そしておやすみ
珍しいこともあるものだ。
呼び鈴の音に外を確かめもせず玄関を開けると、そこにはムと唇を引き結んだ三ツ谷が居た。はて、今日、家に来るという連絡は来ていたか。いや、来ていない。今日、スマホに来た通知は、仕事の関係だけ。三ツ谷からの音沙汰は一つもなかった。それが悪い、とは思わない。なんせ、一か月程前に「忙しくなる」と言われたからだ。慌ただしい時、スマホを見なくなるのはむしろ三ツ谷の方。ただでさえ機械が苦手なのだ、多忙を極めている状況で、ちまちまとスマホでメッセージ送受するなんてできないに決まっている。だから、仕事が落ち着いて、ぽろっと三ツ谷から電話が来るのを待っていたのが、ここ最近。
本当に、電話ないよな。尻側のポケットに捻じ込んでいた端末を取り出すが、それらしいポップアップはない。
「おれよりすまほかよ」
「悪い、連絡寄越してたかと思って」
「……してない、けど、ごめん、きた」
「や、謝んなくていい、」
オレもたまにやるし。なにより、突然だろうと、三ツ谷の顔を見れたことに違いはないから。
スマホを見ていた視線を持ち上げると、ふ、と三ツ谷の姿が視界から消えた。何? 疑問が浮かぶと同時に、とすんと体の前面に緩い衝撃。上げたばかりの視線を下ろすと、そいつの旋毛が見えた。
今日は、珍しいことが重なる。まだ、玄関の扉が閉まってもいないのに、抱き着いてくれるなんて。そろそろと室内に下がりつつ、扉から手を離した。その背中に腕を回す頃には、ばたんとスチールの扉が閉まる音がする。
「三ツ谷、」
「ん」
「どした、なんかあった?」
「なんも、ない」
「ないってこたねーだろ」
「ないよ。ただ、その、……つかれた」
緩い呂律で喋る三ツ谷は、ぎゅう、と腕に力を込めてくる。つかれた。オレの体に顔を埋めながら、そう一言だけ繰り返した。
「……忙しかったんだよな。どうにかなった?」
「してきた。おわった。もうじゆうだ」
「そりゃ良かった」
「しばらく、あのクライアントのはひきうけねえ……」
「ふぅん?」
こいつを疲弊させる仕事がどういうものなのか、自分は詳しく知らない。教えても貰えない。だが、それでもわかることはある。ちゃんと寝て、飯を食って、この疲れが取れたら、何事もなかったかのようにその取引先の仕事を引き受けるのだろう。なんだかんだ、報酬は悪くない、と言って。
とりあえず、今は休ませよう。わざわざオレの家に来てくれたのだ、腹を満たして、風呂に入れて、ぐっすりと寝てもらわなくては。労わりを込めて、軽く背中を叩いた。
「どらけん」
「ん?」
「おれね」
もそりと三ツ谷が顔を上げた。ぎゅうぎゅうに顔を押し付けていたせいか、額がうっすらと赤くなっている。鼻先が赤いのは、この寒空の中、歩いてきたせいだろう。静かにそいつの頬に手を添えると、思った通りに冷たくなっていた。なんとなく乾いている感じもする。肌荒れってこういうことを言うんだろうか。やわやわと揉むと、三ツ谷は瞼を閉じながらこちらの手の平に擦り寄ってきた。なんの躊躇いなく、甘えてくれる。これも、普段の三ツ谷じゃ拝めない。
「あした、休みになった」
「良かったじゃん。おめでと」
「うん、だからね」
目を閉じたまま、とろとろと三ツ谷は喋る。こちらを見上げてくれているのもあって、口付けを待っているかのようにも見えてきた。けれど、喋りかけの状態でキスをして、機嫌を損ねられたくない。明日休みになったというのなら、なおのこと。水曜はこちらも定休日だ。今晩焦らなくったって、明日たっぷり触れさせてもらえばいい。
荒れた唇から舌が覗く。赤いその先は、ちろりと下唇を湿らせた。あわせて、三ツ谷の瞼は持ち上がる。映っているのは、疲れと、眠気。―― それから、んん、これは。
「―― いっぱい、えっちしよ」
頬を撫でる手が、止まった。それでも、三ツ谷がこちらを熱っぽく見上げてくるのは変わらない。
「それは、嬉し、んだけど、」
「……だめ?」
「だめじゃない」
「じゃあしよ」
「あー……」
こて、と小首を傾げながら三ツ谷は強請ってくる。これは相当疲れているらしい。どれほど不摂生を極めたら、ここまで欲に忠実になってくれるのだろう。普段からこれくらい素直だったら。……普段の、目一杯隠してみせる素振りも愛おしいんだよな、どちらも捨てがたい。
