にゃん
D&Dにやってくる猫と構い慣れている堅と隆の話
馴染みのバイク屋には、猫がいる。
そのサバトラは、今日もまた、店の前でごろん・ごろんと寝返りを打っていた。すっかり野生を忘れてしまった様子で、無防備に腹まで曝け出している。たっぷりと秋の日差しを浴びた毛並みは、見るからに柔らかそう。傍にしゃがんで、もすんと手を埋めたい衝動に駆られつつ、店のガラス扉に手を掛けた。
重さのある扉を手前に引く。空気の流れが変わったのか、寝そべっていた猫がのっそりと立ち上がった。トトトッと近寄って来たそいつは、澄まし顔で俺の前に割り込んでくる。
「あ、おい」
慌てて声を掛けるが、猫は振り返ることはおろか、立ち止まりすらしなかった。さも当然と言わんばかりに、トコトコとバイク屋の床を進んで行く。猫の鼻先にあるのは、店の事務机。ある程度近付いたところで、そいつはひょいとそのデスクに飛び乗った。
これはまずい。あそこで悪戯を始められたら、とんだ惨事が起きてしまう。
「ちょッ」
「んん? お前、また遊びにきたの」
しかし、過った嫌な予感は、杞憂で終わる。猫はパソコンのすぐ隣で丸くなり、ンーなどと甘えた声を鳴らしていた。
――馴染みのバイク屋には、猫がいる。この店で飼っている猫ではない。本来は、斜向かいで和菓子屋を営んでいるオダワラさんのトコの猫。名前は確か、ダイフク。この辺りでは、ダイちゃんだとか、フクちゃんだとか、呼ばれているはず。地域猫としても愛されている猫なのだ。
もちろん、このバイク屋でも、ちゃあんと可愛がられている。
「あ」
視線の先にいる一人と一匹は、なんとなく目を合わせたらしかった。男の方は、猫を見下ろしながらゆったりと瞬きをする。自分の位置からは見えないが、猫の方も同じ動作をしているのかもしれない。
やがて、マウスを操作していた手が、静かに猫の元へと伸びていく。大きな手の、そのうちの人差し指が、首の付け根の辺りに沈み込んだ。擽るような動きをしながら、指先は顎の下へと移動する。店内BGMに流しているラジオのニュースに被さって、ゴロゴロと喉を鳴らす音が響いた。
ずるい。俺だって。
喉元まで込み上げてきた言葉は、一旦ごくりと飲み下した。
「……どう、点検、終わった?」
「あ、おかえり。うん、さっき終わったとこ。異常なし、ピカピカにしといた」
努めて穏やかに口を開く。と、そいつはパッとこちらに顔を向けてくれた。けれど、指先では猫のことを撫で続けている。なんだか、見慣れた厳つい表情より甘ったるく見えた。
本当にずるいな、お前。俺だって、俺だってさあ。
舞い戻ってきてしまったほのかな苛立ちを、もう一度腹の中にしまい込む。我ながら、なんて狭量なんだろう。頼むから、こんな偏屈な感情、表に出てきてくれるなよ。強く念じながら、口元に笑みを取り繕った。
「ん、ありがと」
「ちょっと待ってな、すぐ入力しちまうから」
「いいよ、ゆっくりでも」
「つったって、今日も忙しいんだろ、独立準備で」
「忙しいっていうか、慌ただしい? まあでも、今日は久々にのんびり昼飯食ったかも」
「そりゃあ良かった」
小一時間前に預けた愛機のことを一瞥して、ひとまず机の方に近付いていく。
男の指は、やっとふかふかの毛並みから離れた。それから、小さなマウスを握り込み、カチカチとクリック音を鳴らす。キーボードを叩いて、マウスに戻って、またキーボードでの入力作業。忙しなく右手が動く度、傍らにある毛玉の耳が、ひくひくと動いていた。
「……ドラケンは、昼これから?」
「おう。一時過ぎにイヌピー戻ってくっから、それから」
「ふぅん」
それならば、飯を食いに出かけないで、店の中で点検が終わるのを待っていれば良かったろうか。そうしたら、ダイフクに割り込まれることだって、なかったろうし。
些末なたらればに気を取られつつ、ちらりと猫を見下ろした。
