部活から帰って来て、玄関を開けて、それから靴を脱ぎ捨てた。
 廊下の奥からは、味噌汁の匂いが漂ってくる。じんわりと口内に唾液が滲んで、腹がきゅるると鳴き声をあげた。飯食いたい。腹減った。めしめし、って、治じゃあるまいし。けれど、腹が減っているのは事実。腹減ったなあ。そう思うままに三歩、廊下を進んだ。
『帰ってきたら、靴を揃えること』
 と、ぷかり、あの人に言い付けられた言葉を思い出す。そうだった、靴を、揃えないと。
 くるりと踵を返し、三歩を引き返すと、左右のスニーカーが好き勝手なほうを向いて転がっていた。このままにしていたら、怒られてしまう。叱られてしまう。面倒でも、これくらいは「ちゃんと」やらなければ。そのうち、小言じゃ済まなくなって追い出されてしまう。
 きちんと揃えてから、今度こそとつま先を台所に向けた。廊下を進んで、ほんの数秒。食器棚と冷蔵庫が見えてきた。
『そんで帰ったで、て声かけること』
 まあ、朝起きたときとか、飯食う前とか、そのへんの挨拶はちゃんとせえよ。
 確かこれを言われたのは、この家に、最初に足を踏み入れた日。引っ越しの手伝いに来た母親が、東京観光したさに予約したホテルに引き上げていった、夜のこと。俺のオカンがおいてった各種惣菜をちゃぶ台に広げながら、あの人はそう言ったのだ。
『そんなん、当たり前のことやないですか』
『言うたな、なら守れや』
 交わした約束は、その翌朝に早速破り、さらには翌々日の夕方にも破った。当たり前、言うてたよな。そんな目線を浴びてから、住むとこ間違えたかなと思った。心底思った。
 けれど、高校の一年と二年の間に沁みついた習性は叫ぶ。「この人の言うことは間違いなく正しい」「言うとおりにして俺が損することは微塵もない」と。
 すんません、追い出すのだけは勘弁してください。頭を下げてからは、いわゆるちゃんとした生活を送っている。と、思う。この人のものさしではいい加減かもしれない。少なくとも「俺基準」では、ちゃんとしてる。
「ただいまあ」
 ほら。今日だって、台所に立つ丸い頭に「帰りましたよ」と声をかける。ちゃんとしてるやろ?
 いつもなら返事を待たずに洗面所に行き、手を洗うところ。だが、今日は立ち止まってしまった。きっと、ほんのりと漂ってくる夕飯の匂いのせい。ああ、腹が減った。久々にがっつりボールに触れたからだろうか。
「おかえり」
 ちらり、その人は肩越しに俺を見て言った。
 しかし、すぐに目線は手元に落とされる。まな板のほうに、向いてしまう。それから、トン、トン、トンと、ゆっくりな包丁の音。鮮やかな包丁捌きには程遠い。自称・料理が得意じゃないという俺の母親より、拙い。味噌汁に入っているネギが、いびつな蛇腹のように連なっていたのは何回あったろう。二日に一回は見かけるものだから、途中で数えるのをやめてしまった。
 とはいえ、料理下手かと言うとそうでもない。安かろう多かろうの学食で食べるんだったら、家帰ろうかな。そんな感じの、味。
 ……正直になります。俺の胃袋は、すっかりこの人の作る飯の虜です。半月ちょっとだというのに。そりゃあもう、がっちりと掴まれてしまった。
「今日のゴハン、なんですか」
「それより先に手ェ洗ってこい」
「えぇえ教えてくれたってええやん」
 駄々をこねると、ちらり、またその人がこちらを向く。いや、向いてはいないか。僅かに意識を向けただけ。視線は味噌汁の鍋に向いている。ざらざらと切ったばかりのネギが、まな板から滑り落ちて行った。あ、切れてないの見っけ。こんなにも切れていないなんて、器用不器用・上手い下手以外に理由があるような気もする。例えば、包丁の切れ味とか。
 こういうときって、どうするんやったっけ。研ぐ? 何で。ええと、砥石で?
