Enabler
三ツ谷の手から、指輪が消えた。
「……フラレた?」
「うわっ、目敏いなあ」
閃いたことをそのまま声にすると、先に卓についていた三ツ谷の顔に苦笑いが浮かぶ。左手はジョッキの取っ手から離れないものの、右手ではぽりぽりとこめかみを掻いていた。なるほど、今日は傷心の自棄酒で呼ばれたのか。
……いや、ンなわけない。
だって、今日の約束を取り付けたのは三ヶ月も前のこと。成人してから、オレと三ツ谷はおよそ三ヶ月に一回の頻度で顔を合わせている。初めの頃は別の連中もいたが、いつの間にかサシ飲みになっていた。お互い酒には滅法強い。だからこそ、サシの方が気楽だったんだと思う。三ツ谷なら、変に気遣いしなくていいし、されることもない。万が一片方が潰れてもどうにかなる。となれば、習慣になるに決まってる。
三ヶ月前に会ったときは、確かに指輪をしていた。久々にデートした、海沿い走った、いくら運転しにくいつってもしがみついてきて、背中にずっと乳が当たってたとかなんとか。ケラケラ笑いながら、下世話なこと含めて話していたはず。
「ドラケンって、他人に興味ないって顔してるくせにちゃんと見るとこ見てるよね」
「……癖だよ癖、気付かねえとアイツらすーぐ拗ねるから」
「あはは、お姉さん達元気?」
「さあ。もうオレが居た頃の連中は一人もいねえし」
軽口を交わし合いながら、三ツ谷の向かいに腰を下ろす。通りすがりの店員にビールを頼むと、それに合わせて、三ツ谷は空になったグラスを返していた。今飲んでいるのは二杯目らしい。
ジョッキを渡す手、その薬指には、何度確かめてもシルバーは光っていなかった。
「で?」
「で、って?」
「どしたの、指輪。失くしたワケじゃねえんだろ」
「あー、ウン」
それとなく視線を泳がせた三ツ谷は流暢にビールを口元に引き寄せる。そして、小さく一口。泡の溶けてしまったソレは、もしかすると炭酸も失せ始めいるのかもしれない。
薄い上唇がガラスの縁を食むのを眺めつつ、手持ち無沙汰に本日のオススメと書かれたコピー用紙を抓んだ。牡蠣か、でも生牡蠣か、中ったら困るけど食いてえな。牡蠣フライで妥協する? ……生牡蠣、食いてえな。
「つい、一昨日かな。色々あって、フラレちゃった」
「色々ねえ?」
「あはは、聞いてくれる?」
「おー聞く聞く」
ウン、牡蠣食お、生牡蠣。そう思いつつ軽い相槌を打つと、三ツ谷はビールをグッと飲み下した。ペースは決して早くはない。だってまだ二杯目だ。俺が着く頃には既に三杯目、あるいは別の店で一人・〇次会をしてくることも少なくない。パッと見た限りでは、疲れているようにも、ショックを受けているようにも見えなかった。長らく指輪を嵌めていたものの、円満に別れたのだろうか?
「実はさあ」
三ツ谷は相変わらずの苦笑いを浮かべたままグラスを置く。結露で濡れた手を緩慢に拭いながら、ちらり、オレに目線を送ってきた。少し顎を引いているからか、長い睫毛のせいか、上目遣いに見える。……なんだか、頭を撫で回してやりたくなってきた。伸びそうな腕を、とりあえず頬杖に使って引き留める。それでも頬を乗せた手のひらはうずうずとしていた。
「浮気、してたんだって」
「……カノジョが?」
「そう」
「それでフッたと」
「いやいや、フラレたって言ったじゃん」
「んん?」
オレは何かを聞き間違えたのだろうか。怪訝に首を捻ると、通路の奥からビールとお通しが運ばれてくるのが見えた。他のテーブルかもしれない、とわざと意識を逸らすも、店員はオレのすぐ横で立ち止まる。営業スマイルのまま、店員の男はジョッキと小鉢を置いていった。並々と注がれた黄金に細かな泡。キンと冷えているうちにとジョッキを掴むと、三ツ谷もほとんど空のソレを持ち上げた。
「今日もおつかれー」
「おー……」
ガチ、とガラスをぶつけ合い、柔らかな泡に口付ける。僅かに傾けたジョッキから、心地いい喉越しが流れ込んできた。イッキはいけないと理解しつつも、あっという間に飲み干してしまう。当然、一口そこらしか残っていなかった三ツ谷の手元も空になっていた。オレは次もビールだけど、あっちは日本酒あたりに移りそう。予想通り、三ツ谷はいそいそとドリンクメニューを開いた。
「何にしよっかなあ、ア、浦霞ある」
「……なあ、話戻していい?」
「え? ああ、オレがフラレた話?」
「そう」
