はじめ
生まれて初めてかもしれない。
大した理由もなく、人を、殴ったのは。
「あー……」
畳敷きの居間に、大の字になって寝転がる。放り投げた腕の先、手の、指の関節のところがヒリヒリと痛んだ。帰ってきて早々に洗いはした。だから、次は消毒しなきゃ。そのつもりで救急箱を引っ張り出したのに、どうも開ける気になれない。それどころか、体の怠さに負けて、寝転がってしまった。やらなきゃと思いはすれども、なかなか体を起こせない。痛みを訴える指先に意識を引かれつつ、とろとろと瞼が落ちてきた。寝そう。寝てしまおうか。でもなあ、救急箱広げたままじゃ、妹が帰ってきたとき困る。
閉じたままにしたい瞼を、どうにか持ち上げた。
「便所さんきゅー」
「……おぅ」
すぐに廊下の方から声がする。首だけを持ち上げると、トイレから出てきたドラケンが見えた。
ついさっきまで、オレと一緒に殴る・蹴るの大立ち回りをして見せたそいつ。よく喧嘩をするとは聞いていたが、あれほど強いとは知らなかった。こっちは何度も転ばされたし、顔だって打たれたってのに、ドラケンは無傷。傷らしい傷と言えば、殴った拍子についた拳の擦り傷くらいのモン。
疲れた顔一つしないのを見ていると、ちょっと惨めになってきた。その気分に引きずられて、もごもごと唇が波打つ。弱音を、吐いてしまいそう。……それは、ダメだ。ぎゅっと一度強く目を瞑ってから、一思いに上体を起こした。
「疲れた?」
「ぅ」
ほとんど同時に、ドラケンはオレの隣に胡坐を掻く。洗って綺麗になった手は、真っ直ぐに救急箱に伸びた。迷うことなく消毒液のボトルと、ガーゼ、軟膏、それに絆創膏と取り出していく。
そんな腕を辿るようにして、改めてドラケンの顔を見やった。
最近、髪が伸びてきて、モヒカンの毛先を片側に流している。曝け出された方には、すっかり見慣れた龍の刺青。カッコいいなあ、この髪型。伸ばせって、言われなかったら、オレもこういう髪にしたかった。
ム、と口を尖らせつつ、舌先は強がった言葉を選び取る。
「そんなことねーし!」
「そんなことあるだろ、ぐったりしちゃってさ」
「うるせぇなぁ……」
肘で小突いてみるが、ドラケンはくつくつと笑うばかり。手元では消毒液の青いキャップを開けていた。重なったガーゼに、じわりと消毒液を染みこませている。
やけに手慣れて見えるのは、気のせいだろうか。ぼぉーっと見つめているうちに、右手をそっと取られた。血が止まったばかりの傷口に、とん、とん、ガーゼが優しく触れる。少し、沁みる。そのせいで、ガーゼが触れるたびに腕がびくんと震えた。
「沁みる?」
「へい、き」
「すぐ終わるから、我慢な」
「ン」
一つ頷くと、ドラケンは唇を閉じた。ぴたりとくっついたそこは、開きそうにない。じゃあ、こっちが喋ろうかと口を開いてみたが、すぐにジンッと傷口が沁みる。まずい、声が、裏返る。ダサいところ、これ以上見せたくはない。開いた口は、すぐにぎゅうと引き結んだ。
静かになると、時計の秒針の音が耳につく。なんとなく見下ろした先では、骨ばった見た目をしている手が丁寧に動いていた。自分のひょろい腕と比べると、大人びて見える。眺めていると、なぜか口の中に唾が滲んできた。
どうしてだろう。疑問に思いつつこっそり飲み下す。すると今度は、バクバクと脈打つ心臓の音が耳に留まった。
自分は手当てされているだけ。なのに、どうしてこんなにも緊張しているんだろう。気を紛らわせたくて、結局閉じたばかりの唇を抉じ開けた。変な声、出ないように、しないと。喉と舌を、少しだけ力ませた。
「……ドラケンって」
「んー?」
「いつもあんなのに絡まれてんの?」
