He's got a soft spot for...

 蝶番の軋む音がした。埃のせいか、油が差されていないせいか、入寮したときから、この部屋の扉は悲鳴をあげる。
 ある意味では良いのかもしれない。誰かが部屋に入ってきたと、一発でわかるから。夜中に鳴るのはいただけないけれど、大げさすぎる音ではない。生活音として許される範囲。音もたてずにこっそりと侵入されたり、それどころか、あれやこれやと悪だくみされたりするより良いだろ。
 紙を捲る。靴を脱ぐ音がする。声をかけてこないということは、同室の奴だろう。いつだって、入ってすぐじゃなく、俺がいるとわかってから声をかけてくる。誰だって、そんなもんだよな。誰もいない部屋に向かって「ただいま」というのは、妙な感じがする。実家だったらまだしも、寮の部屋じゃ、なあ。
 そりゃあ、律儀に「ただいま」「おかえり」を交し合うところもあるけれど。それこそ、馬鹿の掛け声と甲高い笑い声が響く部屋がいい例だ。決して上品ではないあいつらを「育ちが良い」と表したくはない。「躾されている」がせいぜいだ。
 また紙を捲って、すぐにページを戻す。ああ、えーと、これがああなるから、うん。何気なく見ていると見落としてしまうところがある。集中が足らないって? 良いんだよ、今はそこまで深刻に読んでるわけじゃない。眺めてる、が、せいぜいだ。
 靴下の静かな足音が近づいてくる。そろそろ声がかかるだろうか。もう少し先かな。こっちから「おかえり」とでも言ってやればいいのだろうが、生憎柄じゃないんだ。第一、俺がそんなこと言ったら、向こうがびっくりするだろう。あの御幸が「おかえり」って言ったってな。まったく、野球中心に生きてはいるけど、そこまで人間離れも俗世離れもしてねえっつの。
「はあ」
 ため息が、零れた。ひたりと残して、足音が止まる。気付いた、かな。何気なく、顔を上げた。
 ――が、しかし。
 カチ、コチカチッと小気味のいい音。響きだけなら時計の秒針。だが、リズムは一定じゃない。スイッチのオンオフを、小刻みに切り替えたみたいだ。
 みたい、じゃなく、実際そうなんだけど。一瞬にして手元が見えなくなる。スコアブックの文字が、インクが、すっかり真っ黒になってしまう。スコアブックどころか、視界に入るものすべてが真っ暗闇。
 つい、眉間に皺が寄った。
「いきなり電気消すなよ」
「……」
 返事はない。ついでに目は慣れない。真っ暗な空間をぼんやり眺める以外に、することがない。
 顔を上げたとはいえ、一瞬すぎて相手の顔を判別できなかった。一体誰だよ、こんなことすんの。俺がいるって、ため息の音でわかったろ。なのに消すだなんて。せめて寝息かどうか確認してから消せっての。
 仕方なしに、開いていたスコアブックを閉じた。気配は突っ立ったまま、電気をつけてくれる様子もない。まったく、もう一度ため息を零して、枕のあたりに冊子を放った。雑に扱わないでと、礼ちゃんの文句が過ったけど、見られてないから良いコトにしよう。
 立ち上がろうと、ぎしり、ベッドを軋ませた。
「ん?」
 と、思った。いや、ちゃんとベッドは軋んだ。与えられる重みが場所を変えたがために、確かに、ぎしりと音を立てた。間違いない。
 けど、俺は、まだ立ち上がっていない。軽く、手をついただけ。重心をほんのわずかに動かしただけ。だのに、ベッドは大げさに軋んだ。
 目は、まだ暗闇に慣れてくれない。視力のせいもあるのかな。でも眼鏡はかけたままだ。明るかったら、鮮明に見えているはずなのに、真っ暗に飲まれて右も左もわからない。
 目を凝らしていると、また、ベッドが軋んだ。俺が動いたから? いやいや、今回は動いても、重心を飼えてもいない。これは、明らかに。
「おい、」
「……っ、」
 誰か判別をつけそびれた気配が、ベッドに乗り上げてきている。
 なに、この状況。電気消して、俺に迫って、なにがしたいんだよ。ぞくりと背中が粟立つ。本当になに、もしかしてコレ、やばい状況だったりする? 暗いとか気にせずに逃げるべき? ごくりと唾を飲み込んだところで、その気配はベッドから降りてくれない。どうにか人の形が迫って来ているとはわかるが、ああわっかんねえな、誰だよお前。ほんと、なに、これ。
「おい、なんの」
 つもりだよ。

――ちょっと、肩、貸せ」

 言い切る前に、か細い声がした。
「へ、えっ、なに、倉持?」
「うるせえ」
 かと思えば、とすりと体重がかかってくる。男一人が脚の上に乗ったんだ、犬猫のような可愛らしい重さではない。三分あれば十分に痺れちまうな。そんな重みがかかる。けれど、突然の事態に体がついて行かない。一切の抵抗が、できない。
 何、なんだよ、何がしたいんだ。呆けているうちに、倉持の推定額が肩に乗った。ああ、肩貸せって言ってたもんな。そりゃこうなるわ。
「じゃ、ねーよ」
「うるせえって」
「……黙るから、その前に座り直させて」
「なんで、」
「足痺れる。伸ばすから、その間に座れ、な?」
「……」
 こちらの言うことを聞く気がなかったら、どうしよう。なんて不安は杞憂に終わった。すぐに倉持の体温が離れていく。それから、おずおずと後ろに退く気配。……もう、気配じゃないな。目が慣れた。表情の機微はわからないけれど、どこにどういう体勢で佇んでいるからは見える。
 だらりと、力の抜けた腕。膝立ちをして、ちょっと俯き気味。明るかったら丁度顔を覗き込めたかも。今も覗き込んでいるようなもんだけど、かすかに尖った唇しかよくわからないから覗いている気にはなれない。
