終
毛先から雫が落ちた。小さな粒は湯船の中にかすかな波紋を作る。その波が落ち着いたところで、また一滴零れた。首筋を伝い落ちたり、剥き出しの肩にかかったり、ぽたぽたと水滴は流れていく。
……そのくっつく感触が、鬱陶しかったらしい。ほっそりとした指先が、毛先を耳にかけた。
後ろから抱える姿勢はそのまま、そぉっと濡れた顔を覗き見る。ベッドの上で見事に崩れた化粧は、すっかりさっぱり、綺麗に落とされていた。素肌の自然な艶だけが、頬に乗っている。形の良い唇は、拗ねたみたいにツンと尖っていた。伏せ気味の目元には、「恥ずかしい」と書いてある。
込み上げてきた愛おしさにまかせて、ちゅ、唇を寄せた。
「ッン」
「あれ、まだ感じる?」
「だ、って、」
たちまち、三ツ谷の鼻から抜けるような声が漏れる。俺の手を置いている下腹も、ひくんと跳ねた。どさくさに紛れて、指先を下の方に向けてしまおうか、なんて下心が芽生えてしまう。ソコに触ったら、ツンとした唇からは喘ぎが溢れることだろう。むくりと好奇心が首を擡げた。あらぬところも、膨れそうになってくる。
まあ、つけなくてはならないモノが尽きてしまったから、これ以上はできないのだけれど。
「ほんとに、あんなとこまで、入るなんて……ッ」
「可愛かったよ。ダメダメ言ってんのに、ちゃっかり俺の腰に脚絡めてきてさ」
「うわあああ思い出させんな!」
全身を真っ赤に染めながら、三ツ谷は自身の体を抱く。広い浴槽の中で、すらっとした脚がバタバタと騒いだ。おかげで、ほんのり色付いた水面がたぷんと揺れる。
ついさっきまで、三ツ谷の腰は抜けていた。なんとか立ち上がる様は、生まれたての小鹿を彷彿とさせるくらい。それがここまで動かせるようになったとは。いくらかマシになったのだろうか。悪戯心を自覚しながら、そっと手のひらを太腿へと滑らせた。
「ぁンッ」
「ふ、」
「~~ッなに笑ってんだよ!?」
「感度良いなあと思って」
不埒に動かした指先は、早々に三ツ谷の手に捕まった。繊細な五指が、ぎゅうっと手のひらに絡みつく。締め付けられているみたい。そういえば、世間には手遊びの四十八手もあるんだっけ。三ツ谷とヤッたら、楽しそう。愉しくなりすぎて、本番もしてしまうかも。
顔をにやけさせたまま、もう一度三ツ谷のこめかみに口付けた。
「そ、ういう、こと、するッ」
「嫌?」
「嫌っていうか、手慣れ過ぎてて、チョット引く」
「そこまで経験人数多くないんだけどな」
「……じゃあどこで覚えてきたのさ、あんなエッチなこと」
「耳年増なもんで」
「それ女に使う言葉だよ」
「あ、そーなの」
ついでに剥き出しになっている耳介にもキスをする。ココも敏感になっているらしく、ひくんと肩が上下した。
呼応するように、湯船の中では乳がたゆんと揺れる。仰向けになっている時は、こんなにたわわな印象はなかった。ブラを外すと同時に脂肪が横に流れてしまい、ほんのり凹凸が見える程度。つまり、コレは本物、ということになる。後からナニかを詰めたわけではない、天然のおっぱい。最中に、ちゃんと堪能するんだったな。
握られていない方の手をそぉっと浮かせ、くんっと下乳を持ち上げた。浮くような感触もするが、指が埋まる柔らかさも感じる。手首を返して、今度は下から掬うように乳房に触れた。
「たぽたぽすんな」
「なあ三ツ谷あ、今度ココに顔埋めてもいい?」
「ばか、すけべ」
「とか言って、満更でもないって顔してンぞ」
「……ドラケンのこと、ぎゅってできるなら役得だからね」
なおも胸を撫でていると、ツンと尖った唇が可愛いことを言う。役得だって? 散々なくらいにしゃぶられ、舐られ、食まれるだろうに。そんなことを言われたら、思う存分に責め立てたくなってしまう。
今からでも、埋めてしまおうか。腕の中にある体を反転させて、ぱふんと飛び込んでしまおうか。
苛立ちに似た欲が押し寄せてきて、……ゴムは尽きているんだと首を振った。どうして、ケチって三個入りにしたんだろう。そりゃあ、ここまで盛る予定じゃなかったからだ。次は絶対に、六個にする。十二個入りでもいい。もしくは、ラブホじゃなく家に連れ込むとか。それならストックもあるし、存分に貪れる。
柔肌を抱きしめながら、悶々と近い将来に思いを馳せた。
「おい、またえっちなこと考えてるだろ」
「……わかる?」
「だって、鼻膨らんでる」
「エ、恥ず」
「あんまりスケベなことしたら、蹴っ飛ばすからね」
「コッワ、そうやって何人不能にしてきたんだよ」
「うーん、二人」
ポロッと、三ツ谷は口を滑らせた。たちまち、ぎくりと体が強張る。けれど、三ツ谷がそれに気付いた様子はない。記憶を遡る方に、意識を使っているらしい。
「最初にできたカレシと、その次のカレシの時。どっちの時も痛くてさ。無理ッ! って、思いっきり蹴っちゃったんだよね。フラレたのも、たぶんそのせい」
「……ふぅん」
大した感慨も込めずに、三ツ谷は過去の男のことを口にする。
