三時のおやつ
丸い墨色の中に、ぼたり、黄味を練り込まれた白を落とした。
なんてことはない、どこにでもあるフライパンにホットケーキのタネを流し入れただけだ。大体、お玉で一つ分。フライパンの中央に落としたソレは、だらだらと広がって少し歪んだ丸を描いた。弱火にかけたまま、じぃっとフライパンを見つめる。こういうとき、IHだと温度管理が楽なんだろうか。ぼんやり考えてはみるものの、使い勝手に迷って、料理をしなくなる未来が過る。良いんだ、オレは、これで。ガスコンロのままで。
火は、弱火。作り方に書いてある「布巾でフライパンを冷ます」の工程は、ジュッと一瞬音を立てれば十分。タネはざっくり混ぜるだけ。多少ダマが残っていても、案外どうにかなる。フライパンにタネを落としてからは、ぷつぷつと表面から気泡が弾けるまでそのまま。
実家にいたころ、散々妹たちに強請られたおかげで、ホットケーキだけは上手く焼ける。そこそこ、ではなく、上手く、だ。なんなら、絵本に出てくる赤と青のネズミが作ったパンケーキも作れる。夢いっぱいのふかふかホットケーキ。アレを作って見せた時の、あいつらの目の輝きよう……。昨日のことのように思い出せる。
右手でフライ返しを持ったまま、フライパンの中を見下ろした。なんとなく、表面が乾いてきた。かすかに凹凸も出来始めている。だが、弾けるには至らない。もうしばらく、このまま。このまま。この、まま。……ぷつり、一つ、大きな気泡ができた。薄い膜を持ち上げながら、その泡は膨らむ。ぽっかりと空いた穴が見えた。少し離れたところにも、大きな泡ができる。よしよし、そろそろ。もう、少し。
右手を構える頃には、瞬きが少なくなっていた。
「よっ」
ホットケーキに、フライ返しを差し入れる。
―― 同時に、甲高い着信音が室内に響いた。
耳障りなBGMを聞きながら、ふわり、生地が浮く。くん、と手首を返せば、丸は綺麗にフライパンに着地した。じゅわっと熱される音が心地いい。甘く、香ばしい匂いが、いっそう強くなった気すらした。
そんな甘さを堪能しつつ、ちらり、壁掛け時計に目を向ける。文字盤の上にある針はそれぞれ十二と二を指していた。カーテンの向こうは、とっぷりと暗い。これで晴れていれば、まだ月明かりがあったのかもしれないが、今日は曇天。草木も眠る丑三つ時の名に恥じない夜になっていることだろう。まあ、繁華街に出てしまえば、夜中だろうと人工的な光で満ちている。現代の幽霊は肩身が狭かったりして。
下らないことを考えながらフライパンに視線を戻した。ムラのない狐色が、じんわりと膨らみ始めている。華やかなカフェで出される分厚いパンケーキには程遠いが、この調子なら二センチ弱にはなりそうだ。初めて母親にコレを見られたとき「嘘でしょ!?」と叫ばれたな。アタシはそんなふうに作れないって。すごいすごいって、やたら褒められたのも、よくホットケーキを作る理由になっているのかもしれない。
「うるさ……」
物思いに、耽ったところで、着信音は鳴りやまない。ベッドの上に転がっている電子端末は、ぴかぴかと画面を光らせていた。だが、今、火の傍を離れたくない。そりゃあ、ほんの数歩の距離だ。キッチンから出て、ベッドの横まで歩いて、拾い上げる。いざやれば、十秒に満たないだろう。それでも、今、このホットケーキから目を離したくはない。
知らないフリをしよう。そうしよう。心の中でそう決めて、改めてフライ返しを構えた。ほんの十数秒で、ホットケーキはまた膨らんでいる。もう一、二分は焼きたいな。そしたら、中までふかふかに焼けたホットケーキが出来上がるはず。右足に偏らせていた体重を、そっと左に移した。いつの間にか癖になってしまった片足体重での立ち方は、大人になっても直らない。直したほうが身体には良いのだろうが、つい、いつも傾いてしまう。
「……長くねえか?」
ホットケーキが、焼ける時間の話ではない。
着信が、だ。
