衝動的三秒間

 咄嗟に口づけた三秒間。
 掴んだ手首は一周して指が余っている。引き寄せた腰は、もっと肉厚だったような気がする。おかしいな、引退して数か月しか経っていないのに。現役から練習量が減ったとはいえ、それなりに自主練しているように見えたんだけど。
 ささくれだった唇は、おそらく空気が乾燥しているせい。グラウンド駆け回って毎日のように土埃をかぶっていたから、というのは、もう理由として使えない。むしろ教室だ寮だ図書室だ、屋内にいる時間のほうが長かったもんな。机に向かって、分厚い参考書を開いて、くるりと器用にペンを回す。特にここ三か月は、ずっとそればかり。よくもまあ飽きないもんだと、感心した。
 突き飛ばされる、と思った。当たり前だろ。どこかのラブストーリー、フィクションみたいに、都合よく世界ができているはずないのだから。恋人同士でもなく、告白をしたわけでもされたわけでもない。ただ、名前を呼んで、駆られるまま引き寄せて、唇を重ねた。
 予告も、布告もなしだったってのに、どうしてお前は俺を突き飛ばさないんだろう。突き飛ばさないでくれるんだろう。
 唇を離してしまうと、触れていたという事実すら消し飛んでしまいそう。
「なんで」
「……ソレ、普通なら俺が言うことだよな」
「なんで!?」
「だから、……つーか俺に言うなよ」
 どうせなら。ぽつりと漏らした声が、微かに鼓膜を震わした。音を聞き取って、ゼロ・コンマ何秒で脳みそに届くんだっけ。生物だったか、何かで補足的に教師が言っていたがどうもうろ覚えだ。そもそも、この学び舎で身につけた知識をどれだけ今後使うのか。忘れたって、支障ない気もする。
 骨ばった手が、ネクタイを引っ掴んだ。ぐしゃりと乱暴な手付き、皺になりそう。なったところで、今日を最後に使わなくなるネクタイだ。下手をしたら、ごみ箱行き。多少皺がついたところで、何も問題あるまい。
 しいて問題をあげるとすれば、きっちりと締めていたそれが、引っ張られることで一層襟首を絞めてくることか。ボタンを抉る、シャツに食い込む。喉元を、圧迫される。苦、しい。引っ張んないでよ。
 一つ二つ、噎せながら、引っ張られるままに、体が折れた。
 がちり、眼鏡が音を立てた。
「っと、邪魔だなコレ」
「なに、え、」
「ま、そこまででもねえか」
 文字通り目鼻の先に迫った倉持が、三センチばかり間を取ってから首を傾けた。つい、同じ方向に首を傾げそうになるが、たぶん、お前はいいんだよと怒られる。そんな、気がする。
 すぐに詰められた三センチ、今度は眼鏡に顔をぶつけることはない。上手く躱して、乾いた唇が、落ちてくる。落ちるなんて言い方も変だな。低いところから、見上げるようにくれたのだから。
 乾いた唇を、触れ合わせるだけの三秒間。ついでに閉じられた瞳が、レンズ越しに歪んで見える。近すぎて、ピントを合わせられないんだ。不敵に吊り上がった目が、素直に閉じているさま、鮮明に、クリアに、見たいのに。視力が悪いことを、久々に呪いたくなった。
「ほら、」
 沈んでいた唇が、ゆっくり、元の形に戻っていく。三月のほのかに温かい風が、ちろりと皮膚を擽った。
 今、今。
 ネクタイから手を離した倉持が、わずかに低い位置で笑っている。器用にも、口の片一方だけ釣り上げて。効果音をつけるとしたら、ニヤリがいちばん相応しい。
 目頭が、熱くなる。
「ッなんで!?」
「やっぱ、ソレ、されたほうが言う台詞だな」
「そういうことじゃなく、……なん、で」
 動揺に合わせて、ふらり、体が後ろに傾いた。ついでに倉持に触れていた両手が宙をさまよう。次の行き場はどこだろう。ふわふわと片手は自分の口元に辿り着いたが、もう一方は所在なげに浮いたまま。
