ムーブメント・コード・カワイイ
酔っ払うと自分がとびきり可愛く思えてしまう隆の話
「なあ、三ツ谷」
事の始まりは、正気を疑うようなドラケンの一声だった。
「お前、―― なんでそんなにかわいいの」
そう言い放った男の顔に、冗談だとか悪ふざけたとかの気配はない。至極真剣で、かつ、心底不思議そうな顔をしていた。
可愛くは、ないと思う。なんせ、こちとら成人男性だ。これで学生だったなら、まだ幾ばくかの可愛げとやらはあったろう。けれど、そんな青い時代はとっくに過ぎ去っている。その日だって、ビールを片手に枝豆を噛っていたところだ。どう考えたって、可愛くはない。
一体、自分の何がドラケンの琴線に引っかかったのだろう。半ば狼狽えながら、居酒屋のテーブルを見下ろした。並んでいるのはビールジョッキとお通しの小鉢、枝豆の器に焼き鳥の盛り合わせ。しいて可愛いという単語に結び付くとしたら、桜の模様が入った箸くらい。少なくとも、自分の見てくれに、可愛らしさは見当たらなかった。
そうとなれば、ドラケンの目が濁っているということになる。まさかこの男、俺と飲み始める前にどこかで一杯引っかけてきたのではないか。既に酒が回って、世界が歪んで見えるのだとしたら、俺が可愛く見える可能性もゼロではない。限りなくゼロには近いが、ゼロでは、ない。
たっぷりの胡乱を込めて、対面する男の顔を見やった。
「あー、っと」
しかし、その頬は赤く染まってはいなかった。目付きも至って理性的。据わっていると表現するのは相応しくない。
「なあ、もう近頃さあ、お前がかわいく見えて仕方ねえの」
「……そ、スか」
「なんで?」
「お、俺に聞かれても」
「あー、その戸惑った面もかわいい」
「エッ」
困惑する俺を余所に、ドラケンは滔々と可愛いと連ねていく。
ニカッて笑ったとこもかわいいし、ビールが届いてちょっとニヤけたとこもかわいい。店の前で待ち合わせしてるときの澄まし顔もかわいかったし、いつ飲みに行くって電話した時のあの声もかわいかった。……女子高生かと思うくらい、ドラケンは「かわいい」を連呼する。それこそ、自分の妹たちのよう。思春期真っ盛りの彼女たちは、なんでもかんでも可愛いと形容する。
「なあ、なんで」
「え、ア」
曰く、「かわいい」は万能な単語らしい。可愛い・愛らしいという意味はもちろん、良く見えるモノ・好ましく見えるモノにだって、活用できる。だから、あれもこれも「かわいい」と言ってしまうのだ、と。下の妹が、雄弁に語っていたのは、何日前のことだったろうか。
「それは、ええと、あの」
曰く、「かわいい」は「好き」をライトに発信できる言葉らしい。「好き」という言葉を使うのは、ちょっと気恥ずかしい。それに迂闊に「好き」だと言ってしまうと、そればかり取り上げられて、うんざりすることもあるとか、なんとか。その点、「かわいい」であれば、強い印象を与えずに「好き」だと伝えられる。コミュニケーション上で、今いちばん便利な言葉だよ。あたかも尤もらしく言ってのけたのは、上の妹の方。
「なんでかって、いう、と」
「うん?」
妹の論と、浴びせられた「かわいい」の四音が頭の中をぐるぐると駆けまわる。その速度は徐々に上がっていき、くらり、眩暈を覚えた。そのせいか、脳内で「かわいい」と「好き」の二つの単語が重なり合う。
何故、ドラケンは、俺に向かって「かわいい」と言うに至ったのか。それは、つまり、ええと。
「―― 俺のこと、好きだから、なんじゃない?」
しどろもどろに口から零れ落ちた音は、正しくドラケンの耳に届いたらしい。切れ長の目がまあるく見開かれ、ぱちりぱちりと二度瞬いた。
「そっか」
それからドラケンはこくんと頷く。何かを噛みしめるように、飲み込むように、その動作を繰り返した。
いや、待て。待ってくれ。どうして合点が行った顔をするんだ。含みのある笑みを浮かべるんだ。これじゃあ、本当に俺のことを好きみたいじゃないか。あれ、好きなのか。「かわいい」は「好き」と同義という妹たちの理論がドラケンの中でも成立しているのであれば、一理ある。あってほしくないけれど。