お通しのきんぴらを口に放り込みながら、慌ただしく動き回る店員を捕まえた。ビール、浦霞、生牡蠣、一合で、あと梅水晶、あっ刺盛りも。交互に浴びせる声を淡々と受け止めた店員はきっちり復唱・確認して去っていく。
「ちゃんとしてそう」
「は?」
「さっきの子。頭も良さそう、容量も良さそう。浮気もしなさそう」
「わかんねーだろ、実はすげー遊んでるかもよ」
「ふふ、そうだよねえ。ずっと一緒にいてもわかんなかったしなあ」
「……三ツ谷?」
オマエ、もしかして意外と酔ってる? ふわふわと言葉を並べたあと、三ツ谷は両手を使って頬杖をついた。いや、位置的には顎杖か? そんな言葉、あるのか知らないが。
三ツ谷の手は、決して小さくない。それを示すかのように、顔の輪郭はすっぽりとその手に覆われてしまった。単に顔が小さいというせいかもしれない。言葉を探しているのか、唇がむきゅむきゅと動いた。普段の三ツ谷なら、こんなふうに「考え事をしています」と言わんばかりの表情を浮かべることは少ない。むしろ、顔色一つ変えずに頭を巡らせる方だ。
やっぱり、酔ってるな、コイツ。二杯目かと思ったが、もう三杯目だったのかも。それか、ここに来る前に一軒二軒寄ってきているか。
しばらく波打っていた唇は、そのうちにツンと尖る。ついでに目も伏せた。キスしてくれなきゃ許さない。なぜかそんな副音声が聞こえてくる。たぶん、昔ウチにいた嬢のせい。えげつないキス魔で、オレの初めてもその女だったっけ。
「なあ、」
「浮気、されてたの。オレ。でも、全然、気付かなかったんだよね」
「はぁ?」
「向こうは結構あからさまに浮気してますアピールしてたらしいんだけどさあ、マジで気付かなくて。なんなら、男友達と出かける? いいよ、楽しんでおいで~って、送り出してたし」
で、一昨日ついに、なんで嫉妬してくれないのって怒鳴られて、すげー責められて、フラれちゃった。
あざとい顔をしたまま、三ツ谷は言う。伏せていた瞼はもったりと開き、長い睫毛がくるんと上を向いた。
「いつもそう。向こうから言い寄ってきて、オレなりに大事にしてんのに、気付いたらこっちがフラレてる。なんで?」
「いや、今回がたまたまそうだっただけじゃ……」
「残念でした。専門ときのコにも浮気されて終わったし、夜間通ってたときもそう」
「おい、初耳なんだけど」
「だってドラケンに言ったことねえもん。ダサすぎるだろ、浮気されてフラレましたなんて」
オレが何をしたって言うんだ。ぼやきを聞いているうちに、肘をついた腕から三ツ谷の顎が落ちる。咄嗟にそいつの周りにある小鉢や皿を退ければ、空いた面にぺしょり、三ツ谷は頬をくっつけた。小ぶりではあるが、潰れるだけの弾力性もあるらしい。下にした側の頬の肉が、わずかに押し出されて膨れていた。
……突きたい。それか、尖った唇を抓みたい。ついでに、オマエはなにも悪くねえだろと言って頭を撫で回してやりたい。どれもこれも、したそばから三ツ谷がむっとするのは目に見えている。疼く手の平を、ぐっと理性で堪えさせた。
「ダセェ以前に、浮気する方がダメだろ」
「でも、浮気されるような甲斐性なしってことじゃん?」
「あれだけ世話焼きのオマエが甲斐性なしとかねーワ。生活力も経済力も、性格も難がねえってのに」
「っはー、ほんとドラケンといると自己肯定感アガる。最高。もっと褒めて」
むくっと体を起こした三ツ谷は、たちまち緩んだ顔をキリリと引き締める。とろんとしていた瞳もしっかり開いて、口元には余裕そうな笑みが乗っていた。この顔で、幾人ものクライアントを落としてきたんだろう。想像に容易い。
そっと腕に許しを与えれば、頬杖をついていた己の腕は自然と三ツ谷に伸びる。突っ伏していたせいで、変に額に貼り付いてしまった前髪を、それとなく払ってやった。顔を出したデコに、照準を合わせる。
「調子乗ンな」
「あだッ!」
ばちん。指先で、額を弾いた。それほど力を入れたつもりはないが、爪の表面が見事に当たった感触がする。跳ねるように三ツ谷は額を押さえ、ミーミーと喚きだした。はいはいわかったわかった。ほら、酒とつまみがきたぞ、機嫌直せ。雑に三ツ谷をあしらって、テーブルに並んだ海の幸に目を光らせる。牡蠣、デカ。刺し盛りも存外種類が豊富。最高だな。口内に滲む唾を飲み下しつつ、一緒に運ばれてきた小皿に醤油を垂らした。自分の分も、三ツ谷の分も。
「さんきゅー」
「牡蠣は?」
「食べる、レモンかけまーす」
「どーぞー」
