途中経過
正直、納期に間に合わせた後のことは、よく覚えてない。
どうにか家には帰り着いたんだろう。小窓から差し込む朝日で、目が覚める。ぼんやりとした意識の中、玄関の床板を捉えた。
「生きてる?」
聞き覚えのある声に、首を捻る。
目線の先には、男が居た。幻覚だろうか。目に力を入れてみるが、その男の影はいなくなりそうにない。何度瞬きしても、しゃがみながら頬杖をしているそいつが見えた。
なんでドラケンがここにいるんだろう。考えはするが、しっくりくる答えは閃けない。
目一杯、眉間に皺を寄せながら、ぎゅうと目を瞑る。たちまち視界が歪な鈍色に包まれた。力を入れているからか、眼球の奥がツキツキと痛む。いや、目を瞑っているせいじゃあないな、これは不摂生のせいだ。寝不足だし、疲労も溜まっている中、脳みそを酷使し続けたんだ。ついでに、食事を疎かにした自覚もある。自業自得の頭痛といえよう。
薄く、瞼の縁に隙間を作った。
「……ン」
「ならヨシ。とりあえずベッドいくぞ」
どうにか頷くと、そいつはおもむろにオレの頭を撫でた。かき混ぜるような荒っぽさはない。髪の上から丁寧に触れて、するりと額、両目の方へと滑らせてきた。大きな手の平から、高めの体温が伝わってくる。じんわりとした熱が、目に沁みた。我儘を言うと、もっと熱い方がいい。蒸しタオル、被りたいな。レンジでチンして、火傷しない程度の温度にした蒸しタオル。それを被りたい。思うと同時に、非情にも熱は遠ざかってしまった。おい、どうして、もっと目、労われよ。
「んんん」
「はいはい、抱っこすっからじっとしてろよ」
「んん゛!」
「だからじっとしてろって」
言い返そうにも、唇は引き結ばれたまま。上手く動かない。舌も歯の裏側に押し付けるのがせいぜいで、さっぱり回ってくれなかった。
「よ、っと」
「んン゛ッ、ン」
呻いていると、ドッと浮遊感が襲ってくる。なに、なんで、どこかに落ちるのか。この部屋は一階だ、どこにも落ちるはずがない。なのに、地上数百メートルから突き落とされる気がして、そばにある熱にしがみついた。ぐしゃりと歪んだのは、綿一〇〇パーセントの天竺編み。ム、この手触り、嫌いじゃない。つい、ぐずぐずと頬を寄せてしまう。
「ふ、猫みてえ」
「ンヴゥウ」
馬鹿にされたような気がする。顔をほとんど布地に埋めつつ、抗議しようと唸りを上げた。本当は目を開けて、ガン飛ばしてやりたいところ。だが、己の上と下の瞼はピッタリとくっついて離れそうにない。ぐらぐらと揺れる心地を味わいながら、ヴーヴーと悪態を綿に吸わせた。
呻くとその分、体から空気が出ていく。失ったそれらを補おうと息を吸うと、そばの布地から石鹸のような匂いがした。風呂上りみたいな、清潔感のある匂い。それでいて、ちょっと甘さを孕んでいる。この手触りで、この匂い。悪くない。むしろ、良い。ズッ、半ば鼻を啜るようにその匂いを吸い込んだ。
「なに嗅いでんだよ」
「ぅ」
「う、じゃなく。ほら、おろすぞー」
「ン」
「いやおりろって。抱っこされんの、ヤだったんじゃねえの?」
いつの間にか、浮遊感は失せている。引っ張られた足先から靴下が脱げていった。剥き出しになった指に、ツン、タオル地が触れる。これも綿一〇〇パーセント。ということは、お値段以上の謳い文句で買ったタオルケットだ。くっついている瞼を、一ミリだけ開いてみた。……足先の綿より、眼前の綿が良い。だって、良い匂いがするから。そうこうしているうちに、足だけでなく腰までもがマットレスに転がされてしまう。
やだやだ、こっちがいいんだってば!