うん。呆気に取られている俺を余所に、ドラケンはゆったりと顔を持ち上げた。笑むのに合わせて細められた目は、未だ嘗てないほどの甘さを帯びている。
なんてことだ。やってしまった。俺は、とんでもないことをやらかしてしまった。
どうにか撤回できないかと口を動かすが、何一つ言葉は出てこない。ア、ウゥ、イッ。意味を持たない音だけが漏れるばかり。
「俺、三ツ谷のこと、すげー好きなんだな」
そう言い放った男から、全力の愛おしさが伝わってくる。まずい、呑まれる。これは敵わない。はくんと空気を食んだのを皮切りに、あれよあれよと愛を浴びせられ、―― 気付いた頃には俺はドラケンの恋人に成っていた。
それからも、ドラケンは、事あるごとに「かわいい」を浴びせてくる。「好き」とも言ってくれるけれど、頻度は「かわいい」の方が圧倒的に高い。かわいい・かわいいね・すごくかわいいよ、三ツ谷。二人きりの時はもちろん、人前でもあの男はしれっと言ってのけた。恥ずかしからやめてくれと頼んでも、自信持ちなよ・かわいいんだからと畳み掛けてくる始末。
この恋は盲目フィルターは、一体いつになったら外れるのだろう。
ぷすぷすと頭から湯気を出しながら、ドラケンから褒め言葉「かわいい」を受け止めること幾星霜。
「んふ」
自分は、実は、本当に可愛いのではないか。
そんな錯覚に陥るくらいに、俺の常識は、歪まされてしまった。
「んふふふ」
素面であれば、その錯覚はあくまで錯覚に過ぎず、ありえないことだと判断できる。自分が可愛いなんて、そんなわけがない、と。
だが、酔っ払って理性が揺らぐと、だめ。自分が、世界で最も可愛い存在に思えて仕方がない。何をしたって、俺は可愛い。最高に可愛い。ドラケンが可愛いと言ってくれるんだから、紛うことなく自分は可愛い。
この「かわいい」に取りつかれた状態のことを、「俺、可愛いでしょムーブメント」と命名したのはぺーやんだ。だからか、今日、近所でオクトーバーフェストがあるらしいぜと誘ったのに、「三ツ谷とサシで飲むのはパス」と断られてしまった。まったく、こんなに可愛い俺のことを蔑ろにしやがって。今度、安田さんに言いつけてやる。
「ふんッ」
変に鼻息を荒くしたところで、ショッパーから白い包みを取り出した。丁寧に薄紙を開いて、現れた黒い布地はひとまずハンガーに引っかける。肩の辺りをツンと突けば、透け感のある袖がしゃなりと揺れた。続けて指を滑らせると、長い裾が揺蕩ってくれる。
「かぁいいなあ」
ほうとため息が零れるのに合わせて、うっとりとした声もまろび出た。
可愛い。本当に、可愛い。美しいとも言えるし、洗練されていると表現するのもアリ。だけど、それはそれとして、可愛くて仕方がなかった。
浴びるようにビールを飲んだ帰り道、通りがかったセレクトショップで黒のワンピースを見つけた。ガラス越しでも魅力的なそれは、そばで見るといっそう可愛らしく目に映る。こんなの買うしかない。悪友命名の「俺、可愛いでしょムーブメント」が迸った俺は、ほとんど迷うことなく、―― そのワンピースを衝動買いしてしまった。
「はあ、かわいい……」
もう一度吐いた嘆息からは、アルコールが香ってくる。もはや、ビールの一杯二杯のアルコール臭ではない。遅番勤務から帰って来たドラケンが嗅いだら、呆れた顔をしながら俺を風呂に連れていくことだろう。幼子の相手にするように、歯磨きを施してくるところだって想像に容易い。
でも、俺はほら、可愛いから。何よりも可愛いから。このとびきり可愛いワンピースを纏って、さらなる可愛いを手にしてしまえば、ドラケンも文句は言うまい。ふふ、呆れるどころか、可愛いって口走るに決まってる。なんたって俺は、可愛いんだから。
「ぐふ」
素面の自分が聞いたら辟易しそうな笑みを落としたところで、もそもそと服を脱ぎ捨てた。上はすっかり裸になって、下はパンツ一丁。今日は細身のスタイルを選んだのもあって、下着はソングを穿いていた。スカートを捲って、このパンツが見えたら、またドラケンは可愛いと言ってしまうのでは。言う言う、絶対に、言う。賭けても良い。もし負けたら、どうしようか。その時は、ドラケンのお願い、なんでも聞くことにしよう。まあ、俺は可愛いから、負けることはないのだろうけれど。
