困ったなあ

「困ったなあ」
「……俺を見ながら言うな、っての」
 はく、と片手に収められた肉まんを頬張った。湯気がぼんやりと宙に浮かんで、消える前にもう一口かぶりつく。
 関東はお花見シーズンといえども、4月の仙台もそうとは限らない。ようやく蕾が膨らんできたか、という程度で、開花にはもう1週間かかることだろう。ベンチに座って、殺風景に近い桜並木を見つめる。日差しは温かいものの、低気圧が通過していったせいで風は冷たい。
「だって困っちゃったんだもん」
「男がだもん、って使ったって可愛くねーぞ」
 入学したばかりのキャンパスは、まだ分からないところが多い。今のところ把握できているのは、一つ二つの大講義室と、食堂の場所、それからバレー部が活動しているという体育館の場所くらいだ。卒業したら、もうやらないだろうな、と思っていたのだが、未練は残っていたらしい。かといって、入部するかと聞かれたら、それは別だ。三色のボールを受けて、あげて、たたく。それを見ただけで心躍るものの、輪の中に入ってまでやりたい、には至らなかった。未練はあっても、高校で燃焼してきたせいだろう。
 ネットを張られた体育館に踵を返し、食堂と隣接している購買を除けば、中華まんの類が売っていた。大学とは、こんなものまで売っているのか。菓子やインスタント食品のラインナップだって、コンビニと遜色ない。ポイントがたまる組合員カードまであるときたら、利用するしかない。手始めに肉まんを一つ購入して、外の、日当たりのいいベンチに腰掛けた。
 新入生でにぎわっている構内。空を見上げれば、否が応とも寂しげな枝が視界に入るが、正面に戻せば別世界だ。主にサークル勧誘らしく、様々なチラシを配っていた。新入生歓迎会、と称して、ただ飯にもありつける。行ってみようか。でも、顔を出してサークルに入る羽目になるのもどうだろう。そもそも、大学で勉強以外にすることなんて考えてもいなかったのだ。一先ず、購買で肉まんを入れてもらったビニール袋に入ったチラシの束をなんとかしよう。配ってくれたセンパイ方には申し訳ないが、ゴミ箱に入れてしまいたい。
「もー、スガちゃんてば、俺の話聞いてる?」
「きーてるきーてるー」
「うっそお、このいらないチラシどうしよう、とか思ってたでしょ」
 右耳から侵入してくる声は留まる事を知らない。正直、自分にとってはまるで興味の無い話ばかりだ。適当に相槌を打って聞き流していたのだが、目ざとく指摘してくる。挙句の果てに、思考まで読まれるとは。
 更に一口、肉まんにかじりつきながら、目線を右に向けると、にんまりと微笑んだ。続けて聞こえてくるのは「やっとこっち見た」の台詞。そういうことは女子にやれよ。目の前にいっぱいいんべ? 第一、さっきからその女子大生の皆様がちらちらこちらを見ている。構いに行けよ。そういうキャラだろ、お前。
「あのさあ、俺に絡んで楽しいか?」
「楽しいに決まってんじゃん」
「さっきから注目されてんだし、女子のとこ行ってやれよ、明らかにお前狙いだろ」
「えー、狙われても、ねえ?」
 及川さん困っちゃーうなんてイケメンはのたまう。爆発してしまえば良いのに。
冷めてしまう前にと肉まんを頬張った。何はともあれ、今日は疲れたのだ。早速、新歓が行われるようだが、どうも行く気にはなれない。2時か3時か、適当な時間には家に帰ろう。そうだ、畑仕事から帰ってきた爺婆にかせてやるものを用意しなければ。と、なればスーパーにもよらなければならない。思考が主婦だ、なんて言うな、分かっている。
 しかし、面倒なことになった。県内でそこそこの偏差値でやりたいこともあって、ということで進学したら、嫌味な元・総合力県No.1セッターがいたのだ。バレーの推薦を貰って、レベルの高いところに行けたはずなのに、なぜお前がこんなところにいる。ため息しか出てこない。
 購買から出てきた際に目が合ったのが、すべての始まりにして、すべての終わり。良い玩具を見つけたと言わんばかりに駆け寄ってきた時は、買ったばかりの肉まんを顔面めがけて投げ付けてやろうかと思った。もちろん、爆発するに値するイケメンよりも126円の方が大事な自分は、あからさまに首を捻って顔を背けた。無駄な足掻きに過ぎなかったのが、実に悔やまれる。
 一口サイズになった肉まんを口に放り込み、包装紙をチラシの束が詰まったビニール袋に入れる。湿気を含んだ紙は触れた部分を湿らせ、歪ませていく。趣向を凝らしたカラフルなチラシが痛んでいくのは、少々心苦しくもあったが、変に期待されるよりマシってもんだ。袋の口を縛って、何も言わずに立ち上がった。
「あれ、どこいくの」
「帰るんだよ」
「えーつっまんなぁい、どこかの新歓とか参加しないのお」
「今日はいい。誰かさんに会ったせいで疲れたし」
「なんなら、その誰かさんが介抱してあげよっか」
「そーゆーことは女子に言ってやれっての」
 名残なんて欠片もない。颯爽と背中を向けて、近くのゴミ箱に袋を押し込んだ。良く見れば、他にもチラシが捨てられている。自分だけがやっているんじゃない、と思うと一抹の罪悪感は薄れていった。
 ここから自宅までの通り道にあって、どちらかというと自宅に近いスーパーはどこだったろうか。そういえば、うちの爺婆はスイスロールが好きだった。今からスーパーによって帰ったのなら、3時ころになる。丁度いいか。財布の中にも、多少の余裕はある。
「ちょっと、スーガちゃんっ」
「うっぜー」
「えっ、なになになにスガちゃんもそんな汚い言葉使うんだねー! いっつもニコニコしてるもんかと思ってた」
「だから、誰のせいだっての」
「ふふ、俺のせい、でしょ」
 隣に並んだかと思えば、馴れ馴れしく肩を組んでくる。いや、これは組むと言うより、抱く、というほうが近いだろうか。遠くから聞こえる黄色い悲鳴にげっそりとしてしまう。巻き込みやがって。ついこの間まで、旭に噛ましていたような手刀を脇腹に突き刺した。
こうかは ばつぐん だ!