大丈夫、いつもどおり、話せている。相変わらず、胸の奥では心臓が早鐘を打っているが、落ち着いたトーンで喋れたと思う。
ガーゼは腕から手の甲へと移動している。ちょうど関節のところ、殴ったせいで裂けた皮膚に、ちょん、濡れた感触がした。押し付けたままには、されない。ガーゼが離れていき、ドラケンの顔がゆっくりとこちらを向いた。平坦な色をした目と、視線が重なる。
こくり、無意識のうちに、また唾を飲み込んでいた。
「まあ、それなりに?」
「へえ」
そいつの口角、髪の毛先が流れている側だけが、クと持ち上がった。得意げな、顔。怪我一つないだけある。
本当に、カッコいいなあ、コイツ。浮かんだ言葉がそのまま口からまろびでる前に、そっと俯いて下唇を噛んでおいた。
「ちなみに、三ツ谷はさあ」
「なに」
目を合わせないまま、そっけない返事をする。うらうらとお互いの膝の辺りを眺めた。垂れた前髪が邪魔だけど、掻き上げたらドラケンの顔が見えてしまう。そうなったときに、「カッケー」というぼやきを堪えられるとは限らない。
ぺた、り。肘のところに、絆創膏を貼られた。
「ハジメテ、だったろ」
「は」
「喧嘩すんの」
「そ、れくらいっ。……したことあるし」
「はは、言い方悪かったワ。ああいう、殴るのだけが目的みたいなやつだよ」
咄嗟に、顔を上げてしまう。きっと、図星と言わんばかりの顔をしていたんだろう。目が合うなり、ドラケンはふはっと破顔した。
そいつの指先には、薄く軟膏が乗っている。治るのに時間がかかりそうな傷口に、人差し指が伸びてきた。触れる手付きは、ガーゼのときよりも、丁寧。
「……ハジメテ、です」
「なんだよ、ですって」
「だってっ」
「誰にだってハジメテはあるだろ」
「……そう、かも、だけど」
「で、どうだった、ハジメテの喧嘩。怖かった?」
「んん、それは、あんまり」
「マジ? すげえじゃん」
「まあ、ドラケンと一緒だったし。でも、代わりに……、なんかその」
「ん~、……疲れた?」
「……ぅん」
ゆったりと笑いながら、ドラケンは手当てを続ける。これは本当に、あのチンピラ染みた中学生に啖呵を切った奴なのか。連中を派手に殴り飛ばした奴なんだろうか。ギャップに頭がクラクラしてくる。思うように考えを巡らせられなくて、つい素直な受け答えばかりしてしまった。
なんだか、カッコ悪い。自分がダサくて、ため息が出てきそう。
「ドラケンといると、オレ、ハジメテばっかりだ」
きそう、じゃないや。ぼったりと息を吐いてしまった。ただでさえなだらかな肩が、いっそうがくんと下がる。
「それ言ったら、」
「ぇ」
と、右手をやんわりと掴まれる。
窺うように目線だけ持ち上げると、やっぱりドラケンは唇の片側だけで笑っていた。でも、先程と違って、得意そうには見えない。涼し気なつり眉が、ちょっとだけ、下がっているからだろうか。
「オレだって、三ツ谷といるとハジメテばっかりだよ」
「はあ? ンなわけないじゃん」
「マジマジ」
ゆったりと喋りながら、ドラケンはオレの右手、指に触れる。きゅむ、ぎゅむ、手遊びでも始めるかのように、唯一傷のないソコを握った。
痛くはない。そのはずなのに、カッカと指先が熱を持った。触れられていない左手も熱くなってくるし、目元や頬、耳のあたりも同じようにカッカと火照る。あれ、もしかしてこれ、顔赤くなってるんじゃ。
「人のコト、手当てしなきゃって思ったの、今日がハジメテだもん」
三ツ谷、結構大胆だよね、喧嘩もすぐに強くなるよ。