 じっとりと吐き出た息が、右の手のひらに吸い込まれた。
「嫌だったか」
「まさか!」
「……だろーな、そもそもお前が先に仕掛けてきたんだし」
 人の悪い笑みのまま、三歩で距離を詰められる。流れるように左手も回収、丁寧に指を絡めてくるときた。一回りほど俺のほうが大きい手、捕らえたのは倉持なのに、俺が捕まえたかの心地になってくる。何たる倒錯感、くらりと頭が揺れる。
「~~もう、だめ」
 腰から力が抜けていく。立っている地面が歪んだかのよう。重力に従って体をしゃがみ込ませると、呆れたため息が聞こえてきた。
 手は繋いだままだから、間抜けに腕だけ上に伸ばした構図。手、全体から伝ってくるぬくもりが、やけに胸に響く。貫く。指先から小さな針を送り込まれてる気分。ちくちく、さくさく、心臓を突かれる。
「なあにがだめなんだよ」
「だって、こんなの、」
 反則だ。
 ほとんど口の中で呟いた声を、倉持は聞き取ってくれたんだろうか。きゅうと握る力が強くなる。だから、痛いって。握力の意味じゃなく、その優しさが突き刺さるって意味で、痛い。苦しい。
「あのなあ、何回も言うけど、先にやったのはお前だぞ」
 静かに、腕が体の近くに降りてくる。たぶん、倉持もしゃがんでくれたんだと思う。また胸が痛んだ。優しいよお前、なんなの。
 ――キスを、した。本当はその前に、告白をするはずだった。好きで、好きで、大好きで仕方ない倉持の記憶に、三ミリグラムでいいから自分を刻み付けたくて。たとえ気持ち悪いと思われても、その記憶に残してもらえるのならなんだってよかった。エゴといえば、エゴ。自分勝手。それでも、傷をつけてしまいたくて、仕掛けたんだ。
 そう、俺から仕掛けた。なのに、こんなの聞いてない。
 返り討ちに、されるだなんて。
「みーゆき、」
「うぐ……」
「なんだかんだする前に、言うこと、あったんじゃねえの?」
「お見通し、ってか」
「ヒャハハッ当然だろ、俺を誰だと思ってる」
 ふと顎に手を掛けられた。かと思えば、そのままくいっと上を向かされる。これを少女漫画的な気障な動作ととるか、任侠だヤクザ映画だでよく出てくる脅しの動作ととるかは、分かれるところだと思う。
 身を持って体験した俺としては、どっちも、ってところかな。くつくつと笑う倉持はどうしようもなくかっこいい。見惚れる。でも逃げ道を塞がれた恐怖心がないといったら嘘になる。
 どきどき、する。愛おしくて、恐ろしくて、心臓が悲鳴を上げる。
 笑みを携えた倉持の唇が、ゆっくりと、開いていく。
「言えよ、俺を、好きって」
 卑怯だ。狡すぎる。むしろ俺が言ってみたかった。
 倉持に好かれていると気付いたのが、まさにこの三分間なものだから、願望のまま現実にはなってくれないんだろうけど。
 ああもうほんと、かっこいい。ダイヤモンドを駆け抜ける姿も、バウンドした白球を鮮やかに捕らえるのも、凹みかけてる俺をそっと支えてくれたのも、かっこよくて仕方がない。これぞ男前、一生かかっても、敵う気がしない。
 ようやく浮かんだ顔は、どうしようもなく情けない、蕩けた笑み。自分でも、手に取るようにわかっちまった。
「ッあのね、俺、」

◆◇◆◇

 情感たっぷりに見上げられた丑三つ時。寝入るには遅すぎて、起きるにはあまりに早すぎるこの時間。ぼんやりと定まっていない焦点に頬を緩む。可愛いなあ、ベッドに横たわる倉持にそっと口づけた。
 最初は触れるだけ。二度目はぺろりと舐める。それから三度目、深く濃厚なキス。ベッドの縁に座っていたものだから、上体だけ覆いかぶさるこの体勢は腰を捻らせなければならない。名残惜しいけど、あんまり続けるのは辛いや。
