やっぱりおやすみ
アラームの音が耳についた。
もう起きる時間? 今日は遅出の日だから、ゆっくりできると思っていた。なのに、どうも寝た気がしない。軽くとはいえ、酒を飲んだのがまずかったのだろうか。いや、あの程度、翌日に響く量じゃない。じゃあ、どうしてこんなに寝足りないのか。今もシャンシャン騒ぐスマホに手を伸ばしつつ、寝返りを打った。
「……?」
右手が、喚き続ける端末を掴む。画面を見ずとも、指を滑らせればそれは黙りこくった。室内はぼんやりと明るくなっている。カーテン越しに、朝の柔い光が差し込んでいるせいだ。昨日起きた時と同じくらいの、淡い明るさ。時間を確かめなくとも、現在時刻が早出の起床時間だとわかってしまった。予定では、あと二時間は寝ているはずだったのに。道理で寝足りないはずだ。
かといって、二度寝をする気にもなれなかった。
寝坊が怖いわけじゃない。
―― 寝返りした先に、見慣れた頭があったから、だ。
「みつや?」
「ぅン……?」
そいつを呼びながら体を起こすと、ベッドの横、床に直接座り込んでいる塊から掠れた声がした。寝起きのオレより掠れている。こちらを振り返りもしない三ツ谷の背中はいつもより丸みを帯びていた。なんだか髪も乱れている。
形のいい頭に手を乗せてみると、普段のふわりと柔らかな感触はしなかった。なんとなくベタついている。目一杯構い倒したときの、汗やら脂やらでじとっとしているのに近い。
この様子じゃあ、職場から直接この家に来たに違いない。
わしわしと頭を撫でながら、込み上げてきたため息を飲み込んだ。
「おはよ。来てたんなら起こせよ」
「……」
床に足を下ろしながら顔を覗き込む。そいつの荒れた唇は食パンを咥えていた。声が掠れていたのは、口にコレが入っていたからかもしれない。それか、水分なしに何も付けていない・焼いてもいない食パンを食べているせい。よくもまあ、その安い四枚切りを水分無しに食えるな。昨日消費期限を迎えたそれは、すっかり乾燥してパサパサになっている。何か塗るとかしねえと食えたものじゃねえな、と思ったのはつい昨日のことだ。
……三ツ谷も、似たようなことを思っているのだろう。小さく食んでは顔を顰めながら飲み下している。
「んん……」
「三ツ谷?」
じ、と眺めた横顔は、見事なまでに疲れていた。重たそうな瞼に、くっきりと浮かんだ隈。そっと指先で顎を撫でると、薄く生えた髭の感触もした。
ソレ食うより、一回寝た方が良かったのでは。テキトーにベッド使えば良かったのに。オレが寝てたから遠慮した? 風呂に入っていないからと、人のベッドを使う気にはならなかった? ……疲れ切った三ツ谷にとっては、どちらも些末なことだろうに。最近の、遠慮をしなくなってきたコイツなら、オレを壁際に押し退けて勝手に布団に入り込んできたって不思議じゃあない。
なんとなく削げて見える頬に指を移すと、三ツ谷は指から逃げるように首を曲げた。食パンをどうにか咀嚼している唇はムッと尖る。
「どらけんさ」
「うん?」
「このあいだ、おこさなかったろ」
「……まだソレ根に持ってんのお?」
つい、口から呆れかえった声が出た。けれど、三ツ谷にとっては随分と重大なことらしい。据わった目をさらに陰鬱にして睨み返された。
あーあー、その顔やめろ。オレが悪いことをしたみたいじゃないか。
あの日、コイツを起こさなかったのは、三ツ谷が完膚なきまでに疲れ切っているくせに、セックスしたいと言ってきたからだ。あの状態でヤッたら、間違いなく腹上死される。いや、オレが組み敷くんだから、腹下死? ……言葉遊びはどうでもいい、とにかくセックスどころじゃなかった。だから、こいつ曰くの仮眠を八時間とってもらっただけ。それに、寝て、起きて、風呂に入ったあとで散々シたろうが。根に持たれる筋合いはない。
疲れた頭でもオレの言わんとしたことは伝わったらしい。恨み言を吐いた顔は、あっという間に拗ねた色を強くする。いたずらがバレたガキみたいだ。
こいつの子供っぽい顔を知っている人間はそういない。血の繋がった家族にだって、見せているのは凪いだ顔ばかり。この間、マナが「お兄ちゃんってドラケン君にあんな甘えるの!?」と驚いていたっけ。妹にバレた後のこいつはすごかった。マナを見送ったあと、しばらくオレの背中にくっついて狼狽えていたのは記憶に新しい。ルナどころか、マナにもバレた・どんな顔して実家行けばいいかわからない。ぐずぐずと繰り返されるそれか可笑しくて可愛くて、「開き直っちまえば?」と声を掛けた瞬間、脇腹を殴られた痛みも、よく覚えている。
「……だって」
「ん?」
物思いに耽りかけてた意識が、目の前に引き戻される。焦点を定め直すと、三ツ谷がもそもそと食パンを食みながら拙い口調で喋り出した。
「おこしたら」
「うん」
「―― えっちしたくなっちゃうから」
そういうこと?
