すぐそこのインモラル

フラれバツイチくたくたの堅と、それを預かる隆の話
ドラエマを経てのドラみつです


「ごめんなさい」
 泣きじゃくる彼女を宥めるのは、いつの日からか自分の役目に成っていた。かつては、気恥ずかしさが勝って、雑な慰めばかりしていたっけ。周囲から、下世話な目を向けられていたせいも、あったのかもしれない。でも、それも今は昔のこと。自分が好いた人が悲しんでいたら、なんとかしてやりたいと、心底思う。
 だから今日も、彼女の背中に手を当てて、呼吸が落ち着きますようにとゆっくり擦った。
「どうした?」
 できるだけ、穏やかな声を意識する。低くて、ぶっきらぼうなこの声は、気を抜くと威圧感を放ってしまうから。
 本当は顔も覗き込みたいところだけれど、前にそうしたとき平手打ちをされた。不細工な顔を見ないで、ということらしい。泣いてたところで、不細工だなんて思わないのに。どれも全部、愛おしいと思うのに。
 引き攣るような呼吸が、徐々に落ち着いてくる。とはいえ、まだ時折鼻を啜る音がした。そろそろ、抱きしめても大丈夫だろうか。背中を擦る手を、あやすように叩く動きに切り替えつつ、傍らにいる彼女の様子を窺った。
「ごめ、ンな、さぃ」
 ズッ、と、また、鼻水を啜る音が、する。
「なぁに、嫌なことでもあった?」
「うぅん」
 彼女を、こうも憔悴させるのは、なんなのだろう。努めて優しく尋ねてみるも、小さく首を振られてしまう。
「じゃあ……、疲れた?」
「ちがぅ」
 もう一つの心当たりを聞いてみたが、やっぱり小さな頭は横に振られた。
「んん、さびしかった、とか?」
「それ、は」
 それならば、と、次の可能性を持ち出すと、彼女は言葉を濁らせる。
 ああ、これか。何かと自分は、家を空けることが多い。最近は、国内どころか、海外でのレースにも帯同させてもらえるようになってきた。その度に彼女の兄から「俺の専属で良いじゃん!」と駄々を捏ねられるが、それは、それ。デカい規模のロードレースのことを、知っておくに越したことはない。
 小さく、それこそ隣の彼女に悟られない程度に息を吐いた。彼女の兄たるマイキーは一応自立して暮らしているし、バイヤー業もしている真一郎君は留守も多い。最後の砦だった万作さんも、この間の正月に餅を喉に詰まらせて以来、入院しがちときた。頼れるはずの実家はほとんど空っぽ。下の階に住んでいる友人夫妻の元にはしょっちゅう遊びに行っているらしいが、それも寂しさ故のことかもしれない。
 いやはや、まったく。仕事にかまけすぎたな。すぎたワ。
 謝るのは、彼女じゃない。こっちの方だ。
「ごめんな、なかなか帰って来れなくて。やっと来週からはまとまった休み、」
「違うの」
 声を遮られた。
 ほとんど同時に、彼女は顔を上げる。目元は、すっかり赤くなっていた。鼻の辺りも濡れている。ティッシュ、いや、タオルを濡らしてきた方が良いか? 咄嗟に腰を浮かせかけるが、昔散々聞かされた説法「泣いてる女がいたらな、まずは気が済むまで傍にいろ」でどうにか思いとどまる。
 腫らした目と、視線が交わった。下瞼には、涙の分厚い膜がある。瞬きでもしたら、たちまち溢れてしまいそう。拭って、やりたい。
 しかし、彼女の目は、触れるなと語り掛けてきた。
「ごめんなさい」
 彼女の小さな手が、自らの腹を撫でる。俺の目からすれば、まだ平らの範疇。それでも、辛そうにしていたのは知っている。やっと食欲が戻ってきたから、外でちょっと良いモノ食べる? なんて話もしていたところ。
 していたら、なぜか、彼女の顔が歪んで、涙がこぼれて、泣きじゃくられた。
「この子、ね」
 ア、これ以上、聞くのは、まずい。
 そう思うのに、彼女の口を塞ぐ気には、なれなかった。物理でしないのは当然としても、声で遮るとか、できたろう。