 どうせなら、きちんと体勢を整えてから、もう一度しようかな。
 漠然とそう考えて、ちゅっと唇を離した。泡だった唾液が、糸を引く。そのうちに、細かな泡が倉持の下唇に落ちた。とろんと濡らして、鈍く光る。半開きになっているのと相まって、ちょっと、淫ら。体勢を変えようかと思ったけれど、また口付けしまいたい。
 どうしたものか、苦笑を浮かべた。
「……あの頃の、」
「うん?」
 おもむろに、倉持の唇が動いた。気怠さたっぷりの緩慢な動き。唇に乗った唾液が煩わしいのか、赤い舌がゆっくりとソコをなぞっていった。
 事後特有の、色気って言うのかな。纏った空気と一挙一動が乗算されて、ひたすら淫靡に見えてくる。どうせ明日は休みだ、続き、してしまおうか。
 かといって、これ以上倉持に負担をかけたくない気持ちもある。大分行為に順応してきたとはいえ、大変な役を任せていることに代わりはないんだし。
 なんて、思いながら、また倉持に上体を覆い被せようとしてるんだから、俺も大概だ。
 倉持の顔の脇に手をついて、ぐっと顔を寄せた。
――あの頃の可愛い御幸はどこ行ったんだろうな」
 キスをするまであと三センチ。そんなところで、倉持が呟いた。呆れたような、懐かしがっているような、遠い目をしている。あの頃って、いつだよ。定かじゃないけれど、とりあえずキスはしても良いかなあ。ふにゅりと押し付けると、特に抵抗もなく受け入れてくれた。されるがままじゃないあたり、倉持らしい。負けず嫌いなんだから。
「ん、っと、どしたの。いきなり」
「なんとなく」
 たっぷり吸いついてから離れると、ごろりと寝返りを打ちながら俺の腰もとに寄ってくる。ゆったりと伸びていた肢体が、きゅうと丸まった。
 重たそうな両腕は、ぐるりと俺の腹に回る。しがみ付くとか、抱き付くとかとはまた違う、本当に、腕を回しただけ。腰にうりうりと押し付けられる額の、なんと愛おしいこと。
「可愛いことしちゃって」
「んるせえ……」
 そこでようやく、倉持の声が嗄れていることに気付いた。激しかったもんなあ。激しくしたのは誰でもない、俺なんだけど。明日を気にせず耽られるの、久々だったんだ。倉持だって、遠慮しなくていいからって言ってくれたし、それに甘えただけ。だけというには、随分と疲れさせてしまったみたいだけど。
 ごめんな。そんな思いを込めて、極力穏やかに問いかけた。
「激しかったよな、疲れた?」
「腰重い体怠い脚やばい腕動かねえ喉乾いた」
 うわ、すごい言いよう。蛇口をひねったみたいにだばだばと不満をぶつけられると、応えるな。疲労感と倦怠感とが入り混じった倉持を見るに、紛れもない事実なんだろう。ただ、いざぶつけられるとウッとする。自分で聞いといて何ダメージ食らってんだ。
 ここでごめんな、とでも言ってやるのが大人なんだろう。今日はたっぷり甘やかしてやる。動かなくても不自由しないくらい尽くしてあげる。
 しかし、言えないんだから困ったもんだ。まだ、俺もガキだなあ。つい、ムキになってしまう。
「……ケド、気持ち良かったろ」
 聞かなくていいことなのに、何言ってんだってな。そんなの、昨日散々俺の下で悶え狂った倉持を思えば明らかだろう。一方で、倉持の口から聞きたいと、我儘を言ってしまう。かっこ悪いなあ。
「気持ち、良かったろ?」
「……狂い死ぬかと思った」
「狂うほど気持ち良かった?」
「しつけえなあ」
 知ってる。許して。優しい倉持なら呆れながらも許してくれるんだろうけど。俺の恋人、器大きいからさ。びっくりするほど寛大。あまりに男前なもんだから、付き合い始めたころは振り回されてばかりだった。今は、どうだろう。少しは倉持の心、かき乱せてるかなあ。