すん、と、自分の顔から表情が抜け落ちるのがわかった。なぜこいつは疲れている時に謎の積極性を発揮するんだ。元気なときにやってくれ。それとも、疲れて頭が回らなくなっているからこそ性欲に素直になれるのか? かける言葉を探しているうちに、三ツ谷はがぶりと食パンの白いところに齧りついた。二回か三回噛んだ程度で、ごくんと喉仏が上下する。
「でも、どらけん、へろへろのおれとはえっちしてくんないじゃん」
「そりゃあ、まあ……。つーか、えーと、あれだ、起きて待ってることなくね?」
「ゆかだとせなかばきばきなる……」
「や、隣で寝れば良かったろ。狭いけど」
「それはそれで、よばいしたくなっちゃうからだめです」
「ア……、ソウ」
オマエになら良いよ、と口を滑らせなかったオレのことを、褒めてほしい。喉元まで込み上げきたそれを口にしようものなら、次は情け容赦なくこいつはオレの上に跨ってくることだろう。そりゃあ、三ツ谷にだったら夜這いされても良い。目覚めた瞬間、絶景だぞ。最高じゃねえか。三ツ谷の体調が万全なら、何も文句はない。ただ、実際にそういうことをしでかす三ツ谷は、十中八九疲れている。もしくは、相性の悪い酒を飲んで酩酊している。そんな有様の恋人に、無体を働けるものか。どうせ暴くなら、ちゃんと理性のある状態から落としたいだろ。
静かに深呼吸をしながら、そっと三ツ谷から視線を逸らす。いつもの調子でまじまじと見つめていては、欲を拗らせたコイツに喚かれそうだ。
いっそ、この状態の三ツ谷を一回抱いてみようか? 疲れている状態でヤッたら酷い目に遭う、とわかれば、三ツ谷も求めて来なく……、なるだろうか。疲労困憊の上から叩きつけられる快感に嵌る気がしてならない。それはダメだ。神様とやらがソレを許したとしても、オレの道徳が許さない。
ため息に聞こえないよう息を吐き出してから、気を引き締めるべく、下ろしていた髪を後ろでまとめた。
「わかった。けど、次は起こしてよ。折角恋人が合鍵使ってまで来てくれたんだから、ちゃんと迎えたい」
団子を作るように髪を結んでいると、斜め下からぽやっとした視線を浴びせかけられる。目は口ほどに物を言う、とは、きっとこのことを言うのだろう。声になっていないのに、三ツ谷から「かっこいい」「すき」「だいすき」「えっちしたい」と伝わってくる。くそ、本当に、どうしてこいつは疲れている時ばかりこうも素直になるんだ。
軽く下唇を噛んでから、よし、と立ち上がった。
「飲み物とってくる。コーヒーで……、ああいや、牛乳のがいいか?」
「え、いーよ」
「なんか飲まねえと食えたもんじゃねえだろ、その食パン」
三ツ谷の返事を待たずに、部屋の隅にある台所スペースへ向かう。朝使う分だけ水を入れたヤカンを火にかけ、冷蔵庫から常備している牛乳を取り出した。たぷん、と揺らした感覚から察するに、せいぜいコップ一杯分。三ツ谷用のマグカップに注ぐと、案の定三分の二まで満たしたところで牛乳パックは空になった。
ちらりと改めて見やった三ツ谷は、まあやつれている。あの様子じゃ、ここしばらく、食事も雑に済ませていたことだろう。その胃袋に冷えた牛乳は酷だな。冷蔵庫の上に座っているレンジに突っ込んで、牛乳と書いてあるボタンを押した。チンッと鳴るまでの間に、自分のタンブラーにインスタントコーヒーを放り込む。沸き始めた湯を少量入れて、かき混ぜて、完全に溶けたら、沸騰した湯を注ぎ直す。粉末飲料は丁寧に溶かした方が美味い、というのは何年か前に三ツ谷から教わったことだ。まあ、本人は忘れていそうだが。
「ん、おまたせ」
「ァ、ワ、ありがと……」
三ツ谷の向かいに座りながら、座卓に温めたマグカップを置いた。すぐに、三ツ谷の手が伸びてくる。なぜかこいつは、マグカップの取っ手を持たない。利き手で湯飲み然に陶器を掴むと、一つ息を吹きかけてから、牛乳を啜った。
……この牛乳を飲み終えたら、強引にでもベッドに転がしてしまおう。食パンじゃない、栄養のありそうなものを食わせたいところだが、生憎、今の冷蔵庫の中身じゃ太刀打ちできない。
三ツ谷の疲れの度合いにもよるだろうが、半日はぐっすりと眠りこけるはず。オレの上がりが夜八時、こいつが起きるまでにスーパーに寄って帰れるか。無理だな、出勤する前に一旦買い物だけしちまうか。なにより、食パンを食われた今、オレの朝飯がない。
なんだか、自分も所帯じみたもんだな。同棲してるわけでもないのに。……そろそろ、一緒に住まないかと、持ちかけてみようか。素面の時だと抗われそうだから、今みたいに疲れている時が良い。なんなら、セックスの最中に言質取っちまうか。そんなの、言質じゃないと、やっぱり抵抗されそうだけれど、それはそれ。
コーヒーを啜りながら、温めた牛乳と食パンを交互に口にする三ツ谷を眺めた。
「……あ、のさ」
「ん?」
しまった、見すぎたか。目は口ほどに物を言う、の逆が起きたかもしれない。いや、意識が適度に蕩けている今なら、大丈夫か? タンブラーに口を付けながら誤魔化して、ひとまず三ツ谷の続きを促した。
「今日、あの、仕事、終わってからで、良い、から、サ」
紡がれる言葉はたどたどしい。しかし、気のせいだろうか、先程までの拙さが失せたように思える。多少腹が満たされて、理性が優位になり始めたのかもしれない。
だとしても、睡眠が足りていないのは変わりない。この後、三ツ谷が「目、冴えたからもう大丈夫だよ」と言ったとしても、信用してはならないのだ。まったく、オレの前でまで、大丈夫なんて言わなくて良いんだっての。
「うん、今日オレ遅出だから、ちょっと帰り遅いけど、それでもいーい?」
「ん、うん、」
相槌がてら軽く返すと、三ツ谷が上目遣いでこちらに視線を送ってきた。伏せられていた長い睫毛が、ぱちりと上を向く。温かいものを飲んだせいか、少し、ほんの少しだけ、顔色がマシになって見えた。
「―― いっぱい、えっち、したいです」
さて、この三ツ谷は、たっぷり寝て起きても、同じことを思ってくれるだろうか。
……あえて、敬語を使ってくるあたり、素面には近付いている。ああいや、ほとんど素面と思って良いな。なんせ、髪の間から見える耳が、ポッと赤く染まっている。
「……いーよ」
「ッほんと、」
「おう。でも、一つ、約束な」
タンブラーをテーブルに置いて、ぐっと三ツ谷の方に手を伸ばした。さほど大きくない座卓だ、オレぐらいの腕の長さがあれば、正面にいる奴に手は届く。ぽん、と、三ツ谷の頭に手を載せて、乱れた髪を撫でつけた。
「ちゃーんと寝て、―― イイコにしてろよ」
緩んだ顔のそいつから聞こえた返事は、懐かしい響きのものだった。