意地になってそばの布地を握った。開けたばかりの目もぎゅうと瞑り、ぐっと鼻先を押し付ける。いつの間にか肩も上がって、頑なに体温にしがみついていた。
「……みつや、」
「ぅ」
すぐに、頭の上の方からため息が降ってくる。その吐息と一緒に呼ばれてしまった。呆れた声色。それでいて、この男が纏っている匂いと似た甘さを孕んだ声だ。
ぴく、怒っている肩が震えた。やだ、ったら、やだ。指先が力む。つられるように、触り心地の良い綿がちょっと伸びた。伸びるのは、良く、ない。三秒ばかり追加で呻いてから、渋々握る力を緩めた。
目元だけ、布地から持ち上げる。やむなく瞼を持ち上げると、無駄に長い睫毛に目やにが引っかかった。ぱりぱりとした違和感を訴えてくる。緩慢に瞬きを繰り返してみるが、その程度で違和感は消え去らない。擦らないと、直らないらしい。でも、手は離したくない。埋めているところにある口が、ヘの字に歪んでいった。
「ったく、」
「ぅ」
ふと、無骨な指先が伸びてくる。反射的に目を瞑ると、カサついた皮膚に目尻を撫でられた。たちまち、引っかかっていた違和感が消え去る。改めて、目を開けると、いくらか視界がスッキリした。……その、中央にいるのは、ドラケン。何度瞬きしても、ドラケンが映りこんだ。玄関で目の当たりにしたのは、本当に幻覚じゃなかったらしい。
でも、流石に、匂いや声に勝るとも劣らない、甘い顔に見えるのは、錯覚、だよな?
「いいこだから」
目やにを取ってくれた手が、柔く頭に乗る。後ろから前にするりと滑ってきて、骨ばった指先が前髪を掬う。べたついた髪は、掻き上げるみたいに後ろに流された。決して温かくはない空気が額に触れる。エアコン、入れなきゃ。いや、布団に入ってしまうなら、つけなくてもいいか。
男の顔に魅入っていると、ぽてり、あんなに頑なだった両手がベッドに落ちた。あっ。か細く声を漏らしながら、握っていたせいでできた皺を捉える。折角良い手触りだったのに、あんなに伸びてしまった。どうしよう。背中に肩、後頭部と下ろされながら、漠然とした不安が胸を過る。ぎゅ、眉根を、寄せた。
「うん。えらいえらい、いいこいいこ」
まろい声がじゅわりと鼓膜を蕩けさせる。伸びてきた指先は、皺を刻んだ眉間を柔く揉んだ。チリッ、むず痒い感覚に襲われる。くすぐったさに顔のパーツというパーツを真ん中に寄せた。
……さぞ、不細工な表情をしたのだろう。すぐに頭上から噴き出す音がする。
「っはは、なんだよその顔、―― かあいいな、」
「ぇ」
固く瞑っていた目を、微かに開けた。
抱きかかえられていた時より、もっと近い距離に、焦がれた男の顔が見える。カッ、瞬く間に血が昇って来た。なに、なんだよ、びっくりするだろう。込み上げてきた羞恥で結局目を瞑ってしまう。
途端、額に、ふにり。あたたかいものが触れた。
「へ」
擦れた熱はすぐに遠ざかる。あわせて、隣にある気配も離れていった。恐る恐る片目だけ開けると、奥の台所に歩いていくのが見える。耳を澄ますと、戸棚の開く音だとか、水の流れる音がした。シンクを叩く水音が途切れると、今度はレンジの音。じっと縮こまって様子を窺う。
「~~っち!」
「ッ!」
ドラケンの、慌てたような声に鼓動が逸る。頭が働かないせいで、状況を掴めないのに焦燥感だけが押し寄せてきた。それとも、何が起きているかわからないから、ハラハラしてしまうのか? 緩く伸ばしていた脚を、折りたたむように引き寄せた。胎児を思わせる格好で蹲ると、少しだけ煩わしさが和らいだような気になる。ほっと息を吐いて、瞬きついでに目を閉じた。
「ワ、なに小さくなってんだよ」
「ウ」
「仰向けなれる? ほら、ごろーんって」
「ェ、あッ、ぁア」
落ち着いたそばから、体を転がされる。足は変に曲げたまま、上半身だけ天井を向いた。ベッド横の窓は南東を向いている。いつの間にカーテンを開けられたのだろう、ザクリと日差しが突き刺さって来た。目が眩む。溜まった眼精疲労に、この光は辛すぎる。勝手に顔がくちゃくちゃに歪んでいった。
「ア゜」
「ふ、その声、どっから出てんの?」
もうダメ。
思うと同時に、目元が熱で覆われる。合わせて、突き刺さって来た日差しも途絶えた。
「ァア」
