知らぬ間の据え膳
自分は、ベッドというものが苦手らしい。
そう気付いたのは、実家を出て三年ほど経った頃だった。
実家じゃずっと布団だったから、一人暮らしをするならベッドにしよう。布団だったら、今すぐに寝ようと思っても、いちいち畳んだり敷いたりしなくてはならない。だが、ベッドなら倒れ込むだけ。これまでのように、疲れ果てて床で力尽きるということも避けられるに違いない。絶対に、ベッドにしよう。
そう思って、自立すると同時にベッドを購入したのだが、どうしてか眠りが浅い。寝心地だって、悪くないのを選んだはずなのに。心当たりを一つ一つ潰していって、辿り着いた原因が、ソレだった。
まあ、単に、試しに客用布団で寝てみたら、驚くほど快眠できて発覚しただけのことなのだが。
それがわかってから、布団で寝るようになったし、独立と同棲に合わせて引っ越した家は、和室のあるところを選んだ。布団と言ったら、やっぱり畳だろう。フローリングに敷くより、しっくりくる。
そして、今日も、いそいそと畳敷きの部屋に布団を敷いた。
一人用よりも、少しばかり幅のあるソレ。今でこそ自分が使っているが、買った当初は来客用布団だった。……ドラケン用とも、言う。自分以外だと、あいつがいちばんこの布団を使っていた。なんせ、しょっちゅう遊びにくるもので。その来訪も、下心があってのことで、何年もかけて口説き落とされたのだが、それについては今は割愛。とにかく、あの男がゆったりと寝られるほどの布団で、自分は寝ている。
自分と、そいつの二人で、寝ている。
「……」
たぶん、今日もするよな。
シーツを伸ばしながら、悶々と思考を巡らせる。頭のところに枕を置いて、一旦動きを止めた。壁の向こうから、カラカラと戸の開く音がする。どうやら、あいつは風呂から出たところらしい。じゃあ、五分と経たずにこっちにやってくるだろう。にやける口元をどうにか引き締めながら、確かめるように枕を叩いた。
こっちは納期明けで明日は休み。あっちは休みじゃないけれど、遅番と言っていたから朝はゆっくりできる。そんな状況で、することなんて一つだ。込み上げてくる期待で、引き締めたはずの頬がだらりと緩んだ。
久々に、あいつとできる。セックス、できる。
とくとくと心臓を高鳴らせながら、畳んであるタオルケットを手に取った。ふわりと広げると、柔軟剤の匂いがする。そういえば、昨日は洗う日だったっけ。仕事に追われていたオレは何もしていないから、あいつが洗っておいてくれたのだろう。家事の役割分担は決めていないが、それなりに任せきらず、上手く補いながらやりくりしている。これだから、ドラケンとの生活は心地いい。
掛け布団も広げると、おひさまの匂いが漂って来た。半分に折ったままのそこに倒れ込めば、柔らかな感触に包まれる。このまま、眠ってしまおうかな。でも、ドラケンとえっちしたいしな。オレはもう先に風呂に入ったから、あとはあいつが上がってくるのを待つだけ。
心地いい匂いを嗅ぎながら、そっと耳を澄ませた。足音がする。脱衣所からは出たようだ。あっという間に、寝室のすぐ外にまで近付いてくる。ドアの蝶番が軋むのに合わせて、むくりと体を起こした。
「……髪、濡れてんじゃん」
目を向けた先には、ぽたぽたと毛先から雫を垂らすドラケンが立っていた。肩にはタオルがかけられており、床を濡らすには至っていない。だが、あの長い髪じゃあ、寝巻の背中は湿っていることだろう。
なんだよ、すぐにできると、思ったのに。
こっそり不貞腐れていると、そいつは緩い笑みを浮かべながら、右手で掴んでいるドライヤーを持ち上げて見せた。
「おー、乾かして」
「自分でやんなよ」
「三ツ谷にやってもらいたいの」
「オレ、疲れてんだけどー」
「そお? でも、オマエ、オレの髪触るの好きじゃん」
「……それは、まァ、ウン」
ひたひたと布団までやってきたドラケンは、畳の上に胡坐をかいた。強請るように首を傾げて、ドライヤーを手渡されてしまったら、受け取るしかない。