 ……そんなことより、今日の飯が知りたい。
 ね、とニッコリしながら首を傾げて見せる。ようやく俺を視界に入れたその人は、わかりやすく呆れた雰囲気をまとった。でも、小さく開いた口は、俺の欲しがっていることを教えてくれる。そうに違いない。
「ホッケ、」
 当たった。ぽつりと言い渡された魚の名前に、きゅるると腹が鳴る。
「玉ねぎと油揚げの味噌汁、ふきのそぼろ煮、菜の花のおひたし」
「えっソレ嫌い」
「なら増やしたるわ」
「ヒドッ!?」
「残すなよ」
「残しませんけどぉ……」
 苦手なモンは苦手なんです。がっくりと肩を落としてみるものの、その人は知ったことではないと小鉢を持って俺の横を通りぬけた。廊下挟んで向かい側、居間の中央にあるちゃぶ台にコトコトン。焼けたばかりとみられるホッケと、ふきの煮つけは既に置いてある。
 腹減ったなあ。腹が減っていれば、好きなモンはいっそう美味くなるし、苦手なモンでもそこそこ食べれてしまう。コレが苦手、アレがキライと言っても信じてもらえずにいるのは、なんやかんやぺろりと平らげてしまうからかもしれない。
 いやいやいや。考えてもみ、あの北さんが作った飯やぞ。残すわけにはいかんやろ。
「ほら、手ェ洗ってこい」
「はーぁい」
 声をかけられるのに合わせて廊下に戻った。ひたひた歩いて数メートル。突き当たりを曲がったところが洗面所。
 石鹸を使って手を洗ってから、うがいもする。外から帰ってきたら手を洗う。というのも、あの人との約束の中にあった気がする。靴を揃えるのと違って、こっちはチビんときからやっている。おかげで面倒と思うこともない。風邪引いてバレーできんようなったら嫌やろ、そう言って躾けてくれてありがとう、おかん。面と向かっては絶対言わないけど。
 ぴぴっと指先から水気を弾いて、回れ右、そんでススメ。そうだ、その前に二階に鞄、置きに行ったら良かった。まあいいか、飯食ったらどうやったって一回部屋行くし。肩に引っ提げた鞄を、とりあえずと居間の隅に放った。
「なあ、夕べの残り冷蔵庫入っとるから」
「チンします?」
「五十秒な」
「細かッ」
 言われるままに冷蔵庫を開いた。真ん中の段にある白い器。ピンとラップが張られた下には回鍋肉が眠っている。
 この人曰く、味が濃かった回鍋肉。イタダキマスのあと一口食った瞬間に不機嫌が立ち上ったから、一体何が起きたのかと思った。味が濃い? 米が進んでええやんか。俺こんくらいでも好きですよ。そう言っていつもの量の三割増しで平らげると、いつの間にかこの人の機嫌も直っていた。
 そんな回鍋肉だ。俺がガツガツ食ったせいもあり、あまり残ってはいないはず。五十秒なんて言ったけれど、三十秒でも十分なのではないか。ぼんやりと考えながら、白のボウルを取り出した。ほら、軽い。三十秒にしよう。
 て、うん?