留守電に繋がるものだと思ったのだが、延々とコールが繰り返される。あ、いや、留守電って今ないんだっけ? 有料サービスだと言われたような、言われてないような。最近契約したスマホは、便利ではあるがまだ慣れない。妹たちからあれやこれやと教えられはするものの、どうも馴染まないのだ。特にフリック入力。できない。マジで、できない。
いい加減諦めれば良いものを、まだコールは鳴り響く。
じ、とベッドのほうを見やった。チカチカと画面が光っている。こんな時間に、一体誰だろう。もしかして、妹のどちらか? 緊急事態で、致し方なく電話をかけている、とか。……どうだろう、あいつらなら、数コールかけて出ないとなると、早々に見切りをつける気がする。お兄ちゃんはアテにならない、そうバッサリと切り捨てられたことも、少なくはないのだ。成長したことを喜ぶべきか、兄離れを憂うべきか。
「はぁ」
自然とため息が出てきた。妹であれ、それ以外であれ、これだけしつこく人のことを呼び出しているのだ。もうこっちが折れるしかあるまい。
仕方なく、コンロを止めた。余熱でどうにかなるだろう。なるということにしよう。
ぺたぺたと、フローリングを素足で擦る。冷たさが足裏から伝ってくるのを感じながら、まっすぐにベッドへ向かった。端末は、壁際のほうにある。ぐ、と片膝をベッドに乗せた。左手はピルピルうるさいスマホに伸びる。音と合わせてヴーヴー震えるそれが、指先に、当たった。
の、に。
「ハ」
しん、と部屋が静まり返る。
指先に触れた機械は、ぴくりとも動かなくなった。
「こ、こで切れんのかよ……!?」
手に取った瞬間、黙りこくるとは、どういう了見だ。あんなに文句を垂れるように喚き散らしていたってのに、すんと静かになっている。
あれだけしつこく鳴らしたんだから、もう数秒粘れよ。オレが出るまで、鳴らしとけよ。
ひく、と頬が引き攣るのを感じながら、スマホのホールドを解除した。人の気を揉ませたのはどこのどいつだ。えっと、不在着信は、どうやって確かめればいいんだっけ。ずっと震えていたせいでほんのりと熱を持った機体に指を乗せる。
すると、―― 間の抜けたチャイムが聞こえてきた。
バッと勢いよく首を上げる。端末から、玄関のほうへ。電話の次は、チャイムだって? しかも、こんな時間に。じ、と玄関扉のほうを睨んでいると、もう一度、ぴんぽーんと電子音が響く。こんな時間に一体誰だ。電話の主と同じなのか、それとも別なのか。居留守、というか、寝たふりをしようかとも思うが、黙っていると、三度目のチャイムを鳴らされる。
誰だよ、本当に。候補として真っ先に浮かぶのは酔っぱらった八戒。他、二名。あの三人がつるんで飲み歩いて酔っぱらうと、まあ手がつけられない。そういえば、泥酔した千冬から電話が来て、さらに深夜の突撃訪問をかまされ、ぐだぐだに泣くタケミっちの面倒を見させられたこともある。あいつらか。あいつら、また来やがったのか。
そろり、静かに立ち上がった。できるだけ足音を立てないように玄関に向かう。台所だけならまだしも、玄関に灯りを点けたら「起きている」とバレてしまう。できれば、今起きたと装いたい。暗がりなのに心許なさを感じつつ、一思いに鍵を開けた。扉を、ぐ、っと外に開く。
「はいはいどちらさまで」
「あ、起きてた」
「す、か……、え?」
「電話でねーし、寝てんのかと思ったんだけど」
勢いよく開いたそれは、ぐ、と来訪者の手で受け止められる。オレの目線の高さにあるそれは、随分と骨ばっていて、大きかった。八戒の手? いや、ちがう。もっと、無骨だ。千冬みたいに、小さな傷がたくさんあるわけでも、タケミっちみたいに丸い爪をしているわけでもない。
「ド、ドラケン?」
「よ」
「え、なん、なに、どうしたんだよ」
「ん? ん~……」
ゆったりと首を傾けるそいつは、やけに上機嫌に見えた。表情はいつものごとく飄々としているのだが、纏っている空気が柔らかい。こんな時間じゃなかったら、何があったんだよと小突いていたことだろう。
「あ」
「え?」