「……まだ、お前の入ってる感じするんだよ」
 あ、だめ、また倉持に振り回される。恥じらって言いそうにないこともけろっと言っちゃうんだもん。困る。本当に困る。俺のこと煽りやがって。
 カッカと熱を持ちそうな自身を必死に意識の外へ追い出した。そう、だな。一旦落ち着こう。ええと、喉乾いてるって言ってたし、水。キッチンから水持って来よう。
 そうしよう。
「み、水、とってくんな」
「いい」
 行かせてくれよ頼むから。腰をとらえた腕に一層力が入り、抱き付いているのと相違なくなってくる。指の腹が下腹の皮膚を撫でる。爪先が物欲しげに引っ掻いてくる。誘ってんのかよ。
 経験上、これは誘っているんじゃなく甘えたいってことなんだけど。紛らわしいだろ。けど、倉持は面と向かって誘惑してくる。座っているところに乗り上げるように抱き付いて来たり、下から顔を覗き込むようにひっついてきたり。あ、やべ、思い出したら熱くなってきた。
 どうにかして、倉持を引っぺがさないと。でないと、また手酷く犯してしまう。
「でもッ、喉乾いたんだろ」
「やっぱり乾いてない」
「がらっがらの声で言われてもなあ」
「だれの、せいだ」
 斜め後方を盗みるように首を向けると、丁度倉持も顔をあげたところだった。
 散々泣かしたせいで、うっすら腫れた瞼。完全に開くには、時間がいりそう。水もだけど、冷やしたタオル必要だよな。ああ、取りに行かなきゃ。
 しかし、相変わらず倉持は手を離してくれない。行かないで、と縋ってくれるのは嬉しいんだけど、後々を考えたら、な。察しの良いお前ならわかってくれるだろう。むしろ、わかってて、そういうに縋ってるんじゃなかろうか。
「すぐ戻るからさ、ね」
「やだ」
「わがままだな~」
「お前と離れんのやだ」
「もう……、言うこと聞きたくなるだろ」
「聞けよ。そんでここにいろ」
 まるで生殺し。甘えたい倉持と、このままもう一度犯してしまいたい俺。悶々としているのを見ないふりして、ぎゅうと抱き付いてくるだなんて、あんまりだ。
 膝を丸めて、今は構えないと言っているのにくっついてきて。動物を飼ったことはないけれど、噂に聞く猫はこういう性格だよなあ。猫科の大型肉食獣。高校のとき、沢村だったかな、チーター様って呼んでたっけ。足が速いって意味なんだろうけど、こういうところも当たってやがる。馬鹿ではあるが、悪くないあだ名をつけたもんだ。
 見た目の割に柔らかな髪を撫で付ける。汗ばんでいるせいで、ぺったりとした髪。好戦的に逆立てているのも様になってるけど、こうして下ろしているところも悪くない。どっちも、好き。勝ち負けつけがたい。倉持だから、そう思うんだろうな。
 脱力した横顔を見ているだけで、また頬が緩んだ。愛おしさが込み上げてくる。
「ふは、」
「なに笑ってんだよ」
「だあってさあ」
 撫でられるのは許容していたくせに、笑われるのは嫌なんだ。まあ、俺もそんなとこあるから、わからなくもないけどさ。
 くつくつとそのまま笑っていれば、ムッとした顔をして倉持が腕を解いた。が、解放されたわけじゃない。背中にしがみ付きながら上体を起こし、ごつりと肩口に頭を預けてくる。ちょっと振り向けば、目が合う距離。前髪を押しのけたら、額にキスを落とせそう。
 数年前の俺は、知る由もなかったろう。倉持の、こんな甘えた顔。高校のときなんか、むしろ俺のほうがみっともない顔してたもんな。自分を曝け出すのが下手くそな俺は、随分と倉持に頼っていた。いやあ、あの時の倉持は本当にかっこよかった。ヒーローにすら、見えたもんだ。