「ほら、いいよ」
「ん」
 脚を伸ばすと同時に、ふわりと腕を広げた。倉持も、もう目は慣れたのだろう。迷うことなく腕の中に飛び込んでくる。今度こそ、とすり。俺の脚の間に座って、上体をこちらに預けてくる。全体重じゃない分、程よい重さだ。これなら痺れることも疲れることもないだろう。ちょっと前傾姿勢をとらせているから、倉持のほうは疲れちまうかもしれないけど。うーん、それはヤだな。どうしたもんか。
「ったく、どうしたんだよ、いきなり」
「黙るっつった」
「スコアブック見てんの邪魔してきたのはお前だろ」
「どうせ斜め読みしてたくせに」
「ありゃ、よくわかったな」
 肩に乗った額が、ぐりと押し付けられる。そのくせ、シャツの裾を掴む手は控えめ。引っ付くなら豪快に来ればいいのに。さほど話したこともない奴だったらたまったもんじゃないが、倉持だったら話は別。ぎゅうと抱きしめて、とん、とん、と背中を叩いてやるくらいわけもない。
「なあ、倉持」
「るせ」
「言えよ、でなきゃ俺慰めらんねーよ」
「肩貸してくれるだけでいい……」
 たぶん、倉持の言うことは本心なのだろう。傍にいてくれるだけでいい。なんて、殊勝なこと考えてたら可愛いけど、おそらく違う。お前の慰めほど下手くそなものはないから黙ってろ、ってところ。人の感情の機微に疎い自分でも、それくらいわかる。
 わかるとも。
 重たく息を吐き出しながら、背中に当てていた手の一方を腰に滑らせた。びくりと揺れた肩は、俺の吐息に引け目を感じたからか、それとも背中を擦られたくすぐったさのせいか。顔を見ていたらわかったかな。いや、見たってわかるわけねえか。倉持の表情を細やかに読むだなんて、俺にはできない。
 まだ、俺にはできない。正直、これからわかるようになるとも思えないけど、気付けるように努力はするつもり。何をどう努力するかの見当すら立っていないけど、まあ、どうにかなるだろ。
 さておき、今は、わからない。
 だからこそ、思っていること、言葉にしてほしい。と、思うわけよ。察しがいい上に気が利く倉持は、黙って肩を貸せばいいと言うけれど、それじゃあいつまでたっても何もしてやれないじゃん。
 立つ瀬がない。

「恋人に甘えられて、黙ってろっていうの」

 恋人として、立つ瀬が、ない。
 ぐっと強く抱き寄せて、耳に口付けながら囁いた。シャツを掴む手に力が入る。肩に乗る重みが悩ましげに増した。
 あ、今なら、どんな顔してるかわかるかも。ぎゅっと目一杯目を瞑って、唇を軽く噛んでいる。引き攣った息を押し戻そうとしているのだろう。確かめられないから答え合わせはできないけれど、この瞬間だけは自信ある。
「くらもち、」
 耳に触れたまま畳みかけると、まろい息が零れ落ちた。まあるい、口が開いていないと出てこない息。あれ、自信あると言ったはいいものの、その実、外れていたのかも。だって、唇噛み締めてたらこんなふうに息漏れないし。あぁ、なんだ、まだ全然だ。倉持のことを、わかってやれない。
 降参、なんて気持ちを込めて耳殻を食むが、反応はない。そうだと思った。だって、別に耳が弱いってわけじゃない。指で触れたりくすぐったりしたときも、鬱陶しいと言わんばかりの顔しただけだったし。
「なあ、」
「~~っ黙れって」
「やだ」
「みゆき、」
「教えてくれるまで、やだ」
 あれ、今度は震えた。うんと、耳元で喋られるのがだめなのかな。ふっと息をかけても大して反応してくれないのを思うに、囁かれるのが弱いと見た。一つ賢くなれた気がする。畳みかけるときは、触覚より聴覚に訴えることにしよう。
 ねえ、くらもち。ほとんど掠れた声を零すと、腕の中で身じろぎされた。離せというほど大げさな抵抗じゃない。抱きしめられるのは嫌いじゃないんだ、へえ。はは。まずいな、愛らしさで抱き潰したくなる。
 にやけそうな口元を無理やり閉じて引き締める。そのタイミングで、おずおずと倉持が顔をあげた。控えめにこちらに目線をくれる。暗くてよく見えない。黒目に俺が映っているかも定かじゃない。
 でも、確かに、目線は重なっている。そう、思う。
「だ、って、」
「うん」
「大した、ことじゃねえし」
「それでもいいよ」
「……理由らしい理由もねえし、」
「はは、なにそれ。良いじゃん余計聞きたい」
「しょうわるめがね」
「そんな舌っ足らずに言われても可愛いだけだって」
「ばかだろ」
 性悪でも馬鹿でもいいよ。気弱なお前が見れるというのなら、なんとでも言え。
 声をかけずに入ってきたのも、いきなり電気を消したのも、情けない顔を見られたくなかったからなのだろう。見られたくないけど、甘えはしたい。こいつの恋人で良かった、心底思うよ。もし付き合ってなかったら、倉持は二遊間で組んでた先輩とか、五号室で一緒に過ごした先輩のとこ行っちまうだろ。ほんと、良かった。俺のとこに来てくれて。
 まさに恋人特権。頼りに来てくれたからには、誠心誠意込めて甘やかしたいところ。つんと尖った唇に、ちゅっとバードキスをしてやると、一際大きく肩が震えた。それから硬直。でも、三秒ともたずに脱力していく。すとんと肩から力が抜けて、再び額を預けられた。乗っかる体重が、さきほどよりも重いのは、気のせいじゃない。額だけじゃなく、全身預けてくれた感じ。
 一回りか二回り小さい体を、もう一度ぎゅうと抱きしめた。
「……れた」