 屈んだ目線の先に、二つのカップ。側面には、スプーンで掬われたカラメルとカスタードが印刷されている。
「……プリン、買うたんですか」
「ああ、そういや昨日買うてたわ」
 忘れてた。そんな調子が降ってくる。
 プリンを買ったのに忘れていたなんて。考えられへん。あんた、プリンやで。それも三個パックじゃないプリン。なめらかとろけるプリン様。ちゃんと二つあるのがこの人らしい。片方は、きっと俺の分。二個とも自分で食べようなんて食い意地、この人は持ち合わせていないし。治じゃあるまいしな。
 とっさに左手でプリンカップを掴んだ。肘で冷蔵庫を閉めてから、一旦レンジの上にプリンを置く。回鍋肉は言われた時間マイナス二十秒で温め開始。ヴーンと皿が回転し始めたところで再びプリンを手に取った。
 スプーン。出さな。いや蓋開けてからでもええか。指先で、ゆっくりOPENと書かれた縁を摘まむ。
「おい」
 すると、声。聞き慣れたのよりも、低いそれ。
 さっと周囲の空気が冷えた。いや、俺の背筋が冷えただけか。
 レンジの音、冷蔵庫の稼働音。換気扇は、ちょうどゴウンと震えてから黙り込んだ。ガス台の前に立つその人と、目が、合う。……もう少し早く声をかけてくれれば、ピッとプリンが飛び出ることもなかったろうに。
「え?」
「今、食うん?」
「だめですか」
「飯の前にか」
「だ、だめですか」
「食う気か?」
 侑。冷ややかに俺を呼ぶ声が聞こえたかと思うと、電子レンジがピーッピーッと悲鳴を上げた。俺も泣きたい。大の男の泣き落としなんて、見苦しいことこの上ないか。第一、この人に泣き落としが通用するとも思えない。
 ああ、でも、この人にぼろぼろ泣かれたら、俺なんでも言うこと聞いてしまうかもしれん。いつも無表情のこの人が、感情を露わにするなんて、相当響くことがあったってことだろう。
 とはいえ、今この人が浮かべているのは真顔。普段よりも、ちょっとだけ目は見開かれ気味。そんなぱちりとした目から、真っ直ぐの視線が突き刺さる。飯の前に甘いものを食うのはおかしい。なるほど確かに俺もそう思います。わかります。わかりました。だからその目、ちょっと、やめて。
「飯、食ってからにします……」
 小さく返してから、再び冷蔵庫を開けた。ぴっと蓋の縁が捲れたまま、もう一個の隣にいれる。と、刺さっていた視線が離れて行った。
 ああ、怖かった。ほぅと息を吐きつつ真顔を携えていたその人を盗み見ると、同じ表情のまま茶碗に飯をよそっていた。同じというのは語弊があるか。ほぼ、同じ。さっきの、正気を疑ってくるような顔はもうしていない。いつもの、見慣れた、淡々とした顔つき。
 高校の頃は、アラン君曰くの豪快に笑う姿を一目見ようと、変顔して見せたり後ろからくすぐってみたりしていたっけ。どれもこれも不発に終わり、未だ見れずじまい。しばらく一緒に過ごすのだし、リベンジしてみようか。……やめとこ、慰めてくれる奴、そばにおらんし。
「ん」
「ッへ」
「お前の分」
「……あざーす」
 唐突に手渡された茶碗を受け取ると、すぐに自分の茶碗にも飯をよそいだす。俺のより、一回り違うサイズの茶碗。同じ男。そんで大学生。けれど、食う量はまあ違う。そりゃあ高校の頃から俺のほうが食っていたけれど、今はもっと、差がついたように思う。
 当然だ、この人はもうバレーをしてはいない。何かの部活だかサークルには入っているらしいが、過去問を貰うためだけに所属していると言っていた。運動量なんて、たかが知れている。
 ……だからこそ、飯を作るだとか、世話を焼いてくれるのかもしれない。