「悪い、こんな時間に」
「や……、良、くはねえけど、どしたのほんとに」
ひとまず、中に入れと手招くと、のっそりとその体が敷居をまたぐ。扉が閉まる音を聞きながら、引っかけていた靴を脱いだ。そっと視線を向けると、ドラケンは後ろ手で鍵を閉めている。きちんとチェーンもかけたらしかった。そこまで閉めてくれたんなら、なにも言うことはない。
くる、と踵を返す。すんと鼻を鳴らすと、焼き立てのホットケーキの匂いがした。今食べたら、さぞ美味いことだろう。バターを乗せても、ジャムやハチミツをかけてもいい。けれど、まずは何もつけずに一口かぶりつきたい。それに、タネはまだ残っている。さっさと焼いてしまわないと。何でこいつがやってきたのかは、焼きながら聞けばいい。
「とりあえず、あがっ」
て。
の、音は、喉で止まった。
「ふ、甘い匂いする」
「……まあ、ホットケーキ、焼いてたし」
「ウン」
もすりと、背中が包まれている。じんわりと、その男の体温が伝って来た。身長差もあって、まんまとすっぽりと収まっている。そ、と首をひねると、人の肩口に顔を埋めたそいつは、くふくふと上機嫌に笑っていた。その吐息からは、かすかに酒の匂いがする。
「飲んできたの?」
「ちょっとな」
「……でも、結構酔ってね?」
「そーかも」
「なら、ちょっとじゃねえじゃん」
「んー」
どう言葉を振っても、ドラケンからは緩い返事をされるのみ。匂いだけなら、大して飲んでいないふうではあるが、酔っているのは間違いあるまい。どういう飲み方をしたのやら。それか、あっという間に酔いが回るくらいに疲れていたか。……疲れてるってのに飲むなよな。もうお互い、いい年してんだからサ。
ぽん、と緩みつつある髪を撫でると、窺うようにそいつは顔を上げた。薄暗い玄関で、じ、見つめられる。その瞳は、酒に呑まれているとは、言いがたかった。
オマエ、実は酔ってないだろ。
「ンっ!」
「ふ」
指摘する前に、唇を塞がれてしまう。ずるりと入り込んできた舌から、酒の味がしないこともない。だが、やはり、酩酊するような量を飲んだとは思えなかった。だって、あまりにも丁寧だ。歯列をなぞるのも、舌を絡めとるのも、上顎を擦るのも。素面のときにするキスと、なにも手順が変わらない。がっつく素振りが、一切、ないのだ。
こんな時間に電話を掛けてくるとか、あまつさえ家に押しかけてくるとか、こんな、甘えるようにくっついてくるとか。どうも平生のこの男がするとは思えない。ということは酔っているのか? いや、酔ってるような、感じでもないんだって。
「っ、ん、んっ、ン」
あ、やばい、腰、抜けそう。
考え事をしているうちに、体の自由が奪われていく。とろとろと、蕩けさせられてしまう。立っているのも、辛くなってきた。体重は、もうすっかり背後にいる男に預けてしまっている。それをわかっているのか、抱きしめられる力が強まった。
「ッは、ぁ……、なに、ほんと、今日」
「んー……」
ついに膝が折れる、という瞬間に離れた唇に、とぷんと唾液が乗る。これで明るかったから、互いの口を繋ぐ銀糸がよく見えたことだろう。ついでに、たっぷりと口内を弄られて火照った自分の顔も。
「今日すげー疲れてさあ」
「……うん」
「―― 無性に、三ツ谷に会いたくなった」
ほんと、ごめん、こんな時間だってのに。
ぽそぽそと付け足したドラケンは、再びオレの肩口に顔を埋める。すん、と軽く鼻を鳴らしてから、ぎゅ、とさらにくっついてきた。
疲れたときに会うのが、オレってどうなの。茶化すみたいに言い返そうかと思ったが、擦り寄ってくるそいつに毒気を抜かれてしまう。
暗くて、本当に良かった。だらしなく緩んだ頬も見られないで済む。むにゃむにゃと唇を波打たせてから、もう一度そいつの頭を撫でた。
「とりあえずさ、」
「ん……?」
「ホットケーキ食べない?」
すぐできるよ。冷めててもいいなら、もう一枚焼けてる。そう続けると、ウンという返事の代わりにぎゅっと腕に力を込められた。