熱帯夜

夜中にドラケンが三ツ谷のところに甘えにくる話


 はあ、吐いたため息は、忌々しいほどに熱を持っていた。
 日が沈んで数時間、もう夜更けと言っても過言ではない時間だのに、辺りの空気は暑苦しい。加えて、じっとりと湿っている。不快指数を計算したら、いったいいくつになるのだろう。これだから、梅雨は好きになれない。おかしいな、自分が子どもの頃の梅雨は、長雨なだけで今日のような暑さは伴っていなかったはず。それがどうして今は、こんなにも湿っぽくて、暑いのだ。
 自分は、決して暑さに弱くはない。むしろ、得意な方。だが、それでも、この湿度と気温にはうんざりさせられる。
 はあ。もう一度ため息を吐き出した。
「あ、っつー……」
 首筋にじっとりと汗が滲む。触らなくとも、顔の皮膚がべたつているのがわかった。
 こういうとき、ハンディファンがあれば便利なのだろうか。せめて、扇子、それか団扇。もう、カバンの中にあるクリアファイルを団扇代わりにしてしまおうか。でも、仕事で使う資料が挟んである。こんな夜道で資料を落としたら、笑えないどころでは済まない。
 仰ぐのは諦めて、シャツのボタンを二つ外した。だらしのない着こなしになってしまうが、この際、仕方がない。どうせ自宅のアパートは目前。この時間じゃあ他の住人とすれ違うことはないだろう。
 襟をパタパタと揺らしながら、コンクリートの階段に足を乗せた。一、二、三と数えながら、冷房のついていない室内に思いを馳せる。閉め切っている部屋は、さぞ暑かろう。むわっとした空気を想像して、憂鬱が増した。
 こんなことなら、アトリエに泊まってしまえば良かったな。自宅のようにベッドはないが、横になれる程度のソファはある。難点をあげるとすれば、シャワーがない。この時期に、汗を掻いたまま翌日を迎えるのか。それは、ちょっと、遠慮したい。帰ってきて良かった。そういうことに、しよう。
「はあ、」
 階段を上り切る手前で息を吐けば、またもや気怠いため息がまろび出た。ポケットに手を突っ込むと、己の体温で生温かくなっている鍵が指先に触れる。ああ不快。なにもかもが、不快。
 こうなったら、ビールを飲むしかない。体を労わって、早寝するつもりでいたが、止めた。キンキンに冷えたビールで、気を紛らわそう。エアコンも、除湿モードではなく冷房モードで稼働してやるんだ。そうやって涼を取る。決めた、決めたったら、決めた。
 決心したところで、キリッと廊下を曲がった。
 ―― 途端、目に入る、大きな塊。
「んエ」
 自宅の玄関を塞ぐ位置に、その塊はあった。宅配の箱、ではない。なんせ、あんな大きなもの、注文した覚えがない。そもそも、最後に通販をしたのは、いつのことだったろう。少なくとも、半年は前。あれ、一年だったかな。
 眉間に皺を寄せながら、ぺたん、ぱたん、自宅、もとい塊の方へ近寄った。と、ごそり、塊が動く。上の丸みを帯びている部分がのっそりと持ち上がり、こちらを捉えるかのように動いた。
 ぴたり、足が止まる。塊から、きっかり三歩分手前で、立ち止まった。そうして、一つ息を吐き出す。相変わらず、その吐息は熱っぽい。それから、ため息のような膨らみ方をした。
「……なにしてんだよ、ドラケン」
「おー、おかえり」
「おかえりじゃなく」
「そお? おかえりで合ってると思うけどな、ここ三ツ谷の家なんだし」
「そういうことじゃねえ」
「はは」
 呆れながら左手を差し出すと、するりと右手が伸びてくる。ぎゅうと握ったその手は、自分と同じかそれ以上に汗ばんでいた。強引にその男を立ち上がらせると、微かな香水と、汗が香ってくる。
 薄暗い中でも、男の左手にペットボトルが引っかかっているのが見えた。中身は、おそらく、空。最初から空だったのか、それとも未開封の六〇〇ミリであったのか。この暑さだ、麦茶一本くらい、あっという間に飲み干せてしまう。まして、この男だ。ほんの五分・十分の間に飲み切った可能性だって、ある。
 それでも、だ。
「……なあ」
「んー」
「ドラケンさあ、何分、いや、何時間ココで待ってたの」
 俺には、こいつが随分と長い時間、ここで俺を待っていたように、思えた。根拠はない。確証もない。だが、自信はある。
 手を握らせたまま、自分よりずっと高いところにある顔を睨みつける。と、そいつは、ふ、小さく息を吐いた。
「ほんのちょっとだけだよ」
 俺の目線より高い位置にある唇が、穏やかに弧を描く。取り繕った笑みだ。剽軽とも軽薄とも表現できる。
 これは絶対にちょっとじゃないな。長年の付き合いが、そう感じさせてくる。まったく、ここで苦笑いでも浮かべれば、可愛げもあるというのに。「連絡しろよ、待ってんだったら」ねめつけながら吐き捨てると、ドラケンはわざとらしく肩を竦めた。「おお怖い」なんて薄っぺらい声も添えてくる。顔面には、依然として、作った笑みが張り付いていた。
 この作り笑顔、むかつくなあ。何をしたら、この笑みを引っぺがせるだろう。額に爪でも立ててみるか? こめかみの龍をギッと引っ掻くのも、この男には有効かもしれない。
 さあ、どうしてくれよう。むっと顔を顰めながら、鍵をドアに突き刺した。
「だぁからぁ、怖いって。その顔」
「抜かせ。怖いっていうんなら、もっと怯えた顔するんだな」
「オーボー」
「どこがだ。……で、なんの用だよ。こんな時間に」
「んん~」
 己の口からは、棘のある音ばかりが這い出てくる。思うところがありすぎるのだ。仕方がない。この暑さで疲れているせいもあるのだろう。
 鍵を摘まんだまま右手首を返すと、内側から錠の外れる感触がする。サッと引き抜き、ドアノブを掴んだ。
 すると、ほとんど同時に、左手から体温が離れる。先に、意識だけが斜め後ろに向かった。コンマ一秒した後、己の首は男の方を振り返る。
 振り返ろうと、した。
「エ、なに」
「んん」
 こめかみに、こつり、微かな接触。
 背中には、しっとりとした体温も触れていた。ひゅっと空気を吸い込むと、先ほどよりも強く男の匂いを感じる。
「ど……らけん?」
 これは、抱きしめられている。そう、理解が追い付くと、額がカッと熱くなった。やがて、その熱は頬に移り、耳、口元、首と広がっていく。
 火照る俺をよそに、ドラケンはもう一度こめかみを擦り寄せてきた。男の龍が、鏡写しになっている俺のそれと重なる。もぞもぞとすり寄ってくる様は、まるで、親猫に甘える子猫のよう。サイズ感は、逆だけれど。俺とこの男との身長差は、学生の時点では十五センチ。現在、さらに広がっているのは、悔しいけれど間違いない。こういう体勢じゃ、きっと俺の体はドラケンですっぽり隠れてしまっていることだろう。
 癪だ。
「みつやに、あまえに、きた」
 でも、この男に、こうやって甘えられるのを、悪くないと思う自分も、いる。
「……なんだよ、それ」
「ふ、なんだろうな」
「おい、自分から言い出したんだろうが」
 俺の声は、上ずっていないだろうか。早口になってはいないだろうか。努めて、平静を意識しながら、ドアノブから手を離した。合わせて、重心を後ろにずらす。背後に触れていた体温が、さらに生々しく感じ取れた。本当にお前、どれだけの時間ここに座り込んでいたんだ。電話の一本でも寄こせばいいものを。
「ドラケンさあ、マジで何時間ここにいたの」
「ちょっとだけだって」
「そういう曖昧な言い方ヤメロ。具体的に言えよ。数字で」
「えぇ? 計ってねえからわかんねえ」
「大体の時間はわかるだろ」
「ちょっとってことしかわかりませーん」
 押し問答を繰り返しつつ、体重を背後に預けていく。ついでに首を倒すようにして見上げれば、俯いている、もとい俺を見下ろしているドラケンと目が合った。もうそこに、取り繕った顔はない。情けなくって、けれど、一抹の安堵を覚えたような表情が見えた。
 控えめに、男の長い腕が俺の胴体に絡みつく。決して力強くはない。ガラス細工に触れるかのような、繊細な力加減。やがて、ドラケンは黒目をうろりと彷徨わせると、おずおずと額を俺の肩に埋めてきた。ぎゅ、としがみつき、時折龍の刺青をすり寄せては、またぎゅうと俺を抱きしめる。
「おいコラ、暑いんだけど」
「うん」
「うんじゃなく」
「ン」
 暑い。こんな大男に抱き着かれているのだ、暑いに決まっている。お互い、汗だってかいている。変に火照った体を寄せ合っていたら、湿度だって上がる一方。当然、不快指数も右肩上がり。
 たまったもんじゃない。
 そんな口上を、つらつらと脳内に並べていった。でないと、顔が緩んでしまいそうだから。この男に、真っ向から甘えられるなんて、滅多にない。
 これを喜ばずして、何に喜べと言うのだ?
「まったく、もお」
 高揚感をなんとか腹の底に隠しつつ、ぽん、男の頭を撫でてやった。呼応するように、俺を抱きしめる力が幾ばくか増す。どくん、高鳴ってしまった心臓に、ドラケンは気付いたろうか。今はまだバレていなかったとしても、このままぎゅうぎゅうに抱きしめられていたら、気付かれるのは時間の問題。名残惜しくもあるが、一旦こいつを引きはがそう。ぎゅっとするのも、されるのも、部屋に入ってから仕切り直せばいい。なにより、家の中なら、通りすがりの誰かの目を気にしなくていい。こんな時間に通りがかる奴はいないって? それは、それ。もし、万が一、億が一に、どこぞの何某に見られたら癪だろうが。折角のドラケンのくたくたな顔なんだ、あわよくば自分だけで、独占したい。
 下心を抱えながら、ぽん、ぽん、続けて男の頭を撫でた。髪は汗だなんだで乱れている。一旦解いてやった方がいいかな。そっと指先を、結び目に伸ばした。人差し指、その第一関節がヘアゴムにかかる。ドラケンが、嫌がる様子はない。俺にされるがまま、髪はぱたりと解けた。
 たちまち、男の匂いが、ふわりと鼻孔に入り込む。
 ……また、心臓が、ばくんと跳ねた。悔しいなあ、もう。癪な気持ちを誤魔化すように、男の黒髪にわしゃりと手櫛を通した。
「ドラケン、そろそろ離してよ」
「ん」
「ここ、暑いしさ」
「うん」
「湿度もすげーし」
「ン」
「こんなとこより、部屋ン中のが良いって」
「ん、うん」
「冷房つけてさ、ビールでも飲みながら、鬱憤溜まってんなら、話聞くし」
「うん……」
 とにかく、部屋の中に入ろう。そう思ってあれこれ言葉を連ねてみるが、ドラケンの反応は鈍い。ただただ、俺の肩口に相槌を吸わせるばかり。「なに甘ったれてんだ」と一喝できたらいいのだけれど、この甘ったれた態度を悪くないと思ってしまう自分もいる。
「みつやぁ」
「っ」
 ああ、本当に、堪らない。
「そうなんだけど、もうちょっと」
 もうちょっとだけ、こう、させて。
 元来、面倒見の良い性分の男に、こんなふうにか細く縋られてしまったら。もうお手上げだ。仕方がない。一分くらいは、好きにさせてやろう。ごくんと唾を飲み込んで、頭の中でカウントを始める。一分経ったら、なんとしてでも引っぺがして、家の中に入ろう。
 ―― その誓いもむなしく、十八数えたところで、首筋に吸い付かれた。なんとか我慢して四十にたどり着くと、今度は肌を甘く食まれてしまう。なにすんだよ、続く四十一は当然数えそびれ、四十二と思う前に唇を塞がれた。
 体感温度も湿度も急上昇。不快を通り越して快感を覚えたところで、ようやく家に帰りつけたのだった。