Nihilitime
自分は薄情な人間だったらしい。
その男の葬儀に参列した時、心底思った。どうしてって、あれほど憧れた男が亡くなったというのに涙ひとつ出てこなかったから。
手向けてくれと渡された花を見下ろす。花なんて似合う男じゃない。そう思うのに、花に囲まれていく亡骸は妙に美しくて、あたかもそれが正しいかのように見えた。
さあ、自分の持つ一輪も、この正しさに加えなくては。棺の横に立って、ぼおっとそいつを眺める。髪を下ろされているせいで、その男の象徴たる刺青は見えない。いや、そのあたりに花を置く者が多いせいかもしれない。こめかみの横、片一方だけがやけに華やかだ。バランス、悪いな。つい、手は何もないほうのこめかみに伸びていた。
百合が、ぽとり、落ちる。
指先から、滑るように、離れる。
「っ」
手を退く瞬間、不意に、爪先が頬を掠めた。走る感触に、ゾ、と血の気が引いた。
冷たい。当然だ、もうその体に血は流れていないのだから。硬い。死後硬直という言葉こそ知っていたが、これほど時間が経っても硬いものだとは知らなかった。
コレは、ヒトじゃなく、もう、モノになってしまったのか。
相変わらず涙は出なかった。そもそも、その空間に嗚咽はない。誰もが、アレが死体だと受け止め損ねているせいかもしれない。だって、急だったもんな。足を洗ったはずが、また手を染めていたなんて、皆知らなかったろうしな。
オレは、知っていたけど。
知らされて、いた、けれど。
「……あー、」
一つ、ぼやいたのまでは、覚えている。
そのあと、どうやって家に帰ったのかは、よく覚えていない。
ただ、当時を思い返した妹曰く、「お兄ちゃんが「ただいま」って言わなかったの、アレが初めてだったよ」と。それは悪いことをした。ごめんな。そんな意図を込めて頭を撫でると、やめろと嫌がられてしまった。そりゃそうか、もう妹も子供じゃない。すっかり、大きくなった。大人に、なった。
それだけの年月が経った今でも―― あの男の言葉を借りるならば―― オレは龍宮寺堅を引きずって生きている。
◆◇◆◇
夏は、忙しくすると決めている。
自分がやれること、やりたいこと、とにかく全てに手を付けないと気が済まない。それで我が身を削ることになろうとも、やらないと逆に落ち着かないのだ。こればかりは、あの男にかけられた呪いなのかもしれない。まったく、厄介な遺言を残していきやがって。
そして今年も、忙殺される毎日を過ごしている。湿気の鬱陶しい六月から始めたソレは、残暑もいい加減にしろと吐き捨てたくなる九月まで続く予定だ。この期間は、余程のことじゃない限り、仕事を断らないと決めている。夏場の三ツ谷はなんでも受ける。この二、三年で、業界にも大分知られてきた。おかげで、劣悪な条件の契約まで持ってこられるほど。よくやるよ。オレが昔ナニしてたのか、知っててやってんの? 知らないんだろうな。なんなら、初めて貰ったデカい賞をその場で辞退して、出戻り不良したってことも。
ひたすらに、手を動かす日々。睡眠時間は削れるし、食生活も疎かになる。休んでなんか、いられない。立ち止まっている時間など、一秒たりとも存在しないのだ。
―― それはそうとして、一日だけ、仕事を放り投げる日がある。
「あーあ、今年も行っちゃった……」
忘れることなく、行ってしまう、場所がある。
三回忌はとっくに過ぎ去った。丁寧に数えれば、そろそろ七回忌だろうか。三回忌より先の供養はしないと養親たる人は言っていたっけ。その言葉に嘘はないらしい。まあ、こっそり、ひっそり、やったのかもしれないが。声を掛けられなかった以上、実際どうしたかは知る由もない。
久々に職場ではなく自宅に帰ってきて、礼服のネクタイを解いた。夕暮れの日差しが差し込む室内はがらんとしていて、生活感はない。そりゃそうだ、もう一か月、まともにこの部屋で過ごしていないのだから。いっそアトリエと住居を一緒にしてしまおうか。そうしても支障がないくらいに、仕事場に物は揃っている。着替えも置いているし、この礼服だってそう。シャワーブースもあるから、仕事場で生活したってそれなりに身なりは整えられる。寝床こそないが、まあ、いざとなれば人間床でも寝られる。真面目に考えてみることにしよう。
最後に綺麗に磨いていったシンクは、うっすらと埃をかぶっていた。水、出るかな。指先でちょいと水道のハンドルを上げると、ドッと水が降ってきた。勢いが良すぎて、あちこちに水滴が跳ねる。ざぶりと流水に手を突っ込むと、いっそう跳ねる範囲は広くなった。ちゃんと周り拭かないとなあ。思いはすれども、布巾を取り出すのは億劫。雑に洗った手を拭くのすら面倒で、そのままふらふらとベッドに向かってしまった。
「ん」
どふんと倒れ込むと、埃が舞う。つい吸い込んでしまって、けほけほと咳き込んだ。手に着いた水滴は、ちゃくちゃくと布団カバーに吸い込まれていく。このまま寝転がっていたら、礼服に皺ができるのだって間違いない。なんなら、線香の匂いが布団にうつってしまう。今日は朝から晴れているから、汗もかいた。髪も皮膚も、べたついている。一度シャワーを浴びて、着替えないと。
しなければならないことが浮かんでは、無気力の前に倒れていく。
