100km圏の憂さ晴らし
疲れた三ツ谷のためにバイクで遠出した龍宮寺の話
遠くへ行きたい。
納期明けの三ツ谷を迎えに行くと、開口一番にそう呟かれた。疲れ切った顔色は、白いを通り越して最早青い。目元にはどんよりとした隈が浮かんでいるし、前に顔を合わせた時より頬はこけていた。けれど、襟ぐりから見える鎖骨は皮膚に埋まって見える。さぞ長い時間、背中を丸めて仕事をしていたのだろう。
遠くへ、行きたい。
目を瞬かせているうちに、三ツ谷はもう一度、しかし先ほどよりも小さい声で言った。仕事道具が詰まったトートバッグが、ぎゅうと抱きしめられて拉げる。間口からは、三ツ谷がいつも持ち歩いているスケッチブックが覗いた。いや、これはスケッチブックじゃなく、クロッキー帳というんだっけ。
さらに瞬きを三回したところで、かくんと三ツ谷は俯いた。ちがう、ごめん、なんでもない。もそもそと零れ出る言葉に合わせて、毛先がパラパラと揺れる。
ふむ。一つ頷きながら、己の顎もとに手を添えた。遠くに行きたい。遠く、行きたい。三ツ谷がぼやいたセリフも頭の中で繰り返す。
都合の良いことに、ついさっき、給油を済ませてきたところだった。
「いいよ」
行こうか、遠くに。
静かに答えれば、俯いていた頭がピクリと震える。下がっていたはずの肩は、わずかに持ち上がった。あえて言葉を畳み掛けることはせずに待っていると、こちらを向いていた旋毛がそろりそろりと動き出す。
「いいの」
「良いよ。どこが良い?」
「どこ……遠くだったら、どこでも」
「どこでもかあ」
「うん」
「じゃあ、んん、海と、山。三ツ谷は、どっちに行きたい?」
首を傾げて尋ねると、小さな唇に小さな隙間ができた。ぽけっととぼけた顔は、俺を見ているようで、遠くを見ているようでもある。この様子じゃあ、相当疲れているのは間違いない。遠出なんかせずに、家に連れて帰ってたっぷりと寝かせるのが正解だろう。
それはそれとして、こいつの我儘も叶えてやりたい。そう思うのは、傲慢だろうか。
「やま」
真夜中の空気に、ぽったりとか細い声が響く。
「オーケー、山ね」
しっかりと頷いて受け止めて、ふらふらと頼りない体をバイクの後ろに座らせた。
軽く飛ばして一時間。郊外の宿泊も休憩もできるホテルで健全に寝起きし、甲州街道をなぞるようにさらに一時間。
自分としては、さほど遠乗りしたつもりはないのだが、三ツ谷にとっては違ったらしい。バイクを降りてから、もうずっと「きちゃった」「とおくにきちゃった」と小さくはしゃいでいた。
のぼり旗を追いかけて、ぶどう園をあっちへふらふら・こっちへふらふら。直売所は二つも三つもはしごして、地元の人から聞いたワイナリーやらショップやらをあちこち回る。観光客用のイートインスペースに辿り着く頃には、三ツ谷のポーカーフェイスは完全に消え失せていた。今や、妹たちとよく似た柔らかい笑みで、買ってきたばかりのぶどうの粒をせっせと口に運んでいる。
「んふ」
「ンまい?」
「うん、おいしい」
「そりゃ良かった」
「うあッ、タネ噛んじゃった」
「あらら、ペッてしな」
「んん」
備え付けの紙ナプキンを差し出せば、三ツ谷はぺたりと口を覆う。ややあって種を出したらしい三ツ谷は、俺と目を合わせると、いひひとはにかむように笑って見せた。
「なあに、にまにましちゃって」
「ほんとに遠くに連れてってもらえると思わなかったんだもん」
「ぽーんと海外とか行けたら格好いいんだろうけど」
「そお? バイク走らせてるドラケン、格好良かったよ」
何を思い出したのか、また三ツ谷はぐふふと笑う。三ツ谷がこんな風にも笑う奴だって、一体どれくらいの人間が知っていることだろう。格好つけたがる男だから、仕事仲間には見せてはいまい。家族を守るものと捉えている辺り、母親や妹にも見せないようにしているだろう。ダチのほとんどだって「三ツ谷は頼りになる奴」と思っているから、知らないと思って良いだろう。
俺だけに、見せる顔。そう思うと、気分が良い。一〇〇キロ、パーっと飛ばした甲斐があった。