顔面をどこまでも緩ませながら、ワンピースの背中のファスナーを下ろした。筒状の空間に脚を入れ、袖を通す。クククっと開けたばかりのファスナーを上げていけば、滑らかな裏地が素肌に擦れた。レディース物だが、窮屈さはそれほど感じない。腰回りだけ、ぴったりとするくらい。胴や胸部は、ジャストサイズにすら思えた。しいて難点をあげるとすれば、トルソーが着ていたのよりも若干丈が短くなったことだろうか。それでも、試しにくるんとターンすれば、滑らかな裾がたおやかに揺れてくれた。
大丈夫、可愛い。これは、可愛い。とても可愛いし、とにかく可愛い。何と言っても可愛くて、どうしようもないくらいに可愛い。可愛いったら、可愛いのである。
脳内を可愛いで満たしながら、今度は逆向きに回って、裾を躍らせた。
「あっ」
そのうちに、扉の開く音がする。玄関の方からだ。パッと時計を見やれば、遅番のあいつが帰ってくる頃合いを指していた。
今に可愛いと言ってもらえる。早くやってこないだろうか。もういっそ、出迎えにいこうか。
わくわくと胸を高鳴らせていると、居室のドアノブがくんと下がった。
「ただい、」
「ねえ見て、かわいいでしょ!」
扉が開くと同時に、声を被せる。ついでに、くるんと身を翻して見せたのもあって、しゃなりと布が擦れる音がした。とはいえ、それもほんの一瞬のことだ。すぐに裾は大人しくなって、すとんと下がった。
ドラケンの手は、まだドアに掛かっている。足は、一歩しか居室に入っていなかった。まるで、時が止まってしまったかのように、固まっている。瞬きすらも忘れて、ドラケンは目を瞠っていた。
それくらい、可愛い? 俺、可愛いだろ。ちょいとスカートを抓んで揺らしてみる。だが、なかなかドラケンは「かわいい」を放たない。あれ、おかしい。可愛くないのか。そんな馬鹿な。どう考えたって、可愛いのに。でも、可愛いと思わなかったら「かわいい」なんて言えないのも、事実。
アルコールでふわふわと浮いていた思考が、ちょん、地に足先を付けた気がした。
「……ただいま」
「お、かえ、り」
落ち着いた声で、ドラケンは言い直す。聞こえて来た四文字は、俺が期待していた「かわいい」とは異なる四文字だった。いや、ただいまという挨拶は、なんらおかしなものではない。ドラケンは、今まさに帰宅したのだ。家に帰ったら「ただいま」と言う。相手が帰ってきたら「おかえり」と言う。同棲するにあたって、挨拶を蔑ろにするのは止めよう。そう言ったのは、俺の方だ。
指先から、ぽとり、布地が離れた。スカートの中では、裏地が膝小僧を擽る。引き寄せられるように下を見やれば、骨感の強い足が見えた。無骨な男の足の上で、滑らかなブラックが垂れている。
可愛いと思った。俺も可愛いし、ワンピースも可愛い。そう思った。数秒前までのその思考は、みるみるうちに萎んでいく。やがて、床を踏みしめている足のすぐ横に落っこちた。
「あ、あの、かわいく、ない?」
「んん、んー……そうだな」
込み上げてきた羞恥心は、己の口調をもたどたどしくさせる。
いや、大丈夫、まだ、間に合う。今、可愛いと言ってもらえれば、ああ良かったと胸を撫でおろせるはずだ。
縋るような気持ちで、目の前にいる男を盗み見た。さすがに、ドアノブから手は離れている。代わりに、その右手は自らの口元に持って行かれていた。瞠られていた目は、切れ長の形を取り戻し、俺のことをじぃと射抜いてくる。値踏みする視線が、つむじからつま先に至るまで注がれた。
「まあ」
ぽつり、相変わらずの落ち着いた声が零れる。
「なんというか」
言葉を、選んでいる。俺がボケようと大真面目だろうと、テンポよく言葉を放ってくるあのドラケンが、言葉を濁らせた。衝撃、である。
つまり、それだけ今日の俺は、だ。
「―― 似合っては、いない」
「あっ」
「かな。うん」
可愛くない、と、いうこと、である。
アルコールと小恥ずかしさとで火照っていた頭が、一瞬にして冷えて、そして、醒めた。冷静さを取り戻すどころか、凍り付く寸前までの瞬間冷却。どばっと噴き出した汗で、ワンピースの裏地が皮膚に貼り付く感触もする。
「そう、そっか」
俺は、可愛くない。