 けれど、できなかった。
 彼女の、切実な目を見ていると、聞かなければと、体が凍り付いてしまったのだ。
―― ケンちゃんの子じゃないの」
 どうせ凍るなら、聴覚も凍ってくれればよかったのに。
 思ったところで、そう世界は都合よくできていない。確かに彼女の言葉を聞き届けて、息を呑んだ。
 それが、どうした、と、言えたら、格好も付いたことだろう。だが、凍り付いた体は、何一つ言葉を発することができない。自分ができることなど、さめざめと泣く彼女の顔を、ただただ見つめることばかり。
「ごめんなさい」
 最後の詫び言を聞き届けたところで、目の前が真っ暗になった。
 その後の顛末は、ええと、そうだな、真一郎君辺りに、聞いてくれたらいい。
 いや、「血ってコエーな」と言っていたのを思うと、聞かないでくれた方が良いかもしれないが。

◇◇◇

 順風満帆な生き方をしてきたとは思っていない。し、この俺のことだ、これからも、平穏とは程遠い日々を過ごすのだろう。そう思っていたとはいえ、この挫折は想定外だ。通り魔に刺された気分。身構える準備なんて、欠片もしていなかった。
 彼女の告白のあとの三日間、自分がどう生きていたか、まるで覚えていない。どこからもクレームが来ていないあたり、不都合なく仕事をこなしていたのだろうか。それとも、腫れもの扱いでそっとしてもらえただけなのか。
 何はともあれ、休みをとっておいて、良かった。この仕事についてから初めて、休みというものの重大さを思い知っている。
「~~ッ待ってたぜ!」
「うわッ、くっつくな、重てぇっ!」
 ぼぉっとしていると、遠くから声がする。視線を向けようかと思ったが、顔を上げるのも億劫だった。寝そべった布団からは、足がはみ出している。触れる空気の冷たさが嫌で、もそもそと体を丸めた。タオルケットと、毛布を足に絡め、ついでに頭も布団の中に潜らせる。ぎゅっと目を瞑ると、二つの足音が振動になって伝わって来た。
「……これ?」
「そお」
「まじ?」
「残念だけど、マジ」
 不快にも思える振動はすぐに止む。代わりに声が近くなった。座るか、しゃがむか、したのだろう。
 この布団のすぐ横には、炬燵が出してある。本当は部屋の中央に置いてあったのだけれど、俺があまりに炬燵で寝るがために、布団の傍に寄せられた。寝るなら布団で寝ろ、これだけ近付けてやったんだから移動できないとは言わせない、という家主の気遣いである。気遣いなんかな。まあ、気遣い、ということにしよう。
「よくもまあ引き取ろうと思ったね」
「まあ、なんつーの、いつも頼りにしてるし、でも見てらんなかった、し?」
「うーわ、マイキーが気ぃ遣うってよっぽどじゃん」
「うるせーな、俺にだって遣う気ぃくらいあるっての!」
 気遣いで合っていたらしい。あの自由気ままな我儘体質にも、人を想う心はある。こんなところで相棒の情緒の成長を知ることになろうとは。
 布団に引きこもったまま、薄く瞼を持ち上げた。白い羽毛布団は、うっすらと外の明るさを伝えてくる。顔を出したら、さぞ眩しいことだろう。眩しいのは、嫌だ。せめて、夜まで大人しくしていよう。もぞり、さらに足を畳んで丸くなった。
「……で?」
「ん?」
「なんで、俺?」
 目を瞑り直すと、のったりと睡魔が押し寄せてくる。話し声がしていようと、気にはならない。逆に、静かな方が自分には落ち着かない。これが女の声だったら、完璧だったのに。まあ、男の声でも眠れないわけじゃない。
 早く、寝たい。眠ってしまいたい。
 だって、眠っている間は、現実を忘れられる。抱えた膝に、額を埋めた。
「ケンチンが素面でも頼れそうなヤツ、他にいねぇし」
「いや、いるだろ絶対」
「まあ、いねえこたねえけど……。全部、バイク関係だから、なんか、アレじゃん」