確かに、ドラケンの髪を触るのは嫌いじゃない。髪、というか、頭に触るのを許されているのに、堪らなくなるからだ。
かといって、素直に好きと返すのも悔しい。……しれっと好きだよと言ったら、こいつを驚かせられるだろうか。いや、ドラケンのことだ、「なら、乾かしてくれるよな」と強請ってくるに決まっている。
なんにせよ、無防備に背中を向けられたとなると、自分の選択肢からはドライヤーをかけてやるしか選べない。もごもごと唇を波打たせながら、近くにある電源にコンセントを差した。
「熱いときはオッシャッテクダサイネー」
「はは、床屋じゃん」
「美容院って言ってよ」
「一緒だろ?」
「別物だよ。理容師と美容師は違うの」
「ふぅん」
雑な相槌を聞きながら、黒髪に温風を当てた。ブリーチを止めて久しいが、毛先のほうは脱色した部分が残っている。指先に絡みつくソコは、傷んで細くなっていた。辮髪だった頃は、緩いウェーブが癖になっていたけれど、今はそうでもない。若干うねってるかな、という程度。指先に引っかかることもないから、つい、ブラシを使うのは不精してしまう。どうせ、こいつだって、乾けばいいとしか思っていない。ブローはなし。ちゃちゃっと乾かしてしまおう。で、一刻も早く布団に雪崩れ込みたい。
じわじわと熱を上げながら、髪の水気を飛ばしていった。
「……三ツ谷ぁ!」
「なに!」
そのうちに、機械音の向こうから名前を呼ばれる。完全に乾くまで、あとちょっと。髪の内側が、まだしっとりとしている。ぱらぱらと指を通しながら、送風音に負けじと声を張った。すぐに、ドラケンの声が返ってくる。だが、今度は、ガーガーという音の方が勝ってしまった。なんと言ったか、ちゃんと聞き取れない。
喋るのなら、ドライヤーを止めるべき。でも、乾くまであとほんの少し。ここまでやったのだから、しっかり乾かしてしまいたい。かといって、適当に相槌を打つのもいかがなものか。聞こえてないと知られたら、しょうもない約束を取り付けられかねない。
「もぉ……」
小さく息を吐いてから、カチカチッとドライヤーをオフにした。モーターがしゅんと静かになる。膝立ちのまま、そいつの頭を見ていると、ひょいとドラケンが振り返った。さ、何の用。明日の晩飯の話かな。晩酌の方かもしれない。
「今日、」
今日? 世間話でもしようというのか。わざわざドライヤーをかけているときに?
こて、と、首を傾げてしまう。
「―― そんなにシたい?」
「は」
傾げた首は、その角度で凍り付いた。
「……何の話だよ」
「何って、ナニのハナシに決まってんじゃん」
左手には、まだそいつの髪が絡んでいる。湿り気を帯びたそれらは、温風が失せた途端に冷えていった。この冷たさじゃあ、まだ首筋に貼り付く。不快ではないのだろうか。そりゃあ、結わえてしまえば然程気にならないだろうが、パッと見た限りでは、ドラケンの手首にヘアゴムは引っかかっていない。ここ最近は、セックスするとなっても、髪を解いていることが多くなった。なんでも、髪を梳くように頭を撫でられるのが気に入ったから。ウン、そうだね、頭撫でると、ドラケンすっごい嬉しそうな顔するもんね。……脱線した、頭を撫でるとか撫でられるとか、今はどうでもいい。
「髪、まだ乾いてないんだけど」
「そう? もう乾いたろ」
内側がまだ湿ってんだよ。そうオレが言い返すより早く、ドラケンはこちらに向き直った。大きな手が、やんわりと膝立ちになっているオレの腰を掴む。ぐ、と引き寄せられ、ぼすんと尻がそいつの膝に乗った。互いの体温が、薄い寝巻越しに伝ってくる。普段は自分の方が体温が高いのだが、風呂上がりのせいか、今日はドラケンの方が温かかった。
熱い、近い、あつい、ちか、い。とくとくと、鼓動が逸りだす。
「でさ、今日、そんなセックスしたい気分なん?」
「……したい、っていうか、する、流れじゃないの、今日って」
オレは明日休み。ドラケンは遅番。お互い繁忙期でもないとなったら、するタイミングだろう?
