思い出の上塗り

 それは、東京卍會という看板を作って、黒龍を潰したすぐあとのことだった。
 養親に押し付けられた買い物を終えて、いつもの神社に顔を出す。あーあー、手伝わされなかったら、ファミレスに間に合ったのに。今日の晩飯どうすっかな。テキトーにコンビニ寄って、牛丼なりカツ丼なり買えば良いか。そう思いながら、屯している五人に近付く。ナニしてんの。尋ねようと緩く空気を吸うと、ほとんど同時に一虎が振り向いた。
「マイキーが!」
「あ?」
 その顔は、なぜか苦渋で満ちている。不意打ちを食らった時だって、そこまで悔しそうな顔、しなかっただろ。なんだよ、どうした。
 首を傾げていれば、その隣にいるパーものろのろとこちらに顔を向けた。……だから、何、何でオマエもそんなしょっぺえ顔してんだよ。
「マイキーがよお!」
「なんだよ……」
 もうダメだ。面倒な気配しかしない。その二人の傍に立つ気はなれず、かといってドヤ顔を浮かべながらも場地に胸倉を掴まれているマイキーの傍にも寄りたくない。
 自然と、足は縁に掛けている三ツ谷の隣に向いていた。
「なにあれ」
「しょーもねえ話だよ」
「いいから、何」
 オレだけ除け者にすんな。ひょいと縁に乗り上げながら睨めつける。すぐに三ツ谷は曖昧な笑みを浮かべた。小さく肩も竦めている。
 ほんとに、大したことない話だよ。丁寧に念押しをしてから、三ツ谷は薄い唇を動かした。
「童貞、卒業したんだって」
 告げられた言葉を頭の中で一度だけ繰り返す。童貞、卒業、したんだって。うん? 三回ばかり瞬きしてから、ぎゃあぎゃあ騒ぎ続ける方に視線を向ける。相変わらずマイキーは場地に胸ぐらを掴まれていて、パーと一虎は地べたに両手足を投げ出して憂いていた。
 マイキーが、童貞を卒業した。
 そういえば、今朝そんなことを言っていた気がする。二個上の先輩とヤッたとか、なんとか。
 朝っぱらから繰り出される下世話な惚気にうんざりとしていたら、ランドセルを背負ったエマに「サイテー」と吐き捨てられたっけ。エ、そのサイテーにはオレも含まれてんの? マジ? そっちのショックに気を取られて、すっかり忘れていた。
 くるりと顔の向きを戻す。三ツ谷と目を合わせると、「ん?」と首を傾げられた。そこには、やはり控えめな苦笑いが浮かんでいる。ほら、しょーもなかったろ。そんな副音声が聞こえてきそうだった。
「なあ」
「うん」
「それだけ?」
 ぽろっと口から零れ落ちる。たちまち、三ツ谷の唇がむにゃりと波打った。ア、吹き出す。そう思うのとほとんど同時に、三ツ谷はふはっと破顔した。
「言ったじゃん、しょーもねえって」
「聞いたけどさあ……。こんな下らねえことでアイツらあんな盛り上がってんの?」
「うん、そーみたい」
 くつくつ笑うその顔には、どこか安堵も浮かんでいる。こいつのことだ、あの下世話な話に乗っかりそびれて、どうしたもんかと途方に暮れていたのだろう。別に下ネタがダメなわけでも、疎いわけでもない。ただ、女所帯で暮らしてるがために、その手の話題に混ざるのが上手くないのだ。タイミングさえ掴めば、まあまあ喋る。しかも、結構エグいヤツ。生々しいとも言う。そんな三ツ谷に「夢がない」と言ったのは、パーだったか、一虎だったか。つい「ふつーじゃね?」と口を挟んで、「これだからドラケンは!」なんて叫ばれたのは記憶に新しい。
 今日こそは、余計なことは言うまい。心に誓って、いくらか離れたところにいる四人を見やった。あ、場地だけじゃなく一虎もつっかかった。ありゃ転ぶな。……ほーら転んだ、マイキー以外。あいつの体幹どうなってんだよ。お、パーも突っ込んだ。がっつり体重をかけたらしい、さすがのマイキーもぐらりと蹌踉めく。尻持ちくらい、つくか? あ、つかねーワ。やっぱ意味わかんねえな、マイキーの体幹。
「ンだよドラケン、シケた面しやがって!」
