シャツ越しの不埒
女体化
ブラジャーをつけはじめたのは、小学校高学年頃から。胸部だけを覆う布には、違和感しかなかった。ほとんど平らなのに、どうして付けなければならないんだろう。思いはすれども、周りの女の子はみんなソレを付け始める。ため息を吐いて、白いそれを被るようになった。
あれから、数年。制服のスカートには慣れたけれど、この胸を締め付ける下着のことは、まだ疎ましく思っている。
「っはあ」
家に帰ると同時に、背中のホックを外した。たったそれだけで、わずかな膨らみの下が楽になる。それから肩も。つけ始めた頃と違って、いくらかおっぱいらしくなってきたろうか。丁度生理が始まったのもあって、なんだか張っているような気もする。シャツ越しに指を押し当てると、思った通りにじんわりと痛かった。今日、集会が無くて良かった。特服を着る時は、いつだってサラシ。あれもあれで苦しいんだよなあ。でも、特服ならサラシがいちばんカッコイイ。オシャレはガマンって、きっとこのことだ。
妹の迎えまで、まだ時間はある。昨日は夜更かししたし、ちょっと寝ようかな。手早く部屋着―― ただのTシャツとハーフパンツだ。ジェラピケのルームウェアじゃない。いずれ新品で買ってやるからな―― に着替えて、ぽすんと畳んだ布団に突っ伏した。敷いた上に寝たら、起きれない自信があるからこれでいい。それに、生理が漏れるのもイヤ。
もそもそと身じろぎしつつ、いい塩梅の角度を探す。
ん、まあ、このへんでいいか。瞼を閉じると、とろとろと睡魔が覆いかぶさってきた。
歪なチャイムが聞こえた。
微睡んだ意識の上を、その不快な音が滑っていく。聞きたくなくて、顔を枕に押し付けた。けれど、またすぐにキン・カンなんてチャイムが鳴る。ああもう、うるさいな。
ダメ押しで鳴らされた三回目に、ガバリと体を起こした。
「ぁ、むかえ……」
覚醒に向かい出した意識は、真っ先に妹のことを思い出す。涎の垂れた口元を拭いながら、ぐるんと壁掛け時計の方を振り返った。……なんだ、まだ大丈夫じゃないか。今から保育園に行っても、延長にはならない。だらだら歩いていっても、余裕なくらい。もお、びっくりさせんな。
ぼすん、もう一度布団に突っ伏した。
キンッ、カーンッ。不快音が、家の中に響き渡る。
そうだった、この音に起こされたんだった。誰だろう。回覧板? だったら、ポストに捻じ込んで終わるはず。じゃあ、宅配業者? 届く予定なんて、聞いていないけれど。まあ、うちの母親、突然通販するしな。普段は節約志向なくせに、カッとなって調理器具を買うことがある。使わない鍋ばっか増やしてどうすんだか。どうせなら、電子レンジを買い替えて欲しい。
仕方なく立ち上がると、腹の奥からどろりと経血が落ちてきた。この感触、いつまで経っても慣れる気がしない。まったく、どうにかなってほしいことばかりだ。ムッと顔を顰めたまま、薄暗い廊下を進む。ア、鍵開けっぱなしじゃん。やばいやばい、変質者が入って来なくて良かった。
「はーぁい」
ドアノブを掴むのとほとんど同時に、ガッと玄関扉を押し開けた。
「ッ!」
「あ」
勢いを付けすぎたからか、扉の向こうにある体がビクンと揺れる。それに合わせて、そいつが羽織っているカーディガンの裾がはたりと踊った。アーガイル柄、とは言えない、格子柄。黒と白の布地を辿って行けば、見慣れた顔が目を見開いていた。
「ド、ラケンじゃん」
つい、どもった。だって、宅配業者でも、大家のおばちゃんでもなかったから。
蝶番の許すぎりぎりまで玄関扉を押し開けつつ、空いた手でそれとなく髪を整える。寝癖、ついてないよね。ア、涎の跡も、ないといい。目やにも、大丈夫だと思うけれど。忙しなく左腕を動かしてみるが、鏡がない以上、確かめようがない。この家を出る時には、絶対に玄関に姿見がついている部屋にしよう。今、決めた。
気付かれないように唾を飲み込みつつ、正面の男を見上げた。出会った時から自分より大きかったが、いっそう身長差はついている。向こうはもう一八〇センチはあるだろう。それに比べて自分ときたら。背筋伸ばして、胸張って、一六〇はあると誤魔化している。あれ、三ツ谷ってこんな小さかったっけ? そう言われたくなくて、つい、今日も同じように姿勢を正した。
「……ッ、」
「どしたの、なんか、アレ、約束してたっけ」
「やくそく……」
なんでもない素振りをしながら、首を傾げて見せる。すると、なぜか、ドラケンの目がツツツと逸れた。マズいこと、したろうか。いや、どっちかというとこれは、ドラケンがやらかした、って顔付き。