 どんぶり手前の茶碗に盛られたご飯に、ほわりと湯気の立つ味噌汁。平皿に置かれたホッケの表面はパリッと焼き目がついてる。小鉢には菜の花のおひたし、それより一回り大きな器にはふきとそぼろ。昨日の残りの回鍋肉は俺の胃袋に収まるべく佇んでいるし、その人寄りのところには俺のおかんが置いてった神宗の佃煮がおいてある。ところで、試しに漬けてみたというキュウリの浅漬けは、ちゃんと切れているのだろうか。皮のところで繋がっていたら、笑ってやろうと思う。
 座布団の上に、正座。数秒後に俺は胡坐になるけれど、北さんは飯を食っている間、ずっと正座でいる。足、痺れないんですか。聞いたこともあるが、慣れたと一言返されて会話は終わった。アレはむなしかったなあ。
 しみじみ思い返しながら、両手を合わせる。拝むような恰好。もしかすると、大昔は本当に拝む意図があったのかもしれない。正面で姿勢よく座る北さんを見ていると、そう思えてくる。
 個人的には、拝むのはしっくりこない。どちらかといえば。
「いただきます」
「いただきます」
 作ってくれて、ありがとう、やな。ありがとう、北さん。今日もお夕飯、イタダキマス。

 この春から、この人――北信介という、高校時代の先輩と、一緒に暮らすことになった。
 経緯は、単純なもので、「侑が一人暮らしできるわけがない」という身内の主張が発端だ。

◆◇◆◆

 最後の春高が終わってすぐ、推薦で東京の大学に行くことが決まった。治も別の大学を受けるようだったし、ああついにこいつと離れる時が来た、念願の一人暮らしだ、と正直浮かれていた。どこに住もう、通いやすいところがええな。寝坊しても、走ってすぐ着くところ。寮でもええけど、アパートも捨てがたい。こう、THE・一人暮らしって感じするやん。
『寮に入らんて正気か』
 そう言ってきたのは治。二月の半ばくらいだったか、周りの受験組が二次試験でピリピリしているころ、ゲテモノを見るかの目をして言われた。
『治はまだしも、あんたには無理や』
 そんで二月の終わり、三月なってからやったかな、スンッて顔したおかんにも言われた。卒業式やる前やったから、二月か。
 二人そろって、俺をなんやと思てるん。小学生やないぞ、高校生や。それも選挙権持っとる十八歳。ついでに言えば、あと一か月と何日かで大学生じゃ。そら、バレーの試合になったら頭ン中のテンション、小五になるんは認める。カッコエエもんに憧れて何が悪い。そのカッコエエのを俺らもできてしもたら超カッコエエやん。迷ってる暇なんかない、やるしかないやろ。そうやって強うなってきたんやし。
 散々身内に貶されて、卒業式が終わった後まで考え直せと諭される始末。おかんにおとん、それとばあちゃん、隣のおっちゃんまで加わって「やめとき」てなんでやねん。治はええのに、なんで俺はダメなんじゃい。
 こうなったら意地でも自立してやらあと意気込んだ三月頭。まずは家探しやと、別の大学やけど同じく東京に行く角名にちらりと声をかけた。で、コレ。
『……北さんがサ、結構広い一軒家に一人で住んでるって知ってる?』
 お前もかーい。
『フツーに侑は無理でしょ。一年くらい一緒住んで、ちゃんとした生活習慣叩き込んでもらったら?』
 安心してよ、正論パンチに耐えらんなくなったときの緊急避難場所くらいは提供する。にやにやと笑いながら言ったあいつの横っ面を殴り飛ばさんかった俺、めっちゃ偉いと思わん? 治やったらパッカーンやってた。

 まあ結局パッカーンしたんやけど。治にな。角名にはしてへんよ。

 なんでかって、翌日、話を聞いた治が北さんに連絡しやがったから。それも俺の目の前で。角名ほどではないにせよ、北さんことを苦手にしていた治自ら、北さんに連絡をするなんて。一瞬、何が起きているか理解できなかった。
 しかし、感心するばかりの俺ではない。
『勝手に話、進めんな。俺のことやのに、なんでお前が決めんねんッ!?』