「うん?」
「つか、れた」
 風呂上がりの髪は、もふりと柔らかい。香ってくるのは、シャンプーの匂いかな。倉持のシャンプーは、ころころ変わる。人から借りているせいもあるだろうし、買うたび違うメーカーを選んでいるせいもあるだろう。たまに甘ったるい香り漂わせてるけど、今日のは、控えめで清涼感ある香り。誰から借りたのかな。それとも、新しく買ったやつかな。倉持が元気になったら、聞いてみようか。
 そっと、襟足のあたりから指を差し込んだ。一度逆立ててから、毛並みに沿って梳かしていく。
「なんか、今日。すげーつかれた」
「特別なことあったか?」
「ない。けどなんか、つかれた」
 今からそんな調子で冬合宿大丈夫かよ。うっかり零しそうになるが、腹の奥に押し戻す。それを言ったら、「そうだな」とだけ言って離れて行ってしまう。こんなことで、御幸のところに来てはいけない。そう擦り込んでしまう。
 はは、我ながら倉持に関しては甘いな。自分の時間を潰してでも甘やかしたいだなんて、投手連中にも思ったことねえや。うりうりと擦り寄られるのが堪らない。かかる体重が愛おしい。気だるげな野郎の声だってのに、腹の底に溜まっていく。
「気、抜けただけかも」
「あー、緊張解けて一気に疲れが来た、みたいな」
「たぶん」
 肩に乗った頭が、小さく頷いた。緊張の糸が切れた途端、体調を崩すというのもよくある話。アドレナリンでまくってれば痛くないのと似てると思う。でも痛くないのと思うように動けるのとは別なんだよなあ。よくわからなくなってくるから、それなりには動けるけど、違和感とか重たさはあるわけだし。
 こんな実体験話すのも、アウト。別の意味で倉持が離れていく。そんで正座させられて説教だろ。あのときどんだけ心配したと思ってんだ、ってな。目に見える。
 開いた口を一度閉じて、代わりの言葉を放るべく、静かに唇を動かした。
「……主将代理、きつかった?」
「そうでもねー」
「そっか、」
「と、」
「うん?」
「思ってた」
 思ってた、とは。
 目を瞬かせて倉持を見やるも、ぺったり丸い頭しか見えない。唇を薄く開いたまま呆けていれば、ぐり、と肩に額を押し当てられた。首筋に、短い髪がかかってくすぐったい。けれど、身じろぎしてしまうのももったいない。
「たぶん、思ってたより、きつかった」
 淡々とした声が聞こえた。愚痴るでも、吐き捨てるでもなく、教科書を読み上げるかのようなフラットな声。感情は置いてけぼり、事実を声にしてみただけ。肩にかかる重みが、また、増えた気がした。
「お前が復帰して、落ち着いて率いてんの見て、ああ、良かったって」
 言う、と表現するのも相応しくない。零すとか、漏れるとか、せいぜい呟くがいいところ。口を開けたら息が出てきた。自然な流れのままに、とろとろと言葉を落としていく。
 どうしたらいいだろう。聞き出しておいて、なにをするのが適切なのか、ぴんとこない。話を聞いて、頷くしかできない。そうじゃなく、これをすれば良いんだって、行動ができたらベストなんだけど。
 とはいえ、現実は考えて考え抜いて、答えが見つかれば御の字。聞くだけでも良いんじゃない。頭の片隅で、ナベと、小湊と、亮介さんの声が重なって響いた。
「安心したらなんか、」
「……疲れた?」
「つかれた」
 そこまで言い終えると、倉持は長く息を吐き出した。疲労感と倦怠感とが入り混じった、息。
 言霊信仰って、あるじゃん。言葉に霊的な力が宿るっていうやつ。あれ案外ほんとなのかもな。つかれた、って言わせた途端に、倉持の重さが増した気がする。言わせなきゃ良かったかな。でも言ってくれなきゃ俺なにもわかんねえままだったしな。
 ぱたり、手首をきかせて軽く倉持の頭を、腰を、叩いた。どうしたらいいだろう。結局、気は利かない。無言で肩を貸すだけが、ベストだったと、思わないこともない。だからといって、ここで黙りこくるのも、どうなんだよ。
 ぺたり、今度は首の付け根に当てた手だけをはためかせた。気を遣うのは、下手くそ。慰めの言葉は言うまでもない。それを、倉持はわかっている。黙れとは、もう、言わないでくれている。
「倉持はさあ」
 ぽたり、存外間抜けな声が流れ落ちた。
「あ?」
「なんでも気付いちまうからさ、人一倍疲れんだよ」
「んだそれ」
 あれを気にして、これを気にして。気にするだけじゃ飽きたらず、構って、絡んで、カバーして、……俺から言わせれば、疲れないわけがない。そんな奴が、代理とはいえ、主将業をした。うん、疲れるどころじゃねえわ。さっぱり人のことわからなくて苦労はしたけど、わかりすぎても辛いに違いない。
 疲れた。なるほど、わかった。じゃあ、どうしよう。
 ――そんなの、決まってる。
「うりゃっ」
「へ、わッ!?」
 体を抱き寄せたまま、ぐらりと体を横に倒した。重力に逆らうことなく、硬いベッドに向かって体が傾く。落下する。
 今日、一番大きな軋みが、部屋に響いた。
「なにすん、」
「疲れたんだろ、なら寝るのが一番」
「な、ら部屋もどる、」
「だめ、そしたら沢村の面倒見ちまうだろ」
 ちょうど部屋の電気は消えている。消灯にはまだ早いけど、たまにはこんな日があっても良いだろう。
 逃がして堪るかと体を引き寄せると、か細く「抱き枕かよ」と声がした。抱き枕にしていいんなら脚も絡ませるけど、そこまでしたらもっと窮屈になっちまうぞ。それでも良いって言うならする。腕と脚で捕まえたら、絶対逃がさずに済むじゃんか。
