巡る世界の特異点

SS再録集①に収録している話です


 例えばの話をしよう。

 もし、雨が降っていた、あの夏の日。
 自分が〝間に合って〟いたならば。世界は変わっていただろうか。
「ワ、結構きれいじゃん」
 いや、どうだろう。あの一瞬がどうにかなったとしても、その後に万が一がないとも限らない。間に合っても、どうにもならなかった可能性だってある。……いくら考えても、答えは出てこない。そりゃそうだ、これは「もしあの時、ああしていれば」という後悔が考えさせる徒労であって、有益なものではないのだから。諺にもあるだろう、後悔先に立たずって。過去の失敗をいくら憂いたところで、今は変わらない。
「えっと、火、火……」
 ほう、と息を吐いて、その石の塊の前にしゃがんだ。上着のポケットから、安物のライターを取り出す。最近買ったものだから、火が着かないということはないだろう。癖のように煙草の箱も取り出したところで、違う、違う、と首を振る。煙草を吸いたいんじゃない。
 線香に、火をつけたいんだ。
 来がけに寄ったスーパーで購入した、安い線香。深く考えず、一束まるっと火をつけると、もうもうと煙が立った。慌てて線香の束をばさばさと振る。燃え上がった炎がどうにか落ち着き、切っ先だけオレンジに染まった。それでも、目に染みるほどの煙が立っている。安物だからかな。次は、ケチなことせず、それなりに知れたメーカーのものにしよう。
 来年、自分が絶対に墓参りしに来れるとは限らないのだけれど。
「いっそ、間に合って、オレもそっちに往っちまったらよかったのかなあ……」
 口からは、情けない言葉が零れ落ちる。あいつが聞いたら、「なに馬鹿なこと言ってやがる」と睨んでくれたかもしれない。派手な喧嘩に、強烈な怪我。その両方をケラケラと熟すくせに、命の重みを知っている奴だったから。
 ああ、煙が目に痛い。沁みる。二度と、この線香は買わねえ。
 ひりつく目元を擦ってから、そっと手を合わせた。
「東京卍會も、でかくなったよ、ドラケン」
 全国制覇だ、天下取るぞ。ガキの頃の戯言は、ある意味では実現したと言えよう。国内の黒い話には、大体ウチが噛んでいる。この国で、裏社会を牽引する存在になったのだ。
「みーんな汚れちまったけど、とりあえず生きてはいる」
 とりあえず、な。
 当時既に暴力行為の無免許暴走とやらかしてはいたが、今はその比じゃない。どいつもこいつも、一つの綻びでお縄につけば、あれよあれよと余罪が出てきてしまう。
 もちろん、自分も、そう。
 気付くとまた、ため息を落としていた。
「あーあ、オマエも生きててくれたらなあ」
 もしも、もしもあの日、間に合っていたならば。この酷く汚れた自分の人生は、違っていただろうか?
