がると、二歩近づいてくる。入ったときに、風呂場に繋がる脱衣所の扉は締めてしまった。逃げるには背中を見せなければならない。と、思ったまさにその時、背中に扉が触れた。及川の腕が伸び、手の平が顔の横に突き立てられる。ぎゅん、っと一気に距離が縮まってしまう。ふわりと、香水とか、制汗剤とかとは異なる香りがした。どちらかといえば洗剤に近い、おそらく、及川自身の匂い、だと思う。くらりと、頭が揺れる。
「やだなあ、認めたくなかったんだけど」
「なにを、だよ」
「それ聞いちゃう?」
「聞かないと話にならねーだろ」
「聞かなくても、言わなくても、伝える手段はあるんだよ」
 ほんの少し、及川が屈んだ。十センチほどの身長差が、埋まり、額が重なる。目が離せない。呑まれる。かさついた唇に、吐息が、かかった。半開きになった口を閉じる余裕は、欠片ほども、無かった。