 ぼんやりと三対一の押し相撲を眺めていると、突然場地が振り返った。今までこちらに目もくれなかったというのに、頭にセンサーでもついてんの? それとも、オレも混ざることを期待していたのだろうか。確かに四対一なら、マイキーに膝をつかせるくらいはできるかもしれない。まあ、今更加勢する気にはなれないが。
「あんだよ」
 やる気なく返すと、今度は一虎が振り返る。先程よりは覇気があるだろうか。それでも、悔しさでいっぱいの面構えをしていることに違いはない。
「そーだそーだ、先越されて悔しくねえのか!?」
「や、別に。つか先越されてねーし」
「は?」
 ギャンギャンと喧しかった声が、一瞬にして静まり返る。おかげで、木々が風で擦れる音がよく聞こえた。
 四対の目が無に染まる。そのうえで、オレの方をスンと射抜いてきた。
 ……まずった、かもしれない。言わなくていいことを言った。口を滑らせた。失言、した。あんなに今日こそは余計なことを言うまいと思ったってのに。じわじわと頭の中に焦りが浮かぶ。ぎこちなく顔を背けると、隣にいる三ツ谷と目があった。こいつまで無だったらどうしよう、とも、思ったが、……視線を合わせたそいつは「あーあー」と呆れた目をしている。良かった。いや、でもちょっとハラタツな。他人事って顔しやがって。
「オイ、どういうことだよテメエまさかッ」
「あぁ!? ドラケンもヤッたことあんのか!?」
「いつの間に抜け駆けしやがったんだオメェはよぉお!」
「おいケンチン、オレそれ聞いてない。聞いてませーん。聞いてませんけどぉ!」
 じとりと三ツ谷を睨もうとしたそばから、ガヤが飛んでくる。うるせえ。舌打ちしつつ肩越しに振り返ると、押し相撲モドキをしている姿勢のまま、それぞれが喚いていた。詰め寄られないだけ、マシ。そういうことにしよう。
 悟られない程度にため息をついて―― とはいえ三ツ谷には聞こえたらしく、吐息で苦笑するのが聞こえる―― 連中をあしらうべく口を開いた。
「オレのこたぁどうだっていだろ」
「良くない!」
「良くねーぞ!」
「良いと思ってんのかバーカ!」
「そうだそうだ、オレよりバーカ!!」
 だめだ、四人いっぺんに相手するのは、骨が折れる。店の連中だって三人がやっとなんだ、ムキになったこいつらまとめてどうにかしようと思ったオレがバカだった。素直にバカと認めるのは癪だが。腑にも落ちないが。
 せめて三ツ谷が加勢してくれりゃあなあ。チラッと視線を送ってみるが、涼し気な顔は崩れない。澄ましたようにも見える口は、待ったところで開いてはくれなかった。
 ああ、もう、クソ。もう一度、舌を打ってから、渋々シた時の記憶を引きずり出す。正直、あまり良い思い出じゃあない。が、アレがオレのハジメテなのも、事実。突っ込んだことを聞かれませんように。内心で念じながら、渋々切り出した。
「あー、去年……、一昨年か? そんときウチの店いた女に」
「なんだ、素人童貞か」
「プレイの一環みてえな言い方ヤメロ」
 ばっさりと言い捨てたマイキーに、つい、カチンとくる。金なんか払ってえっつの。しかもつまみ食い感覚かと思ったら、ガチだったっぽいし。
 女が大変なのは生理のときだけじゃない。排卵日のあたりになると、アソコ、白っぽくてネバついた汁でぐちょぐちょなるんだぜ? ……そういうタイミングで、オレとヤッたんだってさ、あの女。あーやだやだ、思い出したらゾッとしてきた。気持ち良い以前に怖かったもん。誰にも言わねえけど。
 こみ上げてくるアレコレをぐっと飲み込む。言い返さないでいるうちに、向こうの興味も削げたらしい。またマイキーの初体験に話題が戻っていく。他の三人も悔しくはあるが、気になるのだろう。たまに文句を挟みつつ、しっかりマイキーの話すことに耳を傾けている。
 オレだって、そーいう初体験してみたかったワ!