「アレって?」
「……仕事仲間にこんなとこ見られたら、復帰する時、気まずいっしょ」
「ガチで気ぃ遣ってんなあ」
「茶化すなって、頼むよ、最近仕事落ち着いてきたって言ってたろ!」
「デカいのが終わっただけだって、他にも細々……」
「ケンチンのこと、見捨てンの? 見捨てれンの?」
「……」
 家主じゃない方が、ついに黙りこくる。静かになったのもあって、ガリガリと頭を掻く音が聞こえた。
 話し声が止まったからか、ふ、意識が現実に戻ってきてしまう。ああ、くそ、もう少し、他愛のない話、していてくれよ。そしたら、よく眠れそうなのに。
「ったく」
 布団の向こうから、大げさなため息の音がした。
―― ドラケン」
 体に冷気が纏わりつく。布団を剥がされたらしい。ハッと頭を上げると、すぐに垂れた眦と目線が合った。
 あれ、三ツ谷、だ。腫れぼったい瞼で何度か瞬きをしてみても、やっぱりそこには三ツ谷がいる。仕事は? 今日、何曜日だ。土日だったら、休み、かもしれない。いや、独立してからは、土日も休みじゃないんだったっけ? なんにせよ、どうして、三ツ谷が、ここにいる。
「み、つや?」
 久しぶりに発した声は、思った以上に、掠れていた。喉も舌も、変に痺れて、上手く動かせない。三ツ谷の向こうからは「喋った! ついに喋りやがった! 三ツ谷すげえ!」という喧しい賞賛が飛んで来る。……途端、三ツ谷の顔が緩んで見えたのは、気のせいだろうか。一旦ヘの字を描いた唇は、真一文字になったり、歪な波線を描いたり、固まることなくもごもごと動いていた。
「あー、……マイキーの、頼みだからね」
 そのうちに、発せられた言葉は、―― 三ツ谷の緩みそうな頬とは対照的に―― 強張っていた。
「しばらく、面倒見てやるよ」
「え……?」
「ありがたく思えよ、―― バツイチ・ケン君」
 にんまりと笑いながら付け足された言葉に、どっと体が重くなる。
「あっ、バカ!」
 すぐにマイキーの慌てた声が飛んで来るが、当の三ツ谷はどこ吹く風。知ったことかと俺の体を強引に立ち上がらせる。そして、あれよあれよという間に、木偶の坊と化した我が身は、黒のSUVに押し込まれた。

 連れて来られた部屋は、布に溢れていた。
 足の踏み場がない、というわけではない。室内のほとんどは、整頓されている。にもかかわらず、圧を感じた。棚を見やれば、いくつもの布が巻物状になって刺さっているし、部屋の隅のデスクにだって大量の切れ端が乗っている。さらには、服がかかったラックまで並んでいた。住居というより、衣装部屋に見えてしまう。そう言えば、自分が育ったヘルスにも、こういう衣装塗れの物置部屋、あったなあ。
「その図体だと、……ベッドだな」
「え」
 背中を丸めて、潰れ気味のボストンバッグを抱えていると、おもむろに三ツ谷が頷いた。スリッパを引っ掛けた足は、ぱたぱたと隣の部屋に行ってしまう。
 やけに頼もしい背中が、消えた。
 見えなくなっただけだ、三ツ谷は隣の部屋にいる。どこか遠くに行ったわけではない。わかっているのに、胸の内側には不安が漂い始めた。胸騒ぎに煽られて、ふらり、足が動く。もたつきながら、消えた三ツ谷を追いかけた。
「みつや……?」
「ん、ここ使って」
 真っ先に視界に入ったのは、ドカンと大きな黒いベッド。こじんまりとした寝室の大半を、そのベッドが占めていた。どうやってこの部屋に運び込んだのだ、と思うくらいに、デカい。なんなら、アパートで自分達が使っていたベッドよりも、大きかった。
「シーツとかは……、変えるの明日でもいい?」
「しーつ」
「とりあえず枕のバスタオルは変えとくね」
「ばすたおる、」
「あれ、このベッドでも、丈足りないとか言う?」