「この」
「うん?」
「……この時間なら、家に、いるって、言ってたから、その。コレ」
目を逸らしたまま、ドラケンはぽつぽつと喋る。歯切れの悪い喋り方をするとは、珍しい。
首を傾げたまま呆けていると、恐る恐るといった様相で、提げていた紙袋を差し出された。取っ手の紐が、ピンと張っている。流されるままに受け取ると、見た目以上にずっしりとしていた。
「なに、特服……、そういやほつれたって言ってたっけ」
「ん。あと、雑誌。バックナンバーだけど」
「あ! 頼んでたやつ!」
「ン」
覗き込むとそこには黒い布地。どうにか取り出すと、雑に畳まれた特服が入っていた。袖の刺繍の副総長の字が、歪になっている。そうだそうだ、ほつれてきたから直してくれないかと頼まれていたんだった。糸を手繰り寄せるように記憶が呼び起こされていく。いつ渡せば良いかと聞かれて、集会のない日の、平日この時間を指定した。家にいるからと。昼寝してるかもしれないから、出てくるまでチャイムを押してくれと。なるほど、チャイムをかき鳴らされるとああなるのか。次は、違う呼び出し方を指定しよう。かといって、八戒みたいな大声、ドラケンは嫌がりそうだしなあ。変なとこで、常識的だし。
ふんふんと頷きつつ、布の間に挟まる雑誌の背表紙を確かめる。ドラケンのとこの店のお姉さんたちのおさがりだ。バックナンバーと言うけれど、五冊あるうち三冊は最新号。一回読んでもう充分と恵んでくれるから、いつも助かっている。
自然と口の端が持ち上がった。
「ありがと!」
「……おぅ」
まるっと詰め込んだ紙袋を抱きしめながら顔を上げると、ようやくドラケンの目はこちらを向いた。それでも、なんだかぎこちない。ちらりとこっちを見ては、とろとろと目を泳がせ、またちらっと視線を戻してはすぐに目を逸らす。宙に浮いたままだった手は、一度だらんと体の横に垂れた。しかし、落ち着かなかったようで、がしりと玄関扉の縁を掴む。ちなみにもう一方の手は、開いたり閉じたりを繰り返していた。
挙動不審。どうしたんだろう、今日のドラケン。……やっぱり、自分に変なトコ、あるのかな。あるんだよな。寝癖、目やに、鼻水とか涎の跡、枕やタオルの跡が額についているのもありうる。どれだろう。どれにしたって、恥ずかしいことに違いはない。ああもう、どうしてうちの玄関には鏡がないんだ!
羞恥をどうにかしたくて、バレない程度に深く息を吸い込んだ。
「ン?」
たちまち、何かの匂いが鼻を掠める。特服からじゃない。正面からだ。改めて、こっそりとスンッと鼻を動かす。汗、と、メンズ物の香水、かな。瞬きしながらドラケンの首筋に目を向けると、つぅと汗が伝い落ちていくのが見えた。
この、暑さ。そして、この男のことだ。バイクで来たのだろう。排気熱、相当だろうに。
「ん、っと」
「……おー」
「よかったら、あがってく? 麦茶しかないけど」
「エ、ヤ、オカマイナク」
「遠慮しなくていいって。暑かったでしょ、外」
「まあ、でも、ホント……、いい、ノデ」
「なに、やけにカタコトじゃん」
ほら、早く入りなって。肩で玄関扉を押さえつつ、顎で促してみる。体を横にしてスペースを作ると、なぜかドラケンの喉仏はごくりと上下していた。まさか、廊下にあの黒いヤツがいる? ハッと室内を睨みつけるが、薄暗いソコにヤツの影はない。
抱えていた紙袋を手に提げつつ、そろり、素足を玄関に敷いているラグに乗せた。
ほとんど同時に、蝶番の軋む音がする。ちら、と肩越しに振り返ると、丁度そのタイミングで古めかしい玄関扉が閉まった。灯りをつけないと、どうも薄暗い。スイッチ、スイッチ。左手指先に紙袋の取っ手を任せつつ、壁にあるボタンに右手の人差し指を乗せた。
カチン、電球が、光る。
「三ツ谷」
ガチャン、ドラケンが、後ろ手で玄関に鍵を掛けた。
「うん?」
向き直る頃には、壁に触れたまま右手が熱に覆われる。
「あ、のサ」
触れてきた手は、身の丈相応に大きい。自分の指も、甲も、すっぽりと包まれて見えなくなってしまった。ワ、手も、こんなに大きいんだ。こんなに、差がついちゃったんだ。じわりと胸に寂しさが広がる。
「誘ってるわけじゃ、ねぇんだよ、な?」
「へ」
ぱたり、靴の転がる音がした。たぶん、ドラケンがスニーカーを脱ぎ捨てたんだろう。さすがのこの男も、この気温でブーツを履く気にはならなかったらしい。呆けているうちに、男のもう一方の手が壁につく。腕と、腕の間に、我が身が閉じ込められてしまった。折角灯りをつけたのに、逆光でドラケンの顔が陰って見える。
いや、てか、なんか、近くない?