「ったく、好き勝手言いやがって」
「まあまあ」
「……」
 腹の中で自棄を起こしたのに気付いたのだろうか、宥めるように三ツ谷の手がオレの背を撫でる。パ、と振り返ると、相変わらず穏やかな顔をしていた。幻滅した様子は欠片もない。かといって、羨む目もしていなかった。
 どうして、こいつはこんなにも平然としているのだろう。突然えぐいネタをぶち込んでくるコイツなら「で、どうだったの?」くらい聞きそうなもんなのに。今、三ツ谷は何を考えている。どう思っている。じゅわり、じわり、興味と好奇心が滲みだした。淡泊そうなこの面の皮を、剥ぎたくて仕方がない。
 黙り込んだオレを見て、三ツ谷はこてんと首を傾げる。警戒は、されていないようだ。まだ、今のところは。
「そういう三ツ谷はさー」
「え?」
「どーなの」
 ぐ、と腕を伸ばし、三ツ谷の肩に回す。引き寄せるように力を込めると、オレより細身の体は簡単にこちらへと傾いた。こつんと肩同士がぶつかる。ついでに顔を覗き込むと、ぽけ、と呆けた面が見えた。これはたぶん、理解が追い付いていない顔。数秒待ちさえすれば、ピンとくるはず。……案の定、たっぷり五秒経ってから、その眉間にうっすらと皺が寄る。その癖、唇はゆったりとした三日月を描いていた。ウン、作り笑い。余裕ぶって見せたい時の、三ツ谷だ。
「そんなことより」
「三ツ谷」
「……」
「オレに言えないこと、あんの?」
 そんなあからさまに話逸らすなよ。オレが許すと思うワケ?
 にんまりとしながら、強がる顔をじぃと見つめる。すぐに、その唇は真一文字に引き結ばれた。ああいや、ヘの字になってる。もともと垂れた目付きをしているからか、拗ねるとこいつはガキっぽく見える。年相応って言った方がいいか。
 近頃三ツ谷は、やけに大人びた表情をする。だから、こういう顔を見るとほっとする。まだ、オレの知ってる三ツ谷だって。これからもずっと、オレの知ってる三ツ谷で居て欲しい。そうなればいい。よくコイツのことを、オレの兄弟分と紹介しているけど、それくらいオレにとっては大事なヤツなんだ。相棒にするなら、三ツ谷。他の四人も大事だけど、三ツ谷は別。特別。
「……あいつらには、言うなよ」
 いつの間にかツンと尖っていた唇が、もそもそと動く。聞こえる声も、随分と潜められていた。うん、他の奴らには内緒な。オレと三ツ谷だけの、秘密。あいつらに気付かれないよう小さく頷いた。
「いつ、相手は?」
「小六なる前の春休み、……たぶん大学生」
「大学生?」
 ぴくり、自分でも眉が動くのがわかる。顔を寄せているのもあって、三ツ谷にも見えたのだろう。拗ねた顔つきに、不安が混じりだす。これ以上、聞くのは、止めた方が良いだろうか。ちらりと頭に迷いが浮かぶが、逆に今聞いておかないとマズい気もする。
 焦りだす心臓に気付かない振りをして、とりあえず軽くこめかみを三ツ谷のソコにぶつけた。大丈夫、だから。言っても、大丈夫。オレは、その程度でオマエを見限ったりはしない。視線で伝えると、恐る恐る三ツ谷は続きを話し出した。
「公園でよく会う人だったんだけど、妹連れてない時、声掛けられて」
「……」
「家に誘われて、何も知らねえままついてって、……ヤッた」
「それ、って」
「襲われたんだろうね、オレ。だからかなあ、いい思い出じゃ、ない」
「や、いい、わかった。オレも、ウン、わかるから」