 へらっと笑って足の甲同士をぶつけると、目鼻の先に迫った倉持の顔がくしゃりと歪んだ。無理やり不機嫌を作ったみたいな顔。暗いからそう見えるだけで、緩みそうな顔を必死に堪えてるだけだったりして。だったら可愛い。ぐしゃぐしゃに頭撫でまわしてやりたい。こんな感情抱くことになるなんて、ちょっと前の自分じゃ考えもしなかった。ほんとに、もう、倉持のせいで俺の色んな物が作り替えられている。
 それが、堪らない辺り、重症だ。治る気がしない。治ってほしいとも、思えない。
「彼氏様が癒してやるから、今日はここで寝ようぜ」
「……せまい。肩こる」
「ははっひっでえなあ」
 ごもっともな意見をどうも。でも、早々に自室で寛がないで俺の肩借りに来たのはお前だよ。揚げ足をとる台詞吐くつもりはないから、揺らぐ瞳を見つめるだけ。ここにいろよ。ここに、いてよ。
「どうする、嫌なら無理強いしないケド」
 その目で言う台詞かよ。いつもの倉持ならこれくらい言い返してきそうなもんだけど、わずかに唇を波打たせただけ。喉元まで来ているけれど、言葉にはならないってところかな。
 ひたり、目が、伏せられた。
「こ、こで」
「寝る?」
「……寝る」
 顔が緩んでしまったのはご愛嬌。倉持の言葉を聞くと同時に、かけっぱなしだった眼鏡をとる。さすがに眼鏡つけたまま寝たくはない。横向きに寝ているせいでつるが食い込むし、眼鏡自体も歪んでしまうし。放り投げてあったスコアブックの上に置けば、良いよな。わざわざケースにいれるのも面倒だ。
 暗がりの中で、視界がぼやける。まるっきり見えなくなるわけではないけれど、ベッドの外は一色にしか見えねえや。輪郭が溶けて、境が霞む。視力ってどこまで落ちるんだろう。どこまで落ちても眼鏡でいくらでも矯正できるらしいけど、この程度は保ち続けたい。
 だって、嫌じゃん。こんなに近くにいる倉持の顔まで、ぼやけて見えるようになったら、さあ。
「みゆき、」
「ん?」
「めがね、とるなら」
「うん」
 刺のない、柔らかな声。シャツを掴んでいたはずの手が、気付くと頬に移動している。何度も肉刺ができて、潰れて、硬くなった手の平が頬にあたる。頬を、挟む。包む。
 熱いな、熱でもあんのかな。うっかりそう思ってしまう程度に、倉持の手は熱かった。体温が高いのか、皮膚の表面だけ熱を持っているのか、定かではない。けれど、熱いことに代わりはない。
 もしかして、こいつ、眠いのか、

「もっかい、ちゅー、」

 ――衝動的に、唇を奪わなかった俺を、誰か褒めてほしい。
「は、っはっは、かっわいいこと言いやがって!」
「うるせ、ん、ぅ」
 まあ、言い訳を吐き捨てると同時に口付けてしまったのだから、褒められたもんじゃないな。
 つんと尖った唇を甘噛みして、息苦しいと薄く開いたソコに舌を滑らせる。逃がすものかと後頭部と、腰とをしっかり押さえてはみたが、必要なかったかもしれない。倉持も、いつの間には俺の頭を抱えるようにしていたし。
「は、ぁ……、ん」
「ふ、」
 随分と情熱的なことで。疲れて気怠いときほど、欲を押さえられなかったりするしなあ。ちゅぷくちゅと鳴る水音に、煩悩の海が荒らされる。鼻にかかった声が響くたび、轟々と欲が押し寄せてくる。
「くらもち、」
「しない」
「言うと思った」
 名前を呼んだだけでそう言い返されるのは切ないけれど、疲れてるんだしな。無理を強いるわけにはいかない。というか、そもそも「癒してやる」と豪語したんだ、余計に負荷をかけてどうする。呼吸困難なキスはどういうつもりかって? それは、ほら、あれだよ、キスしてとろっとろになると、いい感じに体の力抜けるからさ。するときは、こんなキスばっかしてるくらい。
 なんて、全部後付けの理由。仕方ないだろ、倉持にあんなこと言われたら、キスするしかない。
「今日、は、しない」 
「……今日はって!?」
「るせえばあか」
 咄嗟に聞き返すが、悪態と共に顔を埋められた。どこにって、俺の、鎖骨あたりに。細い髪が、肌をくすぐる。というか、あの、そうされるのも堪らないんだけど。どうしろって。据え膳にも思えるけれど、今大事にすべきは男の恥より倉持の体。
 我慢、すればいいんだろ、わかってるって。
 一息ついて、もすりと、倉持の頭を撫でた。
「……おやすみ」
「ん、」

 ほんのりと残る劣情は、またの機会に取っておこうか。

◇◆◇◆

 肩に、穏やかな重みが乗った。その前に靴下がフローリングを歩く音と、扉の蝶番が軋む音がしていたから、予想できた重みではある。
 薄っぺらいクッションに座る俺の後ろで、そいつは硬い床の上に正座をしたのか胡坐を掻いたのか。振り返れば一発でわかるけれど、どうにもそれをする気にはなれない。だって、振り返ったら左肩に乗った重みが離れてしまうだろう。それは、嫌だ。折角来てくれたのに、無下にしたくない。
 ……嘘、相手を思いやってというよりは、俺が、その重みを感じて痛いから、動かないのだ。
 こくりと、こっそり唾を飲み下す。大げさな音は響いていない。けど、ぺたりとくっついているそいつには、振動で気付かれたかもしれない。恥ずかしいな、緊張が表に出ないのが売りなのに。
「ひゃは、」
「笑ってんなよ」
「笑うっつの。心臓ばくばく」
「……生きてりゃ誰だって心臓ばくばくだろ」
「ばくばくより、とくとくがいい。落ち着け」
「理不尽言いやがって」
 誰のせいでこんなに緊張してると思ってるんだ。誰でもない、お前のせいだよ。