『お前のため思ってしとるんじゃボケ。それもわからんとは、めでたい頭しとるなあ?』
 ――そして勃発、高校最後の双子乱闘。
 たまたま俺らは学校の体育館に顔出したとき。これまたタイミングよくOBのアラン君が練習見にきとった日。ぽーんと放り投げられた電話は、見事アラン君がキャッチしてくれたらしかった。おかげで俺らの乱闘音声が電話の向こうにも届いていたとかなんとか。あのまま地面に落ちて、電話切れてしまえばよかったのに。そしたら、電話越しに北さんにこっぴどく叱られることも、なかった。
 不満ながらも縮こまる治。悪いことしたつもりないとふんぞり返る俺。お前らの都合で後輩振り回すなやと怒気を孕ませる北さん。……懐かしいなと思った。二年の頃に戻ったみたい。つい、意識が明後日に向いた。感傷に浸るなんて、柄にもないことをしたと思う。
 その一瞬に、治は早口で捲し立てた。
『なあ、北さん。こいつこんなんやし、東京でマトモに生きてけんと思うんです』
 瞬時に引き戻される意識。グリッと勢いよく首を回して、治を睨み付けた。
 ボッコボコな顔になってまで、まだ言うか。体育館から追い出されて、コンクリートの上で正座しているこの状況で、お前は何を言っている。もう一ラウンドやったろか、今回の喧嘩はちょびっとだけ俺のほうが優勢やったし。長期戦になったときしんどいんはお前やぞゴルァ。
 再び北さんに叱られようと知ったことか、携帯ごしやし、生で叱られてるときより怖くない。衝動に任せて口を開いた。
『オイコラ、クソサム何言うて』
『せやから一年、いや半年でもええ。このバレーしかできんポンコツに、生活の基本的なこと叩き込んでください』
 お願いします、と、治は頭を下げた。目の前にはアラン君しかおらんのに。頼んでる張本人は、東京にいるというのに。つーか言うたよな、俺のことをお前が決めんなて。どうして俺のことでお前が北さんに頭下げるん。おかしいやろ。
『……侑はそれでええの』
『ヘァッ!?』
 そうそう、ここからが大事なところ。あのピンサーには注意しろてタイミング。
 頭を下げた治も、本当に北さんトコに送り込むつもりはなかったらしい。北さんからも「お前に一人暮らしは無理や」て言ってもらい、俺の心をバッキリ折り、寮に気持ちを向ける。そんな思惑でいたのだ、こいつは。
 ところがまさかの事態である。
『食費込みの家賃払てくれるんやったら、俺は構わん』
 間髪いれずにアラン君は正気かと叫ぶ。治は嘘ォと呆け、遠くから様子を窺っていた後輩連中は衝撃でざわついた。もしここに銀がいたら、顎が外れるんとちゃう? ってくらい口開けて固まったろうし、角名がいたらその変顔を動画に撮るべくスマホを構えていたことだろう。
 北さん、自分で言うのもなんですが、俺ですよ。この俺ですよ。本気で言うてはるん。俺が北さんの立場やったら、絶対に「構わん」なんて言わんわ。言えるわけない。俺やもん。
 そして、俺は、言うてしまった。
『よろしくおねがいします』
 て。

 全然単純ちゃうな、どえらいややこしいわ。

◆◆◇◆

 玉ねぎの、じんわりと甘い味噌汁を一口飲んだ。ぱりっとしたホッケの骨をめくっていくと、ふっくらとした身が現れる。魚より肉が食いたい。そんな日のほうが多いけれど、こうして出される焼き魚もこれはこれでウマイ。ふきには味がしみてるし、昨日の残りモンにも不満はない。
 菜の花のおひたしだけはあまり好きではないが、北さんが作った飯を残すのも恐れ多い。いざ箸で摘まんで一口。一口分も入っていないか、前歯でさくり、ほんの数ミリ噛んだ程度。……アレ、思ったよりも苦くない。記憶の中の菜の花のおひたしはもっと苦いものだったのだが、どういうことだ。北さん、何か特殊な加工したんですか。それともそういう品種? 単に俺の味覚がオトナになっただけ?