 ……他力本願はやめよう、こうなったのも、自業自得だ。この男のせいじゃない。
 いくら言い聞かせても、つい、考えてしまう。自分の人生の、最初かつ最大の分岐で出会った〝龍宮寺堅〟という男が、生きていたら。もし、生きて、自分の手の届く範囲にいてくれたら。
 緩く、首を振った。やめやめ、今日もやらなければならないことは山ほどあるんだ。今更どうにもならない妄想に耽っている場合じゃない。
 線香の灰が山になっていくのを眺めてから、静かに立ち上がった。

 もし、ここが、あの日に間に合った世界なら。
 ―― 自分とあの男は、どんな人生を送っていただろうか。

◇◇◇

「別れた」
 玄関を開けて早々に、男はそう言った。ナニ? と聞き返すのも忘れて、ぱちぱちと目を瞬かせる。わかれた。別れた。そうか。誰と? ……聞くまでも、ない。
「……ドラケンさ」
「んだよ」
「まだ、この癖直ってなかったんだ」
「……いいだろ、久々なんだし」
「はは、そうだな、久々すぎて一瞬なんのことかわかんなかった」
 ほ、と息を緩めると、のっそりとそいつは敷居をまたぐ。急に玄関が狭くなり、突っかけた靴をもたつかせながら後ろに退いた。
 すぐに、ドラケンは空いたばかりのソコにしゃがみこむ。この寒さで手袋をしない根性には呆れてしまうが、指先は支障なく動いてブーツの紐を解いていた。不都合はないらしい。なんなら、手袋をつけるほうが鬱陶しいと言いそう。あとは、すぐに片方失くしちまうとか。変なとこ、ガキっぽいからなあ、こいつ。
 とはいえ、前に、こいつがやってきたときは、まだ金髪だったし、辮髪だった。それが今は黒髪に。刺青こそ曝け出したままだが、髪は編み込んではおらず、緩くまとめている。多少は、丸くなったと思うことにしよう。
「なあ、夕飯は?」
「まだだけど、……気にしなくていいぜ、いきなり来ちまったし」
「あーウン、まあ、ね」
 滅多に見られない頭頂部を眺めながら、冷蔵庫の中身を思い浮かべる。カンタンだけど、ちょっと凝ったことをしたい。そんな理由で、今日の晩飯は即席麺を使った油そば。だから、麺だけならば、もう一人前用意するくらい、どうってことない。しかし、具は、というと。……足りないな。足せるのなんて、ネギくらいしか思いつかない。
「今晩さあ」
「おー」
「油そばなんだよね」
「へえ、イイじゃん」
 仮にもこいつは傷心中。そんな奴を放っておいて、自分だけ飯を食うほど薄情ではいられない。かといって、この男に出すには、味気ないメニュー。連絡なしにやってきたのに、出してやるだけありがたく思え、と言えたらどんなに楽か。どうも、昔から自分はこいつを蔑ろにできない。
「……具、少なくても良い?」
 首を傾げながら尋ねると、そいつは両足からブーツを脱ぎつつ立ち上がった。
「三ツ谷が作ってくれんなら、なんだって」
 穏やかな声が、上から降ってくる。下にあったはずの頭は、一瞬にしていつもの高さに。見上げる角度で捉えた顔には、どこか世知辛い表情が乗っていた。
「ん、じゃあちょっと待ってて」
「おー」
 そう告げて、男を部屋に上げた。

 ―― ドラケンは、恋人と別れる度、オレの家にやってくる。
 いつだって、連絡はない。突然、本当にいきなり、やってくる。
『別れた』
 玄関扉を開けた瞬間に、そう言われたこと、これまで何度あったろう。二十歳ぐらいまでは、まあ頻繁だった。だんだん減って、一年に一回に。ここ三年は、アポなし訪問を受けていない。一応、相手はいると聞いていた。それなら、とりあえず今回は上手くいっているのだろう。てっきり、そう思っていた。……実際、結婚を考えるくらいはしていたと思う。今の恋人―― もう、元の恋人、か―― は女性だったはず。ぽんと婚姻届けを出せるのだ、考えもするだろう。
 キッチンに立ちながら、座布団の上に座った男を盗み見る。ローテーブルに頬杖をついて、ツンと唇を尖らせていた。
 これまで通りなら、オレの作った夕飯にありつくまで、別れた理由を話さない。逆を言えば、食った途端、あいつにしては饒舌に語りだすのだ。酒が入っているわけでもないのに、よくもまあ舌が回るな。そう思いながら、ビール片手に聞くのが恒例行事。
 今日もそうなるだろう。沸騰した湯に麺を放り込んで、ぐるりと鍋をかき混ぜた。
