帰りたくない
「帰りたくない」
ぽつりと呟かれたそれに、顔を上げた。視線の先には、炬燵に入って突っ伏しているドラケンがいる。炬燵が好きなのはよおく知っていたが、まさか帰宅拒否をするまで気に入るとは。ぱちぱちと瞬きをしながら眺めていると、鈍い動きでそいつは俺の方を向いた。とはいえ、頬の片側は炬燵の天板にびったりと貼り付いている。おかげで、口の端の三分の一が歪に拉げていた。
「今日は三ツ谷堅になる」
「そんなに炬燵から出たくないの? ウチの子になったって、夜には炬燵から追い出すよ」
炬燵で寝るなんて言語同断。電気代だってかかるし、なにより風邪を引く。寝るのであれば、布団に行ってもらわなくては。妹たちに真似をされたら堪ったもんじゃない。
わざとため息を吐いて見せながら、ぽいと甘い香りのトリュフを口に放り込んだ。我ながら、上手く作れたと思う。ただの甘ったるい板チョコも、ちょっと手を加えてやればこの通り。ルナは意中の男の子に渡せたろうか。渡した勢いでデートするのは構わないが、できればスーパーのセールまでに帰ってきてほしい。今日は卵が安いのだ、俺とルナとマナとで三パックは買いたいところ。
「そういうことじゃなく」
「じゃあなんだよ。折角のバレンタインなんだし帰れって」
「だから嫌なんだよ……」
相変わらず、ドラケンは炬燵にしがみついたまま、ぐずぐずと文句をぼやいている。あ、腕が出てきた。指先は、チョコレートのかかったポテトチップスに伸びる。頭もわずかに持ち上がり、ざくりとその口がポテチを食んだ。飲み込む前に、指はもう一枚を摘まみ上げる。美味しいよな、それ。俺も好き。初めて八戒がウチに持ってきたときは「ポテチにチョコって、頭おかしいのか?」と思ったが、食べたらまったくそんなことなかった。ポテチの塩味とチョコの甘さは、合う。
「今年はあいつらから絶対貰わねえって決めたんだ」
「なんで? 去年までは、タダでおやつが貰えるって喜んでたじゃん」
「……その去年から、くそ面倒なことになって」
今度は、ドラケンの口から仰々しいため息が零れる。やがて、項垂れるポーズを取りながら頬杖をついた。構って欲しくて、わざとそういう態度を取っているわけでは、ない。たぶん違う。伏せた目の上にある眉は、ぎゅうっと中央に寄せられていた。今ドラケンの眉間に爪楊枝を持っていったら、挟めてしまいそう。この間、俺の睫毛に爪楊枝乗せられたし、やりかえしちゃおうかな。でも、今そんなことをしたら、流石のドラケンも怒るかな。
ムッとした顔を眺めながら、ひとまず「ふぅん」と相槌を打った。
「やけに、高級なチョコレート寄越してきたり」
「ゴディバとか?」
「ピエールマルコリーニとドゥバイヨル、サダハルアオキ、あとカンプリニ」
「なにその呪文」
「そういうの寄越す奴に限って、「お返しはカラダで」とか言い出して」
「うん?」
「マッサージの話かと思ったら、キスされるわ、させられるわ、夜這いまでしてきた奴いるし!」
「お、おお、た、大変だった、ね?」
「……帰りたくない」
奇妙なカタカナが飛び出したかと思うと、ドラケンの顔は悲壮一色に染まった。そういえば、去年の三月半ば頃、やけにげっそりした日があったっけ。どうしたんだと尋ねても「別に」の一点張り。結局、何があったのかわからないままだったが、まさか一年越しに答え合わせをする日が来ようとは。
いい相槌を閃けないまま口を濁していると、頬杖をついていたドラケンの腕は、しゅるしゅると炬燵の中に収まっていった。起き上がっていた頭も、再びぺたんと天板にくっついている。かえりたくない。かすれ気味のソレが、重ねて呟かれた。
「今日、泊まっていくくらいは構わねえけど、……結局明日渡されちゃうんじゃねえの?」
「それでも多少は減るだろ。今日揉まれるより絶対マシ」
「モテる男は大変だね」
「正道さんが全部断るからこうなったんだ……」
「はいはい、人のせいにしない」
慰めるように丸まった肩を叩いてやるが、ドラケンが動く気配はない。こういう、ちょっとみっともない姿を見せたら、お店での反応も変わるのではないだろうか。……助言しかけて、止めた。人間は、ギャップにも弱い生き物だ。ドラケンのこんなところ見せたら、逆に「可愛い」「お世話したい」「養いたい」と色めきだってもおかしくない。
そっけない言い方をしたけれど、俺だって「好きなだけ泊まっていけよ!」と叫びたいほどだ。叫ばないけれど。そんな必死な様、こいつに見せてたまるか。あまりにもダサすぎる。
ぽんぽん。にやけそうな口元を引き締めながら、もう一度ドラケンの肩を叩いてやった。
「んっしょ」
「あ」
すると、テレビの前にいたはずのマナが、俺の腕を持ち上げる。ちょうど肘のあたりを潜った末の妹は、抱えていたチロルチョコを炬燵の上にばらまいた。滑るように転がったうちの一つは、ドラケンの鼻先にもぶつかる。
ぎゅっと閉じていた両目が、わずかに開いた。
「これね、ドラケン君の分ね」
妹の小さな手は、ぶちまけたチロルを集め直し、ドラケンの前に積み上げていく。一個、二個、合わせて三個。積み木のように重ねたところで、「こっちはお兄ちゃんの分」と別の三個を積み上げる。二つの小さな塔が完成すると、ふふんと上機嫌に笑った。