 タッパもあるけど、手足も長いからな、お前。三ツ谷の口が、くるくると回る。その発せられる言葉、どれも、上手く飲み下すことができない。理解が追い付かないまま、大して中身の詰まっていないボストンバッグを抱え込んだ。
「え、と……」
 ここは、三ツ谷の、家だ。
 だから、このベッドは、普段三ツ谷が使っている、ベッド。一人で、この大きさのを使っているのか。黒い、推定セミダブルの、ベッド。洒落ている、と思う。さすがデザイナー。
 ちらりと家主を盗み見ると、空っぽだったはずの腕にタオルとスエットが引っかかっていた。今しがた回収したらしい。
「ん、と」
 ここを、俺に貸してくれるのなら、三ツ谷の寝床は、どうなるのだろう。ソファ? 確かに、リビングにはゆったりとしたソファが置いてあった。けれど、所詮ソファだ。足先は、はみ出るに決まっている。背中や腰だって痛くなるだろう。じゃあ、どうする? ……これだけ広かったら、二人並んでも寝られそう。なんたって、女を連れ込んでも困らない程度に、このベッドはデカい。だとしても、男二人は、流石に狭いか?
 上手く回らない頭を、どうにかぐるぐると働かせる。口を開いては、言葉が見つからずに閉じ、また開いては、空気を吸い込んで終わる。いつの間に、自分は口下手になったのだろう。
 自然と、顔は俯き、木偶の坊たる自身の体が目に入る。駄目だな、俺、本当に、駄目だ。しっとりと触れてくる視線から逃げることもできず、かちり、体は固まった。
「ねえ」
「っ」
 ため息と、共に、静かに声を掛けられる。固まっていたはずの肩が、びくんと上下した。顔を、上げないと。思いはするが、擡げた視線の先にある顔を見るのが、怖い。不甲斐なくて、甲斐性無しで、その上ビビりだなんて、男ととしてイイトコなし。じゅわりと、胸の真ん中に惨めさが滲みだす。
「ドラケン」
「ぁ」
 顔を上げていないのに、三ツ谷が見えた。伸びた己の前髪が、重力に従ってさらりと垂れている。その向こうに、確かに三ツ谷が見えた。
 覗き、込まれた。気付いた頃には、三ツ谷の口元がむにゃりと緩む。にやけた、と、いってもいい。
 情けない顔を、見られてしまった。
 それどころか、笑われた?
 ……理解が追い付くと、羞恥が襲ってくる。
「~~ッみるなよ!」
 普段の自分であれば、意地悪な顔をするコイツの額を「鬱陶しい」と突っぱねたはず。しかし、今の自分はボストンバッグを必死に抱き込むばかり。しかも、困ったことに、久々に出した大声で、頭が揺れてしまった。体が、ぐらつく。傾く。耳鳴りを覚えながら、たたらを踏んだ。
 そんな俺に、三ツ谷は、目敏く気付く。すらっとした腕が、当たり前のように俺の背中に回った。ほのかな体温は、手首にも回る。エスコートでもされるかのように、体の主導権を握られた。
「ふ、ごめんごめん。とりあえず、座ろっか」
「あっ……!?」
 それはまさに、―― あっ、という間のことだった。
 視界が回転し、背中がぼふんとマットレスに沈む。そのくせ、軋む音はしなかった。自分の無駄にデカイ体を、洒落た大きなベッドは難なく受け止める。
 三ツ谷がベッドに乗り上げてきても、それは同じ。愕然としたままそいつを見上げると、ふ、と笑ってから、俺の腕からボストンバッグを奪い取った。半分程度しか入っていない鞄は、片腕でベッドの隅に放られる。それでもやっぱり、広々としたベッドはウンともスンとも言わなかった。
 のっしり、と、男の体重が腹に乗る。
 相変わらず三ツ谷は、愉しそうな顔をしていた。愉快や愉快とにんまりしながら、俺のことを、組み敷いて、いた。
「み、みつ、」
「休みいつまで?」
 混乱を極める俺を余所に、三ツ谷の両手が胸に乗る。合わせて、こてんと首を傾げて見せられた。
