苦手なケーキ
CP未満。三ツ谷家でケーキを食べる堅
ガキの頃の記憶なんて、ほとんどない。
『ほら、ケーキだよ』
かといって、全くないわけでも、ない。断片的ではあるが、覚えていることもあった。それが、どこかで見聞きした現実を繋ぎ合わせた虚構なのか、正しく自身の記憶と呼べるものなのかは判別できない。けれど、自我らしきものが芽生えた時には、もうソレは頭の中に存在していた。それならば、自分の経験ということにしても良いような、そうでもないような。
『ま、アンタにはまだ早いか』
少なくとも、自分の脳みその中にある最古の記憶は、真白の塊を捉えていた。三角に切り取られた形の上には、ちょこんと赤色が乗っている。その赤色は、美味いやつだ。ア、と口を開けたのに、その一粒は真っ赤に塗られた唇へ吸い込まれてしまった。他の白色も、ぐちゃりと潰されながら、毒々しさすらある口紅と混じって小さくなっていく。
一口も、貰えない。それを理解すると同時に、自分の口からは不満そうな呻きが零れた。あーあーうーうー、意味を持たない声が辺りに散らばる。そのうちに、近くにいた別の女に抱きしめられた。キンと耳に響くような言い合いも聞こえたような気がする。
喧しさに耐えかねてギュッと目を瞑り、そして、目覚めた頃には、―― 俺の世界から母親は消え失せていた。
というのもあるし、一時店で生クリームプレイなるベットベトのギットギトになるプレイが流行ったせいもあるし、単純に生クリームの口内にこびりつくような甘さを好ましく思えなかったというのもあって、ケーキという食べ物は好きじゃない。そりゃあ、食べられないわけではない。強要されたら、食うには食える。なんというか、自ら率先して食べたいものではないのだ。
だから、正直、ええと。
顔を合わせるなり、白い箱を持ってきてはしゃぎだす女の子たちに、どんな顔を向けたら良いかわからなかった。
「ドラケン君、どれがいい?」
「マナはねー、桃のタルトがいい!」
「ちょっと、ドラケン君が先でしょ、お客さんなんだから」
「……ええ?」
居間の座卓について、二人は真白の箱を囲んでいる。恐る恐る覗き込めば、そこには色とりどりのケーキが収まっていた。箱の中で、パズルのように組み合わせられたそれらは合わせて六個。同じものは一つもない。
なあ、これ、なに。どういうこと。縋る思いで肩越しに振り返ると、買い物袋を提げた三ツ谷はこてんと首を傾けた。
「どしたの」
「どしたの、つーか、なに、え?」
パステルカラーの袋からは、長ネギがにゅっと飛び出している。底の方をごつごつと膨らましているのは玉ねぎで、上の方には特売品のトンカツのパックが見えた。十個入りの卵も、確か買っていたはず。今晩の三ツ谷家は、かつ丼らしい。らしいというか、「今日かつ丼だけど、ウチ来る?」と誘われたのだ。かつ丼なのは、間違いない。
そんなこんなで、「行く!」と二つ返事でついていったら、スーパーのタイムセールに巻き込まれた。俺は惣菜コーナーから攻めるから、ドラケンはトイレットペーパーと食器用洗剤、よろしくな。にこやかに言ってのけた三ツ谷に「裏切られた!」と叫びかけたのは、ほんの一時間前のことである。とはいえ、その時点で俺の口はかつ丼の気分になっていた。このまま、かつ丼を食わずにおめおめと逃げ帰るわけにもいかない。仕方なく、指定された通りに日用品を獲りに行った。スーパーのセールは、喧嘩をするより疲れる。気疲れする。でも、果たすことは果たした、俺はかつ丼にありつける。
と、思った矢先が、これだ。視線を戻すと、やっぱり三ツ谷の妹二人は、キラキラとした目を箱の中に向けていた。
「なあ、三ツ谷ぁ!」
「あ、ごめんごめん。袋は預かるね。トイペもその辺置いといていいよ」
「そうじゃなく、どういうことだよケーキって」
三ツ谷は俺の横をひょいと通り抜ける。待てってば。荷物のこともそうだけれど、俺がいちばん知りたいのはそこじゃない。