「今日どうすんの、泊まってく?」
 これも前と同じであるなら、泊まっていくはず。客用布団を出さないと。いつの間にか床で寝入ってることもあったし、オレが風呂に入っている間にベッドを占領されていたこともあった。そうなる前に、この男の寝床をどうにかしなくては。うっかりベッドに引きずり込まれて、抱き枕にされるのはもう勘弁。二十歳そこそこで体がバキバキになったのだ、この歳でされたらひとたまりもない。
「んー……」
「んーじゃなく」
 冷蔵庫からは、ネギをもう一本取り出した。本当は半分で済ましたかったが、一人増えてしまったのだから仕方がない。一思いにまるっと一本刻んでしまえ。手元から、トトトトと小気味の良い音が響き出す。
「……とまって、いい?」
「泊まんのね、オッケー。布団の場所、前と一緒だから出しといて」
「飯食ってからでもいいだろ」
「飯食ったらオマエ動かないじゃん。ほら、出した出した」
「んん」
 ネギの青いところまで辿り着いてから振り向くと、ドラケンは重そうに腰を持ち上げた。唇はさらに尖ったようにも見えるが、それはそれ。お互い、夜は安眠したいだろ。いくら、オレが今日明日と二連休で、D&Dは明日定休日だったとしても、だ。睡眠を疎かにしてどうにかなるほど、自分たちはもう若くない。
 物置きの扉が開く音を聞きつつ、茹で上がった麺をどんぶりに放り込んだ。具も載せてみるが、やはり寂しい。真っ当に量を確保できたのはネギだけだ。……仕方ない、それもこれも、急にやってきたドラケンが悪いのだから。作ってやるだけ、オレは、偉い。
 そう言い聞かせてから、それぞれの手でどんぶりを掴んだ。ほぼ同時に、どふん、布団が床に置かれる音がする。
「お待ちどー」
「ん、サンキュ」
 テーブルまで持っていくと、ドラケンは箸立てから二膳引っこ抜いた。そのうち、木の色をしたほうをオレに差し出してくる。黒塗りのほうは手元に。よく覚えているな。物自体は買い替えているが、オレが使うのは木の質感がある色味で、客用が黒か朱。まあ、もう直ったと思った来訪癖が残っていたのだ、これくらい覚えていたって不思議なことではない。
 水でも取ってこようか。ちら、と一度台所を見やると、小さく「いただきます」と聞こえてきた。横目で見やれば、合わせた両手を解くところ。人の家で飯を出してもらうなら、それくらいしろ。と、小言を吐いたのは、もう何年前だろう。
 立ち上がりながら、そっとこめかみを掻いた。
 本当に、よく覚えているもんだ。
「食わねえの」
「食うけど、お茶欲しいなって。麦茶で良い?」
「水でもいーよ。つか、まだ麦茶作ってんの」
「うん、年中やってる。前も冬に出したことないっけ」
「……あったワ、昔、飲んだ覚えある」
「だろ」
 ふ、と口元を緩めて見せてから、ひたひたと素足でフローリングを踏む。一人暮らし用にしては大きい冷蔵庫を開け、ポット三分の一にまで減った麦茶を手に取った。……別に、酒でも良いだろうか。視線を横向きに入れた缶ビールに向ける。だが、こういうとき飲むのはオレだけ。どうしてって、ドラケンはここまでバイクで来ているから。どうせ泊まるんだから飲んだって良いような気もするけれど、万が一、と言って、あいつは翌朝に運転する可能性があるなら飲まない。堅気とは言い難い十代を過ごしてきたってのに、よくもまあここまで更生したもんだ。
 久々なのだし、飲みたいという思いはある。その一方で、素面で付き合ってやるのも悪くないと、とも思う。だって、こんなしばらくぶりの失恋劇、酒を入れて聞いて、朝には忘れてしまったらもったいない。どうせなら、ちゃんと何があったか聞き届けて、しっかり朝まで笑い飛ばしたい。欲の天秤が〝飲まない〟に傾いた瞬間、缶に伸びかけていた指を引っ込めた。取り出すのは、麦茶のボトルだけ。コップも掴んで、ゆったりと部屋に戻る。
 テーブルに、コースターなんて洒落たものはない。こつ、と音を響かせながらコップを置き、勢いよく注ぎ込んだ。その傍から、ドラケンはコップを引っ掴む。存外厚みのある唇が、ガラスの縁に触れた。
「あー……」
「なにその顔」
「や、すげーがっついちまったと思って」
「ふは、ほんとオレの作った飯好きだよな、こんなテキトーなのに」
「テキトーだろうと、手料理は手料理だろ」