それとも、ドラケンは気分じゃなかったのか。
そもそも、オレはそんなにあからさまに「セックスしたいです」アピールをしていたろうか。心当たりはない。久々にドラケンとゆっくりできて良かったなあ、くらいの顔の緩みは晒したかもしれないが、欲情しきった顔まではしていないはず。あくまで、今日するんだろうな、という程度だ。
それとも、無意識のうちに物欲しそうな顔をしていたのだろうか。だとしたら、かなり、恥ずかしい。
きゅ、気付くとした唇を噛みしめていた。
「あ、シたくないとかじゃないからな」
「は、どういぅンわっ」
おもむろに、指先が頬に触れた。いや、これは目元か。カサついた親指の腹が、目の下を優しく撫でる。その手付きの向こうでは、ドラケンが困ったような笑みを浮かべていた。
「こんな隈あんのに、無理させんのもなーと思って」
言い終えた後も、その指が目の下を撫で続ける。ひく、と、肌が引き攣った。合わせて、今朝方鏡で見た自身の顔が思い出される。化粧でも覚えようか、と思うくらいに、顔色は悪かった。もちろん、朝の時点でクマもはっきりとできていた。顧客との確認を済ませた後、仮眠をとったものの、完全に顔色を整えるには至らなかったらしい。
ドラケンは、優しい。オレが無茶をしようとすれば、やんわりと止めてくれる。強要させるのではなく、そう言われたら、まあ止めておこうかな、と思わせる言い方をするのだ。
……きっと今日は、セックスしないで寝ろ、と言いたいのだろう。
ということは、だ。この男には、オレがやりたくて仕方ない顔に見えていたらしい。マジかよ?
「……どらけん」
「ん?」
「そんなに、オレ、わかりやすかった?」
「……この時間に、もう布団敷いたってことは、そうかな、って」
「ぁエ、」
なんだと。そんなことで、バレた、だと。
はくんと息を呑んだ。よろよろと目線が下がり、泳ぎ、敷いたばかりの布団に向かう。確かに、言われてみれば、普段布団を敷く時間より、早い、かも。セックスしない日だったら、まだソファの上でだらだらしていたことだろう。
ふつふつと、自分の行いが蘇ってくる。
セックスをするとなったとき、言葉で誘ってくるのはほぼドラケンの方。一方、オレは、というと、言葉より態度や行動で示すことが多い。ボディタッチが増えるとか、じぃと見つめる時間が長くなるとか。このあたりは、オレも意識的にやっているからいい。
問題は、無意識にやっているシたいときの所作の方。しかもこの所作、ドラケンは気付いているのに、オレは無意識というものが多い。まさか、その中に「早めに布団を敷く」があったとは。いや、正しくは、浮足立って布団を敷く、か? そういえば、あの日も、早めに布団を敷いたっけ。あの時だって、寝るような時間じゃないのに、布団を準備したなあ。
記憶が浮かんで来るたび、頬がカッカと火照りだす。
「なあ」
「ぅ、はぃ……」
「どうする?」
「……どうする、って、」
こっちは完全にこのあとする気でいたのだ。どうもこうも、セックスしたい以外に返せる言葉がない。
だが、それを皆まで言ってしまえば、がっついているようで格好が悪い。今更、ドラケン相手につける格好などない。わかっているが、細やかなプライドが即物的な物言いをしたくないと駄々を捏ねた。
「じゃあ、」
「じゃあ?」
言い淀んでいると、穏やかな声がすぐそばからする。逸らしていた視線を戻すと、ちょうどドラケンがニヤリと笑ったところだった。
「―― ゆっくり、シよっか?」
いたずらな顔をしているくせに、声色は随分と甘ったるい。表情と声、一致させろよ。どういう返事をするのが正解か、パッと判断できないだろ。浮かんだ悪態は、優しく押し倒されたことで霧散していった。
背中が沈んだのは敷布団だ、当然軋むような音はしない。布団のこういうとこ、嫌いじゃないよ。むしろ、好ましいと思う。
安眠もさせてくれるし、余計な音も立てないし、畳む・敷くの手間をかけてでも、布団を使う価値、自分にはある。
瞼を閉じると、天日干しされた布団の匂いに包まれた。やんわりと唇が沈んだのを皮切りに、無意識に捧げた据え膳は取って食われたのだった。