熱が、沁みる。じゅわじゅわと蒸気が眼窩に染み込んできた。半開きになった口からは、アやらウやらの母音が嘆息と一緒に漏れていく。
蒸しタオルだ。目の奥の痛みが和らぐと、頭も冴えてきた。さっきのレンジの音、それから水の流れる音は、この蒸しタオルを作っている音だったのか。たったそれだけのことすら理解できないほど、自分は寝ぼけていたらしい。過労と不摂生のせいでもある。
また、働きすぎた。もう二度と、あんな納期の仕事、引き受けるもんか。
「あぁあ~……」
「きもちい?」
「ん、」
大分理性は戻ってきたが、まだ口から言葉を発する域には辿り着かない。
両手を、濡れタオルの上から被せた。わずかに圧を掛けると、穏やかになってきたぬくもりが目の奥に伝わる。その微かな熱すらも冷めたところで、目元を拭うようにタオルを退けた。あれほど痛かった光を浴びても、もう、何ともない。何度か瞬きをすれば、頑固に持ち上がらなかった瞼もぱちりと開いた。
視界の端には、相変わらず穏やかな顔をする男がいる。
「どらけん、」
「おう」
「なんでいんの?」
尋ねかけつつ、曲がっている関節を全て伸ばす。ベッドに寝ころんだままグと伸びをすれば、たちまち肩が背中がミシミシと軋んだ。そろそろ、整体の世話になるべきだろうか。整体よりも、整骨院が良いんだっけ。健康保険、使えるのかな。凝り固まった全身に血を巡らせたところで、じ、ベッドに腰掛ける男を見つめた。
幻覚ではない。甘い顔つきも、錯覚じゃあない。確かに、ドラケンはそこにいる。なぜか、オレの家に、いる。寝返りを打ちながらもじぃと視線を向けていると、ようやく切れ長な目が瞬いた。
「三ツ谷が電話してきたんじゃん」
「エ」
「あれ、無意識? まあ、全然呂律回ってなかったもんな」
くつくつ笑いながら、ドラケンの手はオレから濡れタオルを掠めていった。ぱたんと折り目から裏表を返したかと思うと、小鼻や口元を拭われる。そういえば、風呂に入っていない。忙しくて、それどころじゃなかった。何時頃だったか、眠気覚ましに冷水で顔を洗ったのは覚えているが、髭までは剃っていない。ぺたり、手の平で顔の下半分を覆えば、案の定ちくちくと嫌な感触が伝ってきた。
「でんわ」
「そ、電話。覚えてない?」
「……チョット、オボエテル」
「はは、片言!」
左手も連れてきて、べちん、顔全体を覆い隠した。穴があったら入りたい。でも、そんな都合の良いもの、ココにはないから、顔を隠すしかなかった。
糸を手繰り寄せるように、記憶が呼び起こされていく。確かに、どこかに電話をした覚えがある。どこか、じゃないな。事実、ココにドラケンがいるのだ。コイツに電話をしたのは間違いない。よりにもよって、何でドラケンに電話したのやら。いくら考えたところで、理由はさっぱり思い出せない。着歴の一番上にでもあったのだろうか。……どう、だろう。私用のスマホは、契約更新の話で、先週ぺーやんから着信があって、折り返したのが最後だったと記憶している。
本当に、何故自分はドラケンに電話を掛けたんだ。なんで、どうして。たくさんの疑問詞が、脳みその中を駆け抜ける。
「鍵どうすっかなって思ったら開いてるし、覗いたら覗いたでオマエ靴も脱がずに寝てんだもん。どうしようかと思った」
「……メンボクナイ」
「いーよ、面白いとこ見れたから」
指に隙間を作って見上げると、相変わらずドラケンはくつくつと喉で笑っていた。ベッドに腰掛けて、自分の脚の上で頬杖をついている。その口元にはにんまりと三日月が浮かんでいた。愉快で仕方がない。そんな顔をしている。
ぴしゃっと、指の隙間を閉じた。ニヤニヤとされるのは癪だが、ドラケンで良かったということにしよう。もしぺーやんだったら、写真を撮られて晒し者になっていたのは間違いない。
「どらけん」
「んー?」
「ごめん、メーワク、かけた」
「迷惑なんて」
「それと」
もう一度、指の間に隙間を作る。
「ありがとう、助かった」
小声だが、向こうの耳には届いたろう。なんせテレビもラジオもパソコンもついていない。鉄筋コンクリート造のこの建物は、防音にも優れている。邪魔になるような隣室の生活音も聞こえてはこなかった。