「ドラケンって手料理ってコトバに弱いよね、昔から」
「……そうでもねーだろ」
「どの口が言ってんの」
「…………」
 麦茶を流し込んでいた喉が詰まる。変に力が入ったのか、首の筋が浮いた。
 自覚はあるのだろう。これまでの交際歴を思うに、家事能力が高い相手を選ぶことが多い。特に料理。話を聞いている限り、家事の一切を相手に任せるわけじゃない。だが、そもそもの落ちるきっかけは、胃袋を掴まれたパターンが多いのだ。手料理の温かさに絆された、とでも言えば良いのだろうか。
 ついでに、その料理ごしに「自分じゃない誰かを見ている」と気付かれてフラれることも多い。これはオレの勝手な推測だが、あの子が佐野家で出していたのに近いメニューで落ちていると思っている。でなきゃおかしい。オレの雑を敷き詰めた飯ですら手料理判定をする男だぞ、手料理を振舞われて落ちるなら、オレにだって落ちているはず。実際、そういうことになったらきっと困るから、これで良いのだけれど。
 そいつの、既に半分になったどんぶりを眺めつつ、自分のほうに手を付けた。ズッと啜ると、予想通りのチープな味がする。これを手料理と称するとは、やっぱり判定が甘すぎやしないか。
「んな、がんばんなくてもいーよって」
「ん?」
「言ったら、すげー泣かれてすげー困った……」
「なに、何の話」
「一昨日の話」
「いきなり修羅場の回想放り込んでくるじゃん」
「聞きたいだろ」
「聞きたいけど」
 おや、今日は随分と話し出すのが早い。どんぶりの中身を空けてからだと思ったのに。底からひっくり返すように混ぜながら、視線を持ち上げると、ちょうど煮卵が一口で飲み込まれていった。半分に切っているとはいえ、良い食いっぷり。料理が趣味なのであれば、こんなふうに食べてもらえるのは良いことなのかもしれない。個人的には、分けてやったんだからもっとありがたそうに食え、と思わないこともない。
 耳だけ傾けながら、伸び始めた麺を啜った。
「ンな、毎晩気合入れて飯作んなくても、負担ならねーくらいでいーよって」
「言ったら?」
「そうでもしないと理想になれないのにって」
「……もしかして、相手にエマちゃんこと言ってある?」
「おー。付き合い出して結構すぐ、隠してらんねーと思って」
 ドラケン曰く、それを告白した日、相手はからりと笑ってくれたらしい。そんなことだろうと思った。大事な人・忘れられない人がいるのは悪いことじゃない、とも言ってくれた。だから、やっていけると思ったし、この三年はそれなりにやってこれた、と。
「ふぅん……」
 当事者じゃない自分は、憶測しかできない。付き合っていた子は、きっと敏い子だったんだろうなとか、ドラケンが焦がれた相手を割り切れないくらいに真面目な子だったんだろうなとか。本当にどうだったかはわからない。なんせ、その子には会ったことがないから。この男、いつもそうだ。別れたときには言うくせに、付き合いだしたときは一言も言わない。言えよ。そしたら、いつか来るなと身構えられるのに。……突拍子もなくやってくるのに、身構えようもないか。それこそ、三年も経っていたら、こんなふうにやってくるとすら思わない。
 噛み締めたネギが、妙に辛くて笑えてきた。
「で、なんやかんや家出してきたと」
「出てったのはあっち。一昨日いろいろ話して、昨日荷物纏めて、今日には出てった」
「あ、ドラケン家で起きた話?」
「そ」
「彼女の家には? 自分のモノおいてたりしねーの」
「消耗品くらいしかねーよ」
「ああ、オマエそういう奴だったワ……。にしても、引き止めようとか思わなかったわけ?」
「ここ一年くらいは、思うところがあったんだと。なんか、アー……、なんも言えなかった」
 ため息を零したのを境に、ドラケンの声は止まる。ちゅるんっと麺を啜り切ってから顔を上げると、視界に入ったそいつの唇は尖っていた。歪んでいるとも言う。
「……結構、凹んでる?」
「まあ。これまでで、一番長かったし、」
 三年を長いとするとか、そうでもないとするかは個人差があるとして、この男にしては長いほうだ。とっかえひっかえではないにせよ、フラれるまでのスパンが短かった頃を思えば、長く保ったほう。これは「がんばらなくていい」と言いさえしなければ、結婚まで辿り着いていたに違いない。