ふっくらとした身を、お互い、一飲み。口いっぱいに柔らかな磯の香りとレモンの酸味が広がる。気付くと飲み下してしまって、もう一個と手を伸ばしてしまった。再び口に放り込みながら三ツ谷の方を窺うと、緩んだ顔をしながらカンパチを食べている。女の前でこの顔を見せれば、そう簡単には離れていかないだろうに。こいつのことだ、終始カッコつけていたんだろう。
つるんと二個目の牡蠣を飲み込んだところで、ふと、閃いた。
「今度はさあ」
「んー?」
「自分が甘えられるような相手にしてみれば、」
「……彼女の話?」
「そ。オマエ何かと世話焼きだけど、案外世話焼かれる方が続くかもよ?」
普段はしっかりしているけれど、自分の前だけは適度に隙を見せる。そういうギャップ、女は弱いだろ。女に限ったことじゃあないか。涼やかな顔を崩さない三ツ谷が慌てたり拗ねたり、オレの前では存外表情豊かなとこ、特別感があって気に入っているし。誰彼構わず隙を見せているとなると思うところもあるが、恋人相手なら、まあ、良いだろ。
ビールを流し込みながら、ぴたりと固まった三ツ谷を見つめる。小さな唇には隙間が出来ていた。間抜け面。そう言いながら唇を突いたら、耳を赤く染めながら呻くのだろう。
……もう少し、お互い酔いが回ったら、やっても許されるだろうか。
「どらけん」
小さな、かつ、舌足らずな声がした。
え、三ツ谷って、こんなか細い声出せンの。ジョッキの縁に口をつけたまま、今度はこっちが固まってしまう。目を見開いていると、三ツ谷の明るい色をした瞳がキラキラ光ったかのように見えた。たぶん、上目遣いを、された、せい。
「オレ今、口説かれてる?」
「は、なんでそうなるんだよ」
「だって、ドラケン、―― オレのことよく甘やかすじゃん」
甘やかす、とは。スマホで調べ物をしたときのように、脳内に文字が浮かぶ。
二、三度瞬きをしてみるものの、三ツ谷のこちらを見る目付きに変化はなかった。茶化した顔色など、もちろんしてない。これでいたずらな顔をされていたら、こっちも相応の態度を取れるのに。
もう二回ばかり瞬きをしてから、静かにグラスをテーブルに置いた。
「甘やかしては、ない、だろ」
「甘やかしてるよ、愚痴聞いてくれるし、世話焼くし、褒めてくれるし、あと酔っ払うとすげえ頭撫でてくる」
「……」
指折り数えるように、三ツ谷は例えを挙げる。その、どれもに、心当たりがあった。
だって、すっきり飲もうと思ったら、鬱憤は晴らした方が良いだろ。オレよりずっと気疲れする生活をしているのは知っているから、くたくたなコイツの手を煩わせないようにしている節もある。褒めるのは、その通り。嬉しさと恥ずかしさで呻く三ツ谷の顔、面白いから、しょっちゅう全肯定している。あと許されるなら、酔っぱらってなくてもこいつの頭は撫でたい。撫で回したい。ぐしゃぐしゃに髪を掻き乱されて、拗ねながらも喜色を隠せないこいつは、とにかく可愛いんだ。
うわ、オレ、三ツ谷のことべろべろに甘やかしてるじゃん。三か月に一回、これでもかと甘やかしている。マジか。自分で自分が信じられない。いや、全部、心当たりあるんだけどよお!
「……んん、ドラケン、か、どらけん」
呆然としているオレをよそに、三ツ谷はうんうんと考え込んでいた。
マズい方向に話が進んでいないか。付き合おうと言われても困るし、やっぱ無いなと宣言されても悔しい。どうにかしてそいつの思考を止めるべく、腕を伸ばした。テーブルを挟んだ向こう、三ツ谷の肩を、グ、掴む。
「おい、三ツ谷。ストップ、ちょっと待て」
「どうする、付き合ってみる? オレおっぱいないけど。あ、乳首は綺麗だよ」
「しょーもねえこと知っちまったな……」
「ええ、しょうもなくないって、大事だろ、おっぱい」
しかし、三ツ谷の思考は止まってくれない。その脳内にある天秤は、ほとんど「付き合う」に傾いているらしかった。考えるポーズを取りながら、三ツ谷はキリッと表情を整える。そのくせ、口から飛び出るのはおっぱいばかり。澄ました顔してオマエは何喋ってんだ。やっぱり、この店来る前にどっか寄って飲んできただろ。
言い返す言葉を探してみるも、良い台詞が思いつかない。はくん、唇が空気を食んだ。
すると、三ツ谷の顔が、くしゃっと緩む。目元がほんのりと赤らんで、あ、ウワ、オレ、オマエのその顔、結構。
「どうする、付き合っちゃう?」
―― 好き、だ。
「……オレが選んだ指輪、つけてくれるなら」
三か月後、男の薬指には、柔らかに輝くプラチナが嵌っていた。