それでも、なお、やらなきゃ・やれ・動け、と言い聞かせれば、閉じた瞼は持ち上がった。まだ半分ほど濡れた手を布団について、体を起こす。何も貼っていない、まっさらな壁を睨んでから、不快を訴えてくる髪に指を通した。変に滑る頭皮を撫でて、見えない龍を確かめる。
「ど、ら……、けン」
呼び慣れたはずの愛称を声にした。しかし、数年ぶりに発したせいか、上手く音を繋げられない。こうやって、過去は風化していくのだろうか。それに越したことはない。記憶が朧気になってくれさえすれば、夏になる度に身を削るようなことはしなくなるだろうから。まったく、自分はいつまで引きずるのだろう。ここまで来たら、本当に一生ものになりそうだ。
そっと喉を擦った。汗のひき始めた皮膚は、ずいぶんとべたついている。気持ち悪い。息苦しさも感じる。……それは、シャツのボタンを上まで閉めているせいか。指先を滑らせて、一つ、二つとシャツのボタンを外した。ついでに、着ていた黒のジャケット脱ぎ捨てる。鬱陶しかったそれを、ぽい、と床に落とした。いよいよ、皺ができるな。布の塊を眺めながら、ふ、自嘲気味に笑った。
「ドラケン、」
今度は、滑らかに、その愛称を呼べた。
「―― なに」
返事が聞こえたのは、気のせいだろうか。気のせいに、決まってる。いくらなんでも、感傷に浸り過ぎだ。これまで、物思いに耽ることはあっても、幻聴が聞こえることはなかった。疲れているのかもしれない。三時間も寝れば十分と思ったのに。こういうとき、人体って厄介だよなあ。摩耗すればする分、後からツケとなって返ってくる。最近も、同業者が過労で搬送されたって聞いた。彼女はそのあとどうなったんだろう。最近名前を聞かない。亡くなった? いや、そんな話は聞いていない。辞めたんだろう、そういう、ことに、しよう。
「おい、呼んどいてムシすんな」
「え、」
畳み掛けるように声が聞こえる。さっきとは違って、拗ねた声色。咄嗟に振り返ると、ラックの前に子供が座っていた。夕日を浴びながら、つん、と唇を尖らせている。その側頭部は剃り上げられていて、その子供の年齢には不釣り合いな絵が彫ってある。
幻聴だけじゃ飽き足らず、ついに幻覚まで見えるようになるとは。
いよいよ病院にかかるべきか。過労で行くなら、ええと、内科? 幻覚で行くなら、精神科か。
「なあ、聞こえてる?」
「き、こえて、る」
「じゃあ返事くらいしろよ」
「ごめん……」
掠れた声でどうにか返事をすると、そいつはひょいと立ち上がった。靴は履いていない。かといって、裸足でもない。右手にはレジ袋が提げられていた。中身は弁当だろうか。カルビ丼? 牛丼かもしれない。あとは、カツ丼もよく食べていた。この歳の頃は、肉系のどんぶり物をローテーションしていたっけ。偏った食事しやがって、野菜も食えよ。そう言ったら、おもむろに五百円渡されて「じゃあ、三ツ谷ん家で飯食わせて」と押しかけられたことがある。……それから中学に入るまでは、八戒ほどではないがこいつもよくウチに来ていた。
ああ、思い出してしまう。脳みその奥底に仕舞っていた記憶が、呼び起こされていく。
すとんとベッドに腰掛けたそいつは、まだ、なんとなく甘い匂いがした。
「ここ、オマエん家?」
「ああ、うん……。そう」
「へえ、なんもないね」
「……そう、かも」
「すっきりしてて、オレは好き」
すっきり、ね。にぱっと向けられた笑みに、曖昧な表情を返してしまった。
物を増やすと思い出も増える。もう煩わしい思いはしたくない。だから、増やすのは、仕事に関わるモノだけと決めている。そうすれば、ずっと仕事のことを考えていられるだろう? 服飾のことだけ考えて、過ごしていられる。……でもなあ、黒い服を仕立てると、どうやったって思い出しちまうんだよな。しかも、オレが評価されるのは、そういうモノトーンの服ばかり。色鮮やかなものが評価されないわけではないが、賞を取るのは黒い作品が圧倒的に多い。仕事にのめり込んだって、そりゃあ忘れられないわけだ。
座ったその子供は、がさがさと音を立てながら弁当を取り出す。ついてきた割り箸をパキンと割って、蓋を外した。これは、カルビ丼。あの日、こいつと初めて会った時に食べていたのと、同じだ。
「……食う?」
「え」
懐かしい、と見つめていた目が、物欲しげに見えたのだろうか。一口だけ頬張ったそいつは、容器をこちらに差し出してくる。そういえば、朝から何も食べていない。が、あの日と違って、腹は鳴らなかった。空腹感もない。
それ以前に、だ。
「ガキから、貰えるかよ」
「ム」
静かに首を振ると、そいつはあからさまに口を尖らせた。眉間にはギュッと皺が寄る。見るからに、拗ねています、という表情。あれ、こいつ、こんな顔して見せること、あったか? なくは、ない。確か、そう、子供の頃だけ、こいつの養親だとか、育った家で働いている女性たちに、しばしば向けていたはず。
よくもまあ覚えていたものだ。どんだけオレはこいつのこと好きなんだよ。我がことながら、ちょっと、引く。
胸中で自嘲しているうちに、そいつは米と肉を口に運んだ。たくさん詰め込んだせいで、ぽこり、頬が膨れる。突いてみたいという欲が込み上げたが、そんなことしたらもっと拗ねられそうだ。伸ばしたくなる腕を堪えて、ごくんと飲み込むのを見届けた。