 ……もし、結婚したとしても、すぐに離婚しそうだけど。そのときはそのときで、今日みたいにオレの家にやってくるのだろう。その様を、容易く想像できてしまった自分が憎い。
 だいぶどんぶりの中身も減ってきた。後から食い始めた自分でこうなのだ、ドラケンはとっくに食い終わっている。なんなら、ポットから二杯目の麦茶を注いでいた。ああ、容器が空になる。今日は作ってから寝ないと。麦茶パック、まだあったかな。そろそろなくなるはず、買い足さないと。明日、スーパーまで乗せて行ってもらおう。どうせ、帰り道にあるのだ、嫌だとは言わせない。
「つか」
「んん?」
「三ツ谷こそどーなん。いつ来ても一人じゃん」
「余計なお世話だよ……」
 底に残った千切れた麺を抓んでいると、意地悪な声がする。痛いところを突いてきやがる。これで「いる」と言ったらどんな顔をするだろう。オレよりそっちを構えよと諫められそうだ。
 まあ、嘘を言うわけにもいかないから、「いる」なんて言えないのだが。じっとりと貼り付く「どうなんだよ」という視線を浴びながら、仕方なく口を開いた。
「……就職してからはそういう余裕ナイ」
「そうか? オマエならこういうの器用にやれるだろ」
「あ~、なんつーかな、……今は、そういうコトにまで労力かけたいと思えない、が正しいかも」
 この男には、どうやら自分が器用にできるように見えるらしい。随分と買い被られたものだ。言うほど、自分は容量が良くない。逃げるときは逃げるし、できないことはできない。この歳になってからは、やれないこと・やらなくても良いことはバッサリと切り捨てるようになった。その一つが色恋沙汰。自分の第一は家族で、次が仕事。それから、この男をはじめとする友人とするならば、惚れた腫れたに現をぬかすキャパなどない。
 今は、ない。
「家族になりたいって、思える相手に出会わない限り、オレはこのままだと思うよ」
「ふぅん……」
 将来、もしそういう人に会えたなら、優先順位はひっくり返る。あの家族と同じくらい、大切にしたいと思える相手。出会えたら良いなと思う。
 とはいえ、いざそうなったときの、気がかりもある。例えば、こいつとの関係とか。今日みたいに突然現れたとき、「仕方ねえな」と言って部屋に上げられるだろうか。正直、できなくなりそう。
 まあ、所詮は杞憂か。オレにパートナーができる頃には、こいつにだって特定の相手ができている。いきなりやってくること自体、なくなっている可能性だってあるのだ。
 そうやって、疎遠になっていくのかな。それも、少し、寂しいような。侘しいような。
「……だから、これからもフラれたときは逃げて来ていいよ。一宿一飯、提供してあげましょう」
「そりゃどうも」
「ま、次はもっと良い人に出会えるといいね」
「良い人、ねえ……?」
 汗一つかかない麦茶のコップを掴んだ。指先にひやりとしたガラスが触れる。静かに口元に引き寄せると、目の前の男も空のコップに口付けていた。上唇が、縁を食む。つ、視線はこちらに流れてきた。
「なあ、三ツ谷」
「ん?」
 ぱ、とコップから離れた唇は、うっすらと濡れている。色っぽい、かも。こんな目で見られたら、大抵の女は落ちてしまうのでは。や、こいつなら、野郎すらも落としそう。
 首を傾げて見せれば、そいつはコップをテーブルに置く。底が直接テーブルに触れるせいで、カツンと硬い音が鳴った。骨ばった指先はガラスを離す。それから、ゆるりと、伸びてきた。
 オレの、コップを掴む手に重なるように、伸びて、きた、
―― オマエと家族になるには、どうしたらいい?」
 え。
 という、形に口が開く。しかし、声は出てこなかった。吐息だけ、ぽとりと漏れる。
 あれ、オレ、口説かれた? 言われた台詞をどう受け止めたら良いかわからず、自意識過剰な妄想が頭を掠める。まさか、そんなわけあるか。第一、家族になろう、なんてテンプレートな口説き文句をこの男が口にするだろうか。とてもするとは思えない。
 しかし、そいつの目は冗談で歪んではいなかった。むしろ、真摯な色味を孕んでいる。本気で、言ってる? だとしたら、どうしてこのタイミングで言ったんだ。
 開いていた唇をどうにか閉じて、口内に滲んでいた唾を飲み下した。鼻からそっと空気を吸って、唇の微かな隙間から細く吐き出す。
「……じょうだん、」