 休み。浴びせられた言葉に意識が向く。休み、いつまで。いつまで、俺は休めるのか。三ツ谷に組み敷かれたショックから逃げるようにして、ぐるりと思考を巡らせた。
 目まぐるしく入ってくる依頼にストップをかけたのは半年程前のこと。正直、あまり家に帰れていない、という自覚もあった。家族の時間とやらも、大事にしたい。そう思って、仕事のペースを落とした矢先に、彼女の妊娠が発覚。マイキーの謎の根回しもあって、三月までの予定は空白になった。
「はる、くらい」
「くらい?」
「さんがつまで、は、つごうつけた」
「そういやドラケンもフリーランスなんだっけ」
 いいよね、こういうとき都合つけやすくって。
 淡々と三ツ谷の声が降ってくる。俺は、フリーランスなのか? 確かに、特定の誰かから給料をもらっているわけじゃない。声をかけられれば、依頼さえもらえれば、あちこち出向いている。確定申告も、九井を頼りつつ、どうにかこうにかこなしていた。……今年は、あの男を頼れるのだろうか。完全に自力でやらなくては、ならないのでは。もっと憂鬱になってきた。
「じゃあ」
「じゃあ?」
 鬱屈を燻ぶらせているうちに、腹に乗っていた体重がいくらか軽くなった。よろり、視線だけ擡げるが、三ツ谷は変わらず俺の上に座っている。腹の圧迫感は確かに薄れている、そう見えないだけで、中腰になってくれたのだろうか。
 見つめた先にある唇は、緩やかな弧を描いた。
「とりあえず三か月だね。俺、仕事で家空けることも多いけど、まあよろしく」
 この部屋は好きに使って良い。冷蔵庫の中も好きにしていいし、風呂とトイレもご自由に。ただ、居間に置いている作業台と布をしまっている棚には触らないで欲しい。
 つらつらと三ツ谷は生活する上での注意事項を並べていく。思い付いた順番に言っているのだろう。とりとめがない。し、この一回で覚えきれそうにない。なんだか、目が回って来た。横になっているのに、頭がクラクラする。
 三ツ谷、ごめん、ちょっと、ストップ。あとでそれ、紙に書いて。じゃないと俺、三ツ谷の地雷まで踏み抜いてしまいそう。
「あとは、……ぷっ、なに可愛い顔してんの?」
「おぼえきれない」
「……それもそっか。絶対、てのはあとで冷蔵庫にでも貼っとくワ」
「ん」
「基本、好きにしていいよ。いや、なんかすることあった方いい? 何ならできそう?」
「なに……」
 今日は、とびきり頭を使う日だ。尋ねられた「何」の答えを探して、また脳みそを働かせる。
 自分ができること。得意な、こと。バイクとか、機械いじりしか思いつかない。三ツ谷が聞いている「何」は、そういうことじゃない。家の中のことで、できる、ことだ。料理、いまいち。洗濯、三ツ谷は絶対、衣類のコダワリあるタイプ。掃除、どこまで捨てて良いか、すり合わせないと難しい。水回りならできるかも? ……最後に家事としてのソレをやってみたの、いつだったっけ。自信が、なくなって、きた。
 生活力は、なくはない。そう思っていたけれど、思い違いだったのかもしれない。気分が、ひたすらに落ち込んでいく。
「おれ、なにができんだ、ろ」
「洗濯物畳むとかは?」
「たぶん……?」
「たぶんかよ」
 もそもそと答えると、上にいる三ツ谷がケラケラと笑った。笑い声の間に「だいぶキてんなあ」とも聞こえてきた。
 俺は、彼女に相当入れ込んでいたらしい。あれだけ家を空けておいてどの口が、と思わないことはない。けれど、事実、未だかつてないほどに茫然自失している。普段はしない、たらればの後悔だって、尽きそうにない。こんな自分が、誰かの世話になって、良いのだろうか。良いものか。野垂れ死んだ方が、マシなのでは。
「そうだなあ、ひとまず」
「……ひとまず?」
「のんびりしよっか」
「のんびり」
「そ、のんびり」
 つまり、何もするな、ということか?