前足の先は、どちらも白い。ふっくらとした、汚れのない毛並みに包まれている。そのうちの片側が、ふっと持ち上がった。それはちょうど、男がマウスを掴み直したタイミング。
間もなく、血管の浮いた手の甲に、めちり、猫の足先が触れる。
「はいはい、あとで遊んでやるから」
おそらく猫は、構われたかったのだろう。懲りずに、たしんたしんと男の手を叩く。だが、邪魔をするなとあしらわれるばかり。猫の鼻から、ぶぅと不満が聞こえた。
「随分と懐かれてるね」
「まあ、毎日来るからな、コイツ」
「ご飯でもあげてんの」
「イヌピーはなんかやってる。おやつみたいなやつ」
「ドラケンは?」
「俺は……暇なとき、ちょっと構ってやるくらい」
男のすぐ横にまで辿り着くと、そいつはパソコンからプリンターへと視線を移す。入力とやらも終わったらしい。傍にある卓上プリンターは、ギッギッと仰々しい音を立てながら紙を吐き出し始めた。
年季の入った機械音に、ついギョッと見つめてしまう。猫も同様だったらしい。視界の端で、然程長くない尻尾がぼふんと膨れた。
……それに合わせて、男の手が猫を柔く撫でるのも見えてしまう。まるで、「大丈夫だよ」「怖くないよ」と宥めているかのよう。
ああ、だから。こいつは本当に、本当にずるいな。
猫を撫で終えたところで、男はプリンターから出力された一枚を摘んだ。印刷したのは、俺の愛機の点検表らしい。印字された内容を、男は指先でなぞりながら確かめていく。
「手書きのでもいいのに」
「今もう手書きの点検表使ってねえんだよ。全部電子化してる」
「え、ハイテク」
「今時フツーだって」
「……独立したら、俺もそういうカンジになんのかな」
「さあ、ファッション業界って、そういうのどうなの」
「わかんねえ……」
「わかんねえかあ」
その折、前髪が一房垂れて来た。首の角度が変わったからか、単に結びが緩んでいたからか。男がオフで見せるのと同じだけの束が、顔の片側にとろりと下がる。ほのかにウェーブを描いているソレは、男が瞬きする度、息を吸う度、吐く度、静かに打ち震えた。
ヒトにとっては、気に留めることもない微かな揺れ。しかし、ネコという生き物にとっても微かかというと、否。
「ア」
垂れた一房は、猫の視界の真ん前にある。澄んだ色をしているアーモンドアイは、見るからにその揺れに惹かれていた。ふかふかの体躯が、確かに疼いている。黒い束を狙って、爛々と目を輝かせて、いる。
ぐ、と。猫の体が起き上がったのは、必然でもあったのだろう。
飛びつく。飛び掛かる。男の、ドラケンの横顔に、猫が迫ろうとしている。
「ッ、」
そうは、させるか。
気付くと腕は伸びていた。
急に立ちはだかった手に、猫は一瞬怯む。空気を一つ掻いて、浮いた前足を机に着地させた。それから、機敏にこちらに顔を向けてくる。丸く開いた目から「なんだおまえ」という気配が伝わってきた。
なんだ、って、それはこっちの台詞だ。ドラケンの視線を独り占めしやがって。ついさっき、バイクを預けに来た時は、あの視線、全部俺のものだったのに。今は、半減どころか九割減。俺の癒しを、盗ってくれるな、この泥棒猫。
抑えきれなかった幼い感情で、ムッと唇を尖らせてしまう。垂れていた男の前髪を、丁寧に耳にかけてやる間も、そのぶすくれた顔は取り繕えなかった。
「ふ」
傍らから、鼻で笑う音がする。辞書で引くと出てくる意味での鼻で笑うではない。本当に、鼻から、笑う吐息が聞こえて来たという意味での、鼻で笑う、である。
とはいえ、笑われたことに違いはない。己の気分は、さらに一回り膨れてしまった。
「あンだよ」
「いや、なんでも」
「なんでもって顔してない」
「まあ、うん。そうだね」
不機嫌を隠す気にもなれず、口からはあからさまに拗ねた声色がまろび出る。
それがたいそう可笑しかったらしい。男から、続けて吐息だけで笑う音がした。くすくす、くふくふ、心底愉しそうに息を零す。唇には三日月が浮かび、目尻は甘く下がっていた。
「まさか、ダイフクにやきもち焼くなんて、思わないだろ」