「割と昔からそう思ってた」
「うっそお」
「マジ。ただ、告るのもなんかちげーと思って、言ってなかっただけ」
 混乱するこっちを余所に、そいつはなんでもないことのように話しかけてくる。低い声も、淡々とした調子も、熱の薄そうな目付きも、普段のドラケンと何も変わらない。つまるところ、嘘や冗談を言っている顔では、ない。この顔でプロポーズしたときの勝率って、どんなもんなんだろ。色気でくらっとさせたあとに、こんな真面目な顔つきで畳み掛けられたら、NOと言えるほうが少ないのでは。
 いや、待て。待て待て。言われたろ、「告るのもなんかちげー」って。これは、惚れた腫れたの話じゃないのだ。
 じゃあ、どういうことなんだよ。考えれば考えるほど、思考は絡まっていく。
「えぇ、なん……、いや、え?」
「なんだよ、嫌?」
「いや、って、いうか……」
 そう尋ねられてしまうと、嫌ではない、という答えになる。しかし、それを伝えるのは違う。だって、言ったら最後「じゃあなるぞ」となし崩しにコトが進んでしまいそう。何がどうなったら進展したと言うのかも、定かじゃないが。
 さんざん視線を泳がせてから、焦点を目の前の男に定め直した。ちょうどそのタイミングで小首を傾げて見せられる。前髪が緩く垂れた。……だから、ちょいちょい所作に色気を出してくるのをやめてくれ。心臓に、変な負荷がかかる。
 一つ咳ばらいをしてみるが、やはり頭はまとまらない。ぐちゃぐちゃのままだ。
「なん、で、オレ?」
「さあ。けど、もうオレにとっては家族みてーなモンだし」
「ああ、ルナマナとも仲良いもんな……」
「新しいお兄ちゃんよーって言ってくれてもいいぜ」
「あはは、言っちゃう? ……いやだめだ、あいつら絶対「今更?」とか言う」
「はは、言いそう」
 混乱しているわりに、つるつると言葉は滑り落ちる。妹の話題を出したからかもしれない。都合の良い、思考の羽休め。思春期に入って、ちょっと自分への当たりが強くなりはしたが、大切なことにかわりはない。ああ、でも、ドラケンとは今でも普通に話すんだよな、あいつら。なんなら、今の自分よりフランクに話すかもしれない。既に、兄みたいな、もん。親戚の兄ちゃんという生き物がいたら、きっとこんな距離感なのかもしれない。
「どう?」
 改めて尋ねられ、はくんと空気を食べた。
 出会ってから、十数年。ドラケンに出会う前より、出会ってからのほうが長くなった。家に突撃してくるのは久々だが、予定を合わせて飲みに出かけることは少なくない。元・東卍の連中じゃあ、いちばん顔を合わせているくらい。
「嫌っていうか……」
「おう」
「いざ家族なるとして」
「うん」
「……なんか変わるコトって、ある?」
 確かに、もう、家族みたいなモン。
 それならば、改めてすることなど、ないのでは。やっと頭に冷静さが帰ってきた。家族になるも何も、既に家族同然なのだ。他にできることなんて、役所に申し出るくらいしか思いつかない。
 試しに聞いてみると、ふむ、とそいつは口元に指を添えた。もう一方の手は、オレのそれを包んだまま。視線を宙に向けながら、手の甲をさりさりと撫でられた。柔く握り込まれていると言っても良い。考えているときの癖なのだろうか、何かを考えるときだとか、よくこいつは指で机を叩いている。それを、オレの手に向かってされるとは。擽ったい。し、妙に緊張してしまう。とくとくと心臓は逸りだした。
 そのうちに、空中を眺めていた目が戻ってくる。今もなお、意地悪な色はない。あくまで、平生。何か、したほうがいいコト、あるいはやりたいコト、思いついたのだろうか。
 こくん、再び溜まっていた唾液を飲み下した。
「……セックスでも、する?」
「ぅグ、」
 飲もうとした唾液が、喉に引っかかる。込み上げてきた妙な痛みに、げほ、と一つ咳き込んだ。その間も、男は手を撫でてくる。爪先が、表皮一枚だけ引っ掻くせいで、やたらとこそばゆかった。
「っは、んん゛ッ、……え?」
「ん?」
 空いている手で喉を擦り、胸元を撫でる。依然として、ドラケンの手はオレを捉えたまま。いたずらな所作が、酷く艶めかしいものに思えてきた。そんなまさか。それこそ、からかわれているのでは。盗み見るように顔を上げるが、表情に変化はない。隠しているとも、思えない。
 本気で、言ってる?
