雪まみれ

「三ツ谷?」
 あ、デジャヴ。
 声を掛けられた瞬間、いつぞやの記憶と重なる。とはいえ、前もこういうことあったな、と浮かぶ程度。いつ、誰に声を掛けられたときのことかまでは思い出せない。その時も、なんだか天気が良くなくて、体がずぶ濡れになっていたっけ。さすがに、雪を被ってはいないと思うが。雪まみれになりながら帰るなんて、そうあることじゃない。ガキの頃の記憶まで遡ったって、正直、ナイ。
「傘は」
「……もうぐだぐだなのに、差しても、なって」
 へらっと笑いながら返すと、そいつはヘルメットの下の顔をあからさまに顰めた。そこまで呆れた顔しなくたって。オレだって、好きでこんなずぶ濡れになっているわけじゃない。本当は、電車とタクシーを乗り継いで、上手いこと濡れずに帰りたかった。けれど、この悪天候で考えることは皆同じ。どこもかしこも長蛇の列。いっそ歩いて帰った方が早い気すらして―― 実際、寒空の下で待っているよりも早かったと思う―― ぐだぐだになるのを承知で帰路についた。
 足を止めたからか、ざわりと寒気が上ってくる。腕を、足を這い上ってきて、鼻をむずつかせた。ひゅ、と息を吸うと、もう我慢できない。
「ぶ、ッくしゅっ」
「あーあー」
 耐えきれずにくしゃみをすると、目元にかかった前髪を払うように撫でられた。その手は、分厚い手袋に覆われている。なんだか、指先の感覚が鈍そうだ。バイクに乗るのであれば、これくらい防寒しないと堪えるのだろう。
 すんと鼻を鳴らしていると、今度は頭を撫でつけられる。もしかすると雪が乗っていたのかもしれない。退けるのも億劫で、しばらくその手の好きにさせることにした。目も伏せてしまえば、いっそう髪を散らす手付きが大きくなる。なんだか、わしわしと、子供の頭を撫でているみたいだ。まあ、いい大人が頭に雪載せて歩くわけないもんな。
 ぼーっと受け止めていると、最後にぼすんと何かを被せられた。ぎゅ、頭が緩く締め付けられる。濡れた髪の冷たさを、如実に感じてしまった。
「つ、めた、……え、なに」
「後ろ乗ってけ」
 ハ、この雪の中、二ケツすんのかよ。
 そう思わないことはないが、かろうじて道路に雪は積もってはいない。みぞれ状の塊が落ちているわけでもなかった。これぐらいの濡れ方なら、どうにか、なるのか? なるということにしよう。
 縁石を跨いで、ゼファーの後ろに腰を付けた。右手でバーを、左手で男の腰を掴む。
 すぐに、滑らかな動きでバイクは走り出した。景色の流れる速度が上がって、顔に冷たい空気がぶつかる。
「ぅうッ」
 ウッワ、寒い。もはや痛い。オレ、絶対に今、不細工な顔してる。あちこち濡れているせいもあって、余計に身に染みた。いっそ、目の前の背中に抱き着いてしまおうか。……やめとこ、野郎が野郎にくっついたって何も楽しくない。し、そうされたときの運転のしにくさは、自分もよく知っている。
 それはそうとして、寒い。まあ、寒い。泣きたくなるくらいに寒い。加えて、朝から何も食ってないから、腹の中も空っぽ。今日の正午までの仕事のせいで、昨日はろくに寝られなかった。風邪を引きそうだ。帰ったら、風呂入って、すぐ寝よう。
 赤信号で緩やかに停止すると、目の前の背中にくっつきたくなってくる。厚手のコートを着ているが、筋肉質なこの男はさぞ温かいのだろう。……でも、ぬくもりを感じたら寝てしまいそうだ。二ケツで寝るなど、言語同断。
 ぐ、と顔を顰めながら我慢していると、また鼻がむずむずとしてきた。
「っ、ぐシュッ」
「大丈夫か、寒い?」
「ヴん……」
 そりゃ、寒いに決まってる。素直に頷くと、なぜかドラケンはつけていたウィンカーを消してしまった。ここを曲がらなかったら、オレの家まで随分と遠回りになる。広い道を行くのだろうか。確かに、この天気だ、曲がった先のあの路地に、雪がないとは言い切れない。
 鼻を啜りながら腰を掴む手に力を込めた。なんで真っ直ぐ行くの、というオレの意図は、これで伝わるだろう。
「……オレん家行くぞ」
「え」
「今日、泊まってけよ」
「でも」
「で、明日、仕事行く前に送ってく」
「ぅ」
 決まりな、というのを最後に、ドラケンは黙ってしまった。耳には、エンジン音と振動だけが響く。
 ああ、そういえば、ここからならドラケンの家のほうが近いか。早く暖かいところに着くのなら、何だって良いや。鈍くなってきた思考でやっと頷く頃には、もうそいつの家は見えるところにまで迫っていた。

 家に上げてもらって、まずくしゃみ。風呂に押し込まれて、またくしゃみ。上がって髪を乾かしてもらっている間にも二回吐き出して、「いいからベッド使え」と寝床を譲られてからも、寒気と一緒にくしゃみは込み上げてきた。