 負の方向に回り始めた頭は、ネガティブな捉え方しかできない。三ツ谷には、そんなつもり、ない。きっと、ない。そう言い聞かせても、仄暗く考えてしまう。
「それでさ」
 鬱屈とした思考に、三ツ谷の明るい声が割って入る。いつの間にか伏せてしまっていた瞼を持ち上げた。と、男の腕がこちらに伸びてくるのが見える。身構えるより先に、ぬくい手の平が額に乗っかった。乱したままの髪が、一度、二度と撫でつけられる。それから指を潜らせて、刺青が見えるように掻き上げた。
「俺に「いってらっしゃい」と「おかえり」って、言ってもらおっかな」
 指先が、龍の首を撫でる。丁寧な、まるで慈しむかのような手付きだ。ずっしりと重いばかりだった体が、一抹のくすぐったさを覚える。
 こんなふうに、誰かに撫でられたの、触れあったの、いつぶりだろう。思えば彼女にも、こういう触れ方、随分とされていなかった。
「みつや、」
「ん?」
―― ありがとう。世話に、なり、ます」
 ようやく、まともに舌が動いた気がする。
 じぃと三ツ谷を見上げていると、涼し気な目が僅かに見開かれた。とはいえ、一瞬のこと。すぐに余裕を携えた瞳を取り戻し、熱っぽい手にぐしゃぐしゃと撫で回された。

 見覚えのない、天井だ。
「……、」
 起きて早々に、頭の中が疑問でいっぱいになる。ここは、一体、どこだ。胡乱を携えながら、もそり、掛けてある布団を引き上げた。目元まで手繰り寄せると、布団から足先がはみ出てしまう。素足に冷気が触れた。ぶるり、勝手に身体が震えてしまう。寒いのは、嫌いだ。もそもそと、自身の足を布団の中に連れてくる。背中も丸めたところで、やっと肩のこわばりが解けた。自分の体温で温められた空間は、とにもかくにも居心地が良い。ぬくもりに微睡みつつ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「んん?」
 さあ、もう一眠り。そう思ったところで、目が冴えた。体いっぱいに取り込んだ匂いが、頭を目覚めさせてくる。自分の匂いじゃない。マイキーの家のソレでも、彼女と暮らしていた家のソレでも、ない。
 ―― 三ツ谷の、匂いだ。
 むくりと体を起こした。部屋は静まり返っている。遮光性の高いカーテンらしく、朝だというのに室内は薄暗かった。……朝、だよな。秒針の音を頼りに、時計を探す。壁を見ながらまずは一周。棚に目を向けながら続けてもう一周。しかし、時計盤は見つからない。おかしい、どこかからチクタク聞こえるのに。
 冬の空気に震えながら、枕元に目を落とした。あ、あった。布団にしまったままの腕を、もたもたと取り出す。イマイチ力の入らない指先を、丸い塊に引っかけた。
「はちじ、」
 の、十分前。この時間なら、朝と言ってもいいはずだ。
 あいつはまだ、いるのだろうか。それとも、もう仕事に行ってしまったか。じっとしたまま耳を澄ますと、扉の向こうから微かな物音が聞こえた。かといって、こっちに近付いてくる様子はない。むしろ、遠ざかっている。
 寒い。布団に戻りたい。眠い。布団に入りたい。怠い。布団に、いたい。
 憂鬱に襲われながらも、重たい足を床に下ろした。
「ぅ」
 フローリングに、足先が触れる。その瞬間、冬が神経を上って来た。やっぱり、布団にいたい。臆病に染まった心がぐずりだす。
 そうこうしているうちに、足音はいっそう遠退きだした。まずい、このままじゃ、言いそびれる。今日を逃したら、きっと明日だって言えない。こういうのは、最初が肝心なんだから。
