肩
単調な音が響く。
なんということはない、俺が、やすりで爪を削っている音だ。別に特段伸びているというわけではない。だが、野球部ということを思えばベストな長さではなかった。ついでに、投手ほど気を回す必要がないとはいえ、爪というものは案外割れやすい。ケアは、大事だ。
かしかし、しゃりしゃり、一方向にやすりを滑らせる。
「ん……、みぅ、き……?」
「悪い、起こしたか」
ふと、背後から声がした。言うまでもない、行為の後、力尽きるように眠ってしまった倉持だ。なんで力尽きたって、試合形式の練習をしたせいで高揚していたせいなんだけど。いやあ、つい激しくしちまった。珍しく「いや」も「まて」も言われなかったんだ、俺だけのせいとは言わせない。
やすりを持ち替えながら、ちらりと背後に首を向けた。先ほどまで仰向けになって寝息を立てていたのだが、寝返りを打ったらしく横向きになっている。ぽやっとした瞼は重そうの一言に尽きる。平常時の柄の悪さはどこへやら、黒目が俺の姿を捉えると、ひどく安心したように細められた。猫って、たぶんこんな感じ。飼ったことはないから、想像でしかないけど。
「……ぁにしてんの」
「爪削ってんの」
「ぁー、ウン、伸びてたな」
「分かった?」
「なか、ひっかかれたとき、なんかちがった」
「え、痛かった?」
「んーん」
会話は成り立っている。から、そこまで眠くもないのかもしれない。意識ははっきりしてるけど、体は睡眠を求めてるってところだろう。それなら、下手に抵抗してないで素直に体に従えよ。えろい意味じゃない、体の信号に従っといた方があとあと苦労しなくて済むってことだ。
それでも倉持は起きたいのか、体は横向きのまま顔を枕に突っ伏して唸りだす。無理すんなって。俺も爪終わったら寝るし。隣で寝ていいかな。俺のベッドだしいいよな。適当な理由をつけて、同室の後輩は今五号室にいってもらった。主将になって、後悔することはいっぱいあったけど、得したなということがないわけじゃない。野球はほとんど関係ないけど、こうして倉持との時間を作りやすいってのは、一つの利点だと思う。ゾノにばれたら怒鳴られそ。
「眠いんなら寝てろって、」
「ん~、」
じりっと恨めしそうに睨まれる。誰のせいだと言いたげ。だから、ノってきたのはお前も同じだって、俺だけのせいにすんなよ。
肩を竦めて見せてから、右手の爪に取り掛かった。利き手じゃないから、ちょっと違和感。何年もやってるのに、慣れやしない。それくらい、利き手ってもんに頼って生きてんだな。程よい長さになるよう、捲れないよう、静かに丁寧に削っていく。
「ん……?」
「だーから、ねみいんだろ?」
「ちがう、なんか……」
声を掛けられるが、今度は振り向かない。右手に意識を定めたままだ。振り向いてもいいけど、俺だってできれば早く寝てしまいたい。さっさと爪のケアを終えてしまいたい。そんで、すよすよと眠りこけるお前を抱きしめながら夢の中に旅立ちたいの。寝てるときって、なんであんなにあったかいんだろうな。夏場はジレンマだけど、冬場は天国。腕の中に天国って、その例えもどうなんだよ。
かしかしと、やすりで擦る音が淡々と広がっては消えていく。ほらほら、お前は布団の中をあっためてろ。そんな願いとは裏腹に、倉持がのっそりと起き上がる気配がした。
「肩、」
そして、指先が伸びてくる。声の通り、きっと肩だ。肩がどうしたのだろう。牽制球を放つ俺の肩に、改めて見惚れたとか? そんなわけねぇな、あったらどうしよう。腹の中がざわりと揺れる。だめだ、落ち着け、今はほら、爪、爪とがねえ、
「っでぇ!?」
「うわ、わり」
びりりと、痛みが走った。痺れにも近いかもしれない。つい、衝撃に両肩が揺れ、爪やすりが手から離れた。そのまま無理に抉りに行かなくて良かった。
さておき、痛みである。うそ、俺、肩怪我してたの。いやそんなわけがない。今日の練習では違和感のイの字もなかった。飯食って、自主練して、風呂入って、思い返したところでこんな痛みは出てこない。落ち着け、そんな、肩を痛めるようなプレーはしていない。倉持の指先が触れて、ぴりっとした痛みが走っただけ。と、いうことは外傷か。皮膚になんらかの傷ができているということ。
皮膚に、傷。きず。キズ。
心当たりが、ないことも、ない。
「……あー、悪い」
「いいよ、激しくしちゃったし」
「でも、何かコレ、……まずいだろ」
「風呂のとき気をつけりゃどうにかなるって」
おそらく、というか、倉持の反応からするに俺の肩には蚯蚓腫れができているに違いない。ひっかき傷と言ってもいいかもしれない。
何でつけたって、まさに先ほどの行為で、倉持の手によって付けられた。確かに、いつもよりがっしりとしがみ付かれた。その必死なさまが嬉しくて激しく腰を打ち付けて、唇を食いしばるのに合わせて爪を立てられた、ような。快感を追いかける方に一生懸命で、痛みなんて感じなかったけど、そうかこういうことになっていたのか。
「……我ながらスッゲーのやっちまったな」
「あれ、引っ掻いたの覚えてんの」
「なんとなく、がりってやった、って思ったけど、」
「けど?」
「マー、激しかったし?」