わずかに、ドラケンは目を見開いたろうか。それ以外の反応が、ない。なんか言えよ。思いはするが、そこまで口にするのは気恥ずかしくもある。ぴしゃり。また、指の隙間を閉じた。
「……いいって。オマエに甘えられるの、悪い気はしねえし」
すぐに、穏やかな声が聞こえてくる。
見ていなくても、甘ったるい顔をしているのがわかった。眉間に漂ったムズ痒さが、今度は全身へと広がっていく。黙って横になっていられなくて、ごろんと寝返りを打つ。それでもむずむずと落ち着かない。大声で叫んで、走り出したくなってきた。そんなことする体力、残ってないってのに。
気付くと、口が開いていた。
「あ、のさあ、さっきから、なんでそんな、機嫌、いいの」
ごろん。再び体を転がしながら、一思いに起き上がる。かといって、情けない面をあまり晒したくもない。胡坐を掻きつつも、両手で口元は覆い隠しておいた。
「……あざと」
「うるせえ」
「オマエってほんと昔からさあ、カッコいいけどカワイイよな」
「よく言う。カッコいいなんて思ったことないだろ」
「ちゃんとあるって。まあ、カワイイって思うことのが多いけど」
「……ほんと物好きだよね」
「両手をグーにして口元隠すのが様になるんだぜ? そりゃカワイイって思うだろ」
「ヴ」
「パーにしても変わんねえぞ」
「ヴうッ」
じゃあチョキにでもしてやろうか。血迷ったところで、隠すのは諦めた。そろ、そろり、と両手を下げる。こんな不格好なところ、見られたくない。……今更な羞恥だ。玄関で伸びているところは見られたし、電話口でべろべろに情けないコトを吐いたのだって想像に容易い。
そういえば、喧嘩を覚えてすぐの頃も、怪我の手当てをされるのに抵抗があった。喧嘩が強くて、大人びて見えるドラケンに、弱いと思われたくなくて必死だったっけ。
いつか、過労でくたくたになるところを見せるのも、平気になるんだろうか。何年後かに現実になるとして、今、居心地が悪いことに違いはない。わずかに下唇を噛んで、ふいと視線を泳がせた。
「ほんと、」
「……?」
「いつまでオレのコト、いちばんに頼ってくれんだろうな」
柔い声が、鼓膜を擽る。引き寄せられるように振り向くと、丁度そのタイミングで頭に手が乗った。無骨な印象のある手の平は、ぽんぽんと軽く叩いてから、髪を梳かすようにこめかみの方へ滑る。
日の目を浴びたのは、数か月ばかり。伸ばせと言われるままに、何年も眠りについている龍が、そこにはいる。
あれからずっと、コイツの背中を追っかけてきた。進む道を違えても、抱いた敬意と憧憬は薄れることなく自分の中に息づいている。最も多感な時期に覚えた感情だ、そう簡単に、覆るモンじゃない。
「ドラケンは、―― いつだってオレのいちばんだよ」
これまでも、この先も、ずっとそう。
ぼそぼそと付け加えると、こめかみに触れている手が止まった。固まった、と言った方が相応しいだろうか。視界の先にいるドラケンは呆けた顔つきになっていた。目を瞠ることはあっても、こんな風に口を半開きにするのは珍しい。この顔を見れたのなら、みっともない姿を晒した甲斐があったと思わないでもない。……それはそれ、これはこれ、だな。不摂生を極めた我が身を見られるのは、やっぱり恥ずかしい。
ム、唇を尖らせながら、顔を背けた。
背けようと、した。
「三ツ谷、」
ベッドの軋む音がする。こめかみにあったはずの手は、思わせぶりに頬を過ぎ、顎を掬った。
「ぇ」
気付くと距離は狭まり、こつんと額がぶつかる。鼻先が擦れたかと思うと、不摂生で荒れた唇に心地の良い体温が触れた。一拍遅れて、清潔感と甘さが香る。
「ありがと」
「ど、ぅ、いたしまし、て?」
眼前の双眸が、優しく細められる。おまけと言わんばかりにチュッと啄んでから、そいつはベッドから立ち上がった。腹減ったろ・何食べる・うどんでいい? 掛けられた言葉を理解できないまま、こっくんと頷く。
「え」
よろり、右手人差し指を口元に伸ばした。ぺとり、その指先を、下唇に押し当てる。かさ、り。荒れたソコは、薄皮がささくれ立っていた。
今、自分は、あの男に何をされた?
―― キス、された。
「えッ!?」
慌てて声を上げる頃には、ドラケンはもういつもの得意げな顔でカラカラと笑っていた。