「……なあに、マナちゃんのおやつなんじゃないの?」
「バレンタインだからね」
「ふ、そっか」
「三倍返しだよ!」
「おい、マナ、何言ってんだ」
「いーよ、チロルの三倍返しだったら喜んで」
笑顔を振りまく妹の頬をぷすりと突くと、ドラケンはのっそりと体を起こした。早速三個のうちの一個を口に放り込む。きゅむ、奥歯で噛み締めるのと同時に、大きな手の平は妹の頭を一つ撫でた。反抗期は、まだきていない。俺はもちろん、ドラケンに撫でられるのにだって、こいつは喜ぶ。キャッキャッと歓声をあげながらくるくるとその場で回ったあと、やっぱりキャッキャッとはしゃぎながらテレビの方へと走っていった。
「ったく。ドラケン、別にいいからね」
「そお? ミスドでも買ってこようかと思ったんだけど」
「嘘。買ってきて」
「現金」
「ミスドがあれば、一週間はルナの機嫌安定するからね」
「その日のうちに食えよ、ちゃんと」
「……三日くらいなら、ホラ」
大丈夫だよ。冷蔵庫にも入れとくし。ぼそぼそと付け足すと、調子を取り戻し始めたドラケンに小突かれた。それはそれとして、泊まっていくのは決まりだろう。ドラケンの着替え、どうしよう。身長差がついてしまったせいで、貸せる服の心当たりがない。夏物だったらオーバーサイズもあるけれど、いくらなんでも寒いよなあ。
トリュフチョコのタッパーに伸びる腕を眺めながら、タンスの中身を頭に浮かべた。
「ところでさ」
「んー?」
「三ツ谷はいらねえの」
「なにが?」
「俺からの、お返し」
ピントを、隣にいる男に定め直す。瞬き二回で焦点を合わせると、ちょうどドラケンの唇がトリュフを咥えたところだった。厚みのあるソコは、ココアの粉で汚れながらもチョコレートを飲み込む。間もなく、汚れた表面はチロリと舌で拭われた。
お返しされるようなもの、俺はこいつにくれてやったろうか。ああ、そういえば、今しがた食べたトリュフチョコは、俺が作ったんだった。といっても、コレはあまりだ。とりあえずタッパーに放りこんだ、約十個。自分も食べているし、今日のマナのおやつもこれ。もう一つ、ドラケンが口に放り込んでしまえば、あと三個になってしまった。
たったこの程度のチョコレートに、お返しだって?
「そうだなあ……」
いらねーよ、お返しなんて。そう言おうかとも思ったが、折角の申し出を断るのも勿体ない気がする。
ドラケンにしてほしいこと、か。なんだろう。ロイズのポテチチョコを摘みながら、くるりと思考を巡らせた。
ルナがまだ帰って来ないのなら、スーパーの特売に付き合って欲しい。ああいや、帰ってきても、ついて来てもらわないと。今日は味噌も買わないとならない。トイレットペーパーだって買っておきたいし。
それはお返しに入らない、って言うんなら、今度一日トルソーにでもなってもらおうか。この男に着せたい服は、山ほどある。その大半は俺の頭の中にしかないから、仕立てるところから始めないとならないのだけれど。
……案外、してほしいこと、あるな。そのどれもが、バレンタインのお返しらしくないというのが、難点。いっそ、コンビニの肉まんでも買ってもらおうか。うん、それがいちばん、妥当な気がしてきた。
「三ツ谷にだったら」
ふと、片耳からドラケンの声が入り込む。結論に辿り着く寸前の頭は、瞬く間に思考を止めた。空中を彷徨っていた視線も、勝手にドラケンの方へと引き寄せられる。
頬杖をついた男と、目が合った。
厚みのある唇が、きゅう、キレイな弧を、描く。
「―― カラダでもいいよ、俺」
柔らかく、頬が沈んだ。鼻腔に、チョコレートの甘さが掠める。頬を撫でられた、らしい。気付く頃には、切れ長の目がすぐそばに迫っている。近すぎて見えなくなった唇から、じゅわりと吐息が触れた。
このままじゃ、今に、唇が重なってしまう。
カッと、全身が火を噴いた。
「ぷッ」
「へ」
「ふ、っはは、あはは、すげー顔真っ赤!」
途端、ドラケンの顔が崩れる。緩む。まんまと、破顔した。何が、起きた。ついさっき滲み出ていた色気はどこへ行った。というか、これは、もしかして、からかわれたのか。お返しというのに、あまりに真剣に悩んだものだから、おちょくられた。そうとしか、思えない。
「~~ッからかったのかよ!」
「いや?」
「えッ」
あれ、からったのでは、ないのか。わな、口を震わせるようにして空気を食むと、ドラケンがクッと喉で笑うのが見えた。そんな笑い方をされると、やっぱりからかわれた気になってしまう。でも、違うって、何。どういうことだよ。おいこら、ドラケン。龍宮寺、堅。聞いてんのか。
俺の混乱を余所に、そいつはたっぷりの余裕を携えた表情で口を開く。
「流石に今日はやめとくけど、ホワイトデーには、ちゃぁんとお返しするから。そのつもりでいて」
「……えっ、なに、なにを」
「なんだろうね」
「何する気だよッ」
「何されたい?」
「な、なに、なにって、……なに?」
「んん? それはやっぱりさあ、」
ナニだろ。
眼前でニヤリと笑って見せながら、男は、実に流暢に、俺の鼻先に口付けを落とした。