 深く息を吸いこんで、ゆっくりと吐き出していく。深呼吸を何回繰り返せば、この緊張は収まるだろうか。気まぐれに擦り寄られるたび、妙な神経が逆立ってしまうのを思うに、何度深呼吸したって無駄な気がする。困ったな、心臓を黙らせる方法を誰か教えてくれないか。いや黙らせたらだめか、死んじまう。
「……きょ、うは、」
「んー?」
「今日は、ど、したんだよ」
「んー、……なんとなく」
「なんとなくって」
「なんとなくはなんとなくだよ」
 無言だからこそ、緊張するのかもしれない。他愛のない会話をして、ただのチームメイト・クラスメイトとしての距離感覚を掴めれば落ち着いたりして。そんな淡い願望を抱きつつ、言葉をかける。ところどころ掠れてしまったけれど、突っ込まないでくれたから良しとしよう。
 待て、突っ込んでくれたほうが良かったのかな。茶化し、茶化され、馬鹿笑いして。あー、そのほうが肩の力抜けたかもしれない。けれど、そうしたらこいつはきっと顔を上げてしまう。程よく距離をとって、指を差しながら笑ってくる。そうじゃないんだよ、今は。ひたりとくっついたまま、穏やかに時を過ごしたいんだ。
「疲れた?」
「そーでもない」
「ほんとかよ」
「ほんとだっつの」
「……本当に?」
「しつけーよ。なんとなくじゃ来んなって?」
「そうじゃねえけど」
 ――倉持、は。
 あれから、結構な頻度で俺の部屋に来る。最初の頃は「疲れた」と言っていたけど、そのうちに「ちょっと疲れた」になって、今じゃ「なんとなく」だ。「なんとなく」ってなんだよ、理由になってねえっつの。理由もなしに来てくれているのは嬉しいけれど、そのたびに心臓を騒がせてしまう。倉持の手の中で踊らされているみたいで癪だ。まあ、倉持になら振り回されても踊らされても構わないよ。でも、ほら、主導権を完全に握られるのは悔しいだろ。
 ぱたんとスコアブックを閉じて、数冊積み重なった上に置く。どうせ今日も斜め読みをしていた、どこを見ていたのかなんて、印を残すまでもない。
 左肩にふわりと乗る熱に意識をとられつつ、細く息を吐き出した。
「その体勢、きつくねえか」
「抱き枕にされるより楽」
「……そんなに嫌だった?」
「肩凝った」
「ごめん」
 それは悪いことをした。甘えにくるたび、とは言わないけれど、結構な頻度で倉持のことを抱き枕にしている。ついでに、そうするたびに「肩凝る、ばか」と小さく胸を叩かれる。でも、いつだってその程度の抵抗。本当に嫌なら、全力で俺のことを引きはがしにかかるはず。行動に移さないということは、まんざらではないに違いない。し、「肩凝る」で表すあたり、本当に嫌がってはいないのだろう。
 ただ、肩が凝るのは事実。その点については確かに悪いと思う。癒したくてぎゅうと抱きしめているのだ、体を疲れさせたくなんかない。これからどうしようか。倉持にとって楽な体勢にするとして、それは俺にとっても楽な体勢なのだろうか。今まで無理をさせていたのだし、ちょっとくらい辛いのは構わないけれど、どうせなら二人共楽なのが良いよなあ。
 そっと首を傾けて、肩に乗る熱に寄り沿った。自然と目線が天井を向く。ぼんやりと考え事をするには良い角度。下を向いて思考を巡らすと、なんでだかネガティブに走るんだよな。どうせなら前向きで堅実なことを考えたい。俺と倉持が、二人とも安らげる方法とかさ。
「……凝らなきゃ、」
「うん?」
「最高だけど」
 視線を、倉持に向けそびれた。
 それは、一体どういうことだ。ぱちんとスイッチが切れたように思考が停止する。肩が凝らなければ、抱きしめても構わない。それ以外に解しようがないってのに、裏があるのではないかと固まった頭を無理やり働かせる。それでも別の考えは浮かばないのだけれど。
 第一、倉持はオブラートに包んで喋ることなどしない。少なくとも俺に対しては、しない。遠慮がないだけだと思ってたけど、捻くれた俺にはストレートで伝えるくらいがちょうどいいんだって。前に倉持本人が言っていたのだから、間違いない。
 肩さえ凝らなければ、抱きしめてほしいのに。どんどん都合のいい解釈をしてしまう。調子に乗りたくなってくる。良いの、なあ、倉持。調子に乗っちゃうよ。鬱陶しいってタイキック食らわされても、手刀を落とされても、でれでれと情けない顔向けちまうよ。
 本当に、良いの。無性に確かめたくなってきて、ぐるりと、首を捻った。
「ッなあ、」
 その瞬間、肩から熱が離れる。ひゅっと入り込む空気は、いつもより冷たい気がした。けれど、間髪おかずに目が合ったおかげで、すぐに冷たさは抜けていく。しっとりとした目線。劣情というにはまろい熱が、瞳の奥に浮かんでいる。か細く開いた唇から、吐息が漏れた。
 あ、吸い込まれる。
「ぅ、」
「んむ、ちゅ」
 いや、これは、吸い付かれたのだろうか。下唇を食まれたかと思うと、角度を変えて唇を押し当てられた。舌こそ侵入しては来ないが、俺を煽るには十分すぎるインパクトがある。零れる息も、擦れ合う乾いた唇も、控えめにシャツを掴む指先も、愛おしくて堪らない。
 どうせなら、首だけじゃなく、体の向きを変えれば良かった。そうしたら、こんな触れ合うキスじゃなく、睦び合うキスができたかもしれないのに。今からでも間に合うだろうか。形の良い頭を抱えるようにして、体重をかける口づけをしたい。