とん、とん、と一定のリズムで三ツ谷の背中を叩きながら、頭を巡らせる。ここ一か月、顔を合わせていなかったのだ。この体を存分に貪りたいのは、オレも一緒。かといって、困憊している体に鞭を打たせてまで、どうこうしたいとは思わない。というか、今ヤッたら、最中に寝るだろオマエ。そんなことでオアズケを食らいたくはない。
こちらの葛藤になど気にも留めず、三ツ谷は熱っぽい視線を送ってくる。これを受け止めていたら、揺らぎそうだ。がぶりと唇に噛みついて、耽ってしまいそう。逃れるように、視線を逸らした。
「あ」
そこで、ふと、晩飯のことを思い出す。今の今まで、台所に立っていたんだった。一度思い出してしまえば、そこら中に漂う甘い出汁の匂いに意識が向かう。脳内の天秤は、ガタンと性欲から食欲に傾いた。
「なあ、飯食ってからにしよ」
「めし」
「そ。あと煮るだけだし」
さっと視線を三ツ谷に戻すと、垂れた目がぱちぱちと瞬きをする。一拍置いて、まだ赤みの残る鼻がひくりと動いた。
オレが晩飯を作っていたのに、気付いたらしい。むにゃりと、その唇が波打つ。今すぐしたいはしたいのだろう。けれど、三ツ谷自身、飯を作っている最中にちょっかいを掛けられるのを好まない。火だとか包丁だとかを使っていて危ない、というのもあるし、飯を粗末にするのを嫌う、というのもある。あとは、どうせなら出来立てを食べたいじゃん、とも言っていたっけ。もしこれで、材料を並べただけだったら、冷蔵庫に突っ込めばいいだろ、と返されたろう。けれど、残っている工程といったら、冷凍うどんをぶち込むだけ。
そういう意図は込めずに、指先で三ツ谷の頬を撫でた。物欲しそうな顔をするこいつには悪いが、少し我慢してもらおう。そのために、冗談めかした笑みを浮かべて見せた。
「それに、やってる最中、腹鳴ったら笑えるだろ」
「んー? ……んふ、それは笑っちゃうね」
たちまち、仕方ないなあ、と甘く呟きながら、三ツ谷の腕が離れる。それから、緩慢な動きで靴を脱ぎ始めた。低い位置に移動した頭を一つ撫でてから、一足先に部屋に戻る。と、すぐにぱたぱたと三ツ谷が駆け寄ってきた。ガスコンロの前に立つオレに、ぴたりとくっついてくる。おい、火使ってるときくっつくの、危ないんじゃなかったのかよ。思いこそすれ、その諫言が声になることはなかった。だって、可愛いじゃん。どうせ、うどんを放り込むだけ。鍋を振るうなんて高度なことはしない。
消した火を付け直しながら、横目で三ツ谷を眺めた。部屋の灯りに照らされた顔色は、想像以上に悪い。目の下には、はっきりとクマもできていた。……ヤッてる場合じゃないな。やはり今日のところは、腹いっぱいにさせて、健やかに眠ってもらおう。
オレの細やかな決意をよそに、三ツ谷はくつくつと煮立つ鍋を覗き込む。口は、ぽか、と半開きになっていた。ほんとオマエ、疲れてんなあ。
「なにつくってんの、すきやきみたいなにおいする」
「すき焼きのたれで作る肉うどん」
「ほぼすきやきじゃん」
「具は色々足りないけどな」
軽く菜箸で鍋の中を混ぜる。明日も食おうと思っていたから、間違いなく二人前はあるだろう。汁はすき焼きのたれ、具は葱と牛のこま切れ肉。もういくらか三ツ谷の意識がはっきりしていたら「牛じゃん!」と歓声を聞けていたことだろう。たぶん、今のこいつは「良い匂いする」くらいしか理解できていない。
三ツ谷にくっつかれたまま冷凍庫からうどんを三つ。待て、こいつどれくらい食えるんだ。食ってる最中に寝やしないか。もう一度三ツ谷に視線を向けると、目が合った途端、へへへと緩い笑みを返された。……これは寝るな、うどんは二玉にしておこう。冷凍庫の引き出しを足で閉めつつ、ごつりと傍にある頭にこめかみをぶつける。
「なあ、座って待ってろよ、すぐできっから」
「いい、みてる」
「オレの腕は信用できねぇって?」
「ちがう、くっついてたいの」
あ、そう。
いっそこの男、酩酊しているのでは。そう思えるくらいに、素面じゃ聞けない甘さが各所に滲んでいる。ぱりぱりとうどんの包装を剥がすのに意識を集中させた。擦り寄ってくるコイツに向き合っていたら、先程の決意は無駄になってしまう。
煮えた鍋の中にぽいぽいと塊を落として、うどんが解けていくのを見下ろした。入れた瞬間こそ、泡は静かになるが、すぐにくつくつと水面が揺れ始める。