「だから、笑ってんな」
「ごめんって。でも、あんなにかっこよかった倉持が、こぉんなに可愛いんだぜ。堪んねえったら」
「……今でもかっこいいだろ?」
「もちろん! 同じくらい可愛いけどな」
 言い切った瞬間、体を反転させる。驚く様子もないのは、予想できていたからか、驚く気力もないほど疲弊していたからか。逃げたり抵抗したりしないんだから、どっちでもいいや。
 惜しげもなく晒された素肌を眺めてから、ぎゅうと体を抱き寄せた。汗ばんだ肌が、ぺったりとくっついてくる。あとで一緒に風呂入ろうな。その前に、もうちょっと汗を掻くこと、するかもしれないけど。ああやりたい、したい。いくらしても、したりない。ったく、傍迷惑な中毒患者かよ。
「あぁ~、この収まる感じ……、すげえ好き」
「言っとくけど、俺平均そこそこあんだからな」
「知ってる」
 百七十センチは高校の時から変わりない。俺はもうちょい伸びたから、キスしようとすると屈むか背伸びしてもらうかしなきゃならないんだよな。体重は大分減ったと思う。体重計に乗ってるとこ、見たことないし、痩せたってこと知られたくないみたいだから、触れないでいる。
 痩せたのにも気づかないでやれたら良かったんだろうけどさ、しょっちゅう抱いてるんだもん。いくら鈍い俺でもわかっちまうって。
 背中に当てた指先を滑らせて、浮き出た肩甲骨を捕まえる。二、三度摘まみながら、もう一方の手で背骨をなぞった。んん、やっぱり、今のが痩せてるよなあ。セキツイを、一個一個、数えられる。下から上へ辿って、摘まんでいない側の肩甲骨を叩いた。
「ん、ふっ」
「ほら、可愛い」
「……ほんと、お前の可愛げが恋しいわ」
「えぇ、なんでさ。今のほうがずっと気持ちいいことできるのに」
 実際今だって、背中をこつこつ撫でられて感じてるだろ。余裕があるから、できること。付き合いたてのころなんか、裸の背中見るだけでがっついてたじゃん。唐突に盛って、背後から迫って、半ば強引にコトを進めて。我ながら酷いもんだ。
「そーだな……」
 少し考えた様子の倉持は、きゅっと俺の首に腕を回した。口を尖らせれば、キスできる距離。肩ごしの近距離もイイけど、正面からの近距離も顔見れるからいいよなあ。
 って、あれ。正面?
「慎重すぎてじれったいのとか」
 流し目で視線を逸らした倉持が、かりっと項を引っ掻いた。痕が付くような強いものではない。薄皮一枚に触れるだけの、くすぐったいもの。しかし、比較的敏感な部分をかりかりと刺激されると込み上げてくるものがある。
「拙くて、戸惑って、慌てふためくのとか」
 見上げるようにして戻ってきた瞳。その奥で、じっとりと灯る熱。まだ、俺が入っているかの感触がすると言っていたっけ。もしかすると、俺よりずっと、もどかしさを抱えているのかもしれない。
「半泣きになるくらい必死に縋ってくるのとか」
 ぺったりと、胸が当たった。心臓は左側というけれど、ほとんど中央に近いところから鼓動が聞こえると思うのは俺だけだろうか。二つの拍動が、どくん、どくん、低く深く響いてくる。心臓が活発に動いているということは、血液をたっぷりと送り出しているということ。じりじりと、熱が顔に集まってきているのが、手に取るように分かる。
「余裕吹っ飛ばして、――夢中で腰打ち付けてくるのとか」
 充血しているのは、顔だけじゃない。そりゃあ、倉持とのやりとりで込み上げるものはあったけれど、ここまであからさまではなかった。堪えられる範囲。すぐに、落ち着かせられる程度。だが、今のこれは、そう簡単に静められるもんじゃない。
 まずい、な。
「好きだったんだけど」
「や、めろよ、恥ずかしいだろ」