 そんな、下心に、気付いたのだろうか。唇を重ねたまま、倉持がゆったりと腰を持ち上げる。あわせて、裾を掴んでいた手が頬に移動してきた。ひたりと触れる手の平は、唇よりはぬるいものの、十分なくらい温かい。上から押し付けられるって、こんな感じなんだ。いつもと逆の立ち位置も悪くない。
 そっと、倉持の耳を包むように、腕を伸ばした。合わせて、体の向きも変えていく。ゆっくり、ゆっくり、いっそじれったいくらいのスローペース。即物的に欲をぶつけ合うのも悪くないけど、こうやって余裕ぶるのも楽しいかもな。どうにか対面する頃には、きっと深い口付けになっているだろうし。
 ふ、笑みの混じった吐息を漏らすと、鼻に抜ける声がした。あ、今の、すごく、色っぽい。引き寄せて、掻き抱いてしまいたい。けれど、腰に腕を回すにはまだ遠い。もどかしい。でも、じわじわ昂っていくのが心地よくもある。
『犯し、たい』
 まさに、そう過った瞬間だった。――体の正面に、重さがのしかかってくる。途端に深くなるキス。ぬるりと入り込んだ舌に、びくり、肩が震えた。
「~~不意打ち反対!」
「ヒャハ、隙だらけのお前が悪い」
「このやろっ」
「ン」
 やられっぱなしは性に合わない。押し倒されかけた体をぐっと起こし、倉持の後頭部と腰を固定する。筋力差をわかっているからか、抵抗はしない。むしろ、やっとスイッチ入ったかと言いたげな笑いが漏れる。間違いなく、倉持の手の中で踊らされている。おかしいな、倉持は策士の質ではなかったと思ったのだけど。面倒な駆け引きをするくらいなら真っ向勝負。せいぜい挑むタイミングを見計らう程度。まったく、いつの間に覚えたんだよ。
 薄い唇にがぶり、噛みつくと、蕩けかけた瞳が瞼に隠された。もっと眺めていたかった、そう思う自分もいれば、キスに浸る姿に堪らなく興奮する自分もいる。
 口内を蹂躙するほど、愛液のように唾液が零れだす。骨に響く水音、喘ぎ交じりの吐息、しがみ付いてくる腕。セックスしているみたい、なんて言ったら、倉持は怒るのだろうか。
「っは、ぁん」
「う、あー……、くっそ」
 正直、俺としては、みたい、で済ませたくない。できることならしてしまいたい。息継ぎがてら大きく距離をとると、つうとヤらしく唾液が糸を引いた。それがまた愛欲を煽ってくる。
 はふはふと息を荒げながら、倉持は瞼を持ち上げた。重たそうに開きやがって、またキスしたくなるだろう。この辺で止めておかないと、倉持を癒すどころか疲れさせる羽目になる。そりゃあ、気持ちよくもなってるみたいだけど、負担をかけているのも事実だ。
 理性と本能とが、頭の中をぐるぐる駆け巡る。明日も朝から練習。授業もある。部活も通常通り。天気予報は晴れと言っていたから、いつもの外のメニューになる。できない。やったら、だめだ。何度も、何度も、擦り込むように自分に言い聞かせていく。
 くっと、喉で笑う音がした。間違いなく、俺の葛藤に気付いている。気付いて、憎たらしい笑みを浮かべている。ああもう、誰のために我慢してると思ってんだよ。そりゃあ倉持のためなら我慢もするけれど。
「どーした、御幸」
「シ、たく……、なっちまったなって」
「入れねえんなら、シてもイイケド」
「それ、するって言わない。つーかそこまでやって、最後まで我慢できると思うか?」
「ひゃっはは、無理だろーな」
 ああ、その笑い方、どうしようもなく好きだから止めてくれ。
 調子づいたいつもの甲高い笑い声と比べて、柔らかく、拙い響きをしている。長いキスのあと、舌が回らなくなった頃によく聞く音だ。意識がとろとろになったときなんかも聞ける。
 最後まで我慢できないのは、きっと俺だけではないんだろう。倉持だって、耐えきれないと縋ってくるかもしれない。そうなったら、本当に止まらなくなる。性欲盛んな高校生、一晩で何回できるんだろうな。限界に挑戦して腹上死はみっともないけれど、少しだけ興味はある。引退してから試してみようか。
 色気づいた笑みを浮かべながら、倉持の指先が俺の耳に触れた。そこから髪を掻き上げるように触れ、優しく頭を包まれる。倉持が甘えに来たはずなのに、これじゃあ俺が甘やかされている気分だ。
 ため息を飲み込んで、倉持の体をぐっと引き寄せた。
「煽っといてそりゃねえよ」
「だっておもしれーだろ」
「なにが。こっちは面白くもなんともねえよ」
「俺からしたらおもしれーの」
 ちょうど俺の膝の上に座る形になった倉持は、至近距離でにんまりとする。なにがって聞いてるんだから、その理由を教えろよ。むっと口を尖らせたくなってくる。
「すげー面白い」
「だから、なにが、って聞いてんじゃん」
 もったいぶるなよ。そんな意味を込めて、じっとりと倉持を睨んだ。しかし倉持はどこ吹く風。相変わらず笑みを張り付けたまま、首をかしげて見せる。とぼけんなよ、そんな動作しても可愛くねえぞ。嘘、困ったフィルターがかかっているせいで、可愛い以前に愛おしさが振り切っている。
 生意気な反応のすべてを捻じ伏せて喘がせたい。快感の海に溺れさせて俺無しじゃいられなくしてやりたい。でも、俺の言うことを聞くだけの倉持なんて、倉持じゃないよな。体目的なら、都合の良い女見つけたほうが手っ取り早いのだし。一筋縄ではいかなくて、俺のことを散々振り回してくれるくらいが倉持らしくていいや。
 俺が惚れたのは、思い通りにならないのに、どこまでも頼りになるところなんだし。
「教室じゃ、あーんなに澄ましてんのに、」