 ビットな文字が脳裏に浮かぶ。濁点がはっきりとついた呻き声が聞こえた。ざまあみろ。
「い、ったあー、酷くない?」
「酷くない、いきなり馴れ馴れしく纏わりついてくるお前が悪い」
「えー、いきなりじゃないなら良いわけえ?」
「段階踏んで仲良くなれたらな。ま、そもそも俺はオイカワ君と仲良くなる気なんてないけど」
 嫌味ったらしく、苗字を強調して呼んでやるとぷくっと両の頬を膨らませた。さっきから思っているが、いちいち反応が女子染みていないか。180センチを越える身長のやつがやったって何も可愛くはない。顔のパーツが整っているだけに、様になっているといえば、そうなのだが、最高に性格が悪いことを知っているため返って気持ちが悪い。
 一瞬、肩から手が離れた隙に距離を取る。こっそり後ろを見やれば、むくれっつらで自分が突いてやった部分を押さえていた。
「痛い」
「痛くしたんだから当然だろ」
「スガちゃんって、実は良い性格してるよね、強か、っていうの?」
「お前がそれを言うのかよ」
「あはは! 俺、ほんとは繊細なんだよ」
「きしょ」
「酷いってば!」
 折角空けた距離が、あっという間に埋まってしまう。これ以上近付いて堪るかと足を遠ざけても、コンパスが違うせいで近付く速度の方がよっぽど速い。どうしたものか。本格的に前を向いて、走り出そうとすれば、先程より強い力で肩を抱き寄せられた。足は前に向かっている。その癖、上半身が後ろに重心を移したらどうなる。――結果は言うまでもないだろう。
 背中に、冷たい風が吹き込んでこない。むしろ、温かい。そして恥ずかしい。どうして新学期、まして進学したばかりの大学構内で男に抱き留められなければならないのだ。終わっている。背後にいるコイツの方が、身長も、癪だけどガタイという意味での横幅も大きいせいで、すっぽりと収まってしまったのが実に恨めしい。
「逃げないでよ」
「離せよ」
「離したら逃げるでしょ」
「逃げるんじゃない、帰るんだ」
「変わんないよ。ね、スガちゃん、」
 腕の中に収められた途端、声に甘さが加えられる。軽快さはそのままに、脳髄を侵略してくる甘ったるい響きだ。辛党の自分にとっては、虫唾が走って仕方がない。激辛麻婆豆腐が食べたい。そういえば、昼ご飯をまだ食べていなかった。肉まんで少しは満たされているけれど、胃袋はまるで満足していない。
 スーパーに行く前に、行きつけのラーメン屋にでも行ってみようか。この時間帯に行くことはほとんどないが、開いているはずだ。頭の中で地図を広げ、最寄りのバス停を検索する。大丈夫だ、大学前のバス停から乗り換えなしで辿りつける。あとは何時にバスが通っているのか次第だ。背後の温もりは、気にしない、ことにする。
「聞いてる?」
「は?」
「もー、折角及川さんが構ってるのにその反応ってどうよ」
「さっきから言ってるだろ、構うなら女子のところに行けって。つか、いい加減離せ、視線が痛くなってきた」
「やーだ!」
「オイ」
「いいじゃん、勘違いされちゃおーよ、そしたら俺、女の子より長い時間スガちゃんに構ってられる」
 腰に、腹に、腕が回される。肩を掴んでいただけの腕だって、鎖骨の上を通って、拘束してくる。ぎゅーなんて言っちゃあいるが、本当にこれは気持ちが悪い。心地いいと思えるのは、風よけになって背中が温かいのくらいだろうか。自由な片腕を使って及川の頭を引っ叩くものの離れる気配はない。
 徐々にギャラリーができてくる。まだスマートフォンなどで写真を撮られていないだけ救いがあるのだろうか。こんなことで注目を浴びたくなかった。助けてという視線を周囲に向けたって、ひそひそと好奇の視線を返されるだけだ。早々に声を大にして、気持ちが悪いから離れろと言ってしまうべきだった。背中の更に後ろから、聞こえる悲鳴が恐ろしい。うそー、だの、やだー、だの、そんなの俺が言いたいくらいだ。
「なあ、いい加減離れろって」
「俺ね、困っちゃったの」
「聞けよ」