「……この間は食ったくせに」
「え」
ぽつりと、ぼやくようにそいつは零した。続けて、じっとりとした目付きで睨まれる。怖くはない。だって、オレより体は小さい。出会って、間もない頃の体格に見える。まだ、オレとの関わりは薄いだろうに。
「オマエ、オレのことわかるの」
「? ウン、三ツ谷だろ?」
あっけらかんと、そいつは言ってのけた。なんなら、「大人みたいな見た目してるけど、わかるよ」とも付け足される。
本当に、都合の良い幻覚だ。もっと自分は、現実を見れている・受け止められていると思っていた。だが、そうでもないらしい。人並みに欲もあれば、夢も見る。この歳の頃のこいつにすら、三ツ谷隆を認識してほしいと思っていたとは。
「は、はは、」
ついに腹の中では抑えきれなくなって、口から乾いた笑い声が零れていた。
「……そうじゃなかったらどうすんの」
「うん?」
「危ないことする大人かもしれないよ、オレ」
「でも三ツ谷だろ」
「どうだろうね」
「いや、絶ッ対ェ三ツ谷だから」
その自信は、一体どこから来るのだろう。いや、違う、オレの幻覚だから、こんなことを言ってくれるんだ。かすかに触れている肩から伝う子供体温も、香水を使い始める前のこいつ自身の甘い匂いも、全部、自分が作り出した幻に決まっている。
「三ツ谷なら、そういうことしないよ」
したいって言ったらどうすんの。
子供相手に興奮なんてしないと思ってたけど、オマエにだったらできる気がしてきた。それか、オレがこの手で今殺してしまおうか。それもありかもしれない。オレの知らないどこかで誰かに奪われるくらいなら、いっそ、自分がこの手で。ぐるぐると血迷った思考が駆けまわる。
気付くと、腕が持ち上がっていた。夏だというのに冷え切った指先が、もぐもぐと動く頬に伸びる。まだ曲線を思わせる輪郭に、ぷつり、触れた。
「うぉ、なに」
「は、はは」
―― ああ、冷たくない。硬くも、ない。
ぐつぐつと、劇場が煮え始める。心臓は早鐘を打ち、痛いくらいの速さで血が巡りだした。もう、身持ちを崩すほどの衝動に襲われることはない。そう、思っていた。そこまでの強い感情に揺さぶられることはないと、確信すらしていた。なのに、こんな、たかが幻覚でトチ狂う羽目になるとは。
ぼたりと腕が落ちる。頭も上げていられなかった。
「う、ぇ、えぇ? おい、泣くなよ」
「泣いてない」
「ほんとかよッ……!? あ、ほんとだ、泣いては、ない、……けど、」
隣から、慌てふためく気配がする。立ったり、座ったり、ビニール袋が擦れる音がしたり、何かを置く音がしたり。そのうちに、ふと、骨ばった手が視界に入った。まだ体は小さい。けれど、大きくなる片鱗はそこかしこにある。手も、そうだ。子供と思っていたけれど、単純な手の大きさなら、今のオレよりも大きいかもしれない。厚みはなく、まだ、頼りない。けれど、ぺたりと頬を包まれると、苦しいくらいに安心する体温が伝ってきた。
「酷い顔、してる」
オマエのせいだよ。そう言ったら、こいつも似たような顔、するんだろうな。飛び出しかけた言葉は、奥歯ですり潰した。……代わりに、これからする情けない真似を、許してほしい。
「ごめん、ちょっと、だけ、だから」
「ぉ、ワ、……うん」
うらりと、両腕を自分の前に立つ体に回した。こっちがベッドに座り込んでいるため、頭はちょうどそいつの胸のあたりに埋まる。良い大人がこんなガキに甘えるなんて、本当みっともない。情けないったら。それでも、離れることはできなかった。躊躇いがちに頭を撫でられると余計離れがたくなってくる。
縋りついた体は、最後の記憶のアレより、ずっと薄くて細い。でも、温かいし、柔らかい。生きている。幻覚に生きているもクソないってのに。
ゆっくりと、意識が黒に落ちていった。
瞼を開けると、見慣れた自室の天井があった。背中には布団の感触。重たい腕を持ち上げると、昨日着ていたシャツの袖が見えた。背広こそ脱いだものの、どうやら喪服のまま寝てしまったらしい。体を起こすと、雑に脱ぎ捨てられたジャケットが床に落ちている。皺になっているのは、間違いあるまい。
「……あー」
それにしても、嫌な夢を見た。なんの得にもならない、惨めで虚ろな夢を。額を押さえながら室内を睨むと、座卓の上にあるレジ袋が視界に入った。それと、食べかけの弁当も。よりもよってカルビ丼。なぜ買ったんだろう。買ったときの記憶が既に怪しい。とにかく、あんなの買ったから、こんな夢、見たんだ。きっと、そう。
◆◇◆◇
あれから妙な幻覚を見るようになった。
例えば、仕事で海辺の町を訪れた日。この眺めは、結成して間もない頃に流した道に似ているなあと思ったら、幻覚は現れたのだ。身長は伸びているが、髪はまだ編むほどの長さではない。ちょうど、思い耽った時分の姿だ。どうせ夢なのだし、と頭をわしゃわしゃと撫で回したら、やめろと手を叩き落とされてしまった。耳が赤く染まっていたから、恥ずかしかったのだと思う。当時は、ただただ格好いいと眺めていたのだが、この歳になってから見ると可愛くて仕方がない。やっぱり頭を撫でたくなって、我慢するのに必死だった。