 ごつりと額がぶつかった。眼鏡が邪魔だな、近すぎて折角の倉持がぼやけてしまう。どうにかピントを合わせられないかと目に力を入れるが、徒労に終わっている気がしてならない。
「俺には必死になるトコ。すげー面白い」
「性格わっるう……」
「お前に言われたくねーよ、この性悪眼鏡」
 ひゃはっ、再び、ひらがな発音の笑い声がした。けれど、焦点の定まらない視界じゃ破顔を捉えることができない。眼鏡とりてえな。とりたい。
 とってしまいたい。
 ……念じていたのが、届いたのだろうか。おもむろに、倉持の指先が眼鏡のつるにかかった。額から熱が遠ざかり、代わりに眼鏡が抜けていく。ぼやけた視界の先で、緩く倉持が笑った気配がした。目に力を入れたら、もっと鮮明に見えるだろうか。眼鏡が床に置かれる音を聞きつつ、食い入るように倉持に視線を向ける。
 また、笑った、気配がした。
「オアズケしてる犬みてえ」
「焦らすなよ」
「へーへー、」
 しかし、倉持は一向に距離を縮めてくれない。そりゃあ見えるの許容範囲内だけど、さっきみたいに額をぶつけてほしい。鼻先が擦れて、少し角度を変えれば口付けられるまで近付きたい。
 後頭部に触れたままの手で、強請るように頭を撫でると、愉快や愉快とその手を倉持に掴まれた。指の股を掠めるように撫でられて、キュ、重なる。それから滑るように引っ張られて、手は倉持の口元へ。ちょうど、俺の手の平の窪みが、唇に当たる位置。
「くらもち、」
「ん?」
「なにしたいの」
「ん~」
「ん~って、……っう!?」
 ちろり、手の平に、弾力のある熱。それから、吸い付かれる感触。薄くも柔らかな唇に、きゅ、と吸い付かれたらしい。まるで鬱血痕を残すときのよう。そんなところに吸い付いたって、痕は残らねえぞ。突っ込もうにも、うちゅ、ちゅると何度も吸い付いてくる音に言葉が吹き飛ばされてしまう。
 舌が触れる。歯先が掠める。何度も唇が擦れて、表面と粘膜が交互に当たった。そんな真似をしでかす倉持の心境を知りたいのに、いつの間にか瞼は閉じているときた。これじゃあ瞳の奥を窺い見れないじゃないか。ぼやけた視界じゃ、見たところで確実に読み取れる保証はないが、まったく見れないよりましだろう。
 ふつふつと顔に熱がのぼってくる。末端にまで流れる血液が、沸騰しているみたいだ。熱くなるのは当然、顔だけで終わらない。耳を、首を、胸を、腕を、指先を、かっかと火照らせていく。その熱に、倉持が気付いていないはずはない。
 ちゅう、きつく吸い付かれると同時に、深く胸が脈打った。
「ひゃは、びっくりしたか」 
「もう、さあ。ほんと何がしたいんだよ……」
「何、したいんだと思う?」
「は、」
「当ててみろよ」
 ぱっと手を解放した倉持は、ようやく距離を詰めてくれる。こつりとぶつかった額は、今度は冷たく感じられた。俺の顔が熱いせいかな。鏡を見たくなって、真っ赤になっている自信あるし。
 眼鏡なしの裸眼に優しい距離。目に力を入れなくても、焦点を定められる。見えるのは、行為とは裏腹に穏やかな色をした倉持の目。あんなことしておいて、欲情はしていなんて、どこの小悪魔だよ。いたずらさえできれば良いってか。
 痛い目に遭わせてやろうか。けれど、こうして倉持からひっつかれるのを楽しみたくもある。そんでいつも手を出さずに終わるんだ。あれ、だから次々と煽ることしてくんのか。なら、そろそろ理性ブン投げて襲っても怒られない?
 あれこれ考えてみたところで、結局今日も手は出せないんだろう。なんてったって、明日も普通に練習があるから。野球が一番、色恋は二の次。戯れはしても、一番を揺らがせるのはいただけない。とりあえず今日のところは、倉持の問いに乗っておこうか。
「俺を、からかいたい」
「ハズレ」 
「……茶化したい」
「ハズレ。つーか一緒じゃねえか」
「仕方ねえだろ、それしか思いつかねえんだから」
「そういう方向じゃねえよ」
 じゃあどういう方向だよ。呆れた顔をされたって、他に思いつかない。なにより、さっきまで悪戯に成功した子供みたいな顔してた倉持のせいだ。ンな顔されたら、俺を突いて遊ぼうとしているとしか思えないだろ。
 倉持は、俺をどうしたいのか。最初は疲れたと言ってやってきていたけど、今は理由なく来るからなあ。余計にわからなくなる。なんとなく、が理由なんだろけど、なんだよ、なんとなくって。意味なく来てくれるのは嬉しい。前も言ったけど、めちゃくちゃ嬉しい。けど、その状況で、俺のところにやってくる理由を当ててみろっていうはどうなんだ。
 当てろと言うからには、意味がある。何をしに来ているんだろう。
 調子に乗っても良いのなら、他に思いつかなくもないのだが。俺と、倉持が、恋人同士だと言うことを踏まえての考え。これでハズレと言われたら羞恥で埋まりたくなる。それこそ、本格的にからかわれてしまうかもしれない。お前、そんなこと考えてたのかよって、悪い顔して笑うんだろうな。にやりという顔も、楽しんでいる感が滲み出ているから嫌いじゃない。その顔を見られるなら恥ずかしい思いする価値もあるだろうか。
 うらりと視線を彷徨わせてから、おずおずと口を開いた。
「い、」
「い?」
「い、っしょに、いたい、から?」
「……近からずも遠からず」
「えっ」
 静かに、倉持の手が俺の頭を包んだ。
 予想外の反応に、呆けてしまう。お前はそんなに俺といたいんだって、からかわれると思っていた。倉持なら、そうすると思っていた。