ふ、小さく吐息だけで笑ってから、テーブルに並べたぶどうのうち、黄緑色の方に指を伸ばした。粒は大きいのに、皮は薄い。種だって入っていないから、そのまま口に放り込んでも一つもストレスがないときた。そしてなにより、美味い。みずみずしい甘さをもう一粒房から取ると、三ツ谷も同じ房から一粒千切った。
「美味しいよなあ、シャインマスカット」
「残り、持って帰る?」
「んん、潰しちゃいそうだから、ここで食べてく」
「じゃあ、次は車にすっか」
「……ドラケンって、ほんと俺を甘やかすの得意だよね」
「唯一の特技だから」
「嘘吐け、他にも得意なことあるだろ」
バイクの整備だろ、力仕事だろ、女の子の相談聞くのも得意だろ。一つ俺の特技をあげるたびに、三ツ谷はぶどうを粒を口へ放り込む。たわわに実っていた房は、だいぶさみしくなってきた。もう一房、買ってしまおうか。ぶどう以外の名産品はなんだろう。昔、カッとなって山梨までやって来た時、はて、自分は何を買って帰った。記憶を遡りつつ、視線を直売所の方へと向かわせる。
「あと、お土産持ってくるタイミングが良い!」
「……それ特技になんのか?」
「なるよ。マナがごねてるときにウチに持ってきてくれた信玄餅、あれほんと助かったんだから」
「マナちゃんって、なかなか渋いシュミしてるよな」
「ルナは洋菓子のが好きなんだけどね」
ああそうだ、信玄餅だ。あの時は、桔梗信玄餅を買って帰った。
きなこに抹茶に黒蜜あんこ。三ツ谷の下の方の妹は、やけに和菓子の類を愛している。おかげで、かつてソレを三ツ谷の家に持って行ったとき、想像を遥か上を行く喜び方をされた。キャーッとあがる歓声に、漫画のように飛び跳ねてはしゃぐ様。一つ記憶が蘇れば、芋づる式に当時の光景が脳裏によみがえる。
信玄餅は、この辺りでも買えるんだろうか。いや、今度はルナちゃん用に洋菓子の類を選ぶべきか? ショップの推定銘菓コーナーを睨んでみるが、いかんせん遠すぎて何があるかわからない。
「あのときも、途中で一泊してったの?」
「いや、あのときは確か……」
ぱ、と視線を戻すと、ぶどうの粒は数えられる程度になってしまっていた。種ありの方をぷちりと一つ千切り取り、ぽいっと口に放り込む。シャインマスカットより皮は厚い。けれど、食えないこともない、と、俺は思う。どう食べるかの作法はわからないが、飲み込んで困るものでもないだろう。種ごとこくんと飲み下し、当時の弾丸ツーリングに頭を切り替えた。
「三時間くらいぶっ飛ばした」
「うわ、休憩は」
「なし」
「絶倫め」
「言い方。そこは体力あるとか言えよな」
「似たようなもんだろ」
いたずらに笑いながら、三ツ谷もぶどうをつまんだ。しかし、指先に挟まれたソレは、なかなか口元へ運ばれない。長い睫毛を伏せさせながら、三ツ谷は淡い緑色を眺めている。
「……どした、腹苦しい?」
「うぅん、これ食べたら、そろそろ帰んなきゃかなあって」
「遊び足らないなら、もうちょっと遠くまで行くよ」
「もうちょっと、って」
「んん、富士山の方とか」
「登山する格好じゃないって、俺ら」
「麓観光するくらいなら大丈夫じゃない?」
ぷちり、三ツ谷の憂いを見定めつつ、今度はマスカットの方をつまむ。これで、黄緑色はあと四粒、深紫色はあと三粒。これを食べ終えたから、帰らなくてはならないという決まりはない。俺も三ツ谷も、明日は休みなのだ。行楽シーズンからずれているし、泊まるところも困ることもないだろう。
しゃく、り。みずみずしい粒を噛みしめると、三ツ谷はおずおずと顔を上げた。帰りたくない・帰らなくちゃ・でも、やっぱり、もっと遠くにも行きたい。顔には、そう書いてあった。
こんな風に悩ませるくらいなら、温泉地にでも行ってしまおうか。三ツ谷の疲れが完全に取れるまで、引きこもってしまうのも良い気がする。無駄遣いをする性分をしていなくてよかった、こういうとき、金の心配をしなくて良い。
「でもさ、」
「うん」
「が、ガソリン、代、かかっちゃうよ」