 意を決して立ち上がった。こんな時間に起きたの、いつぶりだろう。血の巡りが良くないのか、やけに頭が揺れる。酔っ払いの千鳥足の方が、まだそれらしく歩けるのではないだろうか。ほとんどよろめくようにして、ドアノブに辿り着いた。
 そ、っと、扉を引き開ける。
「うっ」
 隣室は、正しく朝だった。
 白い光が満ちている。布の合間を縫って、朝日がフローリングに差し込んでいた。顔を上げていても眩しいし、床を見やっても目が眩む。ただでさえ揺れている頭が、締め付けられる心地がした。
 ここな明るいところに居たら、駄目になる。いや、駄目になることはない。なんせもう自分は駄目になっているのだから。むしろ、ここにいて日を浴びた方が健康には良いだろう。思えば、ここしばらく、日光を浴びた記憶がない。
 今日、こんな日くらいは、日光浴をしてみようか。
 目を細めながら、窓の方を見つめた。……無理だ、眺めていられない。ギュゥと瞼を閉じてから、ふいとそっぽを向いた。その勢いで窓に背を向ける。固く閉じていた目を細く開きつつ、のろりと足を踏み出した。明るい部屋を後にし、台所兼廊下を抜け、風呂場の扉の前も通り過ぎる。
 やっとL字の突き当たりに着いたところで、物音がする方を窺った。
「んー、」
 そこには、コートに包まれた背中がある。靴を引っ掛けたところらしい。つま先が、床を叩く音がした。右手は、前髪を撫でつけている。首はわずかに左側を向き、姿見を眺めながら、髪をちょいちょいと整えていた。
 ああ、良かった、間に合って。
 ほっと息を吐きながら、指先をコートの裾に引っかけた。
「えッ」
 途端、三ツ谷がこちらを振り返る。普段、とろりと垂れている目が、ぱっちりと大きく見開かれた。小ぶりな唇も、ぽかんと開いている。俺が起きてくるとは、露も思っていなかった顔だ。うん、よく起きれたなって、自分でも思うよ。
 寝室より、居間より冷えている空気を、引き攣るみたいにして吸い込んだ。
「……ぃってぁ、しゃぃ」
 寒いからか、それとも、朝一だからか。思った以上に、発した声は掠れてしまった。喉にも違和感が走る。舌先も、乾いているような気がした。口を開けて寝ていたのだろうか。裾を抓んでいた手を離して、喉の付け根を擦った。しかし、その程度でなくなる違和感ではない。一口だけでも、水を飲めば良かったかな。いや、そんなことをしていたら、三ツ谷は出かけてしまう。仕事に行ってしまう。
 それじゃあ、約束した「いってらっしゃい」を、言いそびれる。
「ぁ、え、っと」
 小さく開いていた口が、これまたかすかに動いた。唇が薄いせいもあって、震えているようにも見える。
 寒いのかな。俺は、寒い。寝て起きた格好そのままなせいもあるだろう。スエットの防寒性は優れているとは言い難い。それに、体格の都合、何を選んでも丈がちょっと短くなる。今着ているのも寸足らず。剥き出しの足首を、冷気が擽った。触らなくても、鳥肌が立ったとわかる。もそ、と、片方の素足を、もう一方のふくらはぎに擦りつけた。
「その」
 三ツ谷の口は、まだ、震えている。加えて、目も泳ぎ始めた。
 明らかに、動揺している。それほどまでに、俺が起きてくるのは想定外だったのか。どちらかというと、本当に「いってらっしゃい」と言われるなんて、思ってもみなかった、という顔だ。
「ぁ、」
 ぼんやり眺めているうちに、胸の真ん中が落ち着かなくなってくる。頭の中には「しまった」と「どうしよう」が蔓延り始めた。