「焼いてない」
「焼いてるって」
「やきもちは焼いてねえ。調子乗んなよって思っただけ」
「それをやきもちって言うんだよ。それか、嫉妬」
なぁ、ダイフク。にんまりとした笑みを浮かべながら、そいつは猫に同意を求める。折角耳にかけてやった前髪は、結局ぽとりと垂れてしまった。毛先は束のまま揺れ、猫の片手がちょいちょいと掠め出す。コラ、そうやって遊ばせていたら、今に飛び掛かられて、髪の毛ごそっと引き抜かれるぞ。それでも良いのか、ばかやろう。
「あぁ、おいッ」
居ても立ってもいられなくって、もう一度、猫と男の間に手を差し込んだ。それから、先程よりも雑な手付きで髪を耳にかけ直してやる。耳たぶの下から、束になった黒色がつるりと垂れた。滑らかな毛先だ、猫が遊びたくなる気もわかる。俺だって、掬ったり、梳かしたり、編んだり結ったり束ねたり、したい。
猫に、嫉妬している。それは、確かに、紛れもなく、明らかだった。けれど、素直に認めたくもない。認めたら最後、この男にもっと笑われてしまう。それはどうも、癪。
「いいじゃん、猫にやきもち。かぁわいい」
「うるせえ、してないってば」
「潔く認めろって」
「……ヤダ」
「どうして?」
「どうしても」
「そりゃあ残念だなあ」
「は?」
男は意地悪な顔をしながら、点検表をキーボードの上に置いた。ひらりとした動きのせいか、猫の意識が男から逸れる。カラー印刷された面に、猫は鼻先を近づけて見分し始めた。破かれたら、どうしよう。その時は、もう一度印刷して貰えば良いのだろうか。
猫の前足が、ちょん、紙の端を突いた。
「やきもち焼いたって、いうんならサ」
「え」
おもむろに、手首を掴まれる。反射的に視線を向けると、迎えるかのように逆の手で後頭部を捕らえられた。流暢にそいつは俺を引き寄せ、そして自分は背筋を伸ばす。
存在していた距離が、みるみるうちに縮んでいった。視界の端で、猫がこちらを向いたような気配がする。ンン。胡乱に鳴く声も、したような、しなかったような。
男と猫とを、意識が行ったり来たり。なんだか、目眩もしてきた。急に視界が狭まったからだろうか。ああ、ああ、男が、ドラケンが、迫ってくる。これじゃあ、間もなく、額がぶつかって、しまう。
ゴツン、と、イく。
「――ねこっかわいがり、しようと思ったのに」
その寸前で、引力は停止した。甘く掠れた声が、じりじりと鼓膜に焼き付く。正しく目と鼻の先にある切れ長の瞳は、思わせぶりな瞬きをして見せた。
浴びせられた言葉を理解しようと、混乱を極めている頭をさらにぐるぐる回転させる。だめだ、余計に目が回る。くらくらしてしまう。
耐えきれず、ぱったん瞼を閉じた。口内に溜まった唾を飲み込んで、どうにかこうにか、目を開き直す。
至近距離で、男は猫のようにくつりと笑った。
「……なぁにメンチ切ってんだお前ら、喧嘩か?」
「うわあッ!」
ぽんと放物線を描くように飛んできた第三者の声に、びくんと肩が跳ねる。自分が猫であったなら、きっと尻尾がぼんっと膨れていたことだろう。今まさに、俺の声に驚いたダイフクのように。
「あ、おかえり、イヌピー」
「おー、たでーま。で? メンテに不満でもあったか、いつでも代わるぜ俺ぁ」
「俺の客、取ろうとしないでくださーい」
「取られる方が悪いんですゥ」
体を強張らせる俺を余所に、昼休憩から戻っていたイヌピーとドラケンは軽口を叩き出す。狼狽えながらどうにか視線を動かすと、未だびっくりし続ける猫と目が合った。なんだ、おまえ。相変わらず、その目は雄弁に語り掛けてくる。
なにって、ええと、この男に猫可愛がりされるような、仲の、人間です。念じたところで、猫に伝わりはしない。もちろん、言葉にしたってそれは同じ。正しくダイフクと意思疎通を図ることは、限りなく難しい。
こうなったら、誤魔化すしかない。一思いに、猫の首元を撫でようと手を伸ばすと、やっぱり「なんだおまえ」の形相で威嚇されてしまった。