チョコ

 結局、その小箱を意中の男に渡すこともできずに、鞄の底で眠らせている。留め具のないトートバックだ、うっかり持ち手が肩から外れたら、綺麗に包装したソレは見えてしまう。
 そのとき、なんて言い訳しよう。別に、言い訳なんて、本当はいらないのだ。素直に渡してしまえば済むのだから。なのに、誰から貰ったことにしようとか、妹と食べようと思って買ったとか、渡さずに済む言葉をあれこれ用意している自分がいる。
 こっそりと吐いたため息は、運の悪いことに二歩前を歩く男に聞こえていたらしい。
「どした?」
「……なにが?」
「ため息吐いたろ」
「いい加減あったかくなんねーかなって思っただけだよ」
「ああ、確かに。雪もヤバイしね」
「ね」
 はは、という軽い笑い声と共に吐き出された息は、ふわりと白く曇った。一秒と持たずにその白は空気に溶けてしまう。けれど、そもそも、この東京でここまで冷えるほうが珍しい。雪も積もるし、路面は最悪だし。バイクを諦めて電車を使えば、ダイヤは苦しいくらいにしっちゃかめっちゃか。
 天候による不便を強いられているのはそいつも同じようで、バイク乗りてえのになあ、と呟いている。細やかな鬱憤は、足元で霙状になった雪に向かっていった。無骨なデザインのブーツ、そのつま先が、びちゃりと汚れた雪を蹴とばしている。
「靴もすぐぐちゃぐちゃになるし」
「そういう歩き方するからだ、ろぉ、ッワ!?」
 オレは、そんな危なっかしいことしないぞ、と思ったそばから、地面を踏んだ左足が何かに持っていかれる。がくんと崩れた体は、支えを求めて腕を騒がせた。夢中で掴んだのは、隣を歩く、男の、背中。
 一緒に転んだらどうしよう。一瞬、不安が脳裏を掠めるが、掴んだ体躯はまるでブレない。それどころか、転びそうなこっちの腰を、グ、と支えてくれた。
「び、くり、したっ」
「え? 何でこけそうになったの今」
「なんだろ、氷……? あ、ココすごい滑る」
「ウワ、マジだ」
 ぎゅっとドラケンの体にしがみついたまま、滑った左足でコンクリートを撫でた。すると、一か所だけ、やたらと滑る部分がある。パッと見ではただ濡れているだけだから、油断した。凍っていたとは。
 やばいね、雪。やばいよ、雪。なぜか内緒話をするように声を潜めて確認し合ってから、改めてコンビニに向けて歩き出した。
 もし、バイクに乗れていたら。あのバイクショップからコンビニまで五分とかからずに済む。しかし、今みたいに、どこで滑るかわからない状態でバイクに乗るのも如何なものか。そういうわけで、ドラケンもイヌピーも、仕方なく昼休みは徒歩でコンビニに通っているという。
「昔は、雪降っただけで楽しかったのになあ」
「え、ドラケンにもそんな頃あったの」
「あったんだよ。つーか、今でも降るだけだったらテンション上がるし」
「あー、それはわかるかも。でも積もるとね」
「そう、積もるとダメ」
「ダメだなあ」
「ったくよー、こんな道じゃなきゃ、肉屋まで行くのに……」
「工藤精肉店だっけ? あそこの日替わり弁当美味いよね」
 普段だったら、この会話も顔を上げてできている。こいつのことだ、だよな、という相槌は、肩越しにこっちを振り返りながらしていたことだろう。けれど、今日はそうもいかない。地面を睨みつけている。そうでもしないと、上手く歩けないのだ。
 当たり前のように雪が積もる地域の人々は、どうやってこういう路面を歩いているのだろう。
 ……と、考えていたら、道の反対側からぱしゃぱしゃと駆ける音がした。ちら、と意識を向けると、就活生と思しきスーツ姿の女性が、颯爽と走っている。それも、パンプスで。ストールはつけているが、コートはなし。え、どういうこと。呆気にとられたのはドラケンも同じだったようで、全霊の「すげえ」という感嘆が聞こえた。北海道とかから就活で来たのかな。カッコいいわ、今すごく、アンタのこと尊敬する。
 やっとの思いでコンビニに辿り着くと、どっと肩に疲れが乗った。緊張しながら歩いていたせいか、変に凝った気がする。やはり、先ほどの女性はすごいな。そっと胸を撫でおろしていると、すたすたとドラケンは弁当コーナーに向かって行った。ぐるりと右腕を回している。オマエも、凝ったんだ。一緒だな。
 さて、咄嗟に「オレも買いたいあるから」とついてきた手前、何か買わなくては。それらしいのは、日用品だよな。ほとんど無意識に整髪料に手を伸ばしたところで、指先のあかぎれが目に留まった。紫のパッケージに触れる寸前で、くるりと円を描く。辺りを見渡せば、すぐにハンドクリームのチューブを見つけた。これにしよう。使いかけのはあるけれど、いくつかあっても困るものではないし。
 使ったことのある銘柄のものを手に取って、そろりとレジに足を向けた。陳列棚で作られた通路の先に、蒸し器が見える。ちょうど、手書きで貼り付けられた「準備中です」が剥がされたところだった。ついでに買っていこうかな。寒いし、温かいものが食べたい。
 するすると、レジに吸い寄せられていく。
「なあ」
「っえ、」
 が、辿り着く前にぱしんと手首を掴まれた。肩を撥ねさせながら首を横に向けると、レジ側に背を向けるようにしてドラケンが立っている。その体の前には、お菓子コーナー。
 それも、バレンタインギフトの、チョコレートコーナーだった。
「……なに、どしたの」
 悪路ですっかり忘れていた、鞄の底の、小箱。思い出した途端、鞄が重くなってくる。
 我ながら、市販品ぶれる包装ができたと思っている。だが、いざゴディバだなんだと比べると、どうも貧相。きっと、凝った手作りだと、簡単にバレてしまう。去年みたく、妹がクラスメイトと交換する用と同じ包装にすれば良かったかな。でも、ルナが今年は本命を作ると言って聞かなくて、しかも、何故かブラウニーを作りたいとレシピ本を突き出してきた。ああ、オレが手伝うのは絶対なのね。複雑な思いをしつつ、甘さ控えめに作ればこの男も喜ぶかな、と考える自分がいたのは否定できない。
 ほんの少し、一ミリに満たないだけ下唇を噛んだ。と、するりと手首から熱が遠ざかっていく。その指先は、流れるようにしてバレンタインコーナーの洒落た箱を掴んでいた。
「今さ、三ツ谷って、手持ち余裕ある?」
「まあ、フツーに……。もしかして、財布忘れた? てか、チョコ買うの、珍しくない?」
「……たまに食いたくなるとき、ない?」
「ある。限定だと余計惹かれるよね。いーよ、まとめて買ってくる。弁当それね」
「あ」
 さて、自分はなんでもない顔をできていたろうか。ドラケンの右手からチョコレートを、左手から弁当をかすめ取って、レジに向かった。一拍置いて、その男はオレの後をついてくる。入口の方で待ってればいいのに。いや、寒いか。だからといって、レジまで並んでついてこなくても良いよな。もしかして、レシートを確認するため? ドラケンなら、釣りはいらねーと言って、店に戻ってから多く渡してきそうなもんなのに。
 ぐるぐると考え事をしているうちに、チョコレートのバーコードが読み取られる。あ、肉まんも。イヌピーの分も買っていこう。合計金額を告げられる前に、「あと肉まん三つ」と付け足した。
 ……未だに、斜め後ろから、じ、と視線が降ってくる。貴様、何が目的だ。刑事ドラマで悪徳な犯人に吐きつけるような台詞が頭を駆け抜けていく。
 肉まんを用意されるのを待って、金を払って、次は弁当の温めを待って、三つになったレジ袋を受け取って、自動ドアを潜って。それでもまだ、ドラケンはオレの旋毛を見下ろしてくる。
「……なあ」
「んー?」
 耐えかねて背後を見上げると、ハンドクリームとチョコレートが入ったレジ袋に手を捻じ込まれる。へ、と間の抜けた声を上げると、白いビニールに透けて、野口英世が二人見えた。
「……は、金持ってたんじゃん」
「誰も財布忘れたとは言ってねえだろ」
 しれっと言ってのけたそいつの右手は、鮮やかにチョコレートの箱を抜き取った。コンビニにしては、良いお値段をしていたソレ。だが、弁当代と合わせたって、千円程度。どうして二枚も突っ込んだ。まさか、肉まん代? そこはオレの奢りの予定だったんだけど。
「えぇ……」
「んだよ、その顔」
「だって、なに、なんでオレに金払わせたの?」
 結果として、ドラケンは財布を忘れたわけではなかった。し、持ち合わせが少なかったということでもない。
 なのに、そいつはオレに払わせた。意図が掴めない。どう考えたって、それぞれで会計したほうが良かったろ。まとめて会計する必要性、あったとは思えない。
 いつの間にか、野口のいる袋以外の二つも取られていた。手癖の良さに、ぽかんと口を開けてしまう。足を止めるくらいには、呆れてしまった。
 そんなオレを置いて、ドラケンは崩れた雪の塊を蹴っ飛ばす。三歩、四歩、五歩。腕を伸ばしても届かないくらいまで進んだところで、ゆったりとこちらを振り返った。唇は、緩やかな弧を描いている。あれ、こいつ、こんなに機嫌良かったか。
「口実だよ」
「え」
 余裕のある笑みを浮かべた男は、ゆったりと右手で掴んだままの箱を持ち上げた。綺麗な包装用紙で包まれたそれの、可愛らしいリボンの結び目が、唇に近付く。わざとらしく唇を突き出すことはない。
「三ツ谷から、チョコ貰うための、口実」
 言うと同時に、そいつは小箱に口付けた。
―― さんきゅ、嬉しいワ」
 加えて、くしゃりと破顔される。
 肩から、トートバックの持ち手が外れる。けれど、これだけ離れていては、鞄の中の小箱には気付けないだろう。
 この男、今年は用意されていないと思っている。そりゃそうだ、去年までは、顔を合わせて早々に「ルナマナからのお裾分け」と言って渡していたのだから。
 でも、現実じゃあ、ちゃんと用意している。
「そ、んな、ほしかっ、たの」
「おー」
「なんで」
「聞きたい?」
「聞」
 きたい、ような、聞きたくないような。はくはくと餌を求める金魚のように口を動かしていると、ドラケンの目がゆっくりと見開かれる。それから唇がむにゃむにゃとくすぐったそうに波打った。緩んでいるという自覚はあるのか、チョコの箱を使って、それとなく口元を隠している。小さく、マジか、と聞こえたのは、幻聴ではなさそうだ。
「どうせなら、好きな奴から、貰いたいじゃん」
「すきなやつ」
「つーか、なあ、三ツ谷、その顔なに。期待するよ、オレ」
「かお、……きた、ぃ?」
 ごうごうと脳内で嵐が吹き荒れ、外からの情報を受け止められない。口はドラケンの言葉を繰り返すばかりで、小学校で飼っていたインコよりもカタコトになっている。すきなやつ。もらいたい。かお、なに。きたいする。顔。顔?
 ようやく一単語を変換できたところで、頭が揺れた。急速に血が集まったのか、顔中が熱くて仕方がない。突如、インフルエンザになったかのよう。インフルエンザにかかったことないから、本当にこれくらい顔が熱くなるのかどうかはわからないけれど。
「~~ッ」
 言われた内容が、やっと全て入ってくる。嘘、まさか、なんの冗談。予防線を張る度に、浮かれた自分がCAUTIONと書かれた黄色いテープを踏み荒らしていく。その動きに合わせて、脳内の地面では霙状の雪が撥ねた。
 ぴちゃッ。ついに、鼓膜にもその音が届く。あれ、これ、妄想じゃないな。確かに、現実で鳴った音だ。
 ……どうやら、滑るのも気にせずに、そいつに向かって駆けだしていたらしい。
「あ、あのね、ドラケン!」