 そこんとこ、どうなんですか。味噌汁の椀に口をつけつつ、北さんを見やった。背筋は当然伸びている。肘をつくなんてことは、まずしない。箸遣いだって、それが当たり前であるかのようにキレイときた。形の良い唇とそれぞれの器とを、箸先は行き来する。
 キレイな食べ方をしていることは、高校の頃から知っていた。それでも、一対一で目の当たりにすると落ち着かなくなってしまう。自分の作法が気になるからだろうか。俺の箸の使い方は、どんなだったか。じぃ、と味噌汁に浸かった箸をねめつけた。
「侑」
「ハイッ!?」
 びくり、大げさなくらいに肩が揺れる。あわせてたぷん、お椀の中身も波打った。しまった零したか、嫌な予感が過るも、指先に不快感はない。そっと椀の周りを撫でても、指先に当たるのは木のつるりとした感触だけ。ラッキー、零さずに済んだ。
 安堵しながら、油揚げを摘まんだ。はくりと食めば、じゅわりと汁が広がる。
「不味かったか」
「へ? 美味いですよ」
 甘めの味噌汁、となると好き嫌いわかれてもおかしくはない。が、俺は好きだ。定番のわかめと豆腐も好きだけど、こういう、ほっとする甘さは嫌いじゃない。ここにじゃがいもいれても美味いと思います。今度、ねだってみようかなあ。嫌いなモンは信じてくれへんけど、好きなモンは聞き入れてくれる。豚の生姜焼き食べたいです、あのだし巻き玉子また作ってください、俺このひじきめっちゃ好き。本能のままに伝えたその三つは、この半月ちょっとで二、三回食べれている。偶然では、ないよな。
 むぐむぐと北さんは飯を噛み締める。口の中に物が入っている間は、基本喋らない。上品やなと思う。俺なんて、頬袋に詰め込んだ状態でほいほい喋るというのに。過去にはあの銀島に「飲み込んでから喋れや!?」と一喝されたこともある。こういうとこは、北さんこと見習ったほうええよな。気ぃつけよ。
 そのうちに、こくん、北さんの喉が上下する。空っぽになった口は、やっと続きの言葉を発した。
「ならええけど。箸、止まってたから」
「そぉれは……、チョット考え事してまして」
「……」
「な、なんですか」
「お前でも、飯食いながら考え事するんやな」
 ぽとり、俺の箸の先からふきが落ちた。落下地点は茶碗の中、白米の上。ちゃぶ台じゃなくて良かった。床じゃなければ、三秒ルールと言って食べるけど。
 ところで今、失礼なことを言われたよな。俺にだって、飯食いながら考え事することだってありますよ。試合が近いときなんか、バレー八割飯二割くらいで食ってますし。ああいや、そうやって食ってたらおかんに叱られたなあ。飯ん時くらい、食うのに集中せえて。しゃーないやん、考えてしまうんやから。
 ひょいとふきを摘まみ直して、ぽいと口に放り込んだ。くそ、ウマイ。でも文句は言いたい。
「……バカにしてます?」
「してへん」
「いやしてるでしょ、ぜったい。ぜぇぇええったい!」
「してへんて」
 イーッと顔を顰めて見せると、対照的に北さんは、ふ、と吐息だけで笑った。余裕綽々、大人の表情。うっ、こういう顔も得意じゃない。真顔で正論パンチ繰り出してくる次に、苦手だ。普段、あんなに機械みたいにきっちりキチキチしているのに、突然人間ぽい顔をしないでほしい。身構えてしまう。押したらまずいスイッチを押してしまったのか、ついに壊れてしまったのか、果たして元に戻るのか。……俺のほうがよっぽど失礼なコト考えてるな。
 見慣れないモン目の当たりにしたら、誰だって緊張する。心臓がガタガタする。いや、ダカダカする? この人を前にしたときは、ガタガタのほうが多いかもしれない。しょっちゅう腹の中を見透かされるし、ろくでもないこと言うと、考えると、即座に正論パンチ飛んでくるし。気付く精度が高すぎるのだ。それこそ、機械みたいに。
 そんな北さんが、ふ、て笑うなんて。何の前兆だ。裏があるのではないか。でかい雷が落ちる寸前の、そういわゆる嵐の前の静けさではないのか。