差し出された手に日用品の袋を渡しあぐねていると、ようやく三ツ谷は、ああと頷いた。しれっと重たい袋を受け取りながら、もう片方の手は流れるように冷蔵庫を開ける。
「ウチさ、この時期ケーキ買うんだよね」
「……なんかのお祝い?」
「しいて言うなら母の日。あと、連休中、どこにも行けないからサ。せめてもってことで、連休明けた頃に毎年お袋が買ってくるんだよね」
「六個もあったけど」
「なんでだろうね。去年はちょうど四個だったけど、一昨年は十個くらい買ってきてたなあ。そのときの財布とか、気分で選んでるんだと思う。この際だし、ドラケンも食べてきなよ」
「エ、でも、お袋さんが買ってきたんだろ。なら、待った方が良いんじゃねえの?」
「ヘーキヘーキ。どうせ買ったその日に先に食ってるし。箱に一個分、隙間あったろ」
「すきま……?」
三ツ谷はテンポよく買い物袋の中身を冷蔵庫へ詰め込んでいく。それこそパズルのように収まっていく野菜や惣菜をしばらく眺めたところで、そっとテーブルの方を振り返った。おずおずと足を進め、「どれにしよう!」と色めく二人ににじり寄る。改めて覗いた箱には、確かにもう一ピースは入れられそうな隙間があった。
「たぶんベイクドチーズケーキだよ。お袋好きだもん」
「マナも好き!」
「マナはケーキならなんでも好きじゃん」
「なんでもじゃないもん!」
ぷくっと膨らんだ柔い頬に、細っこい指先が突き刺さる。だんだんに、二人は互いの頬を揉み合うようにして絡みだした。そんなところで取っ組み合いを始めたら、ケーキの箱にぶつかってしまうのではないか。もし床に落ちたりしたら、まずかろう。努めて静かに膝をついてから、大ぶりな箱をテーブルの中央に寄せた。
箱の中には、色鮮やかな塊が、合わせて六つ。チョコレートケーキが二種類に、マナちゃんが食べたがっている桃のケーキが一つ、一際カラフルなフルーツタルト、どこもかしこも真っ白なレアチーズケーキ、それに赤色がアクセントのショートケーキ。三ツ谷の予想が正しければ、ここにベイクドチーズケーキもあったことになる。
ふわりと上ってくる甘い香りに、くらり、頭が揺れた。
「決まった?」
「ぅお」
ぬっ、と視界にピッチャーが現れる。咄嗟に振り返れば、お盆にコップと皿を乗せた三ツ谷が立っていた。コップの方は、ガラス製ではないらしい。ぶつかりあう音は、やかましくない。ことりと置かれたうちの一つを手に取ると、思った以上に軽かった。アクリル製だろうか。ピンクに緑に、黄色にブルー。ケーキに負けず劣らず、カラフルな色味をしている。居間に敷かれているマットもそうだし、壁に貼られた工作の画用紙もそう。三ツ谷の家って、こんなにキラキラしてたっけ。いや、してたよ。してたしてた。いつ来ても、パーティかなんかすんのかってくらい、キラキラしたもので溢れている。
だからこそ、ちょっと特別な日は、とびきり三ツ谷の家に行きたくなる。今日だって、そう。かつ丼って誘われなくたって、お前ん家行っていーい? って声を掛けていたと、思う。
面映ゆい気になってきて、きゅっと足を正して座った。
「ええ、お紅茶がいい~」
「お麦茶で我慢してくださーい」
コップに麦茶が注がれる音に気付いたのか、ルナちゃんがぱっとマナちゃんの頬から手を離した。お姉ちゃんが膝立ちになったのもあって、マナちゃんの手もぽとりと膝の上に落ちる。小さい子は、何をするにも全力だ。ルナちゃんと違って、マナちゃんはポッと顔を染めながら肩で息をしていた。こんなに興奮して、大丈夫だろうか。小さな背中を擦ってあげると、これまた小さな鼻からふんっと息を吐き出す。
「ドラケンくん、ケーキ決めた?」
「エ」
「桃がね、おいしいんだよ!」
「ごめんドラケン、桃とチョコ以外で頼む」
「え」
「ルナ、どっちのチョコ?」
「……オペラ」
もう一度鼻から息を吐き出したマナちゃんの前に、三ツ谷は桃のタルトの乗った皿を置く。流暢な手付きで、四角い方のチョコレートケーキも取り分け、ルナちゃんの方に差し出した。そして、三ツ谷の目は俺に向く。どれにする? わずかに首を傾げながら、視線だけで問いかけられた。