そりゃあ、そうだ。俺は随分前に成人している一介の男。たおやかなワンピースを着たところで、可愛くなるわけがない。体作りもしていないし、顔だってすっぴん。いくら可愛いが作れる概念だったとしても、今、この瞬間の俺が、可愛いわけが、ないのだ。
「そうだよ、ね」
全身で絶望を受け止めると、一旦消えていた羞恥が再び襲い掛かってくる。
いくら酔っ払っていたとはいえ、俺はなんて失態をしでかしたんだ。こんなワンピースまで買ってしまって、無駄遣いも甚だしい。かといって、今更、仕事用の資料にしようとも、思えない。むしろ、できるか。このワンピースを見るたびに、今日のやらかしを思い出す羽目になる。そんなの、ごめんだ。
もったいないけれど、このワンピースは、クローゼットの奥底に眠らせよう。捨ててしまえば良いのかもしれないけれど、さすがにほとんど新品の洋服をゴミにするのは己のポリシーに反する。
「……ごめん、俺すげー酔ってたワ」
「うん?」
「でも、もうウン、醒めた。ほんとごめん、変なモン見せて」
なけなしの自制心で、呆れかえっているだろうドラケンに詫びを入れた。だが、どうも羞恥が勝ってしまい、目を合わせられない。骨ばった自身のつま先を見下ろしたまま、両手はぎゅうとスカート部分の布地を握りしめた。ああ、良い布だな。この手触り、堪らなく良い。着替えたら、奥底へしまい込む前によく観察しよう。
「ワンピース着たって、可愛くなるわけねえよな、はは、あはは……」
乾いた笑いを残しながら、踵の照準を寝室へと向ける。一刻も早く、このとびきり可愛いブラックのワンピースを、脱がなくては。だんっと床を蹴って、バッとドアを開けて、ファスナーさえ下ろしてしまえばこっちのモン。
意を決して、ぎゅ、身を翻した。
「―― かわいいよ」
「えっ」
しかし、足は寝室へと踏み出すに至らない。
幻聴が聞こえた。欲していた言葉が、聞こえたような、気がした。まさか、そんな、聞こえるはずがない。だって、俺は今、似合わないワンピースを着ているのだ。
可愛いなんて、そんなわけが、ない。
なのに、鼓膜がびりびりと、甘い痺れを覚えていた。
「似合ってはないと思う。三ツ谷にはもっと似合う服、あるから」
「あの、エ」
「でも、かわいくなくはないよ」
「どういぅ、ハ?」
狼狽えながらも振り返ると、こてんと首を傾げたドラケンが見える。正直、口にした言葉は、さっぱり頭に入ってこなかった。
かわいくなくはない、とは、どういうことだ。可愛いのか、可愛くないのか、可愛くないこともないのか。いや、どうなんだ。どっちなだ。
わなわなと口を震わせているうちに、するり、ドラケンは距離を詰めて来た。身長差のせいもあって、首の角度が変わる。ほとんど、見上げるような格好。イコール、それだけ近いところにドラケンがいるということ。
さも、それが当然であるかのように、腰を抱き寄せられた。
「似合ってないけど、すごくかわいい」
「あ、わかった、ばかにしてるな……?」
「してないよ」
「してるだろ」
「してないって」
「してる、だって、俺がこんなワンピース着たって絶対に」
「なぁにネガティブになってんの」
やっと理解が追い付いたものの、ドラケンは飄々とした態度を崩さない。もう一方の手は、軽く俺のこめかみを撫で、それから滑るように頬、首、肩、腕へと下がっていった。男の無骨な指の感触が、袖の薄い布越しに伝ってくる。俺を見下ろす瞳には、いつの間にか甘い熱を帯びていた。
「今日も、―― ちゃあんとかわいいよ」
とびっきり甘美な音を零した後、ワンピースの裾がひらりと揺蕩った。黒色に包まれた体は、あれよあれよと寝室へエスコートされていく。
「ちょうどいいや、今日、このままシてみねえ?」
「へッ」
「つーか、するね」
「いや、うそ、エッ待った、ストップ、なあドラケンッ」
「ヤでーす」
「ぁ、あっ、うわぁあッ!」
動揺しきった我が身は、いとも簡単にベッドの上に組み敷かれた。
もういい、わかった、勘弁してくれ。俺は可愛い。すごく可愛い。とにかく可愛いってこと、もうわかったから。そう叫ばざるを得ないくらい、夜通し男に「かわいい」を浴びせられたのだった。