 やはり、心臓がガタガタする。悪いことなんて、何もしていないのに。嘘、飯作るの任せきりにしているの、すんませんて思ってる。何一つ、生活スキルを身につけられていない。だって北さんがなんでもしてくれるから。うっかり治に口滑らかしたら、「見放されてしまえ」て恨み言を言われそうだ。
 あぁあ怖い、怯える。次、何言われんのやろ。穏やかそうな顔を、その通りに受けとめられたらどれだけ幸せなことだろう。ビビらずに北さんと暮らす方法を知りたい。アラン君や大耳さんに聞いたら教えてくれるかな。知らんて一蹴される可能性のほうが高い気がする。
 俺を助けてくれる仏様、どこにおるん。
 こくん、さんざん噛み潰した米を飲み込んだ。
「おれいま、げしゅにんのきぶんです」
「下宿人の間違いやろ」
「北さんやったら、今すぐにでも下宿始められそおですよね」
「そうか?」
「だって、もう俺んコト面倒みてくれてはるし、それに部屋も余ってるし」
 おずおずと言うと、北さんの動きが止まった。あわせて、穏やかな表情から見慣れた真顔に戻る。そう、その顔。そのまま澄ましていてほしい。微笑みより真顔が良いなんて、酔狂に思えるかもしれない。けれど、北さんについてはこれで良い。これが良いのだ。下手に見慣れない顔を拝み続けるより、見慣れた圧を放つ顔のほうが心安らかでいられる。これが証拠だと言わんばかりに、騒がしかった鼓動が緩やかになっていく。
 こっそりと胸をなでおろしてから、あと二口三口になった回鍋肉を平らげた。北さんが作る普段の味付けよりは、いささか濃い。だが、くどいということはなく、ウマイの許容範囲内。ウマイと思える飯が朝晩の二食付いて、八畳の部屋を好きに使えて、風呂トイレは共用だけど掃除は毎日やらなければならないわけじゃない。なんて待遇の良い下宿。いや、ここまで整っていたら下宿人というより居候か。
 下手人から随分と出世したものだ。
 尾のほうに残ったホッケの身を、皮からそっと剥がした。
「……ここな、昔、下宿で使てたらしい」
「へ」
「おかんから聞いた話やから、詳しいことは知らんけど」
 はくり。箸を咥えたまま顔をあげる。淡々とした、冷めた瞳と視線が重なった。ぱちりと目を瞬かせると、ふいと目線を逸らされる。手元に目を向けたらしい。伏し目がちになったおかげで睫毛がよく見える。短くはないと思う。けれど、長いと言い切れるほどでもない。
 小鉢に残ったそぼろを集めながら、静かにその人は続けた。
「手放すいう話も、何度かあったて言うてたな。……それでも結局、俺が学生のうちはおいとこかってなって」
 今に至る、と。
 つい、家の中をぐるりと見渡してしまう。今風の作りではない室内。天井は腕を伸ばせば届く高さ。流し台は低いくせに、風呂釜は深い。二階に続く階段はやたらと急。そのくせ、すべてが古めかしいわけではなく、水洗の洋式トイレだし、柔らかな色の壁紙は黄ばんでもなければ破けてもいない。
 おそらく、リフォームは何度かしているのだろう。そのとき、学生を受け入れられるように。
 ……それにしても、思うところはある。
「よくもまあこんな広いとこに一人で住もうと思いましたね」
 言ってしまえばこの家は、何人かで住むことを想定されている。そんなところに、管理も兼ねてとはいえ一人で住まわせるなんて。この人の、他の親戚連中は何を考えているのだろう。そりゃあ、北さんはしっかりしている。だが十八、十九だぞ。俺なんて、一人暮らしを全力で止められたのに。いや、俺とこの人を比べるのはおこがましいか。
 北さんが再び動きを止めた。丸い目に見つめられる。
 う、今度は何を言われるのだろう。脱力しては緊張し、安堵しては体を強張らせる。忙しないったら。慣れる日は、来るのだろうか。来ないと息苦しいまま暮らすことになってしまう。
 ふ、と。息を吐く音がした。唇が、緩やかな弧を描く。能面を取った顔。だから俺、その顔、苦手なんですって。

「おう、せやからお前が来ることになって良かった」

 今度は、俺が固まる番。
「まあお前も好きに使ったらええ」
 そう言う頃には、緩んだ顔はすっかり引き締められていた。