「心配するとこ、そこかよ」
「だって、バカにならないだろ……!」
「まあね」
確かに、ガソリンは高騰している。遠出すれば、それだけ出費は嵩んでしまう。だが、先に言った通り、「こういうときに金の心配をする」家計状況ではないのだ。
「でもほら、」
ぷ、っつん。残り少なくなったぶどうの粒を、房から剥がした。
「―― 三ツ谷を癒せるんなら、これは必要経費だよ」
何粒食べても、飽きがこない。しっかりとした甘さがあるというのに、菓子を口に放り込んだ時のような不快なべたつきは一向にやってこなかった。三ツ谷は潰してしまいそうというけれど、なんとか買って帰れないだろうか。それか、東京に流通しているものに手を出すか。……こういうのは産地で食べるからとびきり美味いのだ。スーパーやデパートに並んでいるものが不味いとは言わないが、鮮度に敵うものもない。
いや、そもそも、まだ帰らないのであれば、買って帰るかどうかは、まだ悩まなくて良いのか。
残っている中でとびきり大きな粒をもぎ、むぐりと口に招き入れた。
「ほんとドラケンってさ、俺のこと、好きだよね」
「そうだよ。知らなかった?」
「知ってたけど、最近忘れてたかも」
「忘れんなよ、大事なことなんだから」
「うん」
うん、うん。三ツ谷は何度か続けて頷くと、ようやく指に挟んでいたぶどうを食べた。むぐむぐと口を動かしながらも、その手は残りのぶどうに伸びる。
これでぶどうは、食べ終わってしまった。このあとはどうしよう。改めてぐるりと見渡すと、ほんのりと甘い声で話す女性の二人組が目に留まった。その奥には、ワイン試飲の看板。酒のみの三ツ谷には、持ってこいではないだろうか。むにゃむにゃと口を動かしながら最後の一粒を咀嚼しているそいつに視線を戻しつつ、見つけた看板の方を指差した。
「なあ、ワインの試飲もできるってよ」
「……うん、みたいだね」
「いいの、飲まなくて?」
「いい、俺、ワインはすぐ酔っちゃうから」
「いいよ、そのときは休んでこ」
「言い方がスケベです。もう一回」
「お前の頭がスケベなんだろうが」
「そんなことねーし」
指先に果汁がついたのか、三ツ谷はちゅっと人差し指の先を吸う。この野郎め、スケベとか言い出したから、スケベに見えちまうだろうが。このあと、もう少し遠出するという名目で、休憩と宿泊ができるホテルに連れ込んでしまおうか。来るときのように、ただ眠って終わりだと思うなよ。
じとりと目を据わらせる俺を余所に、三ツ谷はせっせとテーブルの上を片付け始める。軸だけになったぶどうを纏め、トレイは重ねられた。ご自由にお飲みくださいの冷水器から持ってきた紙コップも重ねられ、すくっと三ツ谷は立ち上がる。つま先は、迷うことなく備え付けられたゴミ箱の方へと向かっていった。
「どーする、このあと」
「このあと、って」
「行く? 富士山」
置いていかれたトートバッグを代わりに肩にかけ、トトトッと三ツ谷を追いかける。すぐに背中に追いついて、こつんと背骨の真ん中を小突いた。ぱらりとトレイをゴミ箱に落とした三ツ谷は、まったりと振り返る。見えた唇は、なぜかちょっぴり、尖っていた。
「今日の、ところは」
「うん」
「ワインを買ったら、帰りましょう」
「……いいの、帰っても」
俺はまだ、この辺りうろうろしても構わないのだけれど。三ツ谷は、本当に帰っても、良いの。
念押しするように首を傾げて見せれば、ツンとした唇が一旦引き結ばれた。真一文字の線は、やがてむにゃりと波打ち、もうしばらくしたところで、かすかな隙間を作る。
「帰って、人目とか気にせずにさ、―― ドラケンに愛されたい」
その声は、いつもの三ツ谷よりずっと小さく、早口だった。
やっぱり、スケベなことを先に考えだしたのは、三ツ谷の方なのではないだろうか。
きっと、そうだ。
「がんばるね、今晩」
「絶倫に頑張られるのはチョット」
「なんだよ、好きだろ」
「……すき」
酷く悔しそうな声を聞き届けたところで、土産を選ぼうぜと三ツ谷の背中を押してやった。