「ははははは、気持ち良かったろ」
「そらどーもサイコーでしたァ」
この野郎。語尾にその言葉をつけたしつつ、べとっと肩に触れられた。だから痛いって。傷口なんだから優しく触ってくれよ。違う、触らないでくれだよ、優しかろうと触られたら痛いっての。
ぴりぴりと与えられる痛みを意識の外に押し出して、残りの爪とぎを再開した。なんなら倉持のもやってやろうかな、爪痕つけるくらいに伸びてるって事だろう。そりゃあ、白い部分が何ミリもの幅を作っているわけではないだろうけど、指に揃えた長さに削ってやろうじゃん。やすりを滑らせ、最後の小指に取り掛かった。
「ごめん」
「深くはねえし、血が出てるわけでもねえんだろ。なら、いいって」
「……一か所、深い」
「ぅえ、うっそ」
「ココ」
「ぁっで……、そこは確かに、いてえや」
「だろーなー」
ぽつりと呟いて、倉持は床に足を下ろした。何も纏っていない、引き締まった生足。あれお前、もしかして、もしかしなくても服着てないの。着せた覚えはない。一応布団の上から掛けておいたけど、服を着た気配などなかった。そりゃ全裸だ。おおお。
爪を丁度いい塩梅で揃えたところで、倉持が立ち上がった。寒い寒いと言って、言いながら人の机の引き出しを開ける。嫌寒いんなら何か着とけって、でなきゃシーツとか毛布とか包まってよ。ちょっと、おい、日に焼けていない四肢が眩しい。暗がりだけど。
「んだよ、消毒液ねえじゃん」
「お前、俺がそんなの持ってると思う?」
「人の怪我やらなにやらに文句つけるお前なら」
「……昔と違って、今は清潔にしてれば消毒しなくてもいいんだとよ」
「そーなのか、……ってなに顔覆ってんだコラ」
清潔にしていれば、というか、水道水とかで洗ってしまえば良いと言うことらしい。俺も聞きかじった知識だから絶対の自信はないけれど、消毒という注射に並んで子供が嫌がる行為を避けられるのならなんだっていい。必要に迫られたらされるけど、泣いたりなんてしないけど、しなくていいならそれに越したことはないだろう。
ちらっと指の隙間から倉持を見やれば、隠すことなく晒されたカラダが目に入った。何度も見ている。もっと恥ずかしいところも見ている。だが、いざそう晒されるとどきりとするんだ。まして俺の部屋でだぞ。
「つまんねー」
「つまんなくねえし、もうちょっとお前は恥じらえ」
「ハッ、今更じゃねーか」
ひたひたとベッドに戻ってきた倉持は、すとんと俺の隣に腰かけた。それからジャージの上着を肩にかける。あくまでかけただけだから、恥部は見えたまま。隠す様子などない。指の隙間からじぃっと見ていれば、いつもの甲高い笑い声を小さく零された。
「変態か」
「そんなカッコしてる倉持が悪い」
「すぅみませんでしたー」
「反省の色が見えねえぞ」
「肩については悪いと思ってるっつの」
両脚を畳んで、倉持は体育座りをする。おかげでソコは隠れてくれた。良かったと思う反面、残念な気もする。
そこで、ふと、肩にかかるジャージが一回り大きいことに気付いた。いそいそと倉持が袖を通してくれたおかげで気付いたのだが、袖はもちろん、裾も長い。脚を入れたままジャージの前を閉めると、普通伸びた感じがするがそこまででもない。そりゃあいくらかは伸びているのだろう。だが、びちっと布が張りつめている風ではないのだ。
それ、俺の、ジャージ?
「……ッ」
もう、そういうことする。にやけないよう唇を噛み締めれば、追い討ちをかけるように倉持の頭が肩に乗った。こてん、擬音をつけるなら、これが一番ふさわしい。
「ごめん」
「もう、いいって。許す、つーかそうされて許さねえほうが、ない」
「お前の脳みそ、随分と単純にできてんな」
「単純って、だって許すしかなくねえ?」
「代わりになんかさせろ~くらい、性悪のお前なら言うと思ったんだよ」
「……なんか、していいの」
「内容によりけり」
止めの上目遣いとは卑怯じゃねえ。もう一回押し倒したいところだけど、それはだめだろう。じゃあ何がいいだろうか。折角言い出してくれたのだ、何かしないと、むしろ失礼。
もう一ラウンド、以外の案を探してくるりと思考を回す。妙に男心を押さえた行動をされたせいで心臓が騒いでいるが、ポーカーフェイスでカバーする。倉持相手ってのを思えば、無駄な足掻きに過ぎないが、しないよりはマシ。どうしよう、何が良いかな。深いキスさせて、とかでいいのかな。それくらいなら、こっそりいつでもできるから却下だ。
肩を痛めつけられた報復に、何をしよう。
「あ、じゃあ!」
「おう」
迷うことなく、両手がジャージに伸びた。片手は肩に、もう一方の手はファスナーに。きゅっと摘まんで、きょとんとする倉持に笑顔を一つ。
「キスマーク、つけさせて?」
返事は、聞かない。即座に前を開けて、ぐいっと肩口を引っ張った。膝小僧と一緒に薄く色づいた飾りが目に入る。そこもいいかも。でも、肩の仕返しなのだから、肩じゃないとな。
「おいそこ見えッ……!?」
「んっ! 見られたら、一緒にゾノに叱られようぜ」
「うわ、ナベちゃんと白州にも咎められんだろ、コレ」
声色はげっそり。でも、表情は、どこか嬉しそう。長く痕に残ればいいな、同じ場所に、もう一度吸い付いた。