「気付いてるか? 今の御幸、すっげー可愛い顔してる」
「意地悪やめろっての」
 すっかり倉持のペースだ。最近は大分、俺のペースに巻き込めていたと思うんだけど、結局は手の平の上で踊っていたに過ぎないらしい。やられた。
 火を噴きそうな顔を、真正面から見られている。間違いない、倉持は、これを狙って煽ってきた。甘えているだけじゃ俺の顔を崩せないからって、狡いよ。振り回されてる間の恥ずかしい失態が次から次へと浮かんでくる。抹消したい。あれがあったから今があると言われたらそれまでだけどさ、人間、自分の恥ずかしい思い出は忘れたいもんだろ。
 でも、倉持はみっともない顔をしている俺が好きらしい。可愛いって、そいうことだろ。悔しいったらありゃしない。
 一矢報いるには、どうしたらいい。真っ赤な顔してキスをしたって、可愛い可愛いと宥められて終わる。ムキになった状態で押し倒しても、余裕は戻ってこない。
 なら、どうする。
 ――倉持にも、余裕を失くしてもらえばいい。
「……今の俺は、嫌い?」
「いや、嫌いじゃない」
「じゃあ好き?」
「まあ」
「ほんとに好き?」
「ああ」
 普段の声で聞いたって、倉持の余裕は崩せない。吐息多めの、掠れた声。ウィスパーボイスと言っても良い。そんな声に、どうやら倉持は弱いらしい。
 付き合い始めて、どうにかして倉持を虜にしたくて、必死に弱いところを探した。弱点特攻、それを卑怯と呼ぶか、狡賢いと呼ぶか、人それぞれだろう。そんで最初に見つけたのが、これだ。情けない場面でばかり使っていた声だけど、その声で強請るのが倉持には効くのだ。一言二言使っただけだと、仕方ねえなって笑って終わりだけど、何度も何度も、畳みかけるように浴びせると。
「すき?」
「……す、き」
 ふらり、視線を泳がせた。なんでもない場面だと、好き、くらい平然と言ってくる。けれど、もったいぶって、空気を作って、いざそれを言うべき状況にすると、照れたふうに倉持は言うのだ。こういうときこそ、気取って言うもんじゃねえの。そう思った日もあったけれど、これはこれで可愛いから、そのままの倉持でいてほしいなあ。なんて。
 答えたんだから、もう良いだろ。つんと尖った唇が、必死に主張している。でも、ごめん。もうちょっと、聞かせてくれよ。さっき意地悪してきたんだし、これくらい、良いだろう?
「ねえ、どんなところが好き?」
「それまで聞くのかよ」
「昔の俺に嫉妬しそうなんだよ、ね、教えて」
 倉持の余裕を失わせたいから。だけじゃない。今言ったのも本心だ。過去とはいえ自分は自分。愛されていることに代わりはない。
 そう言い聞かせたって、つい、過去を羨んでしまうのだ。俺にとっては恥ずかしくて抹消したい自分だってのに、倉持にはこんなにも好かれている。頑張って余裕を作ったのに、無駄みたいじゃんか。
 口にしないだけで、ちゃあんと今の俺も好きでいてくれるんだろうけどさ。言葉にしてもらえたら、最高に、嬉しいだろ。
「……息に合わせて、加減してくれるとこ」
 ぽつりと倉持が呟いた。肌に触れるときでも、キスをするときでも、それよりずっと濃厚なつながりをもつときも、倉持の呼吸には意識を向けている。あまりにも息が浅くなって、過呼吸になられるのは嫌だし、かといって、一切乱れないのも癪。倉持が気持ちよくなって、感じてくれるようにするには、呼吸を聞くのが一番いいんだ。
「切なくなるタイミングで、キスしてくるとこ」
 あんまり他のとこばかり責めてると、唇噛んじゃうもんな。そう簡単に食い破れることはないけれど、もし血が出てしまったら、傷ができたらと思うと気が気じゃない。