続けて発せられた言葉に、意識を向けるべきなんだろう。あれほど喧嘩が強い奴に、「喧嘩が強くなる」とお墨付きを貰ったのだ。不良になるという宣言だってしたんだから、喧嘩が強くなるに越したことはない。じゃあ、オレがんばるね。そう、返せば、ドラケンは誇らしげに笑ってくれた、はず。
「……ばかに、してる?」
「は?」
しかし、ろくに回っていない頭は、先に告げられた方ばかり気にしてしまう。
手当てしなきゃって思われるって、それくらい雑魚に見えたってこと? どうしようもなく弱かったって? にもかかわらず、ドラケンの隣に立っているなんて、おこがましいにも程がある。恥ずかしいったら、もう。
「弱っちいって、ばかにしてるだろ」
「してねーよ」
「してる!」
「だからしてないって。ほら次、左手。あ、そういや顔にもイイの貰ってたよな、腫れる前に冷やさねえと」
「舐めときゃ治るッ!」
「残念ながら治りませーん。いいから、な?」
「うぅう」
わたわたと足掻いたものの、あっという間に左手は捕まった。振り払おうにも、ガッチリと掴まれていて無駄な抵抗に終わってしまう。すぐに、新たに消毒液を染みこませたガーゼが傷口に触れた。
「ッア」
身構えていなかったのもあって、変な声が出る。しかも、体がびくんと揺れた。ダサい。あまりにもダサすぎる。ただでさえ喧嘩慣れしてなくて散々だったってのに、手当てでも悲鳴をあげてしまうなんて。ここで俯いたら、いよいよ救いようがないのでは?
下唇を噛みしめて、キッとドラケンのことを睨んだ。……たちまち、むにゃりとそいつの唇が歪む。波打つ。喜色が、滲む。
クソッ、面白がりやがって!
「ンなふくれっ面すんなって、折角のカッコいい顔台無しだぞ」
「思ってもないくせに……」
「あ、バレた? ぶっちゃけ、カッコいいよりカワイイなんだよなあ、オマエ」
「そういうこと言ってんじゃねえよッ、つーかカワッ、カワイイってなに、ぃッ、ア」
「あーもー、じっとしてろって」
とん。ガーゼが触れるのに合わせて、消毒液がピリッと沁みる。大人しくしていれば、変に強くガーゼがぶつかることはない。わかっていても、聞き捨てならない言葉に体が跳ねた。そして再び口から上ずった声が飛び出す。その繰り返し。
「正直サ」
「なにッ」
消毒が終われば、今度は軟膏。ドラケンの指先は、するすると腕を這う。
癖になってしまったのか、大して痛くもないのに、触れられるたび肩が上下した。声は大分呑み込めるようになってきたけれど、たまに鼻を抜ける音が漏れてしまう。こんな情けない音が自分の体から出ているなんて。目元だけじゃもう済まない、顔全体が、カッカと熱を持っていた。
早く終われ。終わってくれ。
イーッと顔を顰めると、こっちの気も知らないでドラケンはくしゃっとした笑みを浮かべる。
「三ツ谷に喧嘩させたくなかったんだよね」
「はぁ? それは、なに、弱いから、ってこと?」
「んー」
爪の切り揃えられた指先は、絆創膏の封を切る。指先に巻きつけるのより大判のソレは、肘にできた大きな擦り傷を覆っていった。
「―― まだオレが、いちばんでいたいから、かな」
いちばん、とは。
あれ、なんかドラケン、諦めたみたいな、顔、してる?
ぱちんと瞬きすると同時に、剥離紙が取れる。絆創膏の粘着面は、端まできちっと皮膚にくっついた。
「それ、どういう、」
「オレより強い奴なんかゴロゴロいるってこと。よし、腕終わり!」
「ぅイッたっ……、ォイ急に叩くなよ!」
しれっと返ってきた言葉を反芻する前に、バチンと肘を叩かれる。沁みるのとも異なる痛みが襲ってきて、一際大きく体が揺れた。丁寧にやるなら、最後の最後まで貫けよ。
じんじんとする肘を庇う頃には、そいつはもういつもの得意げな顔でカラカラと笑っていた。