「……違うんなら、なんか、上に着てきて」
「え」
「目のやり場に困る」
「こまる?」
「つーか、もう、ぁあ~見て良い?」
「へ」
あれほど合わなかった目線が、ぴったりと重なる。いや、完全に合っているとは言い難い。ドラケンの目は、自分の目よりも低いところに向いていた。吐き出される息の音を聞きながら、そぉっと目線の先を追いかける。俯いたところで、部屋着のヨレた襟首が見えた。そこからは、日に焼けていない鎖骨が覗いている。他にあるものと言えば、白い布をわずかに押し上げる、胸のふくらみ、くらい。
アレ、なんか、頂の辺りが、ぷくって透けてる。
「ノーブラは楽って聞くけどさあ」
「ぁ」
「白Tですんなよ、透けてんだよ」
「あっ」
「この格好、他の野郎に見せてねえだろうなぁ!?」
「みっ、みせてなんかっ」
ない、とも、言い切れない。なんせ、家に居る時は大抵ブラを外している。宅配のお兄さんからその格好で受け取ったことも、しばしば。でも、あの時は黒いTシャツだった。その前は、冬で、フリース着てたし。一つ前の夏まで遡ると、かなり怪しい。いや、あの時は今より平らだった。真っ平らと言っても良い。それなら透ける心配も……。平らでも、だめなのかな。ドラケン、ダメって、言いそう。大人の女の人のカラダ、見慣れてるはず、なのに。
「もっかい聞くけど、」
「ぅ」
今度は、耳のすぐ傍で、低い声がした。ほんのちょっと前までは、声変わりでガサガサしてたのに、すっかり男の人の声になっている。その低音や、熱っぽい吐息を聞いていると、なぜかお腹の奥が切なくなってきた。生理痛? 違う、あんなキリキリとした痛みじゃない。
「―― 誘ってんじゃねえんだよな?」
「ぁッ」
畳み掛けられた音に、腰が、抜けた。かくんと膝が折れる。包まれていたはずの細い手は、するんと抜けて体の横に落ちてきた。
両手が、自由。ハッとして両胸を手で覆った。布越しに、ぷくんと膨れた突起がぶつかる。生理中だ、胸が張るのは仕方がない。でも、ココもこんな風に硬くなるもの? なにもかもがわからなくて、顔が熱くなってくる。
カッカと頬を火照らせたまま、縋るように男のことを見上げた。
「……そういう、顔っ、」
「ぅ」
「~~っぁああ、いい、やっぱ、忘れろ!」
「でも」
「いいから!」
突然声を荒げたかと思うと、ドラケンは自分の前にしゃがみ込む。目線の高さが揃うと、少し安心した。手足もぽたりと投げ出したくなる。でも、たぶん、それはしちゃいけない。珍しく赤く染まったドラケンの目元が、「隠せ」と言っている風に見えた。だから、ちゃんと、小ぶりなソコは、手で覆ったままにする。
俯くと、自然と自分のみすぼらしい部屋着が目に入る。それから、しゃがみ込んでいるドラケンの脚も。大きく開かれたそれの、中央に目が留まりそうになって、咄嗟に顔を背けた。別に、なんともない。フツーだった。けれど、見ちゃいけない気がする。……ドラケンも、このおっぱいモドキを見た時、こう思ったのかな。見ちゃいけない、でも、見たい、って。
うらうらと視線を彷徨わせていると、ドラケンの手がツと伸びる。それとなく目で追うと、指先は床に倒れていた紙袋を抓んだ。底を床につけたまま引き寄せて、互いの間に持ってくる。
「……とりあえず、コレ、頼んだ」
「う、ッス、まかされ、た」
目は、合わせられなかった。たぶん、ドラケンもそうなんだろう。声が、どこか余所余所しい。
薄く唇を噛んだ。変に、廊下が静まり返っている。ドラケンとの沈黙は、別に辛くない。なのに、今日、この瞬間はどうも居心地が悪かった。落ち着かない。互いの息の音にばかり耳が向いてしまうし、自分のバクバクと喧しい心音が聞こえるんじゃないかと不安になる。
どうしよう。
……口火を切ったのは、ドラケンの方だった。
「じゃあ、」
「ぅ」
「帰る、ワ」
「え」
こんな気まずさを残して、帰るだって?
そんな、待ってよ、挽回させてよ。じゃないと、次、どんな顔で会えば良いのかわからない。なんて顔して、この特服渡しにいけばいいんだ。困る、そんなの。
片腕で胸元を隠しつつ、右手で立ち上がったそいつの、カーディガンを抓んだ。
「か、帰っちゃぅ、の」
「は」
「むぎちゃ、くらい、だす、てば」
見上げながらか細く付け足した。すると、ドラケンは大きく目を見開く。唇はヘの字に歪んでいた。困る。なぜか、向こうも、自分と同じ顔をして見せた。
「だから、襲いそうなんだってば!」