「三ツ谷は、どれにすんの」
「俺はどれでも」
「お兄ちゃんはイチゴショート好きだよね」
「うるせえな、気にしなくて良いから」
へえ、三ツ谷は生クリームのケーキ好きなんだ。ふぅんと頷きながら、視線を艶やかなイチゴに向ける。天辺に乗っている赤色は、大抵甘酸っぱくて美味しい。でも、下の白色は、甘ったるい。じぃとその三角形を見下ろしてから、隣にあるチョコレートを指差した。
すぐに三ツ谷の手は動き、白い皿にチョコレートの膜を纏ったケーキが乗せられる。ころんとフォークも添えられて、丸いそれは俺の前にやってきた。ぼぉっとしているうちに三ツ谷はショートケーキを取り出し、残り二つとなった箱に蓋をする。妹二人のエーという不満を聞き流しながら、大ぶりな箱を冷蔵庫へと連れていった。
待つこと十三秒。三ツ谷が俺の隣に座り直したところで、ルナちゃんがパチンと手を合わせる。
「手を合わせてください!」
「はい、いただきます!」
「いただきまーす」
「い、イタダキ、マス」
溌剌とした挨拶に、気圧された。一拍遅れて口にしたのもあって、俺が言い終わる頃には、もう二人はフォークをケーキに突き刺していた。ルナちゃんは上品に小さく一口、マナちゃんは豪快な一口を頬張る。ちいこい唇の端には、カスタードと思しき色味のクリームが付いていた。これ、どうしたらいい。拭いたらいい、放置でいいの。慌ただしく三ツ谷を見やるも、特に気にした様子なく三ツ谷もショートケーキをフォークで掬い上げる。澄ましがちな唇はアと大きく開き、生クリームの固まりをぱくんと呑み込んでいた。
「ん、どしたの」
「いや、エト」
「ああ、ショートも食べる?」
俺の視線をどう捉えたのか、口の端についたクリームをちろりと舐め取りつつ、三ツ谷は再びケーキを掬い上げた。間に挟まったイチゴも入るように、おおよそ一口分。小ぶりなフォークの上に乗った塊は、当然のようにこちらへ向けられる。癖か、習慣か、たまたまなのか、左手はフォークの先の下に添えられていた。
「はい」
「ェ」
口先推定五センチのところにある、ソレ。
今日何度目かの、「どうしたらいいの、これ」が頭に浮かんだ。
これは、食べろということだろうか。そうに決まってる。でなきゃ、わざわざ取り分けてこっちにフォークを向けてくるはずがない。でも、三ツ谷の手ずからそういうことをされるのは、想定外。皿をぐっとこっちに寄せるのでも、良かったのでは。あえて、一口分取り分けた意味は。この一口分なら食っても良いよ、っていう暗喩? だめだ、頭が変なことばかり考えてしまう。
目の前にある非日常―― もとい特別感―― に、ごくん、唾を飲み込んだ。
「……ア、いや、悪い、いつものくせ、で」
フォークを持った手が、微かに震える。距離が、五センチから十センチへと広がりだした。
「待って、食べる」
「ッエ!」
すかさず遠ざかろうとする手首を捕まえる。骨感の強いソコは、ぐるりと指を回しても余ってしまう。それは、三ツ谷が特別細いせいではなく、俺の手が大きすぎるだけなのだろう。靴のサイズだって、差がついた。身長も、そう。一応三ツ谷は俺に追いつく気でいるらしいけれど、個人的には今くらいの体格差も悪くないと思っている。ぐしゃってもたれかかった時、いい塩梅で腕の中に収まるから。
そんな、俺にとってちょうどいい体付きを、くんっと引き寄せる。ついでにアと口を開いた。目先に迫った白い塊の向こうで、三ツ谷の唇がわなりと震える。なんとなく、赤らんで見えたのは気のせいだろうか。クリームの白さのせいで、相対的に赤色っぽく見えただけかもしれない。
「ン」
「ワ」