 こくりと唾を飲み下すと、じいっと黒目に射抜かれる。もう少しで、正解。当たるまで介抱してやらねえからな。そんな雰囲気に、気圧されてしまう。
 これ以上心臓が加速したら、どうなるんだろう。心臓の許容範囲ってどれくらいなんだろう。平常の三倍はあるんじゃないかという速度で胸が脈打つ。腰を抱く腕が力んだ。互いの服が擦れる。その下にある素肌の熱が伝う。鼻先が擦れて、唇が、微かに、触れた。
「じゃあ、」
「おう」
「あ、」
「ん?」
――甘えたい、とか」
 指先が、震えた。か細い吐息が、唇にかかる。そばにある瞳が、きゅう、見開かれた。
 アタリだろうか。
「及第点」
「ハ、どういうことぅおわッ!?」
 すると、倉持の全体重がのしかかってきた。ゆっくり寄せられただけなら受け止められるのに、よりにもよって、妙な勢いがついている。後ろに倒れる上体。方向から察するに、積み上げたスコアブックにはぶつからずに済むだろうか。
 いや、そういう問題じゃない。
「あっ、あぶ、危ねえな頭打つとこだっ」
 た、だろ。
 そこまで言う前に。ふにゅりと、唇が降ってきた。
――充電」
 掠れた声が、鼓膜を震わした。それからもう一度唇が重なる。けれど、深く交わることはなく、すぐに離れてしまう。押し倒したくらいだ、もっと積極的に求められるかと思ったのだけれど、そう甘くはないらしい。
「みゆきが、たりない」
「足りない、って、」
「知らね。ケド、なんか、足んない」
 仰向けになった俺の上に寝そべる倉持が、もそもそと顔を埋めてくる。肩と鎖骨の間辺り。倉持の柔らかな髪が顎を擽った。上体しか乗っていないとはいえ、これは重い。それに、野郎の上じゃ寝心地も悪かろう。どうせ寝転ぶなら床よりベッドがいいに決まっている。
 軽く倉持の背中を叩くと、緩慢な動きでしがみ付かれた。シャツの腕が、ぴんと張る。いやそうじゃなくて。
「抱き枕は、体凝るんじゃなかったか?」
「されるのはやだ。するのはアリ」
「お前なあ、そしたら俺が体凝るじゃん」
「しーらね」
 なんにせよ、俺の上だなんて不安定なところを選ぶなよ。床に落ちたとき痛い思いするの倉持だぞ。それこそベッドに行けば落ちたときの衝撃も少ない。いや、ベッドから床に落ちるんじゃなく、俺の上からベッドの面に落ちるってことな。
 移動、したほうが良いぞ。もう一度背中を叩くと、すぐに腕を掴む力が緩んでいった。とはいえ、まだ指先にひっかけられている。そんなに気に入ったとでもいうのだろうか。
「……ちょっとだけで、いいから」
 くぐもった声がした。俺の胸に顔を押し付けているせいだ。どうにか首をもたげると、もふりと髪に顔が沈んだ。擽ったいだけで、当然目があうはずもない。仕方なしに、もたげた頭を床に戻した。固くて、冷たくて、寝心地が良いとは言えない。無理にでも起こして、ベッドに連れて行ってしまおうか。ついでに、散々煽った見返りとして、いたずら仕返してやろうか。
 熱の名残は未だ体中に残っている。手を、出して、しまおうか。

「頼む」

 か細い声で、畳みかけられた。
 据え膳食わぬは男の恥。って言うけどさ、それは誘われているからこそ成り立つ話なんだよなあ。縋られている今は、むしろ手を出したほうが恥だ。男として、恋人の態度として、ない。いくら鈍い俺でもわかる。鈍い以前に、これは常識の問題か。
 そっと息を吐いて、ずっしりと重い体に腕を回した。背に触れて、とん、と手の平を当てる。摩るか叩くかも考えたけど、軽く触れるだけで、今回は良いかな。服の布地越しに体温を感じとるだけで、十分ということにしよう。恋の駆け引きとして正解なのか、不正解なのか。経験値がなさ過ぎてさっぱりわからない。
 けど、文句を言われないから、見当違いではない、と思う。
「くらもち、」
「ん」
「落ち着いてからでいいからさ、……今日も、一緒、寝ない?」
「……」
「えっちなことしないから」
「それ普通言うか?」
「一応言ったほうが安心するかと思って」
 もういいよ、俺の負け。今日も負け。手は出しません。明日の練習に支障がないよう努めるのみ、ってな。柔らかな猫っ毛に頬を寄せると、吐息だけで笑う気配がした。シャツ越しだから曖昧だけれど、素肌でひっついていたら鮮明にそれを感じられたのだろう。ちょっと、残念だ。
「フラグにしか聞こえねーよ」
「……んなこと言ってるとほんとにフラグにしちまうぞ」
「へーきへーき、お前は優しいから」
「俺を優しいなんて言うの、倉持くらいなもんだよ」
「へたれだから、って言われるより良いだろ」
「……まあ、うん」
 とんと背中を軽く叩くと、ほらなと言わんばかりに頬ずりをされた。きりきりと理性が擦り減っていく。大丈夫、いざとなったら倉持が全力の抵抗をしてくれるから大丈夫。
 深く息を吸って、静かに吐き出した。たかたか逸る心臓は、未だ落ち着いてくれない。うるせえよ、って、また言われてしまいそう。ゆっくりと、深呼吸を繰り返す。瞼を閉じて、吸って、吐いて。また吸って。
 ほのかなシャンプーの香りに、つい、脈が加速した。
「ひゃは、うるせぇ」
 誰のせいだよ。倉持のせいと思えば、辛くもなんともないけれど。返事がわりにぎゅうと抱きしめると、負けじとシャツを握られた。
「も、少ししたら、」
「ん?」
「ベッド、行く」
「……ん、わかった」
「だから、もうちょっと、」
「このまま、な」
 果たして、そももう少しの間に、心臓は落ち着いてくれるだろうか。ベッドに連れていくときくらいは、かっこよくありたいもんだ。