 今度こそ、ちゃんと唾を飲み下した。
「ちなみ、抱くのと抱かれるの、……どっちが、どっち」
「どっちが良い?」
「オ、レが、選んで良いの」
「いいよ、三ツ谷なら。抱かれるほうでも、抱くほうでも、オレはこだわりない」
「まじ?」
「おう。どっちでもできると思うし」
 できるんだ。その言葉に呆然とする。ここで引いてしまえたら、話を終わらせることも出来たろう。しかし、嫌悪感はまるで込み上げてこない。ばくばくと心臓が音を立てて、血液が全身にくまなく流れていく。頬や目元にはカッカと熱が集まってきた。熱い、ということは、赤くなっている? みっともない顔をしていたら、どう、しよう。
「……あー、悪い。こだわりないのは嘘じゃねえけど、」
「ぅ、え」
 はくはくと空気に溺れていると、ようやくそいつは表情を崩した。涼やかな眉がハの字を描く。困った素振りをしながらも、穏やかさを持った笑みがふわりと浮かんだ。愛おしいものを見るような、目、しやがって。よりにもよって、それをオレに向けている? 正気が知れない。これが現実だなんて信じられない。いつの間にか、自分は寝入ってしまったのでは。……そうだったら、深く考えなくて良いのに。
 情報量は決して多くない。その代わり、一つ一つの衝撃が凄まじい。頭の中がぐちゃぐちゃに乱れて、いっそ停止したくなってきた。でも、止めたら最後、ウンとしか頷けなくなる。なにもかも、ドラケンがしたいようになってしまう。
 それの、なにが悪いのだろう?
―― 最初は抱きたい」
 悪く、ない、ような気がする。
 囁くように落とされた言葉に、ボンッと頭が湯だった。もうだめだ、なにも考えていられない。ただ、この男の言うことに、ウンと頷いてしまいたい。けれど、そうしたら最後、もうただの友人の距離には戻れない。その細やかな気がかりが、切れそうな理性を繋ぎとめていた。
「はは、顔、やべーぞ」
「うるせぇ……」
 ふと、手が離される。甲を撫でていた指先は、つ、と宙を上ってオレの頬に触れた。仕事柄か、指の皮膚が硬くなっている。好きなことを仕事にして、生きている男の、手。顔に熱が集まっているのもあって、ひんやりとしたその指先は、やけに心地よかった。
「マ、考えとけよ」
「ぅ、え、どれを」
「家族になってくれって、話」
「あ、セックスの話じゃないんだ」
「……そっちも、前向きに考えてくれると嬉しい」
「ん、ぅん、……うん、わかった」
 考えてみる。そう付け足すと、無骨な手のひらは、オレの龍が眠るこめかみを柔らかく撫でた。

 もし、なると言ったら。あるいは、ならない、という答えを返したら。
 自分とこの男は、どんな人生を送るのだろう。
 ―― どれを選んだって、オレたちが決めた人生だ。悪くないに決まってる。