例えば、教会で撮影があった日。珍しく雪が降ってきたなと思ってはいたが、今度はかつてのクリスマスの時の姿で現れた。帰宅して早々に「エアコンつけて良い?」と聞かれたっけ。分厚いパーカーに上着を着ているというのに、幻覚は「寒い寒い」と鼻の頭を赤くしている。そんなに寒いのかと背中を擦ってやったものの、重なった布の感触しかしなくて無性に笑えた。
「ふふ……」
ことあるごとに、その夢想はオレの前に現れる。こっちの都合などお構いなし。突如、姿を見せては、心の内側を散々引っ掻き回して消えていく。いよいよ、精神科を受診すべきだろうか。それとも、まずは、心療内科から? ぼんやりと自分の心配をしてみるものの、どこかその幻覚に会うのを楽しみにしている自分もいる。まったく、救えないったら。
「ッ三ツ谷さん!」
「え」
そんな日々の幻覚に思いを馳せていたら、反応が遅れた。
どん、と体が突き飛ばされる。同業者と情報交換がてら飲んだ帰り道、駅の階段を上っているところだった。浮いた身体が、ゆっくりと落ちていく。あ、これ、やばいんじゃね? 知人の青褪めた顔が視界を掠めた。階段の上のほうから、群衆の叫び声がする。ちらほら「通り魔」という声もするから、もしかすると自分は凶刃の最初の被害者になったのかもしれない。
うわー、よりにもよってオレかよ。まあ、怪我も痛みも慣れている。命だけは助かりますように。そっと念じたところで、頭に衝撃が走った。
診断は脳震盪。あとたんこぶ。ばっくりと割れることはなかったが、仰々しい包帯は巻かれてしまった。あんな包帯を巻いたのはいつぶりだろう。それこそ、イキって喧嘩に明け暮れていたときぶりではないだろうか。一種の感慨に耽っていたら、担当の看護師に呆れた顔をされてしまった。その怪我でしみじみできる患者は、初めてだと。
「やっと帰ってこれた……」
数日の入院を経て帰ってきた我が家は、まあ冷え切っていた。ちらりと覗いた部屋は、妹が荒らしたのそのままと見える。荒らした、というのは言い方が悪いな。着替えを取ってきてくれと頼んだのは自分。通り魔が出た駅だったから、余計に動揺したのかもしれない。いやあ、刺されなくて良かった。突き飛ばされただけで済んで、本当に、良かった。
エアコンをつけながら、包帯の巻かれた頭をそっと撫でた。ぶつけたのは、刺青を入れた側。縫うような怪我になっていたら、この龍も無事じゃなかったろう。
「―― ハ」
「ん?」
おもむろに、背後から声がした。鍵は閉めている。誰かを連れてきた覚えもない。窓だって開けていない。
出たな、不法侵入者。もとい、―― あの男の、幻覚。
ゆっくりと振り返ると、そいつはちょうど部屋の扉を開けたところだった。さて、今回の幻覚は、どの時分の龍宮寺堅なのだろう。これまでの幻覚がだんだん歳を取っているのを思うと、十五、六歳が妥当なところか。さすがに、十八まですっ飛ばしはしないはず。そうだと思いたい。
……もし、この幻覚が十八歳の姿に辿り着いてしまったら、どうなるのだろう。もう会えなくなってしまうのだろうか。それは、少し、嫌だ。いや、幻覚を見ている時点で嫌だとか良いとかいう話ではないのだけれど。
「いらっしゃい」
そっと話しかけると、エアコンが温風を吐き出し始める。さほど部屋は広くない、すぐに温かくなるだろう。
目を見張っているそいつに意識だけ向けつつ、ひとまずベッドに腰を下ろした。病院のそれより、ずっと低く、柔らかい。ああ、帰ってきたんだな。改めて実感すると、どっと疲れが両肩に乗った。横になろうものなら、三秒で寝られる。自信がある。幻覚が歩み寄ってくるのを感じながら、もすん、上体をベッドに倒した。緩慢な動きで、両脚も引き上げる。寝返りを打つようにして仰向けになると、すとんと男がベッド横に座るのが見えた。……なんだか、目が、虚ろに見えるのは気のせいだろうか。オレが眠たいせいで、光が無いように見えるだけか?
「なに、その、アタマ」
「んん……、階段から落ちた」
「ほんとに?」
「ほんとほんと。ドンッて突き飛ばされちゃって」
「……殴られたんじゃなく? 後ろから、コンクリートブロックとかで」
「うわ、ヤなこと思い出させるなよ」
どうにか意識を繋げながら返していると、十数年前の癪な思い出が蘇ってくる。あったな、そういえば、そんなこと。当時は、何かと頭を殴られることが多かった。そりゃ、喧嘩に明け暮れていたら頭を狙われることは少なくない。思い出させられたコンクリートブロックに、鉄パイプ。あれだけばかすか頭部を狙われて、脳みそを垂れ流すに至らなかったのは幸いだと思う。石頭で良かったと思うべきか、強運に思いを馳せるべきか。いやあ、生きてて良かった。ふふ、口から勝手に笑い声が零れ落ちた。
「……」
「ドラケン?」
「気、つけろよ」
そんなオレとは対照的に、幻覚はやけに覇気の無い声を漏らした。さらには、オレの寝そべるベッドに顔だけ突っ伏す。垂らした前髪は、こちらの顔のすぐそばに落ちてきた。痛んだ毛先がよく見える。ちょいちょいと撫でると、案の定パサついていた。いや、これだけのハイブリーチを繰り返しているわりには、コシがあるほう?
睡魔に抗いながら、男の頭を眺めた。きち、と結ってはいるものの、こんなふうに突っ伏したんじゃ生え際の辺りは乱れているだろう。結び直してやろうかな。前髪から指を離し、毛並みに合わせて頭を撫でた。
「どしたの、珍しいじゃん、ドラケンがそんなになるの」
「めずらしい……?」
三つ編みを手繰り寄せながら、そっとヘアゴムを取った。たちまち、結わえられていた髪がふわりと緩む。しかし、編み込みはまだ解けていない。もそもそと手櫛を通して、やっと金糸はほぐれていった。
と、そいつがのっそりと顔を上げる。随分と近いところにある瞳には、やはり光がなかった。擦ったのだろうか、目元は赤みを帯びている。厚みのある唇は、どうも血色が悪く見えた。
……いつ頃のあいつなのか、わかった気がする。
「パーちんは捕まっちまったし」
「うん」
「場地は死んで、一虎も逮捕された」
「うん、」
「もう、エマもいないし」
「……」
「マイキーも、いなく、なった」
「……、うん」
ほら、当たった。
こいつにとっての特別だとか、唯一だとか、そういうのを立て続けに失った時期だ。生い立ちのせいなのか、こいつの東京卍會への思い入れは強くて、重い。オレなんかとは、比べ物にならないほど。特に、当時の最愛と絶対的な憧憬とを立て続けに取りこぼした窮愁は、きっと自分とは分かち合えない。あれから、何年も経った今じゃ、なおさら。
虚ろな瞳は、ぼんやりとオレを捉えた。気付くと、髪を解いた手は掴まれている。縋るみたいに握りながら、幻覚はカサついた唇を動かした。
「もう、さあ、……オマエしかいないんだよ、オレ」
それ、は。
「それは、どうだろう」
それとなく手を振りほどいて、上体を起こした。
オマエの背中支えてくれる奴は、オレ以外にもたくさんいる。後輩だったら、タケミっちだろ、千冬だろ。東卍の好みでつるんでたぺーやんに、河田兄弟。そうそう、これからは、イヌピーとも仲良くなるんだぜ、オマエ。養親のあの人もいるし、入れ替わりは激しいけれどあの店のキャストさんたちとも上手くやってる。もちろん、オレの知らない人間関係もあったろう。オレしかいない? そんなことは、ないんだよ。
「ハッ」
おもむろに、そいつは表情を崩した。眉間に皺を刻みながら、自嘲するように笑う。は、はは。吐息の多い笑い声が、冷えた室内に響いた。あれ、オレ、なんか間違えたか? 睡魔に飲まれつつある頭を捻ると、離れた手を再び掴まれた。ぎゅ、と。ぎゅう、と。痛いくらいの力で、握られる。
「オマエまで、いつかオレをおいてくのか」
ぽつりと、それは呟いた。静かな部屋じゃなかったら、聞きそびれていたかもしれない。
鼓膜に届いた音は、じりじりと脳みそに沁みていく。オレが、オマエを置いていくだって? ぬかせ、置いていったのは、むしろ。
喉元にまで込み上げてきた言葉を、ぐっと飲み込んだ。そもそも、言葉が足りなかったのはオレのほう。思ったこと、全部言ってやれば良かったかな。オレ以外にも、いるだろって。悲嘆に暮れているこいつが、どこまでその説明を信じてくれるかわからないのが、気がかりだが。そもそも、未来のことをあれこれ教えていいのだろうか。かいつまんで、なら、許されたい。許されるということにしてほしい。
「あのね、ドラケン」
ゆるゆると、ベッドに乗せた足を床に下ろす。ちょうど、座り込んでいる男を挟むような位置へ。いつも人のことを見下ろしてくる男に、泣きそうな顔で見上げられるというのは、不思議な感じだ。可愛いな。つい、そんな不埒なことを考えてしまう。歳のせいだろうか。十代半ばのこの男が、無性に愛らしくみえてくる。だって、オレ以外にも頼る先はたくさんあるんだぜ。なのに、オレが唯一無二みたいな顔してやがる。若いなあ。
「オレは、置いてけなかったよ」
「ッほんとかよ」
「ほんとほんと」
握られてないほうの手でぽんと頭を撫でてやる。泣いちゃうかな、とも思ったが、それは杞憂で終わった。一瞬、顔を歪める程度で堪えられてしまう。なんだよ、泣いてもいいのに。
そのまま頭を撫でていると、緩慢な動きでそいつの腕が伸びてきた。長い両腕が、オレの腰に回る。なんとなく引き寄せられると同時に、腹に顔を埋められた。今度こそ、泣いてるかな。すっかり顔を沈められているせいで、判断できない。鼻を啜っているようでもないし、やっぱり、泣いてはいない気がする。
さて、これからどうしようかな。抱き着いてくる腕は、記憶よりもずっと頼りない。ちゃんと飯食ってる? つーか、寝てる? オレが言えたことじゃないけど、不摂生はよくないよ。ほんと。若い頃のツケ、歳取ってから払いたくないだろ。
「……ごはんでも食う? 簡単なのなら作るよ」
「いらない」
「じゃあ、もう寝よっか」
「ねむくねぇし」
「んん、なら、どうしたい?」
ううん、どちらも却下されてしまった。だからといって、いつまでも冷たい床に座らせているわけにもいかない。エアコンはつけたものの、床に座り込んでたんじゃ寒かろう。せめて、ベッドに引きずりあげられないものか。
「どうしたいんだろ、おれ」
拙い響きの声が、腹にぶつかった。低く掠れたそれが、じゅわりと、体の芯に伝う。飯を食う気分じゃない。寝たいというわけでもない。けれど、どうしたいかは、わからない。
そしたら、ええと、うん、と。
「―― セックスでも、する?」
流れるように、つるりとその言葉は出てきた。何を言っているんだろう。そう、思わないこともない。だが、他にできそうなことなんて、それしかない。これじゃあ、不摂生を重ねるようなもんだってのに。嫌な大人になってしまったものだ、自分も。
というか、こいつの歳を思うと、犯罪か? 幻覚だから無罪? つーか、野郎同士でするセックスってなんだよ。オレ、こいつのこと抱けるかな。できなくはないと思う。ああいや、待て、コレが大人しくオレに抱かれるとは考えにくい。むしろ、あの男の性分を思うと、自分は。
言ってしまった言葉について、頭の中であれこれ言い訳を付け足していると、もそり、腹に埋まっていた頭が持ち上がった。その瞳に、涙が滲んでいる様子はない。相変わらず、光を灯しても、いない。何言ってんの、オマエ。そう言われてもおかしくない。今から冗談と言って、誤魔化せるだろうか。誤魔化せるといいのだ、
「す、る」
けれ、ど?
「する」
巻き付いていた腕が解かれると同時に、体はベッドに倒されていた。
両眼に熱はない。虚ろなままだ。そんなんで、この男はオレをどうこうできるのだろうか。その思考を否定するかのように、そいつは唇を重ねてきた。荒れた表面が、ざり、擦れる。冷えている。が、生きていると思える体温だ。押し付けられるソレは、見目の厚さに相応しい柔らかさも持っている。まず、い。この感触は、駄目だ。これ以上、知ってはいけない。早く、一刻も早く、冗談だと言ってしまわないと。後悔する。この世界には、もうその熱はない。確かめることはできない。
「すくなくとも、してるあいだは、いなくならないだろ」
ああ、くそ、だからそれは。いなく、なるのは。
「……だから、オレはどこにも行かないって」
「どうだか」
翌朝、空っぽの隣に虚しさを覚えたのは言うまでもない。
◆◇◆◇
今年は、いつもより少し早く、忙殺されることにした。
夏と思える時分になってからあれこれコンペに出すのだが、年度が切り替わって早々に予定を詰め込んでいる。スケジュール帳が黒くなっていくのは、いっそ気持ちが良かった。数をこなせれば一人前というわけではない。次の仕事に繋げるのなら、報酬に見合ったクオリティにするのは必須。いやはや、このペースじゃ、夏になる頃には脳みそが焼ききれてそうだ。……まあ、今の自分の限界を測るには、ちょうど良いか。
睡眠時間が惜しかった。丁寧な食事を摂るのも煩わしい。人と会わなければならない日だけは、それらしい人間に擬態をして、ひたすらに手と頭を動かした。紙の上で案を組み立てて、造形が見えたところで布を繰る。
今日は、一対の黒いセットアップを仕立て上げた。
「―― 相変わらず、すげぇもんだな」
黒地に施した刺繍を確かめていると、背後から声がする。聞き覚えが、ない、とは言えない。だが、しばらく聞いていなかったものだ。いや、幻聴をしばらく聞いていない、というのもおかしな話だな。あの男の声は、もう十数年聞いていない。本当なら、どんな声をしていたのか、忘れてしまっているはず。
なのに、あいつだなと、思ってしまう。癪だなあ、本当に。
「……久しぶりだな」
不摂生を極めた顔を見られるのが嫌で、振り返れなかった。あと、今あいつの顔を見たら、何を口走るか、わからないなと思ったのもある。もっと、この幻覚が蜃気楼みたいにあやふやで危ういものだったら良かったのに。それなら、いちいち反応しないで済む。けれど、この幻覚は、やたらと生々しい。本当に、そこに居るかのような存在感を放つ。話しかけられたら、返事をせずにはいられない。
背後に意識を向けつつ、レース状になった袖を確かめていると、ペタパタと歩み寄ってくる足音が聞こえた。スリッパを履いているらしい。確かに、この事務所は土足厳禁。来客者にはスリッパを貸しているが、オマエも履くのかよ。本当に、こういう生々しさ、どうにかならないだろうか。
「元気、じゃあ、なさそうだな」
「はは、元気だよ、これでも」
「ふぅん?」
足音だけでなく、声も近付いてきた。最後のほうは、ほとんど隣から聞こえる。振り向いたら、文字通りの眼前にあいつの顔がありそうだ。オレの背後、少し屈んで、手元を覗き込んでいる。そんな、気配がした。
触れてもいないのに、そいつの体温が伝ってくる。視線が、首筋に突き刺さる。黙っていると、嫌でも男の呼吸の音が耳についた。おかげで、心臓がとくとくと逸りだす。胸の辺りが苦しくなってきて、勝手に呼吸は浅くなった。
諦めて、会話をしてしまったほうが、楽になれるだろうか。
指から力を抜くと、確かめていた袖がするりと逃げていった。
「なに、そんな見つめられると照れる」
「照れてくれんの?」
「……照れるには、もういい歳してるからなあ」
「なんだよソレ……。つーかさー、ちゃんと食ってる? 項、つまめそうなんだけど」
「ワ」
「うわ、ほっそ」
さり、と、そいつの指先が項を挟んだ。触れた手指は、荒れているらしかった。冬だったら、寒さと乾燥のせいだと思えたろう。けれど、もうそんな時期は過ぎ去っている。……手指を、酷使する仕事を、しているのだろう。そうか、今日ここに現れた幻覚は、もうバイク屋を始めているのか。
胸の焼けるような感覚を覚えながら、静かに項に触れている手を払った。隠すように、そこに自分の手を当てる。
「いきなり触るなよ」
「あ、悪い。ケド、ほんと、マジで痩せたよな、そんな忙しいの」
「まあ、それなりに」
「……大丈夫なの、オマエ」
「大丈夫だよ、慣れてるし。オマエには見せたことないから、意外かもしれないけど」
本当に、大丈夫。半ば自分に言い聞かせるように付け足すと、ぐしゃり、背中を掴まれた。襟も引っ張られ、わずかに喉が絞まる。ウ、苦しい。抗議するように、男に視線を向けた。
「っ、」
あ、やべ、見ちゃった。
予想通り、そいつはオレのすぐ斜め後ろにいた。屈んだ姿勢で、眉間には皺が寄っている。唇はヘの字を描いていた。てっきり、ほんのりと心配を顔に滲ませていると思ったのだが、なんだか不機嫌に見える。オレの不摂生な姿が、そんなに不快だった? だったら、口調もきつくなっているはず。
どうせ見るなら、カワイイ顔したドラケンを見たかったな、などと考えているあたり、大概自分も疲れている。
「なあ、三ツ谷」
「な、に」
それはそれとして、そいつの顔を、すぐそばで眺めていることにかわりはない。しばらくぶりに見たそいつは、もうほとんど大人の顔つきをしていた。族やってた頃は、まだ未成熟な輪郭をしていたのに。目を閉じてしまえば、あの棺の中にいた骸と、だいたい同じ。そういう、頃か。そういう時分のオマエなのか。じゃあ、この幻覚とも、もうすぐ会えなくなるんだな。……一周して、子供に戻ったらどうしよう。何度も繰り返されたら、いよいよ気が狂ってしまうかもしれない。
下唇を噛みしめた。込み上がってくる感傷が、口から零れないように、ぎゅ、と。
「……今のオレって、そんな頼りない?」
「は?」
しかし、すぐに口を開いてしまった。
ぽつりと零された言葉が、わんっと脳みそに響く。危ないことに首突っ込むなとか、死ぬほどのバカやるんじゃねえとか、バカやるんならオレもつれてけ、とか。あれこれ浮かんでいた台詞が、舌に乗りかける。だが、悲壮を携えた表情のせいで、音になる前に溶けていった。
「はは、違う違う、それは、ナイ。うん、ないよ」
「でも、見せたことないって……」
「それは、あー、うんと、ね」
は、は、と乾いた笑い声を吐き出しつつ、緩く首を振った。それに合わせて伸びた前髪が揺れる。
オマエが頼りなかったことなんて、未だ嘗て一度もないよ。少なくとも、オレはそう思ってる。いっそ盲目なくらい、憧れてすらいた。隣に並びたいと、心底思ってた。それを頼りない? バカ言えよ。むしろ、頼りねえのは、こっちだ。もっと、そっち側に首突っ込んでたら、巻き込んでくれたのかなって、今でも苦しくなる。
そいつのズレた認識に、いっそ笑いが込み上げてきた。笑わずにはいられない。「頼るなよ」もとい「関わるなよ」っていう線引きしたのは、そっちのほう。
「オレ、置いてかれたんだよ、オマエに」
「は?」
「ほら、不良の世界に戻るって、言ったろ? あれ、まだ言ってない?」
「言っ、た」
「そのあと、ちょっとして、……手の届かないとこに往っちゃったの、オマエ」
俯きながらそれとなく顔を背ける。視線は、ついさっきまで触っていたブラックへ。そういえば、クライアントからの要望もあって、これには龍をモチーフにした刺繍を施したんだっけ。オレの十代の頃の暴挙も知っていて、依頼するときがあれば絶対に龍を取り入れてもらおうと思っていた、なんて契約を交わしたあとに言われた。垂れた袖を指先で抓んで、ゆっくりと持ち上げる。この袖丈、コートの身丈、幅。それぞれ目で見ながら、想定していたサイズを思い起こす。
なんの偶然かな、コレ、たぶん、オマエが着るのにちょうどいいよ。
もしかしたら、向こうのワンピースはあの子に合うサイズかもしれない。
「今も一緒につるんでると思ってた?」
「……正直、思ってた」
それは光栄。もしあの男が今を生きていたら、頻繁に連絡を取ることこそしなくても、年に一回か二回は顔を合わせていただろう。服のほう上手くいってんの・バイク屋は? そんな掛け合いから会話を始めるのが、目に見える。まあ、そんな未来、存在しないのだけれど。
もしもあの時こうしていたら、違う今があったのだろうか。そんな妄想は尽きない。いつだって、後悔を腹に抱えて生きている。ただ、その全ては、自分に向けてのものだ。
「つっても、それがあいつの選んだ生き様だから、別に文句はなくて」
自分以外の誰かが、あの時こうしていたら、というもしもから端を発する悔恨はない。だって、それぞれが決めてやったことだろ。オレがどうこう言える話じゃない。文句を言う筋合いもない。
袖口の刺繍に触れながら、意を決して振り返った。
「ただ、そうだなぁ」
なんだよその顔。迷子になったガキみたいな顔しやがって。そんなに、オレが隣にいない未来が、意外? 一時、線引きをして距離を取っても、いずれ戻ってくるつもりだったのだろうか。だったら、その意志を貫けよ。貫いてくれよ。そしたら、オレは龍宮寺堅じゃないモノのために摩耗してたのかな。摩耗しないで自分が生きるのはちょっと想像できないから、何か別のもののために、寿命すり減らして頑張っていたかもしれない。
ツキツキと頭が痛む。いい加減、寝ないとまずい。明日は、後輩のために仕立てたウェディングドレスの前撮りがある。そこに自分が立ち会う必要はないのだが、様々な角度からの見え方を確認しておきたかった。折角のオーダーメイド、当日は限りなく隙の無いデザインのものを着てほしいだろ?
じんわりと睡魔が首を絞めてくる。瞼は勝手に下がり始めた。
「いつまでもオマエの面影を引きずって生きるのは、―― ちょっと虚しい」
視界が真っ暗になると同時に、とすんと体が何かに包まれた。慌ただしく声を掛けられるが、どれも言葉として認識できない。あー、オレそんなに疲れてたの? で、頼りにしてた男の顔見てるうちに眠くなっちまったって? ガキはどっちだよ。
さり、と、荒れた指先にこめかみを撫でられる感触を最後に、意識は途切れた。
カッと、瞼が開いた。何の変哲も無い天井を三秒ばかり眺めてから、上体を起こす。カーテンの向こうはすっかり白ばんでいた。朝、だ。今、何時? ぐるりと室内を見渡して、視線を壁掛け時計に向ける。七時、半。なんだ、待ち合わせの時間にはまだ余裕がある。
変に上がった息を整えながなら、寝そべっていたソファから足を下ろした。べたついている。足だけじゃない、全身がだ。体に不快感が纏わりついている。シャワー浴びて、歯磨いて、軽く胃に物を入れたら出発だな。ああいや、迎えに来るとか言ってたな。……誰が? 誰だっけ。
「あ、起きた」
「っ」
おもむろに、声を掛けられる。ぐるぐると悩んでいた思考が、ぴたりと固まった。かといって、何も考えられなくなる、というわけではなく、代わりに何故とどうしてが脳みそを巡り始めた。
はくん。やっとの思いで空気を食む。と、奥のキッチンスペースから、そいつは現れた。髪は黒。後ろ髪は編んでいるふうではなく、緩くまとめているだけ。垂れた前髪は片側一本ではなく、両側の二本。バランスが良い。珍しく襟の付いた服を着ていて、ボトムスも大ぶりなシルエットではない。そして、両手には、マグカップを二つ持っていた。
「ったく、ぶっ倒れるまで根詰めるなよなー、死んだかと思ったワ」
「は、ぁえ、なン、なんでここに」
呆れかえった台詞を吐きながら、そいつはソファーの肘掛けのところに腰を下ろした。流れるように、片方のマグカップを差し出してれる。変に震える手で受け取ると、白みの強い水面がたぷんと揺れた。すんと鼻を鳴らすと、コーヒーの匂いもする。恐る恐る口を付ければ、馴染んだカフェオレの味がした。
「迎え、九時半でいいかーって、夕べ電話したんだけど、オマエ出ないから。早いけど様子見に来た」
「ごめん……」
「いーよ。忙しかったんだろ。おつかれ」
もう一つのカップに口を付けながら、その男はくしゃりとこちらの頭を撫でてくる。汗やら頭皮やらでべたついているだろうに、その手付きはやけに楽しそうだ。寝癖か、寝癖がついているのが面白いのか。こいつ含め、誰かと会うときは必ず社会性のある人間を装った格好をしている。だから余計に、隙だらけの自分が物珍しいのかもしれない。
なんだよ、くそ。寝癖なんて見慣れてるだろ。もっとすごい、ふわふわの頭をセットしてやってたの、オマエじゃん。
「……まいきーは?」
「なんでマイキー? 今日は来ねえだろ。今頃エマに叩き起こされてんじゃね」
「あ、そう」
そうか、そりゃ、そうだ。前撮りに友人を呼ぶことなんて、滅多にない。せいぜい親くらいのもん。単に自分は、あのドレスとタキシードを仕立てた身だから、調整のため行かせてくれと頼んだだけ。で、最近こいつ会った時にそんな話をしたら、繁忙期のやつれた体で自力で行けるのか? と窘められて、連れていってもらうことになった。そう、そうだ。そういう記憶が、確かにある。
どうして、こんなに混乱しているのだろう。
「そ、っかあ」
「んだよ、寝ぼけてン……」
やけに、苦しい思いをしていたような気がするのに。働きすぎて、頭が焼き切れたのだろうか。よりにもよって、こいつと会う日にキャパオーバーを起こすとは。なんてタイミングの悪い。
両手で抱えたマグカップを、もう一度口に寄せた。ミルクの強いそれが、しっとりと胃に落ちる。じわりと広がる温かさに、酷く、ほっとした。
「ッおい、どうした!?」
のに、ひょいとカップを取り上げられてしまう。オレンジの陶器は、流れるように傍のローテーブルに行ってしまった。何すんだよ。抗議すべく、キッと男を睨んだ。
その、瞬間。
目尻から、つーと、熱が伝い落ちる。
「な、んで、泣いてんだよ」
「あれ」
咄嗟に目元に手を当てると、ひりつく両目から、とろとろと涙が溢れていた。どうして? ゴミでも入ったのだろうか。擦ってみるが、止まる兆しはない。それどころか、鼻水まで垂れてきた。喉の奥が痛んで、みっともなく息が上がる。
「なに、やだ、あぁあクソとまん、ね」
「あーあー擦るな擦るな、赤くなるぞ。ほんとどした、疲れたの?」
「この程度で疲れるわげないッ」
「あ、そお」
オマエ、根性あるもんなあ。そう付け足しながら、男は自身のカップもテーブルに置く。その流れで、手すりからずるりと座面に移動してきた。頭を掻き回してきた手は、背中に落ちる。そして、呼吸に合わせて擦ってくれた。
半ば顔を覆うようにして目元を押さえていると、「だから赤くなるぞ」と呆れた声が降ってくる。それでもあやす手を止めないのが恨めしい。何もかも放り投げて、甘えたくなってしまう。頼りたくなってしまう。隙あらば、縋る余地を探してしまうのだ。これで頼りないだって? ありえないだろ。
「じゃあナニ、」
「ぅ」
一つ、ため息を吐いたかと思うと、そいつはこてんとこちらに首を倒してきた。墨を彫っているところが、こつんとぶつかる。その間も、背を擦る手は止まらない。あたたかい。冷たく、ない。硬いと思うけれど、物悲しさは襲ってこない。頭蓋骨の硬さとわかるからだろう。触れている肩も、背中を擦ってくれる手も、無機質な硬さはしていない。
「ヤな夢でも、見た?」
所作には甘さが滲んでいるのに、声色は冗談めいている。夢ごときで、オレが泣きじゃくるわけないと思っているのだろう。オレだって、夢如きに振り回されて泣くような性分をしているとは思えない。そもそも、現実相手でだって、滅多に泣けないのだ。かけがえのない存在の葬儀でも、目は乾いていたし。……うん? なんの話だろう、葬儀に出たことはあるが、そこまで近しい人のそれに出たことはないはず。
なんだろう。寝起きで、頭が回っていないのだろうか。むしろ、そういう、愛おしい人間が死ぬ夢でも見たのだろうか。
例えば、今隣にいる、―― 龍宮寺堅が死ぬだとか。
「―― そうかもね」
そんな夢を見たら、さすがの自分も泣くかもしれない。自嘲しながら呟くと、いっそう涙が溢れてきた。
なんだか、これまでの一生分、泣いた気がする。