「スガちゃんだって俺の話聞いてなかったでしょ?」
「……俺こんなことで視線集めたくねーんだけど」
「俺としては、好都合かな。だってスガちゃんに手を出すオンナもオトコも格段と減るでしょ」
 くすくすと笑いを零すばかりで、解放してくれる気は毛頭ないらしい。
 おいそこの女子、怖いからスマフォを取り出すな。誰か一人が撮ったら次から次へとシャッターを切りだすろ。何か操作をしているだけで、絶望に導き出すシャッター音は聞こえてこない。どうか、そのままであってくれ。なんだか泣きたくなってきた。
 抵抗しても無意味ならば、力んでいても仕方がない。せめて抱きしめる腕の力を緩めてくれないだろうか。ああそうだ、背伸びをして頭突きをすれば、上手い事顎にあたるのではないか。舌を噛んでしまわぬよう、黙った隙に、食らわせる。良いかもしれない。
「あ、頭突き禁止ね」
「ぅぐっ!?」
 名案だ、と思ったのに、肩を抱いている手が伸びてきて、口を覆うような形で顎を掴まれる。合わせて聞こえてくる声は、右耳のとても近い位置から鼓膜を震わせにかかっている。微かに息がかかっているから、耳のすぐそばに唇があるのだろう。ぞわりと、全身が粟立つ。
ちょっと待て、さっきまでスマフォを操作していた女子が卒倒したぞ、ショック受けて卒倒したんじゃないのか、とばっちりを俺が受けることになるのはごめんだぞ?
「俺ね」
「み、みもとで喋んなッ」
「へえ耳弱いんだあ、イイこと聞いちゃった」
「やめ、ろって!」
 わざとらしく、口を耳に近付けてくる。ふっと吐息だけ掛けたり、ねっとりと張り付くような声を出したり、くすくすと笑う声ですらくすぐったい。腰を押さえた腕にも力が入っている。さっさと抵抗してしまった方が良かった。どうして、コイツのことを無視すべく、いらぬ思考を巡らせてしまったのだろう。後悔後先に立たず。今更抵抗しようにも、右耳から響く声に脳が、脊髄が、みるみるうちに侵食されて、どうすることもできない。せめても、と、先程まで頭を叩いていた右手で髪の毛を引っ掴んだ。整髪料で整えているのだろう、髪の毛にしては堅い感触がする。
――直後、耳元で響いたのは舌打ち。髪を掴むのは、地雷だったのだろうか。まずった、と手を離したものの、間髪おかず舌で耳を撫ぜられた。べろりと濡れる感触、耳たぶを甘噛みされて、唾液を使って大げさな音を響かせる。まるで、そう、性行為を連想するような。決して自分の頭が如何わしいことでいっぱいなわけではない。コイツの、及川のやり方が卑猥なのだ。
「ぁッ」
「っと、やりすぎちゃった?」
 咄嗟に自分の口を押えると、タイミングを計ったようにぱっと両腕が離された。軽く、両肩に触れて支える程度だ。
 そう、支える、程度。何気なく自分の股の間に長い脚が入り込み、合わせた3点で支えられている。腰は妙な痺れを纏っているし、脚はかたかたと震える。なんとか背後を仰ぎ見るとにんまりと、実に良い笑顔が目に入った。もう、手遅れ、だろうか。傍から見たら、分かるか分からないかの動きで股間まで刺激され、カッと頭に血が上った。
 ゆったりとした動きで、及川は目を開いていく。瞳のその奥に見える、男同士だからこそ分かる、熱の籠った情欲。うそだろ、なんで、どうして、俺じゃなくたって、不便はないだろうに。
「俺、ね。ずーっと爽やかで2番背負ったスガちゃんのこと気になってたの」
「きもいって」
「岩ちゃんを茶化すより、飛雄をからかうより、スガワラを構いたくて仕方なくて」
「きもちわりぃ、って」
「女の子だって、集中して口説けなくなっちゃうし」
「言ってんだろ」
「そしたら大学で再会とか、もう運命感じるしかないでしょ」
「黙れよ、もう」
「ねえ、スガワラ」
 泳がせていた視線を絡み取られた。ただでさえゼロに近い距離を埋めようと、及川は迫ってくる。逃げ場はもうない。こうして世の中の女子はこいつに落ちていくんだろうか。凶悪に微笑まれたのを機に、瞼を閉じた。
 そういえば、ファーストキス、だったかもしれない。