自分は、絶対に初めての男ではない。わかりきっているのに、ショックを受けていた。何年も前に、デート帰りの三ツ谷を送ったことがあったろう? あの時、「あ、こいつ、ヤッたんだ」って思ったろう? ショックを受けるなんて、今更すぎる。
……じゃあ、あの夜の三ツ谷は、カレシを蹴り飛ばした直後だったのかな。それで気まずくて、一人飛び出してきたか、黙って出てきたか。だとしても、あんな時間に一人で歩くなよ。メール一つくれれば、どこにだって迎えに行ったのに。
「じゃあ、」
「じゃあ?」
これ以上、三ツ谷の嘗ての男の話を掘り下げるべきではない。知ったら知った分、嫉妬で身もだえる羽目になる。
にもかかわらず、だ。
「三人目からは、蹴っ飛ばしてないんだ」
己の口先は、煽るような言葉を選び取ってしまった。三人目で済むだろうか。四人目、それに五人目くらいなら、いてもおかしくはない。なんせ、この女はたいそう可愛いから。引く手も数多だろう。俺の前ではろくに着飾ってくれなかったけれど、余所では華やかな姿を見せつけていたみたいだし。
実際、どーなの。ちなみに俺は何人目? 無理やり口元に笑みを貼り付けて、物思いに耽る三ツ谷を覗き込んだ。
わけた前髪の先から、ぴちょん、水滴が落ちる。甘く垂れた目尻に、じんわりと赤みが差した。すっぴんなのに綺麗な色をした唇は、一旦おちょぼ口を作ってから、ちょこんと開いた。
「その三人目、―― ドラケンなんだけど」
突如、自分の愛称が飛び出した。
なんで今、俺のこと呼んだの。いや、呼ばれたわけでは、ない。かといって、俺の名を挙げた意図が掴めなかった。正しく捉えられたのは、言葉の音だけ。意味の方は、なかなかどうにも繋がらない。閃けない。
三人目が、何。俺が、何。
俺が、三人目だって?
「は、」
「痛いんだろうなって思ったのに、するんって入っちゃうし、意味わかんないくらい気持ちいいし」
「あ、んんっと、……めちゃくちゃほぐしたし」
「それさあ、指はまだわかるけど、なんで舐めたの、なんで吸ったの、なんでハムハムしたの」
「は、はむはむ?」
「したじゃん!」
したっけ。というか、ハムハムってなんだ。紛れ込んだ擬態語に意識を持っていかれかけるが、寸でのところで思いとどまる。俺が三ツ谷に施したあれやこれはどうでもいいのだ。知りたいのは、この女の経験の方。
一人目と二人目は蹴っ飛ばしておいて、三人目には脚を絡みつかせただと。ああいや、よくよく思い起こせば、前戯を始めた直後、踵が飛んできたような気がする。可愛い戯れみたいなキック。まさか、俺の前の連中は、アレに負けたのか。正直、苛烈な蹴りとは思えない。受け止めるのだって、容易かろう。逆に、アレを止められないって、どれだけ軟弱な男だったんだ。そんなへなちょこ、別れて正解。可愛くて、凛々しくて逞しくて、そして強いこの女には、不釣り合い。
それはそれとして、自分のような、強引に押さえ込んで、前後不覚に陥るまで貪る男が三ツ谷に似合うかというと、疑問である。
「ったくさあ、時代が時代なら、お嫁に行けなくなってたよ」
顔を火照らせたまま、三ツ谷は俺に寄り掛かってくる。胸や下腹に添えている手が、諫められる気配はない。口調だけは不満そうだが、視界に映る姿はどこか喜んでいるふうだった。
「……それは、さあ」
「んー?」
「俺のとこに、嫁に来てくれるって、話でいい?」
「へ」
「ああいや、嫁はヤダってんなら、婿入りでもいいんだけど。つーか、今時ヨメとかムコとかって考え方、古い?」
自分はつい使ってしまうのだが、その単語を喜ばない人間がいるのも、最近知った。三ツ谷はどっちだろう。良い印象も悪い印象も持っていなさそうだな、とは思う。
ひとまず、三ツ谷の返事を待って、じぃと旋毛を見下ろした。耳には、今も髪がかかっている。だから、その縁の形はよく見えた。
茹ったみたいに、真っ赤に染まっていくところが、本当によく、見えてしまった。
「ふッ」
笑われた? 飛び出した吐息に、心臓がギュッと強張る。
「フツツカ」
続けて聞こえてきた声は、なんだか震えていた。笑いを堪えているせい、ではない。
「モノ、です、が」
途切れながら紡がれる音は、とにかくたどたどしい。
「末永く」
そのくせ、頭には本来の漢字が浮かんだ。
「どう、か」
そもそも、どうして三ツ谷は、これほどまでに動揺しているんだ。
―― 俺が、あたかもプロポーズを思わせる台詞を吐いたから、だ。
腕の中にある発熱が、カッと自身に乗り移った。あまりの熱さに、目が眩む。頭が揺れる。湯船になんて、浸かってはいられない。
咄嗟に腰を浮かせ、真正面から赤く色づいた柔肌を抱きしめた。
「幸せにする、」
「っぁ」
得たばかりの愛が、全身に沁みていく。これまでの素っ気ない態度も、時折見せる愛らしさも、全部今日のためのお膳立てに思えてきた。
「だから、俺の方こそ、―― よろしくな」
告げると同時に、素の唇を重ね合わせた。