「あの人はね、私の運命だったのよ」
 自分の父親は、どんな人だったのか。家族についての作文を書く宿題が出た時、なんの気なしに母に尋ねた。
 父がいないことを苦に思ったことはない。そもそも、父親と触れあった記憶自体がないのだ。仮に存在したとして、何が変わるのだろう。小学校の授業参観でよその父親を見かけることは多くないし、友達の口から母ちゃんの話はあっても、父ちゃんの話はろくに出てこない。だったら、いたっていなくたって、一緒だ。いようがいまいが、どうだっていい生き物。それが、自分にとっての「父親」という生き物だった。
 なのに、母は顔をうっとりと綻ばせる。初めて見る表情だった。妙な熱を孕んだその顔に、ゾッとしたのを、今でも覚えている。
 もういい。やっぱりいい。俺に、何も聞かせないでくれ。そう言いたいのに、強張った身体は言うことを聞かない。消しゴムを握ったまま、カッ開いた目玉で母親を見ることしかできなかった。
「とっても素敵な人でね、」
 ―― 俺の、父親という人間は、とびきり見目が良かったらしい。いわゆる不良で、学校にはたまにしか来なかった。珍しく登校してきても、机に突っ伏して授業の間ずっと居眠りをしている。そのくせ、教員連中は、誰一人として、そいつを叱らない。叱れない、のだ。いざ起こして、黒板の数式を解かせれば、何一つ不備なく正解を導き出す。教科書に答えのない質問だって、流暢に模範解答をしてのけた。もちろんテストは一位を取るのが当然で、運動神経も抜群。腕っぷしの強さ故に幾人もの男を平伏させ、浮名の多さに見合うくらい幾人もの女を泣かせていたという。
「みんな、一目置いていたの」
 それは、避けていたと言うのではないだろうか。少なくとも、自分は関わりたくない。なんなら、そんな嫌味な人間と血が繋がっていると思われたくないくらいだ。この話は、本当に自分の父親の話なのだろうか。母の初恋の話の間違いに思えてくる。
 自分から振った話ではあるものの、真剣に聞く気は失せてしまった。作文には妹のことを書こう。父親のことは書かない。それがいい。
 饒舌になった母親には、うんうんと雑に頷いておく。本当は、相槌だってしたくはない。けれど、「アンタが聞いてきたんでしょう」と喚かれるのも嫌だった。折角寝付いた妹たちが起きてしまったらと思うと、気が気じゃない。
「あの人と過ごしていた頃は、本当に幸せだったわ」
 声の熱を上げていく母親を、ちらりと盗み見た。
 じゃあ、今は幸せじゃないの。うっかり口から飛び出しかけて、ごくんと腹の中に飲み下す。幸せじゃないと言われるのは、嫌だった。取り繕ったかのように「幸せ」と答えられるのだって、癪。
 作文用紙に書いた「家族」という文字に消しゴムを押し付ける。ぎゅ、ぎゅ、鉛筆の黒を絡め取ったあと、「妹」という文字を書き直した。この漢字は、ちょっと苦手だ。ツクリの方はいいけれど、ヘンが難しい。たった三画なのに、どうして「女」の字はバランスを取るのが難しいのだろう。三ツ谷の「三」もそうだ。鉛筆で書くのも難しいし、習字の筆で書くのはもっと難しい。「未」の右払いを書き終えた後、マスからはみ出そうな歪さに気付いて、もう一度消しゴムを擦り付けた。
「隆、あなたはね」
 ぐしゃり、手元の紙が拉げる。咄嗟に顔を上げた。まさか、このタイミングで呼ばれるなんて。
 その話、母ちゃんの初恋の話なんじゃないの。俺には、関係のない話だろう? ぽかんとしていると、なぜか母は笑みを深めた。
「私の愛の証なの」
「え?」
「あなたができたってわかったとき、本当に嬉しかったわ」
 その瞳は、俺を映している。母の、普段より熱の籠っている視線が、しっとりと肌に触れた。
 こうやって、母と目線を合わせるの、いつぶりだろう。妹二人ができてからは、彼女の目はあの二人に向きがちだった。でも、今はちゃんと、自分を見てくれている。
 あたたかさと愛おしさがたっぷりと籠った目が、そこにはあった。目を合わせていると、じゅわりと胸が擽ったくなってくる。胡坐を掻いている脚も落ち着かなくて、なんとなく正座に組み替えた。
 妹の面倒を見るのは大変だ。家のことだって、しなくてはならないことがたくさんある。それが全く辛くないと言うのは、嘘になってしまうけれど、母ちゃんが俺たちのことを大事にしてくれるのなら、―― 俺も頑張ろうって、思える。
 聞かせてくれて、ありがとう。途中、テキトーに聞き流してごめん。どっちを言おうかな。口の中で舌をもごもご動かしながら、体を母の方に向けた。
「母ちゃん、」
「だって、―― 他の女と私は違うって、証明されたんだもの!」
 溌剌と恍惚の入り混じった声が、耳に響く。
 この人は、今、なんと? 息を呑む俺を余所に、母はくるくると唇を蠢かせた。
 あの人はちょっぴり驚いていたけれど、好きにしろって言ってくれたから産むことを決めたのよ。他の女は彼といくらしたって孕みもしなかったのに、私とだけは子供ができたの。これが、運命なんだって思った。今はなかなか会えないけど、いつか彼も、私が運命なんだって気付く日がくるわ。その日が本当に楽しみ。ああ、待ち遠しいわ!
 ……振るわれた熱弁は、ろくに頭に入ってこない。ええと、母は今日、酒を飲んでいたんだっけ。そろりと目線を移動させ、彼女の手元に銀色の缶が握られているのを確かめる。飲んでいる。酔ってもいる。だから、正気では、ない。
 キャラキャラ幼い子供のように笑う母のことを、どうしたらいいだろう。妹のように、寝かしつけるべきか。彼女が飽きるまで、話を聞いてやるべきか。でも、皿洗いも終わっていないし、洗濯物だって山になっている。くるりと頭を回したところで、宿題の提出は今週末で良いことを思い出した。後回しにするのは、コレだな。
 鉛筆と消しゴム、両方を筆箱にしまって、作文用紙を国語のファイルに挟んだ。
 母は、俺が聞いていないことになど気付きもせず、声を上ずらせていく。その様を白々しく見やってから、息継ぎをしたタイミングで「そろそろ寝ないと、明日も仕事なんだろ」と切り上げさせた。

 翌朝は、母が起きる前に学校に行った。下校してくる頃には、もう彼女は仕事に出かけている。保育園に行って戻ってきても、夕飯を作って、妹の面倒を見て、寝かしつけて、ぽつぽつ家事を終わらせても、まだ母は、帰ってこない。
 自分は、母にとって、何なのだろう。愛の証と言っていた。他の女より、「あの人」とやらにとって自分が相応しいことの証明だと、言っていた。
 俺は、あの女にとって、何なのだろう。実は、都合が良いだけの存在なのではないか。ある男―― 結果として、自分の父親になってしまった男―― と結ばれるために産んで、今後その男ともう一度結ばれるとき、余計なモノを押し付けるために生かされているのではないか。
 ―― その可能性に辿り着いた瞬間、いてもたってもいられなくなった。かといって、何も持たずに飛び出す程、正気を失ってもいない。家計費用の財布を握り、部屋の電気とガス、窓の鍵を確かめる。最後に玄関の鍵を閉めたところで、日が暮れた街に逃げ込んだ。
 斯くして決行されたたった一度の家出で、龍宮寺堅と巡り会えたのは、俺にとって唯一の幸いだったのかもしれない。