 三ツ谷が昨日言った、あの台詞。もしかすると、言葉の綾だったのかもしれない。冗談の範疇で、何もできない俺を気遣った上での、言葉。それを、真に受けられたとなったら、困惑したって、不思議ではない。「いってらっしゃい」を、それなりの時間に起きて、居間だとかで顔を合わせたタイミングで伝えるならまだわかる。だが、わざわざ起きてきてまで、言うことか? 違う、よな。しかも、玄関にのこのこ出てきて言うとか、気色悪いにも、程がある。
 ちょっと考えたら、わかること。その見極めすら、できなくなっていたとは。そもそも、自分には鈍いところが多すぎるのだ。彼女の寂しさにだって、気付けなかったのだし。
 喉を擦る手を力ませたら、どうにかなるかな。
 つ、つつ、と、視線を下げながら、首に指を食い込ませた。
「~~ッあぁああ!」
「ッ!?」
 ―― その、瞬間だ。正面から大声が飛んで来る。
 ぎくりと肩が上がって、首から手が離れた。合わせて顔は持ち上がり、赤く染まった顔を捉える。目元も、頬も、鼻の頭も、すっかり真っ赤。髪の隙間から覗く耳まで、綺麗に色付いていた。
 なに、その顔。まるで、照れているみたいじゃないか。
「いッ」
 ぽかんとする間もなく、両肩、というか二の腕を掴まれた。手首も指も、俺より細い。なのに、やけに力強かった。なんなら、自分で首に与えた圧よりも強い。ちょっと痛いくらいだ。
「てきっ」
 呆気に取られているうちに、ぐらりと体が揺れる。いや、これは引き寄せられたというのが正しい。素足が半歩、前に出た。玄関のフローリングの縁、ギリギリのところに土踏まずが掛かる。
 そして、ふわり、布団の中で嗅いだ匂いが鼻孔を掠めた。
「ます!」
 耳元で、相変わらずの大声が響く。キンッ、耳鳴りがした。そのくせ、不快感はない。鼓膜の震える感覚が、やけに新鮮だった。
 三ツ谷の顔は、見えない。でも、声や息遣いは耳のすぐ横にある。顎の隣には、柔らかい毛先が擦れた。のろりと目線を動かすと、赤みを帯びた項が見える。
 自分は今、抱きしめられて、いる。
 それと、三ツ谷、「いってきます」って言った、よな。
「いってき、ます……」
 あ、言ったわ。先ほどの、途切れ途切れな発声と比べると、大分控えめな声量で、三ツ谷はもう一度言ってくれた。
「ぁ、っと……」
 理解が追い付いたところで、もたつきながら腕を浮かせた。自分より一回り小さい、けれど、温かい体。きゅ、腕を回せば、懐の熱が温度を上げる。あれほど寒かったはずなのに、今は、随分とあったかい。
 心地よさも相まって、ふわりとした髪に口元を埋めた。
―― いってらっしゃい」
 今度は、掠れずに声が出た。
「ッん!」
 聞き届けると同時に、そいつは弾けるように俺から離れる。こちらを見上げる顔は、相変わらず赤かった。でも、見るからに上機嫌。鼻歌すら聞こえてきそう。
 破顔したまま踵を返した三ツ谷は、意気揚々と玄関扉を開けた。出ていってしばらくは、軽やかな足音が、扉の向こうから聞こえてくる。
 言わなきゃ良かった。頭にこびりついていたソレが、ほろほろと落ちていく。
 言って、良かった。明日も、言おう。その前に、おかえりか。何時に帰ってくるかな。玄関扉の鍵を閉めてから、のろのろと来た道を戻る。風呂場の扉の前を過ぎて、台所兼廊下を抜け、真っ白な光で満ちた居間へ。
「ぅ」
 眩しい。
 光を真っ向から浴びた途端、どっと疲れが襲ってきた。今日は起きてようかと思ったけれど、布団に還りたくて仕方がない。三ツ谷が帰ってくるまでに起きれば、いいか。良いことにしよう。
 足を引きずりながら寝室の戸を開け、存在感あるベッドに潜り込んだ。