そうして、口内に甘さが訪れた。滑らかでひんやりとしたクリームは、瞬く間に舌の上で溶けていく。かといって、氷のようにさらりと水っぽくなるわけではない。スポンジの部分と混じり合うようにして、じゅわり、じゅわじゅわ、蕩けていった。微かにツンと響くのは、間に挟まっていたイチゴだろうか。小さく噛むと、粘膜に甘さがこびりつく。得意な甘さかというと、否。けれど、唇からそぉっと引き抜いたフォークには、一つもクリームは残っていなかった。
甘い。べたべたする。重たさが、鼻に抜ける。
しかし、悪いものには、思えない。
「なぁんか」
「エ」
「久々に、誕生日にケーキっぽいケーキ食ったワ」
「……たんじょう、び?」
たっぷりと甘さに浸ったところで、こくんと飲み下した。ついでに麦茶を二口。口の中を一旦リセットしたところで、チョコレートケーキにフォークを刺した。つるんとした表面にひびが入る。そのひび割れに沿うようにして掬い上げ、口に運んだ。……これもこれで、甘い。まあ、甘くなかったら、ケーキじゃないか。
「初耳なんだけど」
「んぁ?」
「誕生日って、え、ドラケン今日誕生日なの?」
「そーだけど」
「知らねえ」
「……まあ、言ったことないし」
「言えよ!?」
キンッと三ツ谷の声が響く。妹の前でそんな声を荒げていいのか。そっと視線を正面に向けると、二人そろって我関せずと言った顔つきをしていた。ケーキを食べる手に、怯えは一つもない。なんなら、一口ずつ交換してニコニコしていた。あれ、なんかルナちゃんコッチ見てんな。こっちのケーキも気になるんだろうか。それとなく皿を近づけてやると、二人の笑みはいっそう華やぐ。二本のフォークが、交互にチョコレートケーキを切り取った。
「あ、三ツ谷も食う?」
「エ、俺は別に」
「そうだ、あーんってしよっか、お返しに」
「い、いいよ、しなくて! つーか、誕生日……、なんも、準備してねえ」
「教えてねえんだから準備もなにもないだろ」
「そうかもしんないけど」
「あ、そういえや三ツ谷はいつなん、誕生日」
「ろ、ろくがつ、じゅうに、」
「おっけー覚えとく。楽しみにしといて」
「~~ッだから! こっちからドラケンになんもしてねえだろ!?」
「はいあーん」
「ぁ、いいって、ぅ、むぐ……」
あれこれ喚く三ツ谷にチョコレートケーキを差し向ける。一瞬拒まれたものの、唇に押し付けてしまえばすぐに薄いソコは割り開かれた。深い色味の塊を口内に押し込んで、ゆったりとフォークを引き抜く。三ツ谷は、口に物が入っている間は喋らない。おかげで、きゅ、むぎゅ、チョコレートの味を噛みしめながら、顔を膨らませていった。
「……じゃあ」
「うん?」
「いちごを、どうぞ……」
「ふは、なんだよそれ。ショートケーキのメインじゃん」
「他に手持ちがなにもねえ」
「いいってば。これからかつ丼食わして貰うし」
「……大盛りにします」
「っふふ、だったら愛情もいっぱい込めて」
「それはいつも込めてる」
「あはは! 込めてんのかよ!」
大口を開けて笑うと、ぽいとイチゴを放り込まれる。ああもう、いいって言ったのに。仕方なくさくりと噛み潰すと、酸味より甘さの強い果汁が口いっぱいに広がった。この甘酸っぱさがないと、ただのショートケーキは味気ないだろうに。……そう思ったものの、三ツ谷のフォークは止まることなく動いている。小さく生クリームを切り取って口に運び、スポンジごと掬い取ってぱくりと頬張る。しれっと妹の腕が伸びてくれば、一口分ずつ分け与え、逆に二人のケーキからも一口貰うようフォークが躍る。
「らいねんは」
「あ?」
「なんかします」
「ふ、だからいーって」
「するったらする。今に見てろよ、覚えとけ」
「なんで喧嘩腰なんだよ」
ツンと尖った唇でフォークを食んだまま、三ツ谷はじとりとこっちをねめつける。本当に、気にしなくったっていいのにな。知られていようがいまいが、この日に俺が三ツ谷の家を訪れることに違いはないのだから。
でも、来年から、俺のためだけにこのキラキラした空間を誂えてくれるというのなら、それはそれで嬉しいものである。何をしなくたって存在している特別感が、いっそう増すのなら、甘ったるいケーキだって、―― 好きになれそうな気がした。