「……うん」
 たぶん、まだ、吐き出したいこともあるのだろう。けど、この先を聞くのは、ココじゃだめだ。あいつらに聞かれてもおかしくないし、それ以外にも人がくるかもしれないし。一旦オレん家に連れていくか? ダメか、つか、こいつがオレん家避ける理由、わかった気がする。大人の店だから遠慮してるのかと思ってたけど、そうか、セックスが身近な大人の女がたくさんいるからだ。んん、じゃあ、三ツ谷の家の方が良いのだろうか。でもなあ、妹いるだろうしなあ。
 ぐるぐると考え込んでみるが、どうも良い案が浮かばない。あ、バイク弄るのに使ってるガレージはアリかも。ちょっと前までは割と仲良かった高校生も顔出してたけど、最近来ないし。ほぼオレの根城。決めた。
 思い立つと同時に、俯き気味になっていた顔を持ち上げた。
 ―― その、瞬間。
「ああやってはしゃげるようなハジメテ、……シてみたかったな」
 あいつらを眩しそうに眺める三ツ谷が、視界に飛び込んできた。それも、すごく、近いところ。
 なぜか、頭が、くらり、揺れた。
「じゃあ、」
 続けて、ぐ、と喉元まで、言葉が込み上げてくる。じゃあ? オレは、何を口走ろうとしているんだ。今日はもうしただろ、失言。うっかり口を滑らせる前に、浮かんだ台詞を飲み下す。言いかけたナニかを、ごくん、胃に落とした。
「ドラケン……?」
「や、なんでもない」
「なんでもないって顔してないけど」
「なんでもねーって。忘れろ。気にすんな」
「……」
 それより、この後、時間ある? あるよな。連れて来たいとこあるんだけど。それとなく連れ出そうとアレコレ言葉を浴びせてみるが、三ツ谷の瞳には胡乱が乗っている。
 ツン、と、尖った唇が、おもむろに近づけられた。うえ、慌てて顔を引きそうになって、ぐっと我慢する。と、その口はオレの口、ではなく、頬でもなく、耳元に寄せられた。す、細く息を吸うのが、まざまざと聞こえてくる。
―― オレに言えないこと、あんの?」
 ソコに置かれた声に、ぴたりと固まった。一拍あけてから顔を向けると、澄まし顔の三ツ谷が視界に入る。重そうな瞼、垂れた目、オレに言われるまま伸ばしたり、しれっと足掻いて短くしたりを繰り返している髪。今は、いくらか、長さがある。でも、軽く指を滑らせれば、その下に隠させた龍は見えてしまうことだろう。
 引き寄せられるように手が伸びた。触れた肌は、なんとなく汗ばんでいる。逆立てるように指を這わせてみると、隙間から龍の首が見えた。
「なぁ、三ツ谷、」
 ぼたり、思いのほか湿った声が出る。
「オレと、……ハジメテ、やりなおさねえ?」
 重みのある瞼が、わずかに開く。長い睫毛が、上向きになった。色味の薄い唇が、はくん、空気を食む。
 嫌だって、言われたら、どうしよう。
「っうん、」
「ッ」
 過った杞憂は、小さく頷くのを目の当たりにすると同時に霧散する。どちらともなく、生唾を飲み込んだ。額から、つぅ、汗が伝い落ちる。顎に辿り着いたソレが辿り着く手前で、縁から立ち上がった。肩を抱いていた手は、いつの間にか三ツ谷の手首を掴んでいる。軽く引くと、すぐに三ツ谷も地面に足を下ろした。
 仲間のはしゃぐ声から逃げるように、二人で境内に背を向ける。

 仕切り直したハジメテは、上手くいったとは言い難い。それでも、植え付けられた記憶を塗り替えるには十分なほど、ヨかった。