 ついでに倉持はあまり喘ぎたがらない。たまに、上ずった声を漏らすだけ。わざとらしく悲鳴をあげられるより、ずっとクる。から、喘ぎたくない・口を塞いでほしいって顔してるときにキスしてあげてる。そういうときに限って、必死に舌絡めてくるからさ、口塞いだまま激しく揺さぶっちゃうんだよね。声、外に漏れないようぴったりキスしてるから、許してほしい。
「やだって言うと、ちゃんと聞いて、よく、してくれるとこ」
 あんまりヤダヤダ言われると、カチンとくることもあるけどね。嫌がってる中、強引にしたくない。あと感じすぎて、気持ち良すぎて「やだ」って言ってることも多い。だからそのたび「何が嫌だった?」って聞いてる。大体泣きじゃくっちゃうんだけどさ、ちゃんと「どこが気持ち良すぎて嫌だった」って教えてくれるんだ。もうすっげえ可愛い。やだ、が、もっと、に変わった瞬間とかほんと昇天しそうになる。
「したあと、抱きしめて、背中さすって、すっげえ甘い顔するとこ」
 そりゃあ甘い顔もするよ。しないでいられるわけがない。全力で倉持をよがらせたあととか、完封勝利できたとき並に気分良いんだ。その分、負担かけたり恥ずかしいことさせたりしてるから、ありがとうって意味を込めて抱きしめてる。良かった、女扱いすんなって思われてないか、ちょっとだけ不安だった。そっかあ、したあと抱きしめられるの、倉持好きなんだあ。
「~~ッああああこれでいいかよ!?」
「ふへへ、うん」
「だっらしねえ顔しやがって!」
「いやあ倉持に愛されてるなと思ったらさあ」
 こんな顔もするって。愛されてる。知ってたし、わかってた。でも、言葉にされると格段に嬉しい。それに、ここで決め顔してもムカつくって頬抓ってくるだけだろ。んでもって、俺のこういう気の抜けた顔、倉持好きだろ。
 へらっと笑うと、首筋から熱が失せた。回していた腕を解いたらしい。肩にでも、ずらすのかな。
 そんなことを考えていると、ぺったりと、頬が挟まれた。倉持の両手で、頬を包まれる。某ファンタジーアニメーションのお姫様が、よくして、されてるやつ。どうしたんだろう。ちゅーしてくれんのかな。
 胸を高鳴らせながら倉持を見つめると、そっと息を吸い込みながら、瞼を落とした。目、閉じるんならこっちからキスしてやりたいんだけど。頬を挟まれてる状態じゃ、うまく動けない。折角キスにぴったりの顔が目の前にあるのに、なんだか残念だ。
「御幸、」
「んん? なあに、」
 おもむろに、名前を呼ばれた。
 それから、ゆっくり、ゆっくり、倉持の瞼が持ち上げられていく。覗くのは、しっとりと濡れた、瞳。あれ、さっきまで幾重にも羞恥を浮かべていたのに。瞼を閉じたすきに、どこへしまったんだろう。まさか捨てたとか。つーか、こんな簡単に感情切り替えられる奴だったっけ。え、待ってよ、なにその真剣な目。
 どきりと、胸が痛む。見られているだけで、心臓を刺されるかの心地に陥る。そういう、かっこつけ、いらないって。蕩けた可愛い顔して、俺に縋ってよ。じゃないと。
 そうしくれない、と。

――あいしてる」

 こっちの余裕が、また吹き飛んじまうだろ。
「~~反則だろ!?」
「ひゃはは、そうだよそうやって可愛い反応してりゃいーの!」
「かっ、」
 カッと叫ぶと同時に、倉持の顔がとろんと緩む。作った顔だったの。わざと、嘘だろ、わざとあんな顔作ったってのかよ。
 ちゅっと鼻先に口付けられる。そこじゃ、ないだろ。むっとしながら、お返しと言わんばかりに倉持の頬を挟んだ。しっとりと手に吸い付いてくる感触すら、愛おしい。
「可愛いのは、どっちだよ」
 言い返すと同時に、薄っぺらな唇を奪い取った。

 次のセックスまで、あと三秒。