「たまごいれよ、たまご」
「溶いたの?」
「ううん、そのまま、ぼたっと」
「ぼたっと」
いつの間にか上機嫌になっていた三ツ谷は、いそいそと棚からどんぶりを取り出した。ついでに、勝手に冷蔵庫を開けて卵を取り出す。買っておいて、良かった。これでなかったら、ムとごねられたかもしれない。さすがにそこまで箍が外れてはいないか? どうだろう。酔っていたらぐずるが、素面だったら眉を下げるだけで終わる。じゃあ、疲労困憊の今は? どちらの扱いをするのが正解か、どうも掴みかねている。
あれこれ考えつつも手は動く。雑にどんぶりに流し込むと、すぐに三ツ谷は卵を割った。一つ、二つと割って見せる手付きは悪くない。むしろ良い。手慣れている。くたくたでも、こういうところはちゃんとしてるんだな。
感心しているうちに、三ツ谷は比較的多く盛られた方のどんぶりを両手で掴んだ。
「……オマエ、食えるの?」
「たべるよ?」
「や、まあ、ウン、なんでもない」
これは通じていない。抱いたばかりの感心は、一秒と持たずに消えていった。全部食うならそれでも良いし、食えなかったらオレの胃袋に収まるだけ。
どんぶりの他に箸を二膳と七味唐辛子を引っ掴んで、三ツ谷の隣に胡坐を掻いた。くたくたな上にふにゃふにゃのそいつに箸を手渡すと、いっそう緩んだ顔を向けられる。随分と幼い笑い方だ。下の妹とそっくり。いや、あの妹がこいつに似てるのか?
「ふふふ、いただきます」
べちんと両手を合わせる音がした。すぐに、箸先はうどんを持ち上げて、口に運ぶ。あ、火傷する。そう思った瞬間、三ツ谷の口から「んヂッ」と悲鳴が聞こえた。言わんこっちゃない。言ってないけど。そのうちに、三ツ谷の唇がつんと尖って、ふうふうと息を吹きかけ始めた。そうそう、ちゃんと冷ましてからな。慌てて食うなよ。
何かと危なっかしい三ツ谷に意識を向けつつ、ずるりとうどんを啜った。市販のたれを使っている以上、マズくなるわけもない。町内会の何かで貰って、戸棚に仕舞い込んでいたのだが、使う日がきて良かった。ぱらぱらと七味を掛けてから、もう一口。もたもたと食べている三ツ谷には悪いが、先に食い終わってしまいそうだ。なんなら、足りない。レトルト米飯でも温めるか? まあ、三ツ谷が食い切れるかにもよるか。
どんぶりを持ち上げながら隣を見やると、ちょうど三ツ谷の箸からぼちゃんと葱が落ちたところだった。
「ん、ふぁ、ああ」
「……眠そうじゃん」
「寝ないよ、えっちするまで」
「無理すんなよ」
「ねないってば」
「でも眠いんだろ」
「うん、ぅう、ンンねむくない」
「どっちだよ」
明らかに眠そうじゃねえか。吐息だけで笑うと、呻きながら三ツ谷はうどんの続きを食べ始めた。しかし、啜るのは一本ずつ。噛み締めるのも、とろくさい。これは寝るな。温かいものを食べて、体温も上がってきたのだろう。家に来たばかりのときより、幾何かは血色も良くなった。それでも、疲れが失せたわけではない。
ちゅる、り。何本目かのうどんを啜ったところで、三ツ谷の箸が止まった。とっくに空になったこちらのどんぶりと違って、まだ半分、いや三分の一かな、くらいは残っている。舟をこぎながら、これだけ食えたのだ、上出来上出来。
「ごめん、おれ、もう、ぅう、ねむい……」
目を擦り始めた三ツ谷からどんぶりと箸を取り上げる。それらを一旦テーブルの端に置いて、ティッシュで三ツ谷の口元を拭ってやった。極端に汚れていたわけではないけれど、念のため。単にオレがやりたかっただけ、というのもある。
なにもかも、されるがままの体をぐっと持ち上げて、すぐそばにあるベッドに転がした。
「ちょっとしたら、おこして」
「はいはい」
「おこしてね!」
「わーったって、起こすから」
瞼はほとんど閉じかけているのに、声だけはムキになっている。掛けてやった布団は、すぐ起きるんだから、と跳ねのけられてしまった。仕方がない、熟睡した頃に掛け直そう。
こちらの吐いたため息も、浮かべた苦笑も、三ツ谷は気付かない。それでいいよ。疲れてどうしようもないときまで、気を遣ってもらいたくない。むしろ、気を許されているようで嬉しくなる。当人は、セックスしたくて来たんだろうけど、それはそれ。
「おやすみ」
静かに告げて頭を撫でると、む、と引き結ばれていた唇が、柔らかく解けていった。