 そして、今。
「ヴヴ……」
「三十七度八分。あんだけ濡れりゃあな」
「なんでおまえはげんぎなんだよ……」
「馬鹿だからじゃね?」
「ぜっでーちげえ……」
 まんまと、風邪を引いてしまった。
 頭も体も重たくて仕方がない。指一つ、動かすのも億劫。どうにか瞼は開いているが、許されるなら今すぐにでも閉じてしまいたかった。なんせ、開けているだけでひりひりと痛むのだ。やたらと涙も滲んでくるし、息をするだけで喉は痛い。最悪だ。
「三ツ谷ぁ、オマエ土曜は休みだよなあ」
「ぅん」
「オレは休めねーから仕事行くけど」
「……うん」
「ここで寝てて良いかんな。無理して帰ろうとか思うなよ」
「ん」
「で、ヤバかったら電話しろ。喋んの辛いだろうし、ワンコールな、それでわかる」
「うン」
 ちょこちょこと話しかけられるが、どうにも頭に入ってこない。おかげで、頷く以外の反応ができなかった。オレのことを心配してなんやかんや声を掛けてきているのだとは思う。ドラケンの声がするなとも、わかる。しかし、言語として受け止めることができないのだ。熱に侵されてるなあ。他人事のように考えながら、はくはく動く唇を眺めた。
 出かける、と言っているような気がする。今日は土曜日。D&Dは営業日だ。自分の体調不良でもないのに、休むわけにもいかないだろう。
 オレは出かける・水はそこに置いてく・好きなだけ寝てろ・帰りに薬は買ってくる。おそらく、そういうコトを言っているに違いない。オレの常識とこいつの常識は似通っているから、そうだと信じることにした。
「ん、ぅ……」
 だんだん、頷くもの辛くなってくる。キーンという耳鳴りも止まなくなってきた。さらには、ぜぇぜぇと荒い呼吸の音も耳につく。どうして目の前の男の声は聞こえないのに、自分の呼吸は聞こえるんだ。自分の体で起きている現象なのだから、当然と言えば当然なのだが、無性に腹が立ってくる。無理。駄目だ、本当に無理。寝たい。
 ついに瞼は閉じてしまった。それを待っていたと言わんばかりに、睡魔が襲い掛かってくる。もう、意識を保っていられなかった。
―― おやすみ」
 ふわりと、頭を撫でられた気がした。

 ば、と、突如意識は覚醒する。
 勢いよく体を起こすと、背中が悲鳴を上げた。肩の辺りは、なんだか凝り固まっている。これは寝返りすら打たずに眠っていたに違いない。どうして疲れ果てると寝返りすら打てなくなるのだろう。凝るんだから、ぐいっと体を返すくらい、してくれればいいのに。
「あー……」
 自分の体への悪態を浮かべつつ、室内を見渡した。すん、と鳴らそうとした鼻からは、ずび、と鈍い音がした。途端、ずんぐりと額の奥の重さを思い出す。
 風邪、引いたんだった。
「さいあくだ」
「なにが」
「ぅお」
 ぽつりとつぶやくや否や、部屋の灯りがパッと点いた。いきなり眩しさに襲われて、くらり、頭が揺れる。目をぎゅっと細めると、目やにの付いた縁がざりざりと不快な感触を立てた。
「ぅ、まぶしぃ……」
「あ、悪い」
「ん、いいよ、おかえり」
「……た、だい、ま」
 何どもってんの? 目を擦りながら声の方を見ると、ドラケンがぶらんと右手にレジ袋を提げていた。うっすらと透けて見えるのは、冷凍うどんだろうか。口からはにょきりとネギが生えている。ドラケンがネギの刺さったレジ袋持ってるの、笑えるな。パッと見、自炊するような面をしていないのに、ネギ。それも一本じゃなく、三本束になってるやつ。安かったのかな。きっと、そう。
 むにゃむにゃと頬を緩めていると、そいつは居心地が悪そうに頭を掻いた。目線はうらりと逸らされ、口はへの字を描いている。あはは、ごめんごめん、にやけて。思いはするが、喉が痛いから声にするのは止めておいた。断じて、ドラケンの顔が可笑しかったから、言わなかったわけじゃない。
「……で、どう」
「え?」
「調子。朝と比べて」
「……うん、うーん、まあ、げんき」
「だめそうだな」
「げんきだってば」
「元気なオマエはンなふにゃふにゃな顔しねー」
「あは、一理あんね」
 咄嗟に顔を崩せば、再びドラケンは顔を顰めた。眉間にむぎゅっと皺が寄る。なんて柄が悪いんだろう。その顔を浮かべれば、どんなクレーマーでも秒で逃げていきそうだ。こういう圧、良いよなあ。頼もしいんだよなあ。
 くすくすと込み上げてくるままに笑っていると、頭がぐらぐらと揺れた。あ、まずい、このまま笑っていると酔いそうだ。変に息も上がっていて、胸の辺りが苦しくなってきた。けほ、こほ、ごほん、口からは勝手に咳が溢れ始める。
「っは、ぁ、ぅえッホ、ゴホッ」
「あー、だいじょぶ、……じゃねえよな」
「ハ、ンっ、っはあ、あ~……」
 背中を丸めるようにして咳き込むと、ベッドがじわりと沈む。それと同時に、大きな手の平が背中を擦ってくれた。昨日みたいに、手袋の隔たりはない。体温を感じさせてくれる手の平が、背骨の上を行き来する。
 咳が落ち着いても、しばらくドラケンは背中を擦ってくれていた。その動きに合わせて息を、吸い、吐き出していく。何度か繰り返していると、ようやく楽になってきた。
「ぁりがと……」
「おう。……じゃあ、いくつか確認な」
「ん」
「食欲は」
 しょくよく。言われた言葉を口の中で繰り返した。と、キュウと胃の辺りがか細く鳴く。その音は、ドラケンの耳にも届いたらしい。切れ長の目がわずかに見開かれた。一秒か二秒、普段より目が丸くなる。そのあと、ゆっくりと細められていった。
「ん、じゃあうどんつくるわ」
「ぅん」
「卵入れてもヘーキ?」
「ん」
「わかった。今、なんか欲しいモンある? 水とか、着替えたいとか」
「……んん、」
 水、は、飲みたいかもしれない。うらり、視線を彷徨わせると、すぐにベッド横に置かれたペットボトルが見えた。あるじゃん、水。手を伸ばそうと腕を持ち上げれば、一足先にドラケンがボトルを掴んだ。流れるような手つきで、蓋を緩める。小気味の良い音を立てて、ボトルからキャップが外れた。
「持てる?」
「そこまでふにゃふにゃじゃないって」
「どーだか」
 あまりの甲斐甲斐しさに、また笑いが込み上げてくる。今度はつられたのか、ドラケンもくつくつと笑ってくれた。ボトルを掴んだオレの手が、やたらとガタガタと震えていたからかもしれない。それは笑っているせいもあるし、力を入れるのが上手くできないせいもある。
 はは、間違いなく、そこまでふにゃふにゃだワ、今。水一つ飲むのすら手間がかかってしまう。ドラケンが支えてくれていなかったら、布団を水浸しにしたことだろう。
「やばいね、オレ」
「……風邪引いちまったんだからしゃーねーだろ」
「でも、同じように寒いとこ帰ってきたドラケンはげんきじゃん」
「そらオレは飯も寝るのも疎かにしてねーからな」
「あれ、馬鹿だからじゃないんだ」
「絶対違うって言ったのオマエだろ」
「そうだっけ」
「そうなんだよ」
 ひょいとオレからペットボトルを取り上げたドラケンは、おもむろにオレの目元を撫でてきた。親指が、ツ、目の下の皮膚に擦れる。ちょうど、隈ができる位置だ。いや、いやいや。確かに隈ができているのは否定しない。だが、その隈は慣れないパソコン業務でほとんど染みになってしまった隈だ。寝てないからじゃない。……まあ、確かに、ここ数日の睡眠時間は褒められたものではないのだが。
「ん、ふふ、くすぐった……」
「んん?」
 そのうちに、ドラケンの指先は頬に映った。輪郭を確かめるように、顎の先まで滑っていく。撫でながら、うっすらと、目元を力ませた。鋭さを帯びた瞳には「痩せたな」と浮かび上がる。そんなことないよ。たぶん。きっと。言うほど、痩せてない。仮に目減りしていたとしても、簡単に取り戻せる程度だ。差分でしかない。
 ……あれこれ理由を並べたところで、風邪引くくらいの不摂生をしていたことは事実だ。
「……ドラケンって、ちゃんとしてんだね」
「は、なんだよ、いきなり」
「や、なんか、すごい丁寧に面倒見てくれるなと思って」
「こんなん、別にふつーだろ」
「ふつー、かあ」
 世間一般が指し示す普通、よりは丁寧な気がする。とはいえ、自分が身内に向ける普通とはだいぶ近い。こういう感覚が近いとストレスは少ないよなあ。衛生観だとか、倫理観なんかもそう。そういうのを測るものさしが似通っているほど、一緒に過ごしていて楽。
 ドラケンの普通って、オレの普通と一緒なんだ。へえ、ふうん。
 なんだか、安心する。
「はは、ちょっと惚れそう」
 緩んだ口元から、ぽったりと零れ落ちた。
 すると、なぜか、そばにいる男がゆったりと破顔する。あれ、ここは、「なに馬鹿なこと言ってんだ」って、茶化してくるところでは。半ば呆けながらドラケンを見つめていると、大きな手の平にふわりと撫でられた。
「そりゃ願ったり叶ったり」
 頭のてっぺんに着地したそれは、緩やかな動きでこめかみに降りてくる。汗ばんでいる髪に、長い指が潜った。五指は、そこにいるだろう龍を確かめるように撫でる。
 なんだか、疚しさを、感じるのは、気のせい?
―― オレの下心も報われるワ」
 は、と聞き返すより早く、そいつはネギの刺さったレジ袋片手に、台所へと行ってしまった。