おいしいものの納品先
疲れた三ツ谷のために、せっせとサンドイッチを作る龍宮寺の話
「おいしいもの」
風呂上りの俺と目が合うなり、三ツ谷はそう呟いた。
玄関の明かりは消している。差し込んでくる光は、台所の流しの上についている、小さな蛍光灯のソレだけ。だからか、余計に三ツ谷の顔色は悪く見えた。
「おかえり。疲れてんな、今日はもう寝る?」
「おいしいもの……」
わしわしと髪をタオルで拭いながら、一歩三ツ谷の方に近付いた。けれど、そいつの小ぶりな唇から「ただいま」の四文字は紡がれない。戯言のように、おいしいもの、と呟くだけ。
腹でも減っているのだろうか。はて、今にも眠ってしまいそうなほどに疲れ切った三ツ谷でも食えるもの、冷蔵庫にあったかな。さらにもう一歩近寄りつつ、くるりと頭を働かせた。
「―― おいしいもの、たべたい」
「は?」
ふら、と、視界の端で影がよろめく。咄嗟に腕を伸ばすと、どすんと大人一人分の体重がのしかかって来た。ざらりと触れる布地は、今朝羽織っていったサマージャケットだろう。一拍ズレてゴトンと床に落ちたのは、通勤用の肩掛け鞄。仰々しい音が鳴ったのは、おそらく水筒の底が玄関の三和土にぶつかったせい。
「三ツ谷?」
「ぅ……すぅ、」
小さく名前を呼ぶと、返事の代わりに寝息が聞こえてきた。
こんなところでぶっ倒れるということは、話に聞いていたデカい仕事は終わったのだろう。無事に終わって何より。いや、玄関で意識を手放すくらい疲れていたら、「無事」と言うのもおかしいか。
ぽん、ぽん、と背中をあやしてやりながら、汗の匂いがする身体を抱き上げる。靴を脱がすのは、ベッドについてからでいい。それから今着てる服を脱がして、スエットを着せて、……暑いと嫌がられたら、仕方があるまい、その時はパンイチだ。布団をしっかり被せて、腹が冷えないようにさえすれば、文句は言うまい。それこそ、腹を壊したら、おいしいものもなにも食えなくなってしまうのだから。
おいしいもの、寝起きの三ツ谷でも食べれられるおいしいもの。くるくる朝飯に思いを馳せながら、くったりとした体を寝床へと運び込んだ。
◇◇◇
早起きは三文の徳。
と、口酸っぱく言われたって、朝はぎりぎりまで寝ていたい。夜更かし・夜遊びをしていた頃は、特にそう思っていた。
けれど、近頃は件の諺も一理あると思っている。
「いらっしゃいませ」
軽いジョギングをしながら、朝から営業しているパン屋に向かえば、ちょうど焼き立てが揃ったところだった。食パンなんて、袋の口を縛られてもいない。焼き立て故にスライスもされていない塊は、食欲を煽る香ばしい匂いを漂わせていた。
これには敵わない、買うっきゃない。ついでに小腹を満たす用のくるみパンもトレーに乗せて、袋に詰めてもらった。
「あんら、三ツ谷さんとこの! ちょっとコレ運ぶの手伝ってくれない?」
すっかり名前を覚えられた―― 正しく覚えられているのは三ツ谷であって、俺は「三ツ谷さんとこの」と覚えられているのだが―― 産直に顔を出せば、やたらと大きな瓜の乗った籠を指差された。まるまると肥えたそれは、育ちすぎたキュウリより遥かに大きく、淡い色をしている。白くなりそこねたダイコンのようだ。こんなクソでかい瓜、どうやって食べるのだろう。何個も、それこそ籠を持つのが億劫になるくらい持ち込んでいるからには、需要はあるのだろうけれど。
頼まれるまま籠を運び、お礼に大玉トマトを貰った。買う手間が省けたと内心ほくそ笑んでから、産直の中をぐるりと一周。探していたレタスとキュウリはすぐに見つかった。道中、「今年は辛い!」という煽りがついた南蛮を見つけてしまい、びたりとその籠の前で立ち止まる。辛いと言うからには食べてみたい。しかし、自分はこれを使いこなせるだろうか。自分が無理だった時、三ツ谷はどうだ。
下唇を軽く噛みながら一考していると、先程のクソデカい瓜のおばちゃんが「夕顔と煮るといいよ」と教えてくれた。ユウガオって、どれ。え、あのでっかいキュウリ、ユウガオっていうの。今日コレ買って帰るのはなあ、パンも持ってるし。また今度にすんね。名残惜しくも南蛮は諦め、レジに向かった。
そんな買い物を経て帰ってきても、まだ三ツ谷は寝入っている。そっと覗いた寝室では、丸く膨れた布団が穏やかに上下していた。冷房をちょっと低めに設定して、布団をかぶって寝る。素面の三ツ谷が聞いたら「もったいない!」と叫びそうなところだが、酷く気持ちよく寝られるのも事実だ。多少の贅沢くらい、目を瞑ってもらおう。なにより、その贅沢を許してもらいたいくらい、三ツ谷の体は疲れていたのだから。
いそいそと台所に戻り、手を洗いながらぎゅうぎゅうに並べた食材を見下ろした。
この食パンは、三ツ谷が「こんなの食べたら、もうスーパーの六枚切りじゃ満足できなくなっちゃうじゃん!」と悲鳴をあげたもの。間違いなく美味い。野菜もそう。名前を覚えられるくらいに通っているあの産直は、三ツ谷のお気に入りである。そこのレタスとキュウリとトマトだ。信頼できる。ここに、セルフお中元で取り寄せたホワイトロースハムと、リピート買いしているちょっと背伸びした値段のチーズを合わせたら、きっと最高に美味い。少なくとも、変な味にはなるまい。
ここまで凝るのなら、マヨネーズも洒落たやつを準備すれば良かったろうか。振り返りざまに開けた冷蔵庫には、残り四分の一か、それ以下になろうとしているキューピー・ハーフが突き刺さっている。……三ツ谷のことだ、変に新しいのを使うより、コレを使い切った方が喜んでくれるはず。
大丈夫、自分の目に狂いはない。
「よし」
意を決して、まるっとしたレタスを引っ掴んだ。
洗う、千切る。洗う、ヘタを取って、スライサー。洗う、包丁を握る、こっちもへたを取って、おっかなびっくり輪切りにする。深呼吸をして、チーズとハムもすとんすとんと切っていった。
低い調理台は、自分の背には不釣り合い。どうしたって、腰を屈めないとならない。かといって、それを苦にして料理を放り投げると、三ツ谷の唇は尖るのだ。文句は言わないけど、あの小ぶりな口がツンとする。それが続くと眉間にも皺が刻まれるようになって、そもそも多くない言葉数がいっそうすり減ってしまう。昔やらかしたとき、どうしたらいいかわからなくて、狼狽えたっけなあ。当時に比べたら、多少は包丁捌きもマシになったと思う。三ツ谷に比べたら、拙いことに変わりはないのだけれど。
ひとまず具材を大皿に乗せて、火のついていないコンロへ避難。程良く冷めた食パンを、潰れないようそぉっと取り出し、いつだか三ツ谷が買ってきたパン切り包丁取り出した。こくんと唾を飲んでから、小麦色の表面に当てる。前へ押して、手前へ引いて、力は込めずに丁寧に刃先を下げていく。波打っている刃は、ふんわりと柔らかなそれを滑らかに切り取っていった。
それを何度か繰り返して、ちらりと厚みを確かめる。
「うわ、バラッバラ」
とてもじゃないが、均等にスライスされているとは言えなかった。一枚目は厚ぼったいし、二枚目は薄すぎる。手先は器用な方だと自負しているが、どうも食い物を切るのは上手くいかない。あとどれくらいこの生活をしていたら、慣れるだろうか。それまで、三ツ谷は俺と一緒にいてくれるだろうか。
「……やめやめ」
ふ、と暗くなってきた思考を払おうと首を振った。
未来のことなんて、わからない。明日にでも終わってしまうかもしれないし、じいさんになっても続いているかもしれない。どっちに転ぶことになろうと、少しでも悔いのない生き方をしたいものだ。
まずは今日、三ツ谷においしいものを食わせる。疲労困憊している体を、どこかの店まで連れ回すのはナシ。出前を取ったら取ったで「贅沢……」とあいつはぼやく。だから、家で作れる範囲で、まあまあ美味いだろうというのを作るのが、今日の正解なのだ。
うんと頷いて、まばらな厚さの食パンにマヨネーズを塗り伸ばした。
「……またすぷーんつかってる」
「ん?」
カレースプーンの曲線は、こういうのを塗るのにちょうどいい。バターナイフがあるのも知っているが、カトラリーケースからあの一本を探し出すよりカレースプーンを引っ掴んだ方が早いから、俺がパンにジャムやらなにやら塗る時はいつもこう。
その不精した現場を押さえる度、三ツ谷はくつりと喉で笑うのだ。
「おはよ」
「朝からなに作ってくれてんの」
「サンドイッチ」
「あ、産直行ってきた? キュウリもトマトもある」
「レタスも買った。あとパン屋も」
「え、パンも……? おれもいきたかった」
「また今度な」
「パン屋の匂いっていいよねえ、いるだけでお腹いっぱいになれるし」
「この間は、いるだけで腹が減るって言ってなかった?」
「そうだっけ?」
ようやく起きて来た三ツ谷は、くぁ、と小さな口を大きく開けてあくびをした。うっすらと涙を滲ませている目元には、目やにがついている。取り繕っていない、無防備な姿だ。ありのままを晒してくれていると思うと、正直気分が良い。新進気鋭のデザイナーも、家に帰ればだらしないところもある一介の男。涎の跡を指摘しようかどうか迷いながら、ぼすんぼすんとパンに具材を重ねていった。
「ええ、そんなに重ねるんですかあ」
「そんなに重ねさせていただきまぁす」
「うふふふ、俺、そんなに口開くかな」
なにをカマトトぶっている。このサンドイッチと同じくらい厚さ、もとい太さのあるもの、ぱっくりと咥えこんだこともあるだろうに。
なんて、朝からする話じゃない。折角の上機嫌だ、損ねさせたくはなかった。どうだろうね、とだけ濁して、比較的薄く切った方の食パンを上にかぶせる。改めてパン切り包丁を掴むと、傍らにいた三ツ谷は自然と一歩分、離れてくれた。
波状の刃先を、一斤を切り取った時と同じくらい慎重に下ろしていく。食パンのエリアはスルンと過ぎ、折りたたんだレタスにぶつかった。みずみずしいトマトやキュウリも切り分けて、厚めに切ったハムとチーズも分断する。まな板まで包丁が辿り着いたところで断面が見えるように手首を捻ると、一歩後ろから、ワッと歓声が聞こえた。
「美味そう!」
「美味いモンしか入れてないからな」
「てか、このハムあれじゃん、やばいハム」
「あ、チーズも使った」
「いいよ、期限もうすぐだったし」
もう半分になるように切った方が食べやすいだろうか。そう思ったものの、三ツ谷の手は颯爽と切り分けたばかりのサンドイッチを引っ掴んだ。具が零れてしまわぬよう、耳のある方を両手でしっかりと包んでいる。形の良い唇は、にんまりと綺麗な三日月を描き、間もなく、アと割り開かれる。大きく開いたソコからは、粘膜の濃色がちらりと覗いた。
ほら、開いたじゃん。茶化す言葉が喉元まで込み上げてきて、音になる前にこくんと飲み下した。
「ンま!」
「そう」
たっぷりとレタスを挟んだから、シャキシャキと小気味のいい音がこちらにも聞こえてくる。なんだか自分も食べたくなってきた。くるみパンは齧ったものの、それで満たされるような胃袋をしてはいない。三ツ谷がまだ一切れにかぶりついているのを良いことに、切り分けた片割れを鷲掴みにした。
「んふふ、おれさあ」
「なあに?」
かぶりと噛みつけば、レタスのほのかな甘みと、トマトの甘酸っぱさ、それにチーズの塩気が舌に触れる。続けてかぶりつくと、ハムとキュウリにもありつけた。パンは耳まで柔らかい。東京で暮らしていたら、なんでも食えるけれど、採れ立て・出来立てにありつけるかは別。そのうち、食い倒れ旅行でもしにいこう。ただただ美味いものをたらふく食べるだけの旅。ついでに、三ツ谷のすり減った体重を肥えさせられたらこれ幸い。北海道とか、どうだろう。あの広い大地は、愛車を走らせるのにも良さそうだ。
「―― おいしいものたべたい」
もう一口かぶりついたところで、聞き覚えのあるフレーズが聞こえてくる。
「って、思ってたんだよね」
ちらりと横を見やれば、三ツ谷もまた、むしゃりとサンドイッチにかぶりついたところだった。むぐむぐと口を動かしながら、甘い印象のある垂れ目が上目遣いに俺を見やる。
「ドラケン、実はエスパー?」
なんでわかったのさ。いたずらな口調をしながら、三ツ谷ははにかみ笑いを浮かべた。
何言ってんだよ、エスパーなもんか。俺は言葉にされなきゃわかんない質なんだから。ちゃんと三ツ谷が「おいしいもの食べたい」って言ってくれたから、三ツ谷が好きなものいっぱい挟んだサンドイッチ作ったんだよ。
一から十まで説明しようかわずかに迷って、煩わしくなって止めた。
「そうだよ、知らなかった?」
まあ三ツ谷限定なんだけど。しれっと付け足したら、ンなわけあるかよとやっぱり上機嫌に三ツ谷は笑ってくれた。