それが罠とも知らずに
クリアアサヒが家で冷えてる
ただいま。そう言うと、部屋の奥から間延びした「おかえり」が返ってくる。同じ方向からは、ジュウジュウと何かを炒める音と、豚肉の香ばしい匂いもやってきた。
今晩は生姜焼きね。朝、家を出る際に言われた言葉を思い出し、ふんわりと気分が上を向く。
三ツ谷と暮らし始めて三か月。ただいまを言ったり、おかえりを言ったり、晩飯を作って貰ったり、朝飯を拵えたりする生活は、まだしばらく飽きそうにない。
ふ、吐息ばかりで笑ったところで、いそいそとキッチンの方へ向かった。
「いい匂いする」
「あ、気付いた? タレ変えたんだよね」
「ふぅん、どこの」
「ナカムラさん家の焼き肉のタレ」
「ナカ……え?」
「産直で売ってる自家製タレ。気になってたんだよね」
甘口と辛口、両方あるから食べ比べしよ。
ニッと屈託なく笑う三ツ谷の傍には、確かに二つの透明パウチが立っていた。いかにも手作り風のラベルで、辛口の方には唐辛子が、甘口の方にはりんごのイラストが描かれている。それに、二割引きの丸いシールも貼られていた。なるほど、それでこいつは買ったのだろう。でなきゃ、明らかに割高なタレを買うもんか。
「あ」
と、三ツ谷の菜箸を持っている手が、パウチの方へ伸びた。
しかし、その右手はタレを通り過ぎる。隠れるように置いてあった、アルミ缶をひょいと持ち上げた。
「ン」
「ずる、もう飲んでんのかよ!」
咄嗟に声を荒げると、缶に口を付けたまま三ツ谷は口角を持ち上げた。両目もきゅうと細められ、ふふんと得意げな鼻息が聞こえてくる。
「仕方ないだろ、飲みたくなっちゃったんだから」
「待っててくれてもいいじゃん」
「無理無理。こんないい匂いすんのに、我慢しろっての?」
「でもさあ」
「第一、ドラケンだって逆の立場だったら飲み始めてるだろ」
「ヌ……」
事実、先週から揚げを作っている時、俺は三ツ谷の帰りを待たずに飲み始めた。揚げたてのから揚げがすぐそこにあるのに、ビールを飲めないなんて酷。油を切って間もないアツアツのそれをつまみながら飲んだのは、確か一番搾りだ。半分飲み終えたあたりで三ツ谷が帰ってきて、「ずるい、もう飲んでんのかよ!」と噛みつかれたのだって、記憶に新しい。
これじゃあ三ツ谷を悪くは言えない。
それはそれとして、俺だって、飲みたい。
口を噤んだままむすっとしていると、くつり、傍らの三ツ谷が喉で笑った。
「ほら、はやく手ぇ洗ってきなよ。じゃねえと、食わせねえし飲ませねえぞ」
「ッ!」
跳ねるように、足は洗面所へと駆けて行った。蛇口を開けると、冬のキンと冷たい水が降ってくる。水洗いで済ませたくなる気持ちをどうにか殺し、せっせと手に石鹸を纏わせた。泡を流したら、歯磨きコップを引っ掴む。やっぱり冷たい水を注いで、ざっくり一口、流し込んだ。
天井を眺めながらガラガラと音を立てていると、台所の方から上機嫌な鼻歌が聞こえてくる。聞いたことのある曲だ。しょっちゅうテレビから流れてくるCMソング。
そういえば、今日三ツ谷が飲んでいるのは、その缶ビールだった。
「くーりーあー」
ちょうどキッチンに戻ったタイミングで、三ツ谷は歌い出す。先ほどまでの鼻歌は、前奏だったらしい。
「アッサヒが」
つられて口ずさみそうになりながら、冷蔵庫の観音扉を開く。すぐに、目的の缶は見つかった。ビールの黄金色と泡の白色を模したデザイン。中にはまだ五本も残っている。今日は三本ずつ飲めるな。にんまりとしながら、手前にある一つを掴んだ。
「家で冷~えてる」
流れるように指先はプルタブに掛かった。間もなく、炭酸の小気味のいい音が響く。手の中でシュワシュワ弾ける感覚を楽しみつつ、よく冷えた缶の縁に口付けた。
たちまち舌に乗る爽快感。無意識のうちに喉が鳴り、晴れやかな喉越しがやってくる。
「―― それが罠とも知らずにぃ」
晴れやかな喉越しが、やってくる、はずだった。
「は!?」
「ランラ・ランラ・ララ~ン」
咄嗟に振り返ると、三ツ谷は火を止めたところだった。大皿へと肉を移し、「フンフフンフフフーン」と続きを鼻歌しながら缶ビールに口付ける。
「ぷは! クリア・アッサ、ひ。ちゃらららん。できたよ」
「できたよじゃねえよ!」
「え、なんで。食わないの」
「食うけどッ」
「あ、わかった米が欲しいんだな? ちゃんと炊いてあるって、三合」
缶ビール片手に浮かべた得意顔をどうしてくれよう。
わなわなと震えながら三ツ谷をねめつけていると、胡乱に首を傾げられた。合わせて、薄い唇には再び缶の縁が吸い込まれる。中身は大分少なくなっているらしい、アルミ缶は急な角度を描いた。
「なに。味噌汁だってあるって。あ、野菜? それもちゃんとあるって、冷蔵庫のボウルにレタス千切ったやつが」
「そうじゃなくっ……」
「ええ、食いしん坊だなあ。あと何あるかなあ、きゅうちゃんとか……あ、いぶりがっこ買ったんだよね、今日」
「食い物じゃなくッ!」
見当違いを並べ続ける三ツ谷に噛みつくと、三ツ谷の唇が分かりやすく尖った。ツンとしたソコは、流れるようにクリアアサヒを迎え入れる。ぐっと煽った素振りから察するに、最後の一口を飲み干したのだろう。
先にぐびぐび飲みやがって。一緒に飲みたかったのに。いや、俺には三ツ谷の帰りを待たずに飲み始めた前科がある。先週やらかして、「とれたてホップ!」と喚かれた。だから、三ツ谷が先に飲んでいること自体に、文句は言えない。言える立場じゃあ、ない。
けれど、聞き捨てならない替え歌に、突っ込む権利くらいは、あるはずだ。なんだよ、それが罠とも知らずに、って。そこは心ウキウキわくわくで良いだろうが。なあ。
なあ!
「罠って! 何!」
言い放つと同時に、握っている缶がみしりと凹んだ。
視線の先では、空き缶を持ったままの三ツ谷がぱちぱちと瞬きをする。わな。薄い唇が、動きだけで単語を繰り返した。それから、もう一度、ぱちり。甘い印象のあるまなこが、ゆったりと目を瞬かせた。
「―― ドラケンの胃袋を掴む罠だよ」
そして、ニヤリ。意地の悪い顔をして言い放った三ツ谷は、推定空っぽの缶の縁を小さく食んだ。
やがてその場でくるんとターンをし、改めてかのCMソング・東京ブギウギを口ずさみ始める。リズムに合わせてクリアアサヒの缶は握り潰され、歌の流れでゴミ箱へ。やけに軽やかに肉炒めの大皿を持ち上げると、ほとんど踊るようにしてダイニングへ入っていった。
もしやあいつ、俺が思っている以上に酔っ払っているのでは。急に冷静になった頭で缶が放り込まれたゴミ箱を覗くと、潰されたクリアアサヒの他に拉げたスーパードライが三つばかり転がっていた。