それは小さな世界

 バレーボール、という競技に身を投じている以上、ちょっとしたすり傷や痣、打ち身なんかを作るのは日常茶飯事だ。だからといって、満身創痍の状態で試合に出るなんて馬鹿げた真似をするのも如何なものか。基本は怪我をしないように努めて、もし怪我をしてしまったのなら悪化しないよう、早く治る善処する。おそらく、そうしている人が大半だろう。
 はあ、溜息が零れてきた。合わせて、右脚の膝が鈍痛を訴える。久々に痛めたものだ。痛い。泣き喚くほどの痛みではないが、痛い。捻挫ではないのがせめてもの救いだ。もう一つ溜息を吐けば、バスが停車した。定期を見せて、段を降りると再び鈍痛。困ったものだ。
 排気ガスを噴き出して、バスが駅へと走り去っていく。少なくとも座席が埋まっていたことを思うと、それなりに儲かっている路線なのだろう。そういえば、ある後輩が、贔屓にしていた路線の本数が減ったとぼやいていた。ほんの僅かな需要は切り捨てられてしまうらしい。世知辛い世の中だ。
 やけに一日中清々しかった空を見上げると、アーケードのほんの僅か上に、白い月が浮いていた。日の傾いた夕暮れ時、遠くでヒグラシが鳴いている。まだ、アキアカネは飛んでいない。
『無理するな』
 怪我を真っ先に見抜いたのは誰であったか、コーチだったような気がする。
 ああ、ただでさえスタメンではないのに、余計に遠退いてしまった。今この時間なら、まだ居残り練でもしているだろうか。部活終了と合わせて追い出されたのが、本当に悔やまれる。インハイ予選を通じて戦力として数えられていることを思えば、大事を取って早々に帰らされているのだろう。それでも、春高予選を控えた今、もっとずっと、あの体育館で練習していたい。
「あーあ」
 斜め上方に向けて吐き出した声は、酷く間抜けだった。
 労わった上で追い出されたのだから、早く家に帰るのが道理というものだ。しかし、今日、親の帰りは遅いと言っていた。ちなみに、祖父母は別居している。夕飯はどうしよう。その辺のコンビニで、好みのものを買って帰るか。それとも、今月はまだ懐に余裕がある、行きつけのラーメン屋で激辛麻婆豆腐を食べて行こうか。
「あ」
「あ?」
 前から、先程の自分に負けず劣らずの腑抜けた声が聞こえてきた。傾けていた首を正面に戻すと、何度か見た、憎たらしい程に整った外見をしている男の姿。外側の見てくれが良く立って、内側の性格が散々という、残念なイケメン。まあ、性格に関しては、自分の主観と経験をふんだんに盛り込んだが故の判断であり、人によっては「出来た人」と評価するのかもしれないが。
「えー、と」
「……ドーモ」
「烏野の!」
「はい」
「トビオにスタメンとられちゃった2番君!」
「ははは覚えてもらってコーエーデス」
「冗談だよ、スガワラ君、だっけ?」
 にんまりと笑う姿は本当に憎たらしい。鼓膜を震わす声は程よく低く、米国製ドラマの俳優の如きオーバーリアクションも様になっている。実に、憎い。仮にチームの味方だったとしたら心強い以外の何物ではないのかもしれないが、オフでは絶対に関わりたくない部類だ。まるで腹の底が見えない。
「烏野って今の時間が帰りなんだあ、っていうか家この辺なの」
「青城こそこの時間で終わりなんだな、で、そっくりそのまま、その台詞返してやるよ」
「へえ、意外と好戦的」
「敵に好意的にする必要もないだろう」
「まあ、ね」
 肩をすくめて瞼を閉じて、ついでに閉じる瞬間の目が流し目とかいう奴になっていた。一々気取った野郎だ。やっぱりいけすかない。対照的にへなちょこなくせにそんな自分を脱却しようとしてひげちょこに落ち着いたあいつの方がよっぽどマシだ。仮に旭が別の高校にいたとしても、及川なんかより好意的な印象を抱くに違いない。
 オイカワ、トオルと言っただろうか。何度かケーブルテレビに出ていたのと、大会のときの名簿とで見た程度だが、プレイの鮮烈さもあって覚えてしまった。流石に漢字までは出てこないが。個人的には、こいつが俺の苗字を覚えていたということに驚きだ。対戦したのは、流れを変えるためのほんの少しの時間であったというのに。逆に、教科書的とはいえ、印象的なプレイをできたという点で喜べばいいのだろうか。
「でも同じ三年でセッターで飛雄に振り回されてるんだし、少しくらい仲良くしてみない?」
「してみない」
「ばっさりいくねえ」
「お前みたいな奴嫌いだからな」
「ははは、なにこれ岩ちゃんに貶されるより心に刺さるかも」
 及川さん泣いちゃう、とかほざいてよよよと顔を覆う。その図体でやったって可愛くない。なにより、こちらが首をもたげているのだ、手の隙間から弧を描いた口元が丸見えた。何をたくらんでいるのか知らないが、このまま場を一にして良い事はない。さっさと帰ってしまおう。夕飯は、一度家に帰ってから考えよう。舌打ちしたい気持ちを押し殺して、及川の隣を通り抜けようと、右足を踏み出した。
「っ!」
 膝に響く鈍痛。悪化している、のだろうか。部室で清水に処置はして貰ったが、バスの中で立っていたのが悪かったのか。帰ったら、夕飯よりなにより、冷やし直さないと。下唇を噛んで痛みを受け流し、左足を前に出した。
「ねえ」
「……」
「ねえ、ってば!」
「んだよ、なに掴んでんだよ、離せ」
 話しかけられようと無視をする。そうすれば、つまらない、と興味を削げると思ったのだが、思うようにことは運んでくれない。返事をしないと分かるやいなや、手首をがっしりと掴んできたのだ。簡単に手首を指が回り、それどころか指先が余っている。身長が大きいのは分かっていたが、手の大きさまでこれほどに異なるとは。虚しくなってくる。
振りほどこうと体に力を入れると、膝に意識が行ってしまう。痛みを嫌でも、感じ取ってしまう。お前に構っている暇はない。早く手を離せ。揺らしても押しても引いても、手首は捉えられたまま。
「あーのさー、足、怪我してない? ちゃんと処置した?」
「関係ないだろ」
「関係ないかもしれないけど、どうせなら万全な相手を叩きのめしたいでしょ」
「……アクシュミ」
「満身創痍な相手に止めを刺すよかマシ」
「……」
「俺ん家すぐそこだからさ、寄ってって」
「俺ん家だって割と近いし」
「割と?」
「……徒歩15分」
「勝った、ここから徒歩3分、はい決定、うち来てねー」
「っちょ、おい、まだ行くなんて言ってない!」
 相変わらず手を離される気配はない。それと、頭の片隅で、自分の家の学区と、北川第一の学区は隣り合っていたことを思い出す。及川の家に寄ったところで、自分の家との距離はそれほど変わらないだろう。
 それほど足を急かさずとも追いつけるペース、それどころか痛んだ足に優しい速度。自分よりずっと小柄な女子を連れて歩く時なんかが、こういった速度になるに違いない。と、いうことは自分は女扱いされているということか。中性的な顔立ちをしているとか自覚しているがこうして態度に表されると頭にくる。
 足さえ痛んでいなければ。容赦なく膝蹴りを食らわしてやったのに。一歩一歩と、今日はじめて話した男の家へと近づいて行く。あわせて、憤りも腹の底に溜まっていった。


***


 徒歩3分、全くをもってその通りの距離に及川の家はあった。それどころか見慣れた家並み。別居している祖父母の家は、この辺りではなかったか。小学生の頃、親の帰りが遅い時など、何度も来たのを覚えている。幼稚園に至っては自宅よりも祖父母の家の方が近かったせいもあり、毎日のようにその家に帰っていた。上手くいかない世の中は、予想以上に狭いものであるらしい。
「つーか、」
「ちょぉっとまってねー、今湿布出すから」
「お前って、ぼんぼん?」
「え、ナニソレ」
「だって、家ちょーでかい」
「あー、俺のじいちゃんがすごい地主らしくてさぁ」
「すげえ家があるとは思ってたけどお前ん家かよ……」
 広い庭を抜けて、その先にある玄関もこれまた広くて、真っ直ぐに通された部屋は畳張りでやけに広くて。これで一般家庭ですだとのたまおうものなら、一発腹に叩き込んでいるところだ。
 喧しい性格に反して部屋は、いたってシンプルだ。パソコンと教科書が乗る机、それに月バリといった雑誌が並ぶ本棚。いくつかあるトロフィーはこいつが実力で手にしたものなのだろう。隣に飾られた写真の中で、今のそいつよりも幼い顔が満面の笑みを浮かべている。影山の口ぶりからバレーの才能に溢れているかのように思っていたが、人並み以上の努力も重ねているのかもしれない。こんな笑顔、才能に頼っていたなら、きっと浮かべられない。
「ほら、足出して」
「……湿布張るほどじゃねーよ」
「そんなこと言って舐めてると、ほんっとーに痛い目見るよ」
「痛い目見た事あんのかよ」
「むしろ痛い目しか見てきてないって」
 ほら、敗北を知っている目だ。そりゃあ白鳥沢に負けていたのだから、知らない訳ないけれど。そういうのではなくて、必死に足掻いたうえでの負けを体験していると言えばいいのだろうか。特に自分に害する人間に対して性格の悪さを発揮するのは確かだが、どん底まで悪い奴ではないのかもしれない。
 くるくると丁寧に制服の裾を捲られる。清水にして貰ったテーピングが顔を出して、そのまま腿までずりあげられた。迷うことなく、及川の手はテーピングを解いていく。折角うちのマネージャーにしてもらえたのに。
「どうせ明日まで走ったり飛んだりしないんでしょ、湿布張ってきな」
「しねえけど」
「なーらエアーサロンパスさんの力を借りましょうねー」
 ぱりっとなるその音は聞きなれたもの。膝のカーブに沿ってその白い布は当てられ、皺にならないよう丁寧に貼られていった。間もなくひんやりと薬が染みてくるような感触がする。そんなすぐに薬が効くわけではないのだろうが、これを貼るとあっという間に直ってしまうかの錯覚に陥る。舐めちゃいけない、エアーサロンパス。そんなの、ずっと前から知っている。
「なにそのむくれっつら。カワイくなーい」
「男にカワイイなんて言われたくない」
「……昔から可愛いよ、コウちゃんは」
「……は?」
「あれ、人違いだったらどうしよう、俺恥ずかしい人じゃん」
 人違い、とは。は、と発音したまま呆けてしまい、口が塞がる気配がない。俺の反応に及川は首を傾げてあれーだのえーだの喚き始める。耳に残る、懐かしい呼称は、未だに祖父母が使ってくるときがある。あからさまに子供っぽいものだから、やめてくれと言ってはいるが、彼らにとってはまだまざ子供なのだろう。さておき、その呼称を何故及川が知っているかだ。
「スガワラってさ、あおば幼稚園通ってなかった?」
「かよ、ってた」
「俺もさーそこなんだ、あ、岩ちゃんは別だよ、家は近所だけど」
「いや、聞いてねえし」
「もー、最初は気付かなかったんだけどさ、最近母さんがアルバム出してきてさあ」
「だから聞いてねえって」
 べらべらと及川は話してきて、言葉を止める気配はない。たかが幼稚園が一緒だったという程度でこれほどに口が回るものか。いや、これは口が達者な及川だからできる芸当に違いない。聞いてないと言葉をはさもうと、一切聞く様子はなく、ずっと言いたかったであろうことをずらずらと並べてくる。
 要するに、だ。俺と及川は幼稚園が一緒で、当時はそれなりに遊んだらしい、ということらしい。らしい、というのは及川自身、それまですっかり忘れていたのだが、母親の「コウちゃんっていたじゃない?」というセリフから始まる幼稚園児時代の話から思い出した気になっているためという。言われてみればそんな奴もいた気がするが、自分にとってもいた気がする、という程度だ。一先ず、これだけは言える。予想以上に、そして思わぬところでも、世界は狭い。
「あ、でもねえ、ちゃんと思い出したこともあるんだよ」
「はぁ? 俺はさっぱりなんだけど」
「たとえば、ね」
 にんまりと、及川は笑った。あ、嫌な予感がする。身を引こうにも、ここは及川の自宅で自室で畳の上に座っていて、まず立ち上がらなければ逃げることはできない。かといって、足を湿布に包まれているという状態で勢いよく立ち上がるのは避けたい。せめて上体だけでも、と後ろに手をついて引く。足までは動かせていないが、顔が近くになければ大丈夫だろう。何が大丈夫か、なんていうのは良く分からないけれど、及川の手の届く範囲に頭があってはいけないと本能が判断したからだということにしようか。
 だが、俺の予想はここでも裏切られた。そっと両手が、湿布を貼っている膝に添えられたのだ。意外な場所に間抜けな声が飛び出す。その声に構うことなく、及川は、なんということか、膝に頭を近付け、更には唇を寄せてきた。いや、その位置に顔とか、匂いきつくないのか。エアーサロンパスなんだと思っているんだ。
 だがその一方で、デジャヴも感じた。何だったろう、良く分からないが、ずっと前の事であるのは確かだ。転んだのか、喧嘩をしたのか、膝を擦りむいたときの事だったような気がする。今みたいに膝を立てて地面に座って、目の前には風になびくままの前髪の幼児がいて。
『コウちゃん、だいじょうぶ?』
 脳味噌に響き渡る、子供独特の高い声。
『ちでてるよ、いたい?』
 そりゃあ、痛いに決まっている。あの時は、擦りむいた程度でわんわん泣いていたものだ。
『じゃあ、おまじないしてあげる!』

「いたいの、いたいの、とんでけーっ」

 カチッと、ジグソーパズルが噛み合った。顔を上げてた及川と目が合うと、ちょっと照れくさそうに笑った。この年になってやると恥ずかしいね。そりゃあ、そうだろう。そうにきまっている。そんな子供だましのおまじない、高校生が高校生に向けて、普通言うことはないのだから。
「で、家どの辺? なんなら送ってくよ」
 照れ隠しだろうか、弧を描いた唇を無理矢理固定して、頬を固めた顔になりながら及川は立ち上がった。合わせて差し伸べられた手に、自然と左手が伸びた。恩赦は受けない、なんてことを考えるほど脳に余裕はなかった。代わりに浮かんだのは、昔、この口に、舌に載せていた、どこか柔らかい響き。
「とおる、くん」
「っ!」
 乗せた手を、ぎゅっと掴まれた。合っている、これは合っている。とおるくん、幼稚園じゃアイドルみたいな扱いを受けていた、ちょっとませた男の子。女の子から絶大な人気を誇っていたにも拘わらず、やけに隣に立ってきて、写真を撮ればいつもその子が隣にいた。
 腕を引っ張られたところで上半身が近寄せられるだけで、立つまでにはならない。だが、立ったばかりの及川が腰を曲げて膝をついたおかげで、体の行く先は見事に決まった。――胸の、中だ。
 ぎゅっ、とついさっきの手同様に包まれる体。耳元に胸があるせいで、及川の心臓の音が聞こえてくる。テンポ120を優に超えて、どこかのロックンロールみたいにビートを刻んでくる。当てられたのか自分の鼓動まで高鳴ってくる始末。
「やだなあ、」
「なにが、だよ」
「参った」
「知るか、ってか」
「離せないや」
「おい」
「だって」
「なんだよ」
 片手が後頭部に当てられ、一層胸に押し付けられる。これ以上密着したところで、余計にお前の心拍数が聞こえやすくなるだけだぞ。いや、自分の心臓も、より加速しているのだけれど。

「初恋、ぶりかえしちゃったじゃん」

 あまりに鼓動が喧しすぎて